天地燃ゆ−完結編−
第九章『仁術の祖』
大坂城の築城は石田三成が総奉行で開始された。柴田の兵、そして雇われた人足、おおよそ三万から五万の人間が動員されたと云われている。
柴田明家の大坂築城は、たんに城作りに留まらず城下の市街地造成も伴っており、川が開削され、多くの橋が架設されていった。そしてこの頃、柴田明家をはじめ、主なる柴田家臣には朝廷から官位が授与された。隠居の勝家にも拝命があった。
柴田勝家『従二位内大臣』
柴田明家『正三位大納言』
前田利家『正五位上中務大輔』
佐々成政『正五位上左京太夫』
可児才蔵『正五位下兵部大輔』
奥村助右衛門『正五位下弾正少弼』
中村文荷斎『従五位上少納言』
吉村直賢『従五位下備中守』
黒田官兵衛『従五位下出羽守』
山崎俊永『従五位下信濃守』
毛受勝照『従五位下伯耆守』
川口主水『従五位下越中守』
京極高次『従五位下但馬守』
松浪庄三『従五位下出雲守』
不破光重『従五位下因幡守』
前田利長『従五位下民部少輔』
大野治長『従五位下修理亮』
松山矩久『従五位下阿波守』
小野田幸猛『従五位下美作守』
高橋紀茂『従五位下右衛門少尉』
大谷吉継『従五位下刑部少輔』
石田三成『従五位下治部少輔』
高崎吉兼『正六位上主計頭』
星野重鉄『正六位上匠之頭』
と相成った。また直江兼続は上杉景勝を経て『従五位下山城守』、真田幸村は父の昌幸を経て『従五位上左衛門佐』と拝命した。ちなみに細川幽斎は『剃髪した身に官位は必要ない』とやんわり断り、稲葉一鉄もまた『隠居した相談役には必要なし』と辞退したと云う。
さて、ここで柴田明家が柴田当主になってから行った様々な政策について述べたい。まず『殉死の禁止令』を発布した。自分の直臣には無論、陪臣にもそれは伝えられた。反対する意見も多く出た。明家は根気よく説いた。
「いいか、例えば今オレが死に、息子の竜之介が継いだとする。その時に奥村助右衛門、石田三成、前田利家殿らが物好きにもオレを追いかけて腹を切ってみろ。柴田家はどうなる? 残される者のために生きる事が死んだ者への供養と知れ」
殉死禁止令は柴田家で可決された。しばらくすると柴田家だけではなく、上杉家や蒲生家などの友好大名にも広がり取り入れられていった。
柴田明家は中国の政治書を愛読していたが、朱子(朱熹)が実施した『社倉制』を柴田家の領内に取り入れている。社倉とは凶作やその他で農民町民が困った時に救済できるよう米や金を蓄えておき、凶作や病気で年貢を納められず、苦しい生活にある民百姓のために米や金銭を低利で貸し付ける制度だった。
中国の宋の時代に朱子が行い、日本では柴田明家が最初に行っている。朱子と違う事は、『返せなければ柴田家の築城や治水、開墾の働き手となり返せば良い』とまで言っている事である。同時に常平法を制定し米価が下がったら柴田家が買い支え、高い時に売り米価の変動を抑える事にした。柴田明家と吉村直賢、黒田官兵衛の定めた方法で、黒田官兵衛の指揮で執り行われた。
柴田家と敵勢力の大名は『あんなに民百姓を甘やかしたら、柴田家の財源は破綻するぞ』と笑っていたが、柴田家はむしろ年貢より独自に行っていた交易の方が収入率は高かった。家を一つの大商家として営み交易を行っていた柴田家。日本国内は無論、琉球や朝鮮、明とも交易を行っていた。産業もどんどん興し、かつての織田信長よりも巨大な経済国家を作り上げていく事になるのである。柴田家への借金が返せなければ柴田家に属して働く。兵になる者もいれば、人足として働く。『百姓は生かさず殺さず、搾り取るだけ取る』と云う概念を完全に撤去。『民の勢い、潮の如く盛ん』と今日に云われる明家治世だった。柴田明家は後にこんな事を述べている。
『他の大名は民を“民草”と呼んでいるがとんでもない事だ。民が草ならば、その民から年貢をもらって合戦なんぞしている我ら武士は草にたかる寄生虫ではないか。民に養われている我ら武士は日ごろから倹約に勤めなければならない。だが商人、町人、農民には倹約を押し付けてはならない』
明家は領内の六十歳以上の民に一人扶持を与えている。これは現在の年金である。また子供は国の宝として赤子一人が生まれて五歳にいたるまでは同じく一人扶持を与えている。つまり経済的な理由で間引きする事を防いだのである。
年寄りと女子供は大切にせよ、これは小さい頃から明家が養父水沢隆家に叩き込まれた理念である。確かに美徳であるが、他の大名はやりたくともできないフトコロ事情であった。しかし明家は理想論で終わらせず、それができる経済力を作り上げた。だが、その経済基盤を作り上げても養父の教えがなかったら実行していたか分からない。ゆえに明家の養父の水沢隆家も柴田家や柴田領の民たちに尊敬され『ご養父様』として讃えられている。
また明家が勝家の配下時代のおりに部下に実施させていた仕組みのいくつかも導入している。定期的に君臣身分関係ない討論会を開くこと。長期になる主命は現地に妻子も連れていくこと。まさに明家ならではの、と言えるが注目すべき仕組みも導入している。
柴田明家の内政能力が高いことはよく知られているが、彼は土木工事における犠牲者をめったに出さなかった人物とも言われている。合戦で命を落とすのはありうることであるが、土木工事において死者が出ることは指導者の管理能力の欠落と捉えていたのだ。
それゆえ明家は工兵は無論、土木工事に係わる者に対し、作業に伴い生じる危険要素を事前に列挙し、人員を五人から十人の班に分け、各々の班長に議長を務めさせ、どうすれば安全かつ効率的に作業を行えるか話し合いをさせたと云われている。
当初は部下たちも渋ったが、それまで現場で偶発していた土木作業中の事故が導入後は目を見張るほどに激減し、かつ仕事も円滑迅速に進んだ。柴田兵は改めて『智慧美濃と云う異名は伊達じゃない』と感嘆した。
目立たない功績ではあるが、労役と戦役に駆り出して農民を酷使していた大名が多いなかで、これほど暖かくて、かつ作業成果も得られる仕組みを作り上げた武将は他に存在せず、明家はこうすることで、ただ酷使するより数倍も出来栄えの良い仕事になることを分かっていたのだ。
これは現在にも存在する『危険予知訓練』の先駆けとも云え、戦国時代にそれに着目して部下に行わせていたのは驚きと云うほかはなく、明家の内政能力の高さを雄弁に示している。
柴田明家の治世でもっとも有名なのが医療制度の充実だった。しかし最初からうまくいったワケではない。すでに医師を生業としている者は自分の住む町の患者を治す事を誇りとしている。いかに最大勢力の大名である柴田家からの誘いでも応じる者はほとんどいなかった。安土城の城下町に診療所をいくつか建設する予定ではあったが、そこで患者を治す医師がいなければ仏作って魂入れずである。医師を集めるのは京都奉行の高橋紀茂が担当したが、成果は散々たるものだった。
「一人も応じずだと?」
「は、はい!」
なんと医師一人も安土に呼ぶ事が出来なかった。無論、現時点で柴田家領内に医師はいる。しかしまったく足らない状態である。移民も増えて、当時日本最大の都と呼ばれていた安土の地は深刻な医師不足状態だった。まさに急務とも言える医師の招致。高橋紀茂は部下を総動員して明家からの主命に当たったが、結果は成果なしだった。
「も、申し訳ございません! もう一度機会をお与えください!」
「いや待て、そなたが目星つけた医師たちがどのように断ってきたか聞かせよ」
「はあ……。自分の故郷の者を救うため医師になったと異口同音。村や町を離れて大都市安土へ行く気はないと……」
「それでは、もう一度そなたに事を当たらせても結果は同じではないか」
「は、はい……!」
「ふうむ……観点を変えよう右衛門少(紀茂)。余所ですでに出来上がった医師を連れてこようとしたのが誤りであったかもしれぬ」
「では当家で医師の育成を!」
「うむ、曲直瀬道三殿を大名待遇で講師に招こう」
「そ、それが……」
「ん?」
「実はそれがしも途中でそれに気づき申して、当家の医学教授にと懇願しました」
「で、返事は」
「それを聞きつけた京の民にそれがしあやうく袋だたきに遭うところでございました。“京とて柴田の領内! 柴田の殿様は京の民に病になったら死ねと云うのか”と」
「八方塞がりだな……」
「また曲直瀬殿も京を離れる気はないようで……」
「曲直瀬殿には高名な弟子たちもいよう。それにも断られたのか?」
「左様です。弟子たちも京の医師、もしくは自分の故郷で医師になると……」
「それでは仕方ない、当領内にいる医師に交代で教授を担当させよ。禄ははずむからと申し渡せ。曲直瀬殿やその高弟たちも臨時教授なら何とか引き受けて下さるだろう」
「はっ、ではそのように」
と、高橋紀茂が退室しようとした時である。使い番が来た。
「申し上げます」
「何か」
「若者五名が殿に面会を申し込んでございます」
「これ、仕官希望ならば家老の中務(前田利家)様や弾正(助右衛門)様が面談する事を聞いておろう」
と、高橋紀茂。
「はい、弾正様も面談し許可したそうです。ご一緒に参ります」
「ほう、助右衛門が許したか。何と云う一行だ?」
「はい、“瀬戸の源蔵の使いと言えば分かる”と」
「せ、瀬戸の源蔵!? 確かにそう申したか?」
「は、はい」
「丁重にお通しせよ!」
「しょ、承知しました!」
使い番は急いで戻った。
「殿、瀬戸の源蔵とは?」
「元、上杉家の忍び、加藤段蔵殿だ」
奥村助右衛門に連れられ、その浪人五人は明家の前にやってきた。武士ではないが学識豊かな在野の士と思える風貌だった。
「殿、いつぞや伺いました源蔵殿の使いと聞きましてございます」
「うん」
北ノ庄にいた時、明家は助右衛門に自分の命を助けてくれた加藤段蔵、つまり源蔵の事を話していた事があった。ゆえに助右衛門はすぐに会い、そして五名の人となりを見て主君明家に会わせる事にしたのだ。
「さっそくの引見、恐悦に存じます。我ら瀬戸の源蔵の弟子五名にございます、私はこの源門五子の長兄銃太郎と申します」
堂々とした名乗りだった。
「それがしが柴田明家にございます。源蔵殿は達者でござるか?」
「はい、老黄忠を地で行き、八十五歳の身でありながら二十歳の嫁をもらうほどに」
「それはすごい……」
長兄銃太郎のあとに他の源門四子が名乗り出た。
「同じく弟子の豊三郎です」
「篤次郎です」
「辰弥です」
「才次郎です」
長兄の銃太郎が明家と歳が同じ頃で、あとの四名は十七歳か十六歳ころだった。
「ほう、それほどお若いのに源蔵殿のお弟子さんでございますか。で、それがしに何用で」
「師の源蔵より書状を預かりました」
「拝見いたそう。紀茂」
「はっ」
銃太郎から書状を預かり、明家に手渡した。明家は書状に一礼して読み出した。
『いや〜若い娘はいいのう、何よりの良薬、若返りますぞ大納言殿』
(いきなりこれか、前口上もない)
明家は苦笑して読み続けた。
『さて大納言殿、結果から言うが手前の弟子五名を安土の医師として召抱えてほしい。みな、ワシが治療し助けた童たちじゃ。それゆえワシから医術を学びたいと述べ、そりゃもう懸命に医術を学び、今ではワシも及ばぬ腕前の医師となっておる。
特に銃太郎には指導の仕方まで叩き込んだから、良い教授となると思うし、他の若い連中もそんじょそこらの医師もかなわぬと思う。だがこの瀬戸の小島では医師はワシと妻と、あと二,三人の医師がおれば足りるし、何より銃太郎たちには都のほうで手に入る医療書、漢方書なども学ばせ、いっそうの才能を昇華させたい。頼まれてくれないだろうか』
「源蔵殿……」
『追伸』
「ん?」
『ワシの妻はさえ殿より美しいぞ』
「参ったな……」
源蔵の書状を見て微笑む明家。そして書状をたたみ、助右衛門に渡した。それを一通り読むと
「殿……!」
助右衛門も明家が領内の医師不足に頭を抱えていたのは知っている。まさに渡りに船だ。
「うん、おそらく源蔵殿は当家の医師不足を知っておられたのだな。本当に礼の言葉もない」
「御意」
「委細承知しました。本日より安土城下の医師として召抱えます。もうすぐ診療所が完成するゆえ、見に行かれるが良いでしょう」
「「ハハッ!」」
「右衛門少」
「はっ」
「いかに優秀でも五名ではまだ安土の医療不足は解消しない。先の曲直瀬殿とその高弟たちを臨時教授として招く事も同時に行い、領内の医師たちに後進の育成も徹底させよ。領民の命がかかっている事。金を惜しまず事に当たれ」
「ははっ」
源蔵から派遣された医師五名は、当時最高峰ともいえる名医五名だった。源蔵が忍びのときに体得した医療術すべて習得し、瀬戸に渡った後に源蔵が得た知識や技術もすべて体得していたのだった。五名のウデが本物であると知った明家は銃太郎に医療学校の教授を任せた。その医療学校は『源蔵館』と名づけた。今日にも畿内にあり人々を病から救っている『源蔵館病院』『源蔵館大学病院』の祖であった。
源門長兄の銃太郎は医療の腕のみならず指導者としても長けていた。彼の師である源蔵こと加藤段蔵は魔性の忍びと伝えられているが、軒猿の忍び衆の記録では彼は忍術もさる事ながら、医師としても当時の最高の腕前だったと記されている。鍼灸に長けて外科手術さえ彼はできたと言われている。彼は軒猿の里を抜けて瀬戸の孤島で医師となり島民を救い、そしてその中から弟子になる事を懇願してきた者には惜しげもなく知恵と技術を教えた。まさに加藤段蔵が忍びの任務と云う生死を賭けた緊張下の中で会得した机上ではなく現場の医術。これを体得した五名がやってきた。あの日、源蔵と名乗っていた加藤段蔵と会い友誼を結んだ事は明家にとり天佑とも言える幸運と言えるだろう。
当時の医療と云えば患者の状態を観察して、それに適した薬を服用する事であるが加藤段蔵はその知識は無論の事、外科手術の技術を体得しており、それを弟子に伝えた。加藤段蔵がどうして外科手術の技術を持っていたかは不明であるが、近年の歴史家は“誰よりも人を殺した彼だからこそ人体について精通しえたのかもしれない”と述べている。これが正解なのかは疑問であるが、とにかく源蔵の弟子五名が畿内にやってきた事により、日本の医療技術は大きく発展する。この後、しばらくして柴田家はポルトガルとも交易を行うので、西洋の外科医術も導入するが源蔵の弟子たちもそれを学び、さらに技術を昇華する事になる。
現時点で薬の処方以外に外科手術と云う技術で病に立ち向かえたのは、源蔵と、その弟子五名のみである。外科手術と云うものは、あの三国志に登場する医師の華蛇が関羽をはじめ、外科手術で多数の患者を治した事はまぎれもない史実である。“しびれ薬を飲ませて執刀する”と陳寿作の三国志正史にも記されている事から、驚く事に西暦二百年ごろ中国では麻酔と外科手術がすでに存在していたと云う事になる。三国時代からおよそ千四百年を経ている戦国時代の日本、一人か二人外科手術が出来た者がいたとて不思議ではないだろう。
その一人か二人の加藤段蔵より直接指導を受けた若き五名。その長兄の銃太郎は医師の現場ではなく、もっぱら医師の育成にはげみ、そして他の源門四人が安土城下に作られた柴田家運営の診療所に勤めたのだった。彼らは柴田家の家臣としてではなく、明家に招かれた客将と云う立場であり、高禄で厚遇された。柴田領の医療技術は当時の日本、いや世界一の水準とも言えると、当時日本にいた宣教師が記録で残している。
明家家臣、高橋紀茂も明家の主命に従い、やっと曲直瀬道三とその高弟たちを臨時教授として雇う事に成功し、領内の医師たちの禄を増やし後進の指導に当たらせる事を徹底させた。そのかいあって柴田領内の医師不足は徐々に解消していく事となる。
治療は貧しい者も平等に診療を受けられるようにと、医療費の過半数は柴田家が負担したのである。これは後の医療保険制度とも言えるが、日本では柴田明家が最初に行った。
さらに特筆すべきは、柴田明家は銃太郎に女医の育成を急務として要望した事だ。特に産科医である。お産は産婆と呼ばれる年配女性が担当するのが常だったが、その産婆に専門的な医療技術があったかと云えば、それはないと言っていい。産婆はしょせん出産の時の土壇場しか出番がない。
本来出産は妊娠した当時から本格的な診断を受けさせて母体の安全に気を配らなければならない。そうかと云って医療技術を持つ男の医師が行えば“夫以外に肌を見せるくらいなら死ぬ”と云う理念があった当時である。明家はその女の恥じらいにより生まれる命が生まれない事を払拭したのだった。武家町人に至るまで優れた女子に産科の技術を教えるようにと要望された銃太郎は正規の医療講義のあとに女医候補生を集めて女医を育成した。育成に伴う資金は全額柴田家が負担し、銃太郎には十分な報酬を支払った。
時に性器さえ見せて男の医師の治療を受け羞恥に泣いていた女たちは、この明家の女医育成に歓喜した。加えて当時の社会に蔓延していた『血の儀式』として出産を忌み嫌う風習を撤去した。あの聖徳太子でさえ馬小屋で生まれたのだから、昔の日本が生まれた子宝を大切にしても、出産の女の業をどれだけ忌み嫌っていたか分かる。
柴田明家は『出産は清潔な環境で行わなければならない』と明言した。これは愛妻さえが竜之介出産の時、『血の儀式だから馬小屋で産みます』と言った事に激怒した事が発端と言われている。女であるさえ自身がそういう認識であったのに明家は呆然とし、屋敷内で生む事を厳命した。侍女頭の八重はそれに反対したが明家は聞く耳持たず『そんな悪しき慣習、今にオレが根こそぎ無くしてやる』と譲らなかった。
そして明家はその言葉どおり、日本全国は無理でも柴田の勢力圏内では見事それを成し遂げている。そしてそれは徐々に日本全土に行き渡っていく。生まれた子は無論、母体の死亡率も高かった当時、この柴田明家の女たちへの配慮は今日でも評価が高い。女性の歴史家で柴田明家を悪く言う者が皆無なのはこういう経緯もあるからだろう。
当時まであった『産褥』と云う文字。お産そのものや、その前後を指す意味であるが、二文字目に『屈辱』『恥辱』の文字にある『辱』の文字があるのは適切ではないと柴田明家はこの『産褥』と云う文字を廃止し『産美』と変えてしまった。
為政者の中で、柴田明家ほど女の支持を得た殿様はいないだろう。たとえ明家が醜男であったとしても、その支持は揺るがなかったのではないかと歴史家は評する。これは養父水沢隆家に幼き頃より『女は国の根本、たとえ親の仇ほどに憎くても殺してはならない。傷つけてもならない。慈しみ守るのが男の務めなのだ』と教えられたからではなかろうか。明家の家臣の妻たちや娘たちにも絶大な人気を誇り、家臣たちは『うっかり妻を殿に会わせたらどうなる事やら』と苦笑してもらしたと云う話も伝わっている。
後年、『日本史上ただ一人、民と女に奉仕せし殿様』と呼ばれる柴田明家。そして同時に彼は『仁術の祖』と言われて現在に語り継がれていくのである。
話は元に戻り、安土に建てられた医療所の源蔵館。多くの民が診療を受けていた。そこに一人の急患がやってきた。山内一豊の娘、与禰姫である。急な激しい腹痛だった。嘔吐と下痢も伴い、高熱に苦悶する。ただの風邪と侮っていた母の見性院(千代)は、ただ事ではないと慌て、娘を背負って診療所に駆けてきた。
「ここは痛いかな?」
「は、はい痛いです」
「ここは?」
「イタタ!」
「ふうむ……」
医師才次郎は母親の見性院を別室に呼び出した。
「先生、娘は……」
「お腹の右下を中心に膿が溜まっています」
「ええ!?」
山内一豊の娘、与禰姫は十二歳になっていた。才次郎の診断記録から、与禰姫は当時は不治の病とも言えた虫垂炎と思える。
「そんな……夫に先立たれ、娘まで失ったら……」
母の見性院は泣き崩れた。
「大丈夫です。病が発したのが安土で良かった」
「は?」
「大納言(明家)様はここ安土に最高の漢方薬と医療具、そして人員を置かれています。しびれ薬で眠らせ、その間に外科手術して病巣を取り除きます。今日にでも執刀できますが……」
外科手術が日本で浸透するのはもうしばらくの時を必要とするが、源蔵こと加藤段蔵直伝の忍び治療術を心得ている才次郎には外科手術は自分の技術の範疇であった。
見性院はポカンとした。死病にかかったとも言える娘を事も無げに治せると云う若き医師の言葉に。
「よ、よろしくお願いします。ですが、当家にさほどに高い治療代は……」
「ああ、わずかな額しかいりません。患者の治療代の八割は柴田家から出ますので」
「あ、ありがとうございます!」
医師才次郎を生き仏の様に拝む見性院。
「お礼なら大納言様に。ではさっそく始めますが、娘さんは味わった事のない腹痛に戸惑っておられます。お母上から落ち着かせていただきませんか」
「分かりました!」
無事に手術は終わった。女の体ゆえ才次郎は細心の注意をはらい、ほとんど傷跡が残らないようにしたのである。腹痛から解放され、スウスウと眠る与禰。手術成功の証である放屁もあった。娘の寝顔を感涙して見る見性院。
「一豊様……。与禰は二度までもあの方に命を救われました……!」
山内一豊の妻の千代は夫の菩提を弔い剃髪し、見性院と名乗っていた。姫路落城から安土へと住居を移し、柴田家に礼遇されている。見性院は苦しい葛藤にいつも苛まれていた。
“一豊様を討った柴田明家が憎い、しかしそれは堂々の一騎打ちによるもの、怨むのは一豊様の御霊を辱める事になるのではないか。怨んではいけない”
しかし一人になると無性に悲しくなってくる。夫が恋しい。何も手に付かない。涙が出てくる。いっそ夫の後をと何度も思った。しかし娘の悲しみを思うとできない。結果彼女は明家を怨むしかないのである。間違っていると知りながらもそれしかないのだ。しかしその明家の礼遇によって自分と娘の暮らしは成り立ち、平穏な日々を送れている。今は娘の成長だけが生き甲斐。
“お礼なら大納言様に”医師才次郎がそう述べたので見性院は安土城に赴き、柴田明家に面会を申し出た。明家は快諾して会った。礼を言おう、礼を言おうと会う前は決めていた見性院。だが明家を前にするとやはり……。
「これで、当家が矛を収めるとお思いですか」
当家といっても、山内家はもう見性院と与禰しかいない。
「いいえ」
「ですが、大納言様の敷かれた医療制度と仕組みのおかげで娘は助かりました。これだけはお礼を述べさせていただきます」
「そうですか」
「執念深い、ヘビみたいな女だと思われるでしょう……! でも、でも……!」
「…………」
「う、ううう……」
泣き出した見性院。彼女は思う。柴田明家が取るに足らない男なら、どんなにラクかと。そういう男なら軽蔑し憎みきれる。しかし明家は残念ながらそういう人物ではない。
「見性院殿」
「え……?」
「聞けば屋敷の中に閉じ篭っている事が多いとか。もしお時間があるのでしたら安土城下の診療所を手伝っていただけないでしょうか。女手が不足していると要望が来ています」
「いきなり何を……私には医学的な事は何も分かりません」
「医学の専門知識がある者だけが患者の病を治すものではございませぬ。中には心に傷を負う者もいます。いくさで家族を亡くした者、心ない男に陵辱を受けて心身傷ついている少女、これにはどんな特効薬もない。心のうちを聞いてくれる、親身になって聞いてくれる者が傷負う者を救うすべにございます。ご父母をいくさで亡くされ、そして最愛の夫は討ち死に。見性院殿はこの乱世の女たちの痛みを誰よりもご存知のはず。だから同じ傷を負いながら自力で立ち直れぬ者を助けてあげて欲しい」
「自力で立ち直れぬ者を……」
「人は誰でも痛みを持っています。特にこの乱世ではなおの事。しかしその痛みを知らない事は本当にその者を知った事になりません。自分の痛みと人の痛みを知り、そして聞く事は、ただそれだけで人の命を救う事にもなるのです」
「…………」
「多くの人を殺してきたそれがしが言えた事ではない。だからこそ自国の民は救いたい。チカラを貸して下さいませんか」
一瞬、ほんの一瞬だが明家の姿と夫の一豊の姿が重なって見えた見性院。
(一豊様……。それはあなたのご意志なのですね。あなたが大納言様のクチを借りて今私に言って下さったのですね……。『痛みを持つ者を救え』と)
見性院は涙を落としながら明家に平伏した。
「しかと承りました。微力ながらその務めを粉骨砕身に当たる所存にございます」
この日より見性院の心に明家を憎む心は失せた。そして思う。“一豊様はあの方と堂々の一騎打ちをしたのだ”と。城下の診療所に見性院の相談室が出来たのはそれから間もない事だった。男に言えなくても同性の女になら言える事はある。見性院の笑顔は人を癒す。彼女に心の傷を癒してもらった女が同じく見性院と同じ務めをする事を望む。見性院と同じ境遇で、家に閉じこもっていた未亡人たちも明家に見性院殿と同じ仕事をさせて下さいと要望。明家は快く了承し、診療所の一角では手狭なので改めて女専用の相談所を建設したのだ。
思いの他、この相談所は好評だった。実のところ明家は深い考えで見性院に相談員をやらないかと薦めたのではない。ハッキリ言って単なるその場の思い付きである。後に本人がそう言っている。相談所に人が多く訪れると云う事はそれだけ心に傷を負う者が多い証拠。明家の責任ではない。当時は戦国時代なのである。だからこそ領内にいる民、そして家臣やその家族の心の傷をどうにかしたいと思う。
今度は戦に疲れた男が相談できる場を設けようと考える明家。当時の事情だから仕方ないと言えばそれまでだが、合戦から戻り、その凄惨な光景や体験で日常生活に支障をきたす者が多かった。今日で云う惨事ストレスである。明家自身、小松城の戦いで敵兵皆殺しを父の勝家に厳命されて泣く泣く執行したが、小松から家に戻るまでの間、明らかに体に異常を覚えた。眠れず、食えず、何もする気になれなかった。しかし家に帰り、愛妻さえに泣きついたらウソのようにそれが解消した。明家はこの体験を踏まえ、男が弱みを見せて、泣ける場を作ったのだ。
建設前、相談を受けるのは誰がいいかと思案した明家は老婆が良いと判断。男が受けると『男が涙を見せるな』と云う説教に至る可能性がある。しかし老婆ならウンウンと頷くだけであろうが、弱みも見せられ、グチも云える。男は母親の優しさには童子になるものである。明家はすぐに家中でヒマを持て余している老婆を集めて相談した。その中には奥村助右衛門の母の里美もいる。
「やれやれ、この隠居のババたちに何用ですか」
と明家に訊ねた。
「ご母堂、そして柴田将兵の母上と祖母たち、聞いて頂きたい願いがございます」
老婆たちに根気よく説明する明家。そして最後に
「傷ついた我らをお助けできるのは、母親の愛しかないのです」
と、頭を下げて救いを求めた。老若男女問わず、人は必要とされている事に喜びを感じるもの。美男子の殿様の要望にしなびた乳房をときめかせた老婆たち、助右衛門の母の里美が言った。
「まこと、殿様は女を口説く名人でございますのう……」
ドッと笑う老婆たち。
「分かりました、柴田の男たちの母親となりましょう」
里美が城に呼ばれた日、安土の奥村屋敷に戻った助右衛門、妻に刀の大小を渡し着替えていると
「ん? 母上はどうされた?」
いつも助右衛門が帰ってくると出迎えてくれる母の里美の姿がない事に気付いた。
「お城の殿に呼ばれておいでです」
妻の津禰が答えた。
「殿に?」
ちょうどその時に里美が帰ってきた。
「帰りましたよ」
助右衛門夫婦が出迎える前に里美は屋敷に入ってきていた。足腰が少し弱っていた母の里美が軽快に廊下を歩いている。何か機嫌がいい。
「母上、どうされたのです? ずいぶん上機嫌で」
「夜叉丸(助右衛門幼名)」
「は、はい」
「そなたよりお殿様の方がずっと年寄りを大事にいたします!」
「は、はあ?」
とんだトバッチリを受ける奥村助右衛門だった。
日本初となる心の病を治す施設は『心療館』と名づけられた。最初は訪れるに抵抗があったが、秘密は守られ、誰が相談しに行ったか分からないように建設されていると知り、一人二人と徐々に訪れ出した。前例のない試みであったが、この『心療館』の建設は大成功。合戦により心に深い傷を負っていた男は多かった。甘える事も許されない。心に傷を負いながらも家族と家臣のために戦わなくてはならない。中には焼き切れる寸前の者もいたかもしれない。それが母親や祖母のような優しさに触れて、その傷が癒えた。
そして老婆たちもいつもしがない一日を家の中で過ごすしかなかったのに、こうしてお家の役に立ち、若い者を立ち直らせたと云う満足感を味わえる。“事は何事も一石二鳥にせよ”柴田明家の真骨頂と云える一つの政策である。
柴田明家はこの時代にはまったく無視されていた『心の傷』と云うものにも目を背けず、その治療に当たったのだ。これも小松城攻めで心に傷を負った明家を優しく癒したさえがいたればこその発想。
また、さえは明家が女子供、年寄りを労わる政策を立てると大変喜び、そして明家を褒めて褒めて褒めちぎったと云われている。
『さえは殿の妻になれた事は一生の誇り』
『民に優しい殿が大好き』
と、ハタで聞いていて恥ずかしくなるほどに明家を褒めて、抱きついてイチャイチャしていた。つまり明家はこれに味をしめて領民第一、そしてその中でも弱い立場にある女子供、年寄りを労わる政治をしたのではないかとも言われている。妻の喜ぶ顔が見たくて、そして褒められたいから。
さえにそういう政策を夫に執ってほしいからと云う意図があったかは分からない。だがさえがいなければ、今日にも名高い明家の仁政は半分も成されていなかったのかもしれない。柴田明家の愛妻さえも、まぎれもなく『仁術の祖』であろう。
第十章『忠臣の死』に続く。