今晩は、お元気でお過ごしでしょうか。
今日も沢山の御訪問ありがとうございます。
庭に福寿草が咲きました。今年は、暖冬ですね、こんなに早く咲くなんて初めてです。
昨日、行った戸隠「森林囃子温泉」です。家から車で5分くらいの場所にあります。
幼い時に、自分のうんこが、ぼっとん便所に落ちると、不安でした。
「さっきまで僕だった。僕のうんこ、かわいそう。どうなるんだろう。死んじゃうの?」
そんな事を想い、怖くて悲しくなりました。
どこまでが「僕」ですか?僕から離れたら誰になるの?どうなるの?
怖くて、布団の中で泣きました。(笑い)
最近、「非2元」についての質問を頂きます。
非2元、「2元ではない、一つでもない」と言うようです。
最近、神秘体験、見性経験、などをする人が多くなったようです。
その経験は人それぞれで、全く同じ経験をする人はいないようです。
「総ては愛に包まれていた」「完全に「無」でした」
「総ては光でした」「自分がありませんでした」など様々ですが、
共通する事は「自分が無い」「総ては一つ」「全部が幻想」
「分離がない」「自由意思は無く、起きる事が起きてる」等でしょうか。
これらの事は、今に言われ出した事ではありません。
釈迦出現 以前から、言われていたもので、多くの聖者や仙人達が
「非想非非想、無処有処、識無辺処、空無辺処」なの名で語られて
いました。その時代や人によって名称や表現が異なるようです。
私が40年前に、お会いした老人も同じような事を言っていました。
ある人は、「自分が無い」「自由は無い」等と言われると、
虚無感に囚われて、じゃぁ、なんの為に生きているのか?
生きてる意味が無いよ。と言い、落ち込んでしまう人も居ます。
確かに、非2元は「非人間」と以前に言いましたが、
人間らしさはありませんね。
しかし、その方が、腑に落ちて安心する、私のような人も居るし、
「人間には自由意思が有り、何でも創造出来るのだ。」と言う方が
人生楽しい、やる気が出る。と言う人も居ます。
しかし、実はこれは、同じ事なんですね。つまり、
「自分が無い」と言う事は、逆に言えば「全部が自分である」と言う事だし、
「自由が無い」と言っても、結局、次の瞬間にどうなるかは
誰も分からない訳で、自由が有ろうが、自由が無かろうが、関係なく
自分が「思ったままにやればいい」だけです。
自分のラクな方を選べばいい訳で、あるいは、都合の良い所だけ
選べばいいのです。自分にシックリ来るものを大切にする事ですね。
そのうち、また、変化して来ますよ。
今、非2元と言っている人達も10年、20年、30年、経つと
どうなってるか分からないですよ。
全然違う事を言ってるかも知れません。
それは分かりません。無明ですね。
本日も沢山の御訪問ありがとうございました。
またお会いしましょう。
(*^o^)乂(^-^*)。
九八☆彡