天地燃ゆ−完結編−
第一章『当主明家』
いよいよ柴田家の当主となる柴田明家。今日は家督相続の儀である。これを遡る事、姫路落城の翌日。柴田明家は父の勝家の陣に呼び出されていた。
「昨夜に申したとおり、ワシはお前に家督を譲る。で、お前に一つ訊ねたい」
「はい」
「お前、どちらを取る?」
「どちら?」
「柴田家が織田家より独立して天下を狙うか、それとも三法師様を立てて織田家の武将であり続けるかだ。お前を後継者に指名してより時間はくれてやった。自分が柴田当主となった後の絵図も頭に描いたろう」
「はい」
「では聞かせよ」
「独立しようと思います」
「ふむ……理由を聞かせよ」
「確かに……これは唐土の陳勝の誤りを繰り返す可能性もあり危険。しかし織田の家臣として柴田は大きくなりすぎました。これは『尾大の弊』となりうる事もございます。よって独立するも織田を丁重に遇すると云う形を執ろうと思うのでございますが」
陳勝とは中国の秦楚の戦いで勢力を持った反乱軍の大将である。元は農民であったが秦の暴政に蜂起し、アッと云う間に勢力を拡大した。そして陳勝は陳の国を取った時、その国で王位についた。これには疑問を持った将が多くいたのである。私利私欲のために戦ってきたと見られたからだった。やがてその陳勝は部下の裏切りによって殺される事となった。
反してそれを教訓として亡国の王子を探し出して君主としたのが楚の項梁である。この効果は絶大で楚軍は一気に大勢力となったのだ。
そして『尾大の弊』は中国の故事で正しくは『末、大ならば必ず折れ、尾、大ならば揮(ふる)わず』と云う。上が弱く下が強大ならば、上が制しにくくなる、と云う意味で国を滅ぼす要因となる事である。
「柴田がまた北陸の一大名に戻れば、今まで我ら柴田に加勢してくれた諸将に対して遇する事もかないません。ここは独立し、そのうえで三法師様を厚遇すれば簒奪の汚名を柴田が被るのも防げるかと存じます」
「分かった。思うようにやってみよ」
「父上は……」
「ん?」
「父上ならばどちらを選んだのでございますか」
「ワシなら三法師様を立てたじゃろう。しかしそれがワシの限界と云える」
「父上……」
「だが、『いくさの無い世』を作るには……この戦国乱世に終止符を打つならば……お前の考えの方が正しいと分かった。何とも頼もしい二代目じゃ。しっかり頼むぞ」
「はい!」
そして本日、安土城で柴田明家の家督相続の儀が行われた。柴田家臣、友好大名がズラリと揃う安土城評定の間で勝家は君主の印判を息子に手渡した。
「ありがたく拝領します!」
「ふむ」
印判を手渡すと、勝家は君主の席から退き、明家にそこに座るよう示した。緊張しつつも明家は君主の席に座り、父の勝家は傍らに座った。
「皆のもの、面(おもて)をあげよ」
「「ハハッ」」
平伏していた家臣たちが勝家の声で顔を上げた。
「今日より、そなたたちの主君は、この勝家が嫡男、柴田明家となった」
「「ハハッ!」」
「明家を生かすも殺すも、その方らの才覚次第と心得よ」
「「ハハッ」」
「明家」
「はい」
(コホン)
凛々しい正装で臣下の前に君臨する明家。つい七、八年前まで浪人だった自分が信じられない。威厳を示そうとしているが内心ドキドキしていた。
「みな、最初に申し渡す。我が柴田家は織田家から独立をいたす」
「「ハハッ!」」
「ただし、三法師様と信雄様には敵意無き事を示し、友好大名として共存したいと考えている」
「「ハッ!」」
「我ら柴田家は畿内、濃尾、越前、加賀、播磨、但馬を押さえ、そのうえで織田からの独立を宣言した。当家が明智と羽柴を討ちしは私利私欲のためと内外に思われよう。魚津でオレが父の勝家に『殿が大殿の意思を継ぐのです』とけしかけておいて何だが……それは柴田が天下を取ると云う事にも受け取れる。
しかしもう一つの意味もあった。それは『合戦の無い世の構築』と云う事だ。それが亡き大殿と信忠様の悲願でもあった。そして明智光秀殿、羽柴秀吉殿の悲願でもある。織田から柴田と名前は変わっても目的は変わらない。それは民衆の安寧と平和のため、柴田家が天下を統一し、応仁の乱から続いた戦国乱世に終止符を打つためである!」
「「ハハッーッ!!」」
満場一致で明家の指針が受け入れられた。友好大名はすでに領地が増えている。この家督相続の儀の前に織田三法師の家老の前田玄以と勝家、明家ですでに領土分配は終えていたのである。そして方針も述べてある。理解を得られてから公式の場で述べた明家。巧妙な根回しと云えるだろう。
「良いですか、ちゃんと行儀よくするのですよ」
「分かっています母上! 茶々ももう子供ではないのですから!」
柴田家の家督を継いだ日、明家は母のお市のいる奥を訪ねた。
「母上! ご機嫌うるわしゅう」
「明家殿、柴田家当主の拝命、おめでとうにございます」
「「兄上様、おめでとうございます」」
茶々、初、江与が恭しく兄に祝辞を述べた。
「……ぷっ」
「な、何が可笑しいのですか兄上!」
頬をプクリと膨らませる茶々姫。
「だ、だって、似合いませぬぞ姫様たち」
水沢隆広と云う名前だった当時には散々に手こずらせてくれた茶々、初、江与の三姉妹。三姉妹は北ノ庄城にいた時に学問の師は隆広を指名してきた。それなのにいざ講義を始めれば聞かない。もう二度と姫様たちの師なんかゴメンだと隆広が思っていても、また指名してくる。お姫様と云っても窮屈な生活。三姉妹にとって美男子で優しい隆広は何か願い事を叶えてくれそうな存在であった。講義を聞かないのも好意から来るイタズラ心だったのだろう。
次は馬術の教師に指名された。この時ばかりは隆広の馬術の指導を熱心に聞いた三姉妹。だがちょっと乗れるようになると隆広の許しなく馬を厩舎から連れ出し三人で乗ったが、突如それが暴れ馬となり城下町を暴走した。それを怯えるどころか三姉妹は大はしゃぎながら馬に乗っていたらしい。それを聞いて大急ぎで駆けつけて止めたのは隆広だが、城下町を暴走したのに『あー面白かった』と述べた三姉妹を容赦なくひっぱたいた。母のお市にも叩かれた事のなかった三姉妹は頬に手を当て呆然とした。そして隆広は言った。
「落馬して……ケガで済まなかったらどうするのか!」
すごい形相で怒鳴る隆広。本気で怒っていた。叩かれたうえ怒鳴られて泣き出す三姉妹。城下町の民たちは勝家の姫と知っていたので隆広が叩いたのを見て驚いた。
「ご覧なさいませ、暴れ馬が来たので八百屋や魚屋の店頭が壊れています。姫様たちは民の暮らしを踏みにじったのでございますぞ! 亡くなったお父上の浅井長政様が見たらどんなに嘆き悲しむか! 隆広の平手はご実父長政様の手と知りなされ!」
そう言って隆広は一軒一軒に詫びて、自分の少ない持ち金から弁済していった。その様子を見て三姉妹たちは
「「ごめんなさい、ごめんなさい」」
と泣いて隆広に、そして民たちに謝った。隆広はそこでやっと三姉妹に笑顔を向けて
「わかれば良いのです」
そう優しく悟ったのである。そしてそれから三年、三姉妹は美しく成長していた。いずれも母のお市さながらの美貌である。しかし、そんな手を焼かされたのも今では懐かしい思い出であった。明家は変わらず三姉妹に優しかった。急に呼び捨てもできないので言葉も相変わらずバカ丁寧だった。
「もう安土での暮らしはなれましたか?」
「はい兄上、城下にはおいしいお団子屋がありますし!」
と、初。
「先日、城下の南蛮商店でカステーラ食べたのです! 美味しかった〜!」
と、江与。
「あ! 茶々も昨日はじめて果物茶屋で葡萄を食べたのです! すっぱくて甘くて!」
そして茶々。
(食べる話ばかりだな……)
苦笑する明家。世代交代も円滑に進み、民も家臣も名将と呼ばれる明家の新体制に期待している。明家自身、かわいい妹が三人もできた。しかし領内に火種はまだ残っていた。佐久間家である。
金沢城、佐久間盛政の居城。当主の佐久間盛政は主家の柴田家に謀反を起こしたが、あえなく失敗に終わり、盛政は首を刎ねられた。
佐久間盛政は謀反の際に反対派は幽閉して挙兵に及んだ。これは結果を見てみると盛政が“この家臣たちは謀反に反対した”と云う立場を証明させるためとも云えよう。その幽閉させた部屋の鍵は盛政の妻の秋鶴が所持しており、盛政出陣後しばらくして開錠した。そして間もなく知った。佐久間盛政の謀反は失敗し、主君盛政は姫路城を包囲する柴田陣に連行され、そして処刑されたと。
幽閉された時は主君盛政を怨んだ家臣たち。しかし部下の裏切りに遭い、あえなく最期を遂げたと知るや、玄蕃様のカタキをと思い、柴田家の金沢城明渡しの勧告に拒否の意思を示した。
盛政の一人娘の虎姫は“ここでこのままあっさり城を渡せば佐久間家は未来永劫笑い者”と次代柴田当主の明家に合戦も辞さない構えを見せた。その虎姫を御輿に佐久間遺臣たちは徹底抗戦を決めた。
佐久間盛政の謀反に加勢した兵も今は金沢城に戻っている。頭のいなくなった軍勢は安土にも行けず本拠地に帰るしかない。謀反に賛成反対の者も、今では主君盛政の無念を晴らすと一丸になった。当然、怨嗟の対象は謀反の土壇場で盛政を裏切り束縛して柴田親子に売った連中であるが、彼らは勝家にすべて処刑されており、振り上げた拳の行き場がなくなった彼らは柴田家に拳を振り下げる事としたのだ。
甥の佐久間盛政を謀反に追い詰めたのは自分の責任と感じている父の勝家の気持ち、そして自身の佐久間盛政への思い。討伐は避けたかった柴田明家。
兵数はもはや少なく、当主も幹部はすでにあの世に行っている。城にいるのは大半が中堅以下の士分の者。それと女子供である。金沢城を落とす事は簡単だった。しかしそれだけはしたくない。安土城の自室に篭り、悩み頭を抱える明家。黒田官兵衛を呼んで相談した。官兵衛は答える。
「かの上杉謙信、そして徳川家康も叛旗を翻した者を許し再び幕僚に加えました。許された者は感涙して、より誠忠を誓うに至りました。佐久間に今こそ将はおりませぬが今後に生まれるかもしれませぬ。明日の柴田のために討伐は避けて恭順させるが肝要と存じます」
「官兵衛殿、佐久間勢は玉砕覚悟です。恭順させるに良き知恵がおありか?」
「それがしが使者となりましょう」
「し、しかしまた伊丹の時のような仕儀になれば……」
「その時は、息子の松寿丸(後の黒田長政)に当家を継がせ取り立てのほどを」
「承知しました。頼まれてくれますか」
「御意」
黒田官兵衛は供を連れて安土を発ち、琵琶湖と北ノ庄を経て金沢城に到着した。何としてもこの交渉は成功させるつもりだった。
柴田は日本最大勢力の大名だが黒田家は羽柴からの降将で新参者。ここで当主明家の望むとおり佐久間を恭順させられれば明家の信頼を勝ち得る。官兵衛は明家との昔の邂逅にあぐらをかく気はなかった。柴田家に仕えるからには明家の参謀として場所を得たいと思っていた。
確かに当主明家の智謀知略は自分を凌駕している。しかし自分には若い明家にはない経験と云うものがある。当主にはできない事も参謀なら出来る事もある。自分以上の智者の参謀になるに官兵衛が見出した意義はこれであった。官兵衛は金沢城の門番に言った。
「柴田美濃守が使者、黒田官兵衛にござる。虎姫殿にお取次ぎ願いたい」
門番は驚いた。黒田官兵衛と云えば賤ヶ岳の合戦で佐久間盛政を蹴散らす策を巡らせた謀将である。いつもなら追い返す門番だが、慌てふためいて評定の間にいる虎姫の元へ駆けた。
「姫、安土から使者にございます」
「会いませぬ、追い返して下さい」
評定の間で甲冑を着けて鎮座する虎姫。
「そ、それが使者は黒田官兵衛にございます!」
「黒田官兵衛ですって!?」
「姫! 黒田官兵衛と云えばお父上を賤ヶ岳で蹴散らす絵図を描いた男にございますぞ!」
部下たちがいきり立った。
「待ちなさい、黒田殿はどれだけ軍を?」
「そ、それが」
「どうしました?」
「たった一人です。しかも丸腰…」
「単身で丸腰とは佐久間に人なしと侮っての事ですか!」
虎姫は声を荒げる。しかし一呼吸置いて心を落ち着け言った。
「良いでしょう。お通ししなさい」
こうして黒田官兵衛は虎姫の待つ評定の間へと歩いた。官兵衛は城に入ってみると外で聞くより金沢城内の士気が案外乏しい事に気づく。篭城とは援軍をアテにしての戦法。金沢に来る援軍は誰もいない。玉砕の気概もそれをぶつける敵勢が目の前にいないので鼓舞のしようもない。
「黒田官兵衛孝高にございます」
「佐久間盛政が娘、虎にございます」
虎の周囲を見ると佐久間家の家臣はいるが母親の秋鶴がいない。それを察した虎が答えた。
「母は伏せております。父の死が堪えたようです」
「左様でございますか」
「黒田殿は大岩山に陣を張った父の軍勢を蹴散らしたそうですね」
「正確に言えば、それがしはその差配を執ったに過ぎません。実際に父君や叔父上殿(柴田勝政)の軍勢を蹴散らしたのは加藤や福島、片桐や糟屋の若い将校たちでございます」
「そうですか、とはいえ黒田殿は当家にとり仇敵。生きてこの城から出られるとでも?」
「仇敵とは困りましたな。我らとて結果は美濃守様の援軍に粉みじんにされ申した」
「…ならば何故、その美濃守様の走狗となりました?」
「それがし亡き旧主筑前守に美濃守に仕え、天下を統一し戦のない世を構築せよと命じられました。旧主の遺命もございますが、それがしは美濃守様ならそれが叶うと見たからにございます」
「……」
「亡き大殿、そして旧主筑前も願ったのは戦の無い世の到来にございまする。それはそれがしの大望でもございます。ゆえに私怨は捨て、それがしは美濃守様の家臣となったのでございます」
虎姫は何も言い返さず、官兵衛の言葉を聞いた。
「お父上、佐久間玄蕃殿が刑場に向かう前に美濃守様に言った言葉、ご息女の虎殿なら伝え聞いていましょう。『いつか戦の無い世を作れ』でございます。そのご息女である虎殿がお父上の最期の言葉を軽んじて主家に合戦を仕掛けようとしている。とんでもない不孝にございますぞ」
「だったら何だと言うのですか! このまま城を明け渡して美濃守様に頭を下げれば、父の玄蕃は未来永劫裏切り者として語り継がれ嘲りを受け続けましょう! このうえは私と遺臣たちが玉砕して鬼玄蕃の武勇これありと示すしか我ら佐久間家の面目を保つ術はないのです! 黒田殿は安土に帰り、美濃守様に金沢に攻めてこられよと伝えあれ!」
「恐れながら、かような玉砕をしても賤ヶ岳の失態に加え、無計画なご謀反で罪なき家臣を巻き添えにした玄蕃殿の汚名返上は不可能でございまする。むしろ余計に親も親なら娘も娘と罵られるだけ。評価するのはせいぜい物知らぬ判官ビイキのヤカラにござろう」
「なんですって!」
「しかし、生きてさえいればできる。私怨を捨てて柴田家の天下統一に尽力して、この世に安寧と秩序をもたらす事。もう合戦で家族を失い、弱き者が涙を落とさぬ世を作る事へ懸命に働く事が亡き父君の汚名を返す術にござる」
「……」
「一時の恥を耐えられよ。柴田に降伏し、そして協力し、共に繁栄していく事が佐久間家百年の大計にござらぬか」
この言葉に評定の間にいた佐久間遺臣たちは涙を流し、虎姫も肩を震わせた。
「虎…。ご使者殿の申すとおりです」
「母上…」
虎の母、佐久間盛政の妻の秋鶴が侍女に支えられてやってきた。
「佐久間の室、秋鶴にございます」
病身を叱咤して秋鶴は官兵衛に頭を垂れた。
「黒田官兵衛孝高にございます」
「ご使者殿のお言葉に従います。なにとぞ美濃守様にお取り成しを願います」
「承知いたしました」
金沢城降伏、この知らせに明家は歓喜して帰城してきた黒田官兵衛を出迎えた。
「よくやって下された官兵衛殿!」
城主の間で労いを受ける官兵衛。
「恐悦にございます」
「して、佐久間家は何と?」
「金沢城を明け渡す代わりに、安土に屋敷、そして畿内に今いる家臣たちを養っていけるだけの領地が望みにございます」
「ふむ、なるほど」
これはいささか望みすぎと言って良い要望であるが、斬刑直前、勝家や明家に盛政は悪びれず、堂々とした態度を執った。それが尚武の柴田諸将の心を動かし、盛政の妻子の助命と厚遇を願う声は明家に届いており受け入れられる要望であった。明家は快諾した。
「それと……」
「それと?」
「殿が虎姫殿を側室に迎える事が条件にございます」
「え?」
「ご母堂の秋鶴殿が言うには……」
「黒田殿、当家の望む物質的条件は以上です。しかし今後に柴田家へ誠忠を尽くすには美濃守様に是非聞いていただきたい願いがございます」
「なんでござろう」
「当家には佐久間の血を継ぐ男子がおりません」
「確かに」
「それゆえ、娘の虎を美濃守様の側室として迎えていただきたいのです」
「は?」
「母上!」
顔が真っ赤になる虎姫。
「いきなりそんな……!」
「亡き佐久間は安土へ出陣する前『虎が女童の頃から美濃を好いているのは知っている。オレのせいで虎は好いた男と敵味方になってしまう。さぞや怨まれるだろう。だが仕方がないのだ。もはや立たざるを得ないのだ。虎にはすまなく思う』そう申していました」
下をうつむく虎姫。父の盛政はすべて知っていた。少し涙が浮かぶ。虎姫は柴田明家と十歳の頃に会っている。小松城攻めで夫の盛政を救出した水沢隆広に母の秋鶴と共に礼を言いに行った。その時に見た隆広。以来ほのかな恋心を抱き現在に至る。あの日に隆広から贈られた金平糖。金平糖そのものはすぐに食べてしまったが、それを入れていたギヤマン(ガラス)の瓶を虎姫は今でも大切に持っているのである。ピカピカに磨いて自分の文机の上に置いてある。そしてそれをいつも嬉しそうに眺めている。その瓶の贈り主を妻から聞いていた盛政。色事に疎い彼でも娘が誰を想っているか分かる。その娘の想い人に叛旗を翻す彼の気持ちは今となっては知る由もない。
父の盛政の死を知った虎姫。さすがは鬼玄蕃の娘。その恋心を封印し、大切にしていたギヤマンの瓶を金槌で叩き割った。父の無念を晴らすため思慕する柴田明家と戦うつもりであった。だが虎姫は黒田官兵衛の説得により、生きて父の汚名を返上すると決めた。そのために不可欠と母の秋鶴が考えた事。それは
「佐久間の室として願う事は鬼玄蕃と智慧美濃の血を引く子を佐久間の当主とする事にございます。何とぞ黒田殿、この儀を美濃守様に」
佐久間家の総領娘の虎姫が柴田明家の側室となる事だった。官兵衛は虎姫をチラと見た。視線で『あなたは了承なのか』と訊ねている。
「黒田殿、私は美濃守様が暴君になったら、いつでも寝首を掻きます」
つまり了承と云う事である。最後に思わぬ難題を被ったが乗りかけた船だからやるしかない。
「と、云う次第でして……」
「困った事を受けてきましたな……」
頭を抱える明家。
「ですが殿、男子のいない佐久間家では無理らしからぬ要望と存ずる。加えて、ただでさえ謀反を起こした家、当主の側室となり、その子を得る事で信頼も得たいと玄蕃殿の奥方は思っているのでしょう」
と、奥村助右衛門。
「助右衛門……」
「佐久間の兵は亡き玄蕃殿の薫陶で精強、首席家老として虎殿の側室輿入れは賛成にございます。殿も大大名、どんどん子を成すのは一つの務めでございます。大殿様(勝家)、御袋様(お市)も色狂いとは受け取りますまい」
「しかし御台(さえ)が何と言うか……」
「そりゃあ怒りましょう。しかし御台様にも大人になってもらわねば我ら家臣一同困ります」
「そなた……御台の恐ろしさを知らぬからそんな事を……」
プッと吹き出す同じく愛妻家で有名な前田利家。
「すべて丸く収まる方法を何とか思案あれ。智慧美濃の異名が泣きますぞ」
「そんな事言ったって……」
「コホン、殿、それがしも奥村殿と同じく、男子のいない佐久間家では先の要望も致し方なしと存じます。徳川殿は側室十指、殿はすず様お一人、お家の中はともかく世間は何とも思いますまい」
そのお家の中が問題なんだ、と官兵衛に言いたかったが言えない。
「で、虎殿ご自身は何と言っていたのですか」
「『美濃守様が暴君となった時はいつでも寝首を掻く』と申されました」
「ほう……ずいぶん気の強い娘に育ったのですな。それがしは十歳ごろの虎殿の記憶しかないので」
「あの鬼玄蕃の娘にございますぞ」
「そうだよな……」
「先の返事は虎殿自身が殿の側室になる事を了承している証拠、恥をかかせますか」
「分かった。側室として迎え、大切にいたす」
ホッとする黒田官兵衛、役目を無事に遂行できた。
(さあ……問題はさえだが……)
しかし、この『男子のいない佐久間家ではその要望も致し方なし』と云う道理を明家が半ば認めた事が思わぬ副作用をもたらす。ほぼ同じ条件である小山田家もそれを要望してきたのである。
“殿と姫の子を小山田家の世継ぎにしたい”
小山田家家老の川口主水をカシラに投石部隊の面々すべてがそれを懇願してきた。抜け目なく事前に首席家老の奥村助右衛門に取り成しを頼んでもいた。安土の奥村屋敷を訪ねた投石部隊隊長の川口主水。
「いや急に訪ねてきて申し訳ござらぬ」
ちなみに小山田家は安土城と賤ヶ岳の戦いが認められ、五千貫と三万石の兵糧を得ていた。そして琵琶湖の湖畔に作った美田も正式に勝家から与えられていたのだ。
「殿に仕え、過分に遇され我らの暮らしも楽になり、いっそう殿のために働く気持ちを強めた我らにござるが……困った事が起こりまして」
「何でござろうか」
「いや、あの……」
顔が赤面してきた主水。
「……?」
「いや申してしまおう、ご家老、当家の月姫様を殿の側室にできまいか?」
「はあ?」
「安土の篭城戦の後からでござる。姫様は殿に恋をしたようで……」
「い、いや、かような事をそれがしに申されても……」
「殿が羽柴を見逃した後に大殿様に打たれ傷を負い、床に伏せる殿を看護したいと思いお屋敷に行っても……御台様とすず様に遠慮してそれもできず……毎晩かなわぬ恋に泣く姫様を見て我らもほとほと困り果てた次第でして……」
「とは申せ……殿は先に佐久間家の虎姫殿を側室にしたばかり。殿も御台様への説得は困難を極めたようで……」
「ですが……小山田家の総領娘である姫様には何としても若君を生んでいただかなくてはなりませぬ。これは我らにとってお家再興に繋がる悲願。しかし姫様は殿以外に身を委ねますまい……」
これは助右衛門も困った。側室になる事そのものが小山田家悲願のお家再興に繋がる。小山田投石部隊の戦闘力、そして高い新田開発能力。これを思うと柴田家の首席家老として無視するワケにもいかない。
「……分かり申した、何とかそれがしなりに取り成しをしましょう」
「おお、ありがたい!」
虎姫を側室にして間もなかった明家は、とんでもないと固辞したが、小山田家一同の懇願に根負けして月姫を側室として迎えると約束したのである。
正室のさえはこれを伝え聞いて激怒。しかし首席家老の奥村助右衛門に小山田家の再興の悲願を叶わせ、いっそうの働きを望むために、と言われては柴田家の御台として飲まざるを得なかったのだ。奥村助右衛門の説得に折れた日、息子の竜之介と養女のお福は母のさえに近づけなかったと云う。
側室を迎える事は当時何ら不道徳ではない。明家に比肩する愛妻家である前田利家とて何人もの側室がいるのである。
だが他の武将の側室たちと大きく異なる事がある。すずもそうだったが、虎姫と月姫も明家を好いているうえで側室となった。他の武将の場合はお家の事情や政略的な事で側室を迎えるのが大方で、男女の情などは後でついてきたものだ。
しかし虎姫と月姫はのっけから明家を思慕したうえで側室となったのだ。正室さえの胸中は煮えくり返っていたに違いない。ある夜だった。安土城で政務を終えた明家が自室に戻り、そしてその後にさえを求めた。さえは固辞した。
「昨夜、虎殿を抱かれたのでしょう。触れられたくございません」
「え……?」
「殿はずるい……。柴田家の御台として私が飲まざるを得ない事で虎殿と月殿を側室にいたしました」
「…………」
「殿は……さえが自分以外の殿方に入れ替わり身を委ねたら愉快ですか?」
「さえ……」
「すずはいい。殿の命の恩人ですし、今では私とも良き友。でも虎殿と月殿はけして認めません。どんな事情があったとしても殿はさえを裏切ったのです」
「…………」
「おやすみなさいませ」
夫の顔を見ようともせず自分の寝室に入ってしまったさえ。明家は頭を掻いてため息をついた。明家とさえ、夫婦喧嘩は今までもたまにあったが、今回は根が深そうだった。
第二章『大名の正室として』に続く。