天地燃ゆ−完結編−

第三章『紀州攻め』


 上杉家への援軍出征も終え、また明家にとっては正室さえの重病と云う予期せぬ事態もあったものの、柴田家は落ち着きを取り戻す。
 柴田家は急速に勢力が拡大していった。それゆえ人事は慎重になさねばならない。先代勝家も『クチも出さず顔も出さない』と言ったものの、『こたびの戦の後始末を終えたら隠居する』とも言った手前、楽隠居は中々できない状態である。
 ここで話は前後するが、柴田家が畿内の王者となった直後の周囲大名の動きを簡単に述べておきたい。

 丹羽長秀は柴田家に降伏した。だが清洲会議では勝家につき、賤ヶ岳の戦いでは秀吉についた丹羽長秀の無節操さを勝家は怒り罵った。明家も取り成しをしなかった。勝家に『もう顔も見とうない』と強制的に隠居させられ、嫡子の長重に家督を継がせ息子明家の配下に置くよう命じた。かつての同胞の勝家に見限られた長秀は自分の所業を恥じた。悪い事は重なり、しばらくして現在で云う胃がんを発病。病に対する気力も失せていた彼は間もなく息を引き取った。

 細川は織田信孝の失言が元で柴田ではなく羽柴に付いた。海路を防備していた細川は合戦をしなかったので被害はない。だが勝利者となった柴田は羽柴に付いた細川を敵とみなす。
 だが忠興の父の幽斎は羽柴の敗戦を予想していた。なるほど最初は強い羽柴は連戦連勝となろう。だが、どんな理由をつけても主殺しは逆賊。最終的な勝利者にはなりえない。勝つのは明智光秀を討った柴田であるとほぼ確信していた。信孝の悪口雑言により血気にはやり羽柴についた息子。止めてもムダであろうと考えた彼は、すでに羽柴と柴田の交戦時から動いていた。
 細川幽斎と云う武人は、智勇兼備の名将であると同時に一流の文化人である。古今伝授と云うものがある。それは『古今集』の解釈を中心に、歌学や関連分野のいろいろな学説を口伝、切紙、抄物によって師から弟子へ秘説相承の形で伝授する事を指す。当時それが出来るのは幽斎しかいなかった。
 その幽斎が朝廷に持っていたツテを使い柴田への恭順を明らかにした。時の帝の正親町天皇も幽斎の技量と教養を惜しみ、勅使を派遣して柴田家との仲介をしたのである。勝家は個人的には不満ではあったが細川軍の強さを知っているので、それを受け入れ、そのまま丹後の統治を命じた。
 しかしタダではお咎めなしとしなかった。この機会を逃してはならないと明家はこれ幸いと『お構いなし』の条件として隠居していた幽斎に自分の相談役として安土への出仕を要望。『師として丁重にお迎えしたい』と申し出た。
 家臣ではなく『師として』と言われては、さしもの幽斎も悪い気はせず、しばらくして了承の返事を出した。幽斎とて自分が明家の師となれば細川は安泰と云う目論みもあっただろうが、天下統一に一番近い柴田明家の相談役と云う役目は男冥利につきる仕事。宮津から安土に向かう時は結構嬉しそうだったらしい。その細川幽斎、最初の献策が
「『明智、羽柴を倒し、織田から独立して畿内の覇者となった』と云う事を記した書を近隣の各大名にお送りなされ」
 と云うものであった。これは柴田明家が織田信長の後継者である事を大々的に示す目的である。加えて
「遠方の大名には『徳川と北条も柴田の配下についた』と云う旨をお届けあるように」
 勝者が戦勝報告の書状を出すと云う事はあった事であるが、それは同盟や和議関係ある大名相手。しかし幽斎はまったく見ず知らずの大名にも届けなさいと進言したのである。まさに幽斎、水を得た魚。明家は興味深く幽斎の進言を聞いた。とはいえ、徳川も北条も敵対とは言わなくても融和状態に至っていない。さすがに気が引けた明家だが、
「まあ騙されたと思ってやってみなされ」
 幽斎の進言どおりに行ってみた明家。しかしこの書、実際の状況をよく知らない遠方の大名は、その書状の内容を真に受けてしまった。
『柴田明家に逆らってもムダだ』
 と、九州の大友と鍋島から友好の使者が届き、羽後の秋田氏も同じく貢物を柴田家に届けたのだ。あとでまんまと騙されたと知る遠方大名たちであるが、すでに友好の約を済ませてしまったので後の祭り。むしろ、その『戦わずして勝つ』の戦略に感心し、そのまま友好大名であり続けたのだ。

 織田信雄はいつ柴田が領国である伊賀と北伊勢に攻めてくるか気が気でなかった。賤ヶ岳で味わった恐怖。まるで虎の群れに立ち向かう羊のごとき。命からがら戦場から離脱した。
 そんな時に『友好大名として共にありたい』と明家と勝家連名の書が届いた。信雄は胸を撫で下ろした。命が助かったのだ。そして自分の領国も安泰。すぐに快諾の使者を出した。無論、その胸中は穏やかではなかっただろう。家来筋の柴田家が自分を差し置いて織田家の事実上の後継者となったのだから。しかし拒否して柴田を敵に回したくはない。ここは柴田家の申し入れを受けて我が身の安泰を図った。

 そして賤ヶ岳援軍諸将の大名たちは友軍としてではなく従属を申し出た。飛騨の国主である姉小路頼綱も降伏。幽斎提案の書状作戦が効いたのかもしれない。
 柴田家と領地を隣接する上杉家にも大谷吉継が使者として向かい、友好から同盟に両家の絆を太いものにしたいと述べた。遠まわしであるが、これは従属の勧告である。越後・越中・能登の領有しかない上杉家では同盟相手として釣り合いが取れない。
 上杉家居城の春日山城、ここに大谷吉継は来ていた。そして景勝に明家からの書を渡す。
「ふーむ、友好の段階から同盟にまで至りたいか……」
「柴田と上杉は隣国、共に戦のない世の中を作りたいと主人美濃は願っております」
「……いくさの無い世の中か」
「越後は謙信公の父君、為景公の時代から内乱絶えなかった国、父が子を、子が父を殺すようなこんな世を、早く秩序ある平和な世にしたいと主人美濃は願っております。そのためには上杉と友好の約定をするだけではなく、共に乱世に終止符を打つために同盟して協力しあいたいとの仰せです」
「分かり申した。家臣たちと協議いたすゆえ、今宵は春日山にお留まりあれ」
「はっ」
 その後の協議では、おおむね家臣たちは柴田との同盟に乗り気であった。協議の後、景勝は直江兼続だけを召して二人で要談した。
「戦国の世は地方の合戦に勝ち進んだ者がいよいよ代表戦に至る佳境に入っているかと存じます。しかし全国一の版図にて、かつ京を押さえ朝廷との繋がりも深くしている様相を示しているのが柴田にございます。何より当主がどれだけ恐ろしい男か、我ら上杉が一番存じているはず」
「ふむ……」
 上杉家は越中、能登、越後の三ヶ国を支配しているが、柴田家と勢力版図は比較にならない。景勝も柴田の天下統一に加勢して、共存繁栄していく事が上杉家百年の大計と見ている。
「同盟と申しても、勢力の違いから従属的な立場は明らか。対等の同盟だと意地を張るのは災いとなりましょう。柴田明家と共にまこと乱世を平定する戦いに身を投じるのなら最初から従属と申す事が肝要と存じます」
「よし、柴田の従属となろう。父の謙信も認めた男だ。分かってくれよう。明日に家臣を全員集めてそれを伝え、三日後には安土に向かう。兼続」
「はっ」
「貢ぎ金の銭三千貫を用意しておけ。無論、そなたも参れ」
「承知しました」
 そして三日後、上杉景勝と直江兼続は安土へと向かった。無論、前もって訪ねる事は安土へ伝えられている。景勝の荷駄を見ると酒が三斗あった。
「殿、この酒は?」
「ああ、妻が明家殿に届けて欲しいと」
「菊姫様が?」
 菊姫とは武田信玄の五女である。
「うむ、武田の娘である妻にとって美濃殿は恩義があるゆえな。こちらの迷惑も考えず美酒を持たせよったわ」
 柴田明家が初めて春日山城に訪れた時、何度も菊姫が明家に礼を言っていた事を思い出した兼続。
「戦国の世、いや人の縁と云うのは面白いものにございます。父の代の上杉は武田とも柴田とも戦ったのに、子の代の今では味方となるなんて」
「そうよな。戦国の世もそろそろ終わりに向かっている証拠やもしれぬな兼続」
「御意に」
 数日後に上杉一行は安土城に到着した。一行は柴田家に歓迎された。従属願いを一度明家は拒否したが、両家の繁栄と共存を願う景勝主従に請われ、やがて申し出を受けて人質として差し出された景勝の嫡子である定勝を丁重に遇する事を約束した。
 柴田家に上杉家が従属した。明家は戦わずして精強の上杉家を味方につけて、北陸全土をこの時に掌握した事になる。

 そして話は元に戻る。柴田明家は父の勝家、老臣の中村文荷斎、そして重臣たちと協議して明家新体制の人事を行い、安土城攻防戦、賤ヶ岳の合戦の論功行賞。および家臣団の刷新を図った。また明家嫡子の竜之介を正式に明家の後継者とこの時点で指名している。
(文章化が困難のため箇条書きとします)

柴田家当主 柴田美濃守明家(安土城)
柴田家大殿 柴田修理亮勝家(安土城)
次代世継ぎ 柴田竜之介(安土城)

譜代衆筆頭 前田利家(越前南部全域 府中城 竜之介守役)
譜代衆次席 佐々成政(加賀東部全域 金沢城)
譜代衆長老 中村文荷斎(領地なし 高禄辞退 明家相談役 竜之介守役)
譜代衆 可児才蔵(近江長浜城 竜之介槍術の師)
譜代衆 毛受勝照(越前北部全域 北ノ庄城)
譜代衆 山崎俊永(丹波八上城 竜之介土木の師)
譜代衆 不破光重(丹波黒井城 安土城土木奉行)
譜代衆 前田利長(安土城城下町治安奉行)
譜代衆 中村武利(寺社奉行 五千貫待遇 安土城)

明家直臣衆
首席家老 奥村助右衛門永福(播磨国主 姫路城)
次席家老 前田慶次郎利益(高禄辞退 先駆け大将 安土城)
首席奉行 石田三成(領地なし 銭八千貫待遇 安土城)
参謀筆頭 黒田官兵衛(領地なし 銭八千貫待遇 安土城)
参謀次席 大谷吉継(領地なし 銭六千貫待遇 安土城)
奏者番筆頭 大野治長(領地なし 銭五千貫待遇 安土城)
黒母衣衆筆頭 松山矩久(丹波柏原城)
赤母衣衆筆頭 小野田幸猛(丹波篠山城)
京都奉行 高橋紀茂(山城二条城城代 銭五千貫待遇)
琵琶湖水軍棟梁 堅田十郎(近江坂本城)
商人司棟梁 吉村直賢(領地なし 銭二万貫待遇 堺・敦賀・安土に本陣)
旗本衆筆頭 高崎吉兼(近江唐国七千石)
旗本衆次席 星野重鉄(摂津天王寺七千石)
部将 堀辺半助(近江大津五千石)
部将 佐久間甚九郎(近江日野五千石)
工兵隊棟梁 辰五郎(高禄辞退 安土城)
 これに水沢隆広の時代から付き従ってきた二千の兵が旗本衆と言われ、工兵隊には年間三万貫の給金がある。水沢隆家旧家臣団子弟の高崎と星野両名も領地を持つに至る。
(なお、若狭水軍と藤林忍軍は物語の都合上、ここでは述べません)

柴田譜代、明家直臣家で当主空席家
佐久間家(摂津伊丹城)現時点では虎姫が名目上の当主。
小山田家(丹波亀山城)現時点では月姫が名目上の当主。
徳山家(安土城)
柴田勝豊家(安土城)
柴田勝政家(安土城)
拝郷家(安土城)
原家(安土城)
 徳山、柴田両家、拝郷家、原家の子弟は譜代衆に取り立てられる約束がされる。優れた少年は若殿竜之介の小姓と近習に配属された。なお、この時点では賤ヶ岳で討ち死にした将の遺臣は明家直臣衆と譜代衆の家臣に異動となっている。

友好・従属大名
蒲生氏郷(但馬国主 出石城)従属
九鬼嘉隆(伊勢南部全域 鳥羽城)従属
筒井順慶(大和国主 大和郡山城)従属
稲葉貞通(美濃東部全域 美濃岩村城)従属
森長可(尾張北部全域 大木山城[旧小木城]新城築城)従属
滝川一益(尾張南部全域 清洲城)従属
姉小路頼綱(飛騨国主)従属
丹羽長重(近江佐和山城)従属
細川忠興(丹後国主 宮津城)従属
上杉景勝(越中・能登・越後国主 春日山城)従属
大友宗麟(豊後府内城)友好
鍋島直茂(肥前佐嘉城)友好
秋田愛季(羽後檜山城)友好
織田信雄(伊勢北部全域・伊賀国主 伊勢長島城)友好
織田三法師(美濃西部全域 岐阜城)友好

柴田明家相談役(すべて安土屋敷と銭一千貫待遇)
細川幽斎
稲葉一鉄

 また、主なる家臣と配下大名には安土に屋敷も与えられており、配下大名は重臣を安土屋敷に常駐させる事が課せられている。かつ無用な城はどんどん破却されていった。守る人数が割かれ、維持費がムダであるからだ。跡地はどんどん新田開発により水田とされる。これを柴田の城割りと云う。

 京を中心の機内を支配下にした柴田明家は名実共に織田信長の版図を受け継いだ事になる。友好大名の領地も入れれば、畿内、濃尾、越前、加賀、播磨、丹後、但馬、飛騨と支配下に置いた事になるが、正しく言うと紀州(和歌山県)は手に入れてはいなかった。
 紀州は長年に渡り、鉄砲集団の雑賀衆と根来寺が支配していた。大名と呼べる者は存在せず傭兵集団と寺社が支配していた。石山本願寺が織田家と講和すると根来衆も講和の形となった。
 雑賀衆の鉄砲部隊は信長との戦いで、棟梁的な存在である雑賀孫市が討ち死にしており、鉄砲部隊と云う側面はあったとしても今は紀州の一領民として暮らしだしていた。しかし羽柴秀吉の挙兵のおりに莫大な恩賞を得て、その挙兵に応え柴田家と敵対したが往時の半分のチカラも発揮できず敗れてしまった。残ったのは柴田家に敵対したと云う結果だけである。
 先代の雑賀孫市の名を継いだ当代の孫市(孫市の名は世襲制)。彼には先代ほどの器量はなく、一族を統率するチカラに欠けていた。元々雑賀衆は多種多様な共同体が集って一団となっていた部隊。先代孫市なら統率できたが、息子はムリであった。信長存命時でも織田方、本願寺側と分かれて戦った雑賀衆。さらにその雑賀を敵視する根来衆は結束の乱れた雑賀衆を倒す好機と見て、紀州の国内は小競り合いが頻発していた。
 紀州はここ数年は凶作が続き、深刻な食糧難に陥っていた。根来が雑賀を、雑賀が根来を攻めたのは相手の持つ食糧を奪うためでもあっただろう。

 両者の争いは紀州の民の苦しみ。国を捨てて隣国に逃げ込む者が後を絶たず、それらが紀州の実情を訴え、そしてそれは明家の耳に入った。そういう状態なら討つのは容易い。
 しかし最初に明家は両者のいさかいの仲介をするために使者を出したが、両者は聞く耳持たず。これが罠である。畿内の王者として一度は手を差し伸べた。だが断ってきた。もう遠慮はいらない。柴田明家が当主になり最初の合戦。これが『紀州攻め』である。
『自分勝手に小競り合いを続け、民を省みない連中に話し合いの余地はなし。彼らにはその席に付く資格すらない。内乱に疲弊した紀州の民を救うために出陣する』
 と云う名目を掲げて紀州に進攻。そして明家は戦うより先に飢えた紀州の民に食糧を施した。先に紀州の民を味方につけたのだ。
 もはや民心は雑賀と根来より柴田に完全に向かれ、もはや戦う前に勝敗は決した。両者は自国紀州で完全に孤立した形となる。明家は独立国の様相を示していた紀州を本拠とする雑賀と根来に『柴田家の検地を受けよ、そして臣下の礼を取るのだ』と両者に下命。
 両者は固辞。雑賀衆にも意地がある。当時は独立国と云えた紀州。国の運営も自分たちでやってきたのだ。強いやつが現れたからハイそうですかと国を明け渡せば先祖に合わす顔がない。だが意地をはるのが棟梁の当代孫市と他の一部の者だけではいかんともしがたく、次々と砦と城を奪われていく。それを聞いて他の砦と城の主たちも寝返って行く。
 ついに本城の雑賀城だけとなってしまった。彼らの利益の中心である雑賀の鍛冶屋町も港町もみんな柴田に奪われてしまった。明家は再度降伏を勧告。民衆の支持もなく、食糧難に陥っていたうえ、敵に回った雑賀衆が前線で攻撃してきて、その後には柴田の大軍勢。海は九鬼水軍が封鎖しており逃げようもない。ついに当代孫市はそれを受け入れて降伏開城した。孫市は自刃して果て、残った一族は赦免されたのである。
 だが依然、根来衆は拒否。彼らの本拠の根来寺は紀州だけではなく河内や和泉の一部にも勢力を及ぼしていた。その利権を奪われるのは耐え難い事だった。明家はすべての領内を一定した検地制度で行っていた。特別扱いを認めるわけにはいかないのである。根来衆は宗教勢力、一向宗と戦った経験のある明家は建て前で降伏を勧めるが、それはムダと云う事は分かっていた。迷わず攻撃を開始。
 雑賀衆と同じく抵抗むなしく次々と砦も城も落とされ、ついに根来寺だけになった。宗教勢力である根来がこの後に及んで恭順するはずもない。降伏勧告も出さず焼き討ちを敢行。根来寺は炎上して根来衆は全員自決して果てた。
 紀州の民百姓には生き仏のように映った明家であろうが、根来衆には鬼のように思えた明家だったろう。明家はもう勝家の下にいる一武将ではない柴田家当主。その自覚がこの戦いに出たのではなかろうか。何より柴田家当主になって最初の合戦、明家には負けられない合戦でもあった。根来衆にも言い分はあるだろう。しかし時流に逆らい、柴田に滅ぼされたと云うより自滅に近い形で滅んだ。明家は『民百姓を飢えさせる者に統治者の資格なし』と思っている。容赦ない采配を取り、根来を滅ぼした。前田利家や佐々成政、可児才蔵は苦笑し『やればできるじゃないか』と思ったらしい。
 ところで紀州の民は、鉄砲を作る事のできる技術者がたくさんいた。また瀬戸内海と太平洋を結ぶ海運に適した土地でもあったため、古くから漁業や貿易業が盛んなところであった。
 鉄砲製造の鍛冶職人が多く、商業の要地。建て直しには時間を要するであろうが宝の土地である。柴田の天領(直轄地)と定めた。新たな土地では庶民の暮らしこそ最優先。それをすでに交戦時にやっていた柴田家。年貢は今までの半分程度であり、そして柴田家の行き届いた政治が行われる事となるのである。
 雑賀一族も当初は腹に思う事があったが、先代孫市の娘蛍姫に柴田家首席家老奥村永福の次男が婿養子に入ると心境は一転。この時点ですでに奥村助右衛門、前田慶次、石田三成は『明家三傑』と呼ばれていた。その筆頭の助右衛門次男である奥村静馬易英が婿入りすると云うことは柴田家で認められている証拠である。何より易英は父親に似て武略に長け思慮深い男で、娘しかいない家では婿養子として争奪戦となっていた若者だった。
 雑賀一族はそのまま雑賀易英を名乗られよと薦めたが、婿養子に入ったからにはと易英は次代雑賀孫市を名乗った。彼の妻となった蛍姫は気が強く、中々夫に心を開かなかったが、次第に打ち解けて仲の良い夫婦となったと云う。新たな雑賀孫市を当主に据えて、雑賀一族は雑賀家となり、鉄砲部隊、そして鍛冶衆として活躍していく事となる。
 これで織田信雄の北伊勢と伊賀を除けば、柴田家は完全に畿内を併呑した事になる。総石高は当時まだ不明なるも、柴田の実入りが土地だけでないのは周知の事実。京の地も確保し、織田の後継者ともなりえた柴田へ販路を築きたい商人はいくらでもいた。吉村直賢の陣頭指揮により、すでに朝鮮や明、ポルトガルの商人とも交易が行われていた。

 論功行賞や国替えが終わると、柴田勝家は本格的に隠居した。隠居館『庄養園』琵琶湖湖畔に建てられた辰五郎一党の技術が集約した優美な浮き城。そこで愛妻お市とのんびり暮らしだした。温泉に出かけ、長年の戦場の疲れを癒し、趣味の茶の湯、書画や絵画を楽しむ日々。そして敷地内に建てた廟に柴田の英霊を祀り弔う。血なまぐさい人生を送って来た柴田勝家がやっと手に入れた平穏な時間である。そこにお市と云う美しい妻がいるとあれば言う事なし。誰もがうらやむ老後だろう。
 しばらくして明家の子ら、つまり孫たちの教育もする勝家であるが、それはもうちょっと先の話である。

 羽柴秀吉が黒田官兵衛と大谷吉継に述べた『美濃はナマケモノにならなければならない』と云う言葉。働き者になれならともかくナマケモノになれ、とは妙な考えと思ったが官兵衛は亡き旧主秀吉の眼力に驚く。
 明家はガムシャラに働いているワケではないが、口頭で祐筆に指示を書かせ、それを部下に渡して主命を遂行させている。官兵衛が新田開発の指示書を盗み見た時、それは初心者にも分かりやすく、そしてその指示通りやれば成果は出ると云うものだった。家臣を甘やかしすぎだ、これでは殿の家臣はみな指示待ち人間になる。大谷吉継も同様な危惧を抱いていた。諸葛孔明に頼りきった蜀と同じ運命を辿る、秀吉の眼力はやはり鋭かった。とうとう二人は諫言に出た。と云うより実力行使だ。
 いつものように城主の間で家臣への指示を口頭で述べ、それを祐筆が書き記していた。そこへ黒田官兵衛と大谷吉継がズカズカと入ってきた。
「どうした二人とも……!?」
 官兵衛は祐筆が書いていた治水の指示書を取り上げて破いてしまった。
「何をする!」
「殿、お人払いを」
 真剣な面持ちの官兵衛と吉継。
「……みな下がれ」
「「ハッ」」
 祐筆たちは出て行った。奏者番の大野治長にも出て行くよう指示した。気持ちを落ち着けて明家は官兵衛に訊ねた。
「官兵衛殿、今の仕儀の意図を説明あれ」
「殿、今後詳細な指示書はお慎み下され。ただ一言、『治水を行え』『荒地に新田開発を実施せよ』など、項目だけでお済ませあれ」
「なに?」
「殿は家臣を甘やかしすぎにございます。あのような指示書があれば、自分で考えもしないのに成果が出せてしまう。つまり指示待ち人間ばかりになってしまうのです。殿とて寿命がある身。殿の死後、若君の周りには自分一人では何もできない無能者ばかりと相成りますぞ!」
「…………」
 続けて大谷吉継。
「確かにまだ、柴田の治世は創造期、内政や軍務もそれなりの数字を出さなければなりませぬし、予算もムダに出来ないのは分かり申す。しかし長期的展望を思えば大間違いにございます。今は家臣たちにどんどん失敗させ学ばせ、人材を育てる事が大事にございます。何とぞ手取り足取りの指示を出す事は慎み下さいませ!」
 気迫を込めて明家を諌める官兵衛と吉継。二人をしばらく見つめていた明家は一つ溜息をついた。
「……そうか、良かれと思っていた事が……後の柴田の堕落に繋がるワケか」
「はばかりながら、亡き主君、筑前守の言葉を述べます。こう申されました」
 大谷吉継は秀吉が言った“美濃はナマケモノにならなければならぬ、ボケる事を覚えねばならぬ”を一言一句伝えた。明家は黙った。
 元々彼は水沢隆広と名乗っていた頃も、部下には詳細な指示を与える傾向があった。ただの『治水せよ』『開墾せよ』と項目で指示を与えていたのは石田三成だけである。武断派の多い柴田、内政方面を苦手とする部下は多かった。だからこういう姿勢が身についてしまったのだろう。それに警鐘を鳴らした羽柴秀吉。
 今までは勝家の下にいたから何の実害もなかったが、これからはそれが許されないのだ。吉継のクチから秀吉の言葉を伝え聞いた明家。秀吉から叱責を受けているようだった。
「分かった……」
「殿!」
 ニコリと吉継に微笑む明家。
「よく言ってくれた官兵衛殿、平馬、礼を申す。そして亡き羽柴様にも感謝する」
「お聞き入れ、嬉しゅう思いまする!」
 主君を諌めるのは一番槍より難しい、とよく言われる。特に明家のように優れた者には尚更である。しかし明家はこの諫言に感謝した。指示書を破った官兵衛の思い切った諌めに感謝した。素直に過ちを認める事は難しいが、明家は納得したら素直に理解した。官兵衛の誠忠の気持ちが上がったのは云うまでもない。
 ここから明家の人の使い方は大きく変化した。おおまかな指示しか与えず、そして自分では何もしようとはしなかった。今まで詳細な指示に慣れていた家臣たちは最初戸惑うが、明家は“すでにお前たちに詳細な指示などいらぬと見たからだ。これからはすべて自分の判断で仕事に当たれ。失敗を恐れず思い切りやれ”と言い渡した。
 しかしやはり最初は失敗の報告の連続。明家にとって『なぜこんな事ができない』『なぜそんな事も分からない』『これほどの巨費を使いながら、どうしてこの程度の成果しか得られない』と云う思いが腹の中に溜まるが、明家は顔に出さず家臣に失敗を理由に叱らずに、どうして失敗したかを分析させ、それを報告させて明家が納得できたなら再度同じ主命を与えた。そして最終責任は自分で執る事を家臣たちに明言していたのである。
 ただし失敗を隠した者には厳罰が待っていた。追放、そして時には斬刑もあった。優しいだけでは主君は務まらない事は承知している。君主は家臣に信頼される事は無論、恐れられなければならない。
 この時点ではまだまだではあったものの、後にこの家臣の使い方が生きてきて、柴田明家家臣団は優れた者が育っていく事となる。
 ちなみに明家は織田信長の良いところはどんどん真似たが、最たる手本となったのが道路行政である。この時代、道路が狭隘な事が戦略の一つと言ってよいが、信長は曲がった道を真っ直ぐにし、狭隘道路は拡張して広い道路を作った。かつ架橋もどんどん行った。そして広げた道路の脇には松や柳を植えるように指示をしたのだ。
 これは軍用道路も兼ねているが、流通経路の確保でもあった。信長の資金の多さはこういう政策の産物でもあった。明家はそれを真似て天領にはどんどん広い道路を作らせて架橋した。それを手本として家臣や従属大名も真似ていった。

 ある日、大谷吉継が明家に召された。主命だった。
「平馬、信州の上田へ行ってくれ」
「真田にございますか?」
「ああ、頼む。真田は次代当主とその弟がオレ個人の友なんだ」
「確か……信幸殿と幸村殿で?」
「うん、今のうちに味方にしたい。何より……」
「何より?」
「二人の父の真田昌幸殿とは戦いたくない。あの方ほど恐ろしい武将はいない」
 しかし明家はその真田昌幸に鳥居峠の戦いと津笠山の遭遇戦、合わせて二度も勝利している。殿は真田昌幸に勝っているのでは?と云う顔で明家を見る吉継。
「三度目はないさ」
 ニコリと笑う明家。
「何とか味方にしてきてくれ、上杉を口説き落としたそなたこそ適任だ。頼むぞ平馬」
「承知いたしました」

 時を同じ頃、
『もはや徳川家についていても仕方なし。天下を取るのは柴田だ』
 そう決断した一つの大名がいた。真田昌幸である。彼はまだ水沢隆広と名乗っていた柴田明家と戦った事がある。鳥居峠の合戦と、そして甲斐津笠山ふもとでの遭遇戦。
 鳥居峠では見事な挟撃作戦を執り、津笠山ふもとでの遭遇戦では、雪崩を用いると云う神算鬼謀を見せた水沢隆広。真田昌幸は柴田明家を高く評価していた。何より柴田明家が主君勝頼、信勝、北条夫人にしてくれた事は武田遺臣で知らぬ者はいない。
 しかも世間と云うものは案外狭く彼の長男の信幸と次男幸村は柴田明家と旧知の仲だった。竜之介と云う名前だった頃の柴田明家が養父長庵に連れられて恵林寺で修行をしていた時に友誼を結んだと云う。これは縁であろうと昌幸は思った。だが気に食わない事が一つだけある。柴田家家臣団に小山田一族がいる事である。昌幸は今でも主人勝頼を裏切った小山田信茂を許していない。小山田一族と再び同じ旗の元に集うなんて冗談じゃないと思っていた。それが今まで柴田家に接触しなかった理由だった。
 しかし事ここにいたっては仕方がない。真田家は十万石の大名。もはや天下の趨勢は柴田にあり、息子二人も柴田につくべきだと前々から述べている。そんな思案を巡らせていたころ、柴田家から大谷吉継が使者に訪れた。柴田明家からの書を当主の昌幸に渡す吉継。
「ふむ……。美濃守殿は当家と同盟を?」
「その通りにござる」
 またとない使者、渡りに船である。しかし弱みを見せるわけにはいかない。
「釣り合いがとれぬ。当家は十万石、美濃殿は交易による収入も入れれば石高は図りしれん。それがしには同盟ではなく降伏して従属せよと受け取れるが?」
「そこまでの意図があるか否かは臣めは知りませぬ。しかし殿は真田と戦う事は避けたいと願っております」
「ほう……。手前のセガレ二人と友だからか?」
「それもありましょうが、信玄の眼と呼ばれた安房(昌幸)殿と戦う事は得策ではないと思っているのでしょう。老練で百戦錬磨の安房殿を恐れ、戦いたくないのでしょう」
「ふん……。よく言うわ、ワシはその美濃殿に二度も敗れているのだぞ」
「三度目はないと主人は申しておりました」
「殿……。悪い話ではないですぞ」
 と、真田家家老の矢沢頼康。
「大谷殿は羽柴筑前に仕えていたそうよな」
「いかにも」
「敵として美濃殿と戦ってどうであった?」
「恐ろしいと感じました」
「……あい分かった、家臣たちと協議いたすゆえ今宵は我が城でおくつろぎあれ、これ!」
「はっ」
「柴田殿のご使者を客間に通し丁重におもてなしせよ」
「ははっ」
「それでは良い返事を期待しております」
「ふむ」
 大谷吉継は真田家臣に案内され、客間へと行った。
「父上、柴田につけば武力だけではなく……」
「分かっておる信幸、すぐに了承すれば軽く見られるからあんな態度を執ったまで」
 真田昌幸は静かに微笑んだ。
「敵として戦いたくないのはお互い様よ」
 フッ笑う真田昌幸だった。


第四章『茶々・初、嫁入り』に続く。