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ちしきよく。

雑多系ブログ。みなさんの「何かを知りたい!」という欲を叶えましょう。

先入観や偏見に囚われないことの難しさよ

言語・言語学


あとで読む

絶賛テス勉中のぜーたです。3日以上途切れさせると更新意欲がなくなると聞いてるので、こうやって書いてます。あーもうメンドクセ。常体だ。

 

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今日は、「人間がいかに先入観・偏見から逃れるのが難しいか」について語っていこうと思う。このブログではつねづねそういうものを排除しようねー!と言ってはいるが、私とてちゃんと排除できている自信はない。いや、違う。排除できてない自信がある。自信満々である。

 

 

物理的な先入観―錯視―

ココロの話についてする前に、まずは人間の脳が、いかに間違いを起こしやすいかを示しておこう。

下の画像をご覧いただきたい。

 

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何の変哲もない画像であるが、

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今線で囲んだ2つの四角形のタイルについて、その二つが同じ色だと言われて、納得できる人はいるだろうか。

恐らくいないであろうが、実際にこの二つは同じ色である。画像編集ソフトか何かで、両者の色をスポイトで吸い取り、別のところに移動させてみてほしい。

実際にやってみたのが下の図だ。

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全く同じ色である。どうしても信じられない人は自分でもやってみてほしい。

 

というのは結構有名な錯視(実際にはそうでないのに、そうであると思い込んで見てしまうこと、またはその逆)なのだが、これは人間の脳の作用によるものである。

 

白い部分と黒い部分が規則的に並んでおり、その規則を強く意識するがゆえ、同じ色に見えないのだ。

他にも、冒頭で挙げたような画像……

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についても同じことが言えて、白い十字路の真ん中に、あるはずのない黒い点が見えてしまう。これも錯視の一つであり、ヘルマン格子と呼ばれている。興味がある人は調べてみてほしい。

いずれも、人間の脳というのはこんなにも騙されやすいのだ、ということが実感できるであろう。

 

これと同じことは聴覚にも当てはまる。

www.youtube.com

Shepard Toneと呼ばれる音であるが、日本語にすれば「無限音階」であろうか。

スーパーマリオ64の無限階段の音楽に使われており、思い出(トラウマともいう)が蘇る人も多いだろう。

こっちはより不気味なため、視聴注意だ。

www.youtube.com

 

理論の詳しい説明については割愛するが、視覚と同じような効果が働いていることがわかるだろう。差し詰め「錯聴」とでも呼ぶことにしよう。錯聴も脳の誤作動が原因で起こっているとされている。

 

もっと言えば、味覚の分野でも同じことが起こっている。

有名な話でいえば、「かき氷のシロップは全部同じ味(いわば砂糖液)だが、香料で違うように見せかけている」というもの。これは実際にやってみたから実感できる。

鼻をつまんで飲むと、まったく違いがわからない。

 

 

以前テレビでやっていたのは、どこかの大学の味覚センサーの研究のことだったか、「たくあんを細かく刻んで、牛乳と混ぜて温めて飲む」と、なんと「コーンポタージュ」になるというのだ。

目をつぶって飲ませたところ、全員が「コーンポタージュ」だと答えた。

 

そしてその理由を例のセンサーを用いて分析したところ、牛乳&たくあんの液と、コーンポタージュがほとんど同じ味覚を人の舌にもたらすことがわかった、と。

他にも、キュウリにはちみつをかけて食べるとメロンになるだの、プリンに醤油をたらしてウニだの、到底信じられないような味覚の錯覚が起こってしまう。

 

人間の脳というのは、それほどまでに「弱い」ものなのである。

www.chishikiyoku.com

というのは、私も年末に怖いほどに実感したことであり、この記事を読んでもらえばだいたいのことはわかると思う。

 

脳がいかに思い込み(エラー)をしやすいか、というのは科学で明らかになっていて、それについて研究する学問もあるほどであるが、どうして思い込むのかについてはまだ明らかにされていない部分も多い。謎が多いのである。

そういう前提の上で、これからの話を読み進めていただきたい。

 

概念上の錯覚

我々は思考に言葉を使う。いきなり難しくなった、なんて驚かないでほしい。

考えるためには言葉(言語)が必要である、というだけの話である。

他の全ての動物が思考言語を持たないという仮説は証明のしようがないが、恐らくこれは事実だと思う。

 

そして同時に、どうして人間がこんなにも進化できたのかと聞かれれば、それは恐らく、「言葉を非常に高度に使いこなすことができたから」と言えよう。

(一応、「手の発達と脳の発達が車の両輪のように進んだから」ともいえるが、脳の発達が言語を操る能力を高めたのだから、答えとしては同義である)

 

その中でも最も大きな功績は「抽象化」すなわち「概念を操る能力を得た」ことである。だが、こんな風に難しく言わなくても伝わるのだ。

 

「花」を描いてみてほしい。

 

と言われれば、皆さんはどういう花を描くだろうか。

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おそらくこういう感じの花を描くのではないだろうか。

そこでこう尋ねてみよう。

 

それは何の花ですか、と。

 

恐らく98%の人間は答えに窮するのではなかろうか。なぜなら、皆さんが書いたのは「概念としての花」だからである。

ここでいう「概念としての花」とは「具象化できない(目に見える形にできない)花」という意味ではなく、「それぞれの花がもつ特徴をまとめた、『花の共通項』としての花」である。

 

これと同じことを、我々は日常でやってのけている。そうしないと話がとてもとても長くなってしまう。

 

もし我々が抽象化をできないのであれば、日常会話はこうなるに違いない。

 

「あれ、本がなくなった」

「本って……どの本?」

「青い本」

「青くて……どんな本?」

「青くて、縦17.1センチ、横10.6センチの本」

「えーと、題名は?」

「『哲学史入門』」

「あーそれはね、トイレにあったよ」

「トイレって和式?洋式?」

 

※そもそも、縦とか横とか哲学とか入門という言葉が抽象であるから、そもそもこんな風にはなりえないのだが……てかトイレで読むな。

 

だが、ここで気を付けなければならないのは、

概念になった「本」は、個性を失っている

という事実である。

 

煩わしいのでもう一度実例を出してみる。

 

cocoronext.com

 

この記事についてである。たまたま目に引っかかったので読んでみた。

私も都市部に住んでいますが、確かに、道で誰かとすれ違っても目線を合わせることはほぼありませんし、隣近所の方でさえも、基本的には挨拶を交わす程度の関係です。

このような有様を見て、地方の人々が都市部の人間を「冷たい人たちだ」と評する気持ちも分からないではありません。しかし実際は、都会だろうが田舎だろうが、本当に冷たい人もいれば、人情に厚い温かい人たちもいます。

 という前置きはありながらも、あとはすべて

ではなぜ、都会の人間はより「冷たい」というイメージを持たれやすいのでしょうか。

という部分の理由説明に充てられている。

 

 

私自身、こういう一面だけ見てからの記事についてあまり快く思わないタイプだ。たとえ理由の分析があったとしても「なんかなぁ」と思ってしまう。

恐らく、「都会人=冷たい」というイメージについて、そんなに同感じゃないのが大きいのだろう。その話は後日しよう。

(じゃあ読むなという反論はNG)

 

そして、この記事の冒頭でも書かれているように、「田舎人でも冷たい人はいるし、都会人でも冷たい人はいる」のだが、残念ながら「田舎人」「都会人」という言葉を使った時点で、そのそれぞれ個人がもつ個性は打ち消され、「都会人」という概念の共通認識だけが残ってしまう。

 

それはちょうど、さっき「花を描いてください」と言われ、何の花かわからない花を皆さんが描くようなもので、いろんな花をまとめて「花」と呼んだ時点で、もともとの花たちのそれぞれの特徴はなくなる。

 

これについてはやはりしょうがない面がある。先ほども書いたように、ある種の抽象化を経ずに日常を送ったり、思考したりすることはとても困難だからだ。

 

だが、この抽象化によって生まれてくるものが「錯覚」だというのは、おのおの肝に銘じてもいい気がする。

 

 

これについて異論はないだろう。我々はこういう抽象化、言い換えれば錯覚を毎日のようにしている。

 

「はてな民は手厳しい」

「2ちゃんねらーは陰湿だ」

「ツイッター民はアホだ」

「心理学者は人を騙すのが上手い」

「詐欺師は意地悪だ」

「体育教師は熱血で情に篤い」

「数学者は変人だ」

 

皆、そういう感想を抱きながら生きている。が、個人をまとめ、ある一つの言葉で表した(=抽象化した)時点で、元のイメージたちがすっかり消え去ることについて、意識するものはほとんどいない。

現に、さっきの記事の著者さんであるが、

cocoronext.com

こういう記事も書いておられる。それくらいに「錯覚」の効果について詳しい人間であっても、やはり「都会人=冷たい」という感想を抱くのである。

訂正、

「都会人=冷たい」という感想を『人々』が抱いている

という錯覚をしているのである。

 

人々とかみんなという言葉でくくった時点で、それぞれの個性は霧散し、みんなという便利な言葉の万能な属性が味方につくことになる。事実が何であれ「人々」とか「みんな」という言葉さえ使えば、コトが単純になってあたかも真実であるかのように錯覚してしまう。

 

科学的なアプローチをとる場合は、統計が必要になる。「人々」「みんな」とはいうが、だいたいどれくらいの人がそう思っているのか。今回の例でいえば、「何人中何人が『都会人は冷たい』と思っているのか」という統計である。

 

だが、そこまでする人もいない。

めんどくさいから。

 

人間は面倒臭がり屋である。私のブログだって結構、便利な『みんな』『人々』と使っている。『はてな民は手厳しい』という一方で、『チェーンソー事件をみんながアホの一言で終わらせている』なんて言う。まあめんどくさいのもあるし、何より、いちいち統計なんて取ってたら記事が書けない。

 

錯覚が生む先入観、偏見

もっとやっかいなのは、錯覚が先入観、偏見を生み出すという点である。

「はてな民はみんな手厳しいよ、コメント辛辣だよ」と聞けば、実際に全てのはてな民が手厳しくてコメントが辛辣じゃないのが事実なのに、まさしくそうであるかのように感じてしまう。はてなブログを始めようと思う人は少し尻込みしてしまうだろう。

それがいわば「偏見」とか「先入観」である。

だが、人間が言葉を使う限り、言い換えれば人間が抽象化を行う限り、錯覚はなくならない。結果として、偏見とか先入観もなくならない。残念だが。

 

「次の担当の方は元警察官だそうですよ」と聞けば、おのおのが警察官に対するイメージで以って彼に接することになるだろうし、そもそも警察官が必ず男なんて誰が決めた!

「あいつ同性愛らしいよ」と聞けば、接し方が変わる人もいるだろう。

「田舎人は陰湿である」と聞けば、田舎出身の友人に少し遠慮してしまうかもしれない。

 

というように、我々の周りにはこんなにも先入観や偏見があるのである。それは言葉を抽象化したことの代償であり、その代わりとして人間は便利さを手に入れた。

よって、徹底的に先入観・偏見をなくそうと思えば、便利さを失うか、データを用いて科学的に考察するしかないのだが、そのどちらもはっきり言って面倒である。

 

だから、せめてコトバを使うときは、そこに切り捨てられる個性がある、ということを意識しておきたいものだ。