天地燃ゆ

第九部『松永弾正久秀』

第一章『大和凶変』


「父上……主人隆広をお守りください……」
 今日もさえは父の朝倉景鏡の鎧兜と陣羽織に手を合わせていた。まだ味方勝利、味方敗北いずれの報も北ノ庄にもたらされてはいない。隆広が主君勝家と共に北ノ庄を出陣してから二ヶ月が過ぎようとしていた。その隣で侍女の八重も祈っていた。
「景鏡殿……。貴方にとっては自慢の婿のはずです! 冥府からしっかり守るのよ!」
 弟の霊を叱咤し、加護を願う八重。ここ数日、さえは心配のあまり食事も喉に通らない時もあった。自分も戦国武将だった吉村監物の妻。主君であり姪のさえの気持ちが痛いほどに分かった。そのさえは父の霊にひたすら願った。
「お前さま……ご無事で……!」
「姫様―ッ!」
「監物?」
「ハアハア……お味方、帰路につかれておるとの事です!」
「本当ですか!」
「く、詳しくは城で中村文荷斎様と共に留守を預かる倅が…」
 よほど早く『帰路についた』と云う事を知らせたかったのだろう。監物は走った疲れでゼエゼエ言っていた。
「さえ姫様!」
 吉村直賢がやってきた。
「直賢殿! お味方勝利なのですね!」
「いえ、肝心の謙信公とは引き分けのようです。今のところ入ってきたお味方の情報を述べさせていただきます」
「お願いします!」
「ハッ まず湊川(手取川)渡河直後に能登七尾城が上杉により陥落したとの報が入り、勝家様は退却を決断。しかしそこに門徒三万五千が攻め込んでくると云う知らせが入ったよし。背後に増水した湊川、西に謙信公、南に門徒、絶体絶命の危機に陥ったそうですが、殿が上杉への殿軍を志願し、水沢軍以外の軍勢が門徒に当たり、殿の隊二千が上杉三万に対したそうです」
「う、上杉三万に、殿様の手勢だけで?」
 監物が驚くのは無理がない。当時の上杉軍は戦国最強と言われていた。それを寡兵で対せるはずがない。
「そ、それで夫は? た、隆広様は?」
「はい、前もって用意してあった武田軍の軍装を身につけて突撃。殿は謙信公と一太刀打ち合い上杉陣を突破! 殿軍の役を見事に成し遂げる大活躍! しかも一兵も失わずに!」
 さえの瞳から涙がドバと出てきた。
「ホ、ホントに!」
「はい! 殿はその後に合流した勝家様にお褒めのお言葉をいただき! 今回の合戦における勲功一位と相成り! 士分も部将に昇格との事!」
「姫様! 聞かれましたか!」
 さえは着物の前掛けで涙を拭きながら八重の言葉に何度もうなずいた。
「さすがは姫の婿じゃあ! よもや謙信公に一太刀とは!」
 監物も涙が止まらなかった。
「弥吉(直賢の幼名)、お味方の着はいつごろに?」
「はい母上、明日にでも!」
「こうしてはいられませんよ姫! すぐにご馳走を仕入れないと!」
「うん!」

 翌日に柴田軍は北ノ庄城に到着した。凱旋時には勝家の隊と合流していた水沢軍。
 北ノ庄城の領民にも隆広が武田信玄の軍装で上杉本陣に突撃をして突破したと知れ渡っていた。まさに痛快と云える撤退戦。まして一兵も失う事もなかったと云う快挙は領民をしびれさせた。北ノ庄城下町の領民たちは隆広の部隊を見て歓呼し、若い娘たちなどは隆広の姿を見て気持ちが高ぶったか失神者が続出した。
 何の実りもなかった出兵ゆえに、引き分けと云うより敗北に近い合戦であったが、この快挙で得られた越前の民の支持は何にも変えられなかった。水沢軍は織田の部隊で唯一、軍神謙信と直接対決をした軍団である。しかも一歩も引けを取らなかった。領民が水沢軍を歓呼する声はとうぶんやまなかった。

 現在、上杉軍と水沢軍が激突した場所は古戦場として公園になっている。そして『上杉謙信、水沢隆広一騎打ちの地』には武田信玄の鎧姿で隆広が太刀を振りかざし、上杉謙信が軍配を上げている両雄の像があり、今日も戦国時代の映画や大河ドラマでも屈指の名場面として両雄の一騎打ちは人々に愛されている。隆広を演じるのはその当時の若手一番の役者が選ばれるが、この場面の撮影の時は胸が歓喜に震えると云う。
 また上杉謙信。彼が主人公の小説やドラマにおいては、この隆広との一騎打ちで締めくくられている事が多い。信玄との川中島合戦の一騎打ちが謙信の物語中盤のヤマ場とするなら、隆広との一騎打ちは物語の最後を飾る場面である。謙信主人公の小説は『天と地と』が有名であるが、作者の海音寺潮五郎は水沢隆広をそれは雄々しく書いている。
 また武田信玄の本拠地である甲斐の国の人々にも隆広の痛快な撤退戦は愛され、石和温泉駅の前には、信玄の鎧姿の水沢隆広騎馬像があり、上杉謙信本拠地だった越後(新潟県)の直江津駅前にも、両雄の一騎打ち像がある。隆広は敵地の人々にも愛される武将として現在も語り継がれているのである。

 隆広は最初に得た三百の兵に約束した。“オレには金がない。与えられるものは何もない。だが必ずやそなたらに武士の誇りを与えられる大将になる”
 それを彼は果たしたのである。隆広の兵は北ノ庄領民にも嫌われた問題児集団。裏切り者村重の敗残兵と笑われた若者たち。それらが核となっている。領民の喝采をあびる“男の花道”を歩む時の気持ちは感無量だったろう。
 城に到着し、錬兵場で勝家から軍団解散が告げられ、ここでようやく隆広の手取川の合戦は終わった。勲功一位、さすがの佐久間盛政、佐々成政、柴田勝豊も認めるしかない大手柄だった。後日に改めて論功行賞はあるが、ここは解散となった。隆広は別れを惜しむ明智光秀や丹羽長秀、滝川一益と握手を交わした後、自宅に駆けた。
「さえ―ッ!」
 さえは玄関先で今か今かと夫の帰宅を待っていた。そして夫が自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
「お前さま―ッ」
「さえ―ッ!」
 二人は二ヶ月ぶりの再会、そしてさえは夫の無事の喜びを体で表すかのように、夫の胸に飛び込んでいった。ギュウと抱き合う二人。そして『ぶちゅう』と云う音が聞こえてきそうな熱い口付けをかわす。邪魔しないように監物と八重は隠れていたが、目のやり場に困り果てていた。
「さあ! ご馳走ができています!」
「それはさえの事か?」
「んもう! まださえはお預けです!」
「早くさえを食べたいよ〜。二ヶ月もお預けしたんだから〜」
「んもう! 助平!」
「聞いているこっちが恥ずかしくなってくるのォ…八重」
「何を言っているのです。私たち夫婦だって新婚当時ああでしたよ」
「そうだったかのォ?」
「直賢が生まれて少し落ち着きましたけれど……姫と殿様は子が生まれても、さらにお熱くなりそうね。さ、お前さま、殿様を出迎えましょう」
 家族たちとの久しぶりの夕餉。隆広の好物ばかり並べてあった。愛妻の手料理を美味しそうに食べる隆広。そしてそれを微笑んで見るさえ。空腹を満足させると共に風呂に入り、やがて閨へ。
 毎日妻とこんな生活ができたらなと隆広は思う。さえもそうだろう。しかし、彼は今や柴田の部将。陪臣とは云え時に万の手勢を持つ事が許される大将である。しかも行政官を兼務している。どう時間をやりくりしても留守の方が多くなってしまう。だからこそ二人の時間はとても熱いのだろう。そして、やはり今回の二人の時間も短かった。

 隆広が北ノ庄城に戻ってほどなく、掘割が無事に完成した。隆広の留守中にも工事は進められていたのである。
 掘割の開通式と高瀬舟の着水式は同時に行われる。北ノ庄の財源の要所となる掘割の完成式典のため、柴田勝家と市の夫婦も出席する。その式典の準備を隆広と三成は行っていた。円滑に隆広が人足たちに指示を与えていた。
「ここがいい。ここが一番着水や開通の様子が見る事ができる。殿と奥方様、姫様三人の席はここにする。陣幕じゃ物々しいから、茶の野点のような、のどかで、かつ見晴らしの良い席を作ってくれ」
「ハッ」
「茶々姫様、初姫様、江与姫様は好奇心旺盛の姫様たちだ。高瀬舟に乗せろと言われるだろう。一艘カラの高瀬舟を用意して姫様たちが乗るに相応しい花なども飾っておいてほしい。船頭も一番の腕前の者を頼む」
「かしこまいりました!」
「隆広様―ッ!」
「おう佐吉」
「各水門、いつでも準備できています」
「よし、水量と流れの速さを見分する。南北の水門を開放せよ」
「は!」
 三成は水門に駆けていった。
「お前さま―ッ!」
「んお! さえと伊呂波殿ではないか」
「伊呂波さんから今日、試験的に水門を開けると聞きましたので」
「ははは、佐吉は自分の仕事の成果を伊呂波殿に見せたいらしいな」
「はい、それは昨日嬉しそうに言っていましたから!」

「南水門開放―ッ!」
「北水門開放―ッ!」

 ザパァン!

 引水した九頭竜川の水が一斉に北ノ庄の城下町に流れた。
「「おおお―ッ!」」
 堀の周りにいた領民たちが驚きと歓呼の声をあげた。特に子供たちのはしゃぎようはすごかった。
「お父ちゃん! お魚、お魚! あれなんていうお魚!?」
「ん? あれはサバだ」
「バカだね、お前さん! どうして川から水引いたのにサバがいるんだよ!」
「う、うるさいな! じゃあお前分かるのか!」
「当然! あれはスズキだよう!」

「両方とも海の魚じゃないのか?」
「クスクス……だめですよ殿様、家族の楽しい会話なのですから!」
 隆広の小さな突っ込みに笑う伊呂波。
「隆広様―ッ! お、伊呂波も着ていたか!」
「はい! お前さまの仕事を見たくて!」
「そうかそうか!」
「で、お前さま、あのお魚は?」
「ん? おおあれはスズキだ!」
 隆広とさえはドッと笑った。
「あ、お前さま! 鯉もいますよ!」
 掘割の橋の上で二組の夫婦が水面に移る自然の情景に見ほれていた。
「よし、佐吉。水量も流れも申し分ない。一旦水門を閉めて水を抜いてくれ。明日の式典で再開放だ」
「は!」
 隆広は橋の上から領民に言った。
「皆さん! 今のは試験的な水門解放なので一旦閉じます。しかし掘割に流れてきた魚はそのままとなるでしょう。打ち上げられた魚をそのまま日干しにするのは惜しい。数の許す限り持ってかえって下さい」
「「おお!」」
「助かります〜。ウチの亭主がバクチでスッて家計火の車だったんです〜」
 と、さっき川魚をスズキと言った女。
「余計な事言うな! いや〜助かりました! ありがとう隆広さん!」

 民を思う夫をさえがウットリして見ていた時だった。
「水沢様―ッ!」
「ん……?」
「お前さま、あれはお城の……」
「水沢様、殿がお呼びにございます」
「分かった、すぐ行く」
「お前さま、いってらっしゃい」
「ああ行ってくる。あ、さえと伊呂波殿は魚取っちゃダメだぞ。こういう偶然の天の恵みは民に譲るものだからな」
「わ、分かっています! んもう」
「伊呂波殿、佐吉には引き続き明日の式典の準備をするよう伝えておいて下さい」
「かしこまいりました」
 隆広は城に向かった。さえは掘割の底に打ち上げられていた魚を見た。
「でも……残念だなァ……。見てよ伊呂波さん、あの岩魚とても美味しそう……」
「……もしかして拾いに行くつもり……だったのですか?」
「と、と、と、とんでもありません! 夫の言うとおり民に譲るのが道です!」
(……行くつもりだったのですね……。実は私もなんですが)
 伊呂波はクスリと笑った。

「水沢隆広、お召しと聞きまかりこしました」
「入れ」
「ハッ」
 ここは北ノ庄城の城主の間。勝家は書状を持っていた。
「うむ、呼び出したのは他でもない」
「はい」
「そなた、大和に赴け」
「は?」
「松永弾正を知っているだろう」
「はい」
「ヤツめ……。とうとう大殿にキバを剥いたわ」
「え!」
「もはや三度目の謀反。さすがに大殿も今回は寛大な処置はとらなかった。人質の童二人、斬刑に処した。愚かな男よ、大和一国で叛旗を翻したとて成功するワケがなかろうに」
「……たぶん上杉の動きに呼応するつもりだったのでしょう。上杉が畿内に突入したに合わせて安土へ急襲するはずが謙信公は加賀から撤退。アテが外れたとはいえ今さら矛は収めても大殿が許すはずもありません。もしくは……昨年に多聞山城を大殿に明け渡して信貴山城へ退去したにも関わらず、大殿に大和守護を任じられた筒井順慶様により多聞山城は破却と相成りました。これを恨んだのか……いずれにせよ弾正殿しか知らぬ事です」
「ふむ……」
「松永殿に対するは織田方の将は…」
「ふむ、総大将は若殿の信忠様じゃ。補佐は羽柴、明智、丹羽、佐久間信盛だ。信貴山城の西、破却した多聞山城の跡地に本陣を構え、各諸将はそこで集結し出陣と相成る」
「そうそうたる顔ぶれですね」
「ふむ、そして柴田からは新たに部将になったお前が出ろと大殿からの命令じゃ」
「え……! では明日の掘割完成の式典は……!」
「佐吉、いや今は三成であったな。あやつも今では足軽大将、お前の名代として大丈夫だろう。三成を式典に当たらせよ。無論ワシも市も姫も出席するゆえヤツの顔はつぶさぬ、大丈夫じゃ。そなたは出陣の準備にあたれ」
「はい!」
「ふむ、では才蔵を副将として与えるから二日後には多聞山城に出陣せよ!」
「ハハッ!」

 隆広は三成に式典の事を頼み、助右衛門に軍務を任せ一度帰宅した。玄関でワラジを脱ぎながら妻に出陣する事を伝えた。
「また戦にございますか?」
 驚くさえ。上杉からの戦いから帰って来てまだ一週間しか経っていないから無理もない。
「うん、今度は大和の国。謀反を起こした松永弾正殿を倒す」
「そんな…また一ヶ月くらいお留守に? さえは寂しゅうございます……ぐすっ」
「ごめんな、さえ。オレもずっと一緒にいたい。一年中一日中、ずっとお前とイチャイチャできたらどんなにいいだろうと……そればかり思うよ」
「さえも……」
「さえ、オレはさえが思っているよりもずっと……さえに夢中なんだ」
 隆広の言葉に顔を赤らめ、さえも答えた。
「さえも……お前さまが思っているよりもずっと……お前さまに夢中なのです……」
 隆広はさえの手をにぎり、そして抱き寄せ、くちびるを近づけると……

「コホン」
 ぴったり寄り添っていた隆広とさえが慌てて離れた。
「け、慶次!」
「まったく玄関先で何をイチャついておるのです」
「い、いや……」
「は、恥ずかしい……!」
 さえは恥ずかしくなって両手で真っ赤になった顔を押さえながら屋敷に入ってしまった。
「いやいや、初々しいですな『は、恥ずかしい……!』とは何とも愛らしい」
「何用か」
「イチャついているトコを邪魔されたからといってそう睨まず。可児様も一緒です」
「え!」
「まったく……目のやり場に困らせてくれるな」
「い、いや……あはははは」
「ところで隆広、そなた軍務を助右衛門に任せて女房とイチャつくために帰ってきたのか?」
「と、とんでもない。地図を取りに帰ってきたのです」
「地図?」
「はい、養父と共に畿内は歩きましたので……その地その地に行くたびに簡単に地形や道は記録したのです。越前からの大和路までの進軍経路もそれで算出しようかと。その地図を持って、助右衛門や慶次と合流して可児様の屋敷を訪ねるつもりだったのですが……あはは、マズいトコを」
 そういえば伊丹城への進軍のとき、隆広がすぐに進軍経路を決定した事を慶次は思い出した。
「なるほど、そういう虎の巻を持っていたのですか」
「うん、これから助右衛門に使いを出してここに来てもらおう。ついでだから我が家で進軍経路や他の軍務について話そう。可児様もそれで良いですか?」
「ああ、かまわない」
「ではお上がりを。さえ―ッ! 四人分の要談の準備を!」
「あ、は―い!」

 しばらくすると奥村助右衛門も隆広の屋敷にやってきて、今回の出陣の軍議を開いた。
「と云うわけで……琵琶湖の東側の木之本街道を南下して、小谷、佐和山、日野、伊賀上野、大和郡山を経て多聞山城に到着する。これで宜しいかな?」
 隆広の持つ扇子が地図上を走る。才蔵はアゴを撫でながらフンフンと頷いた。
「異存ない。日程はどれほどを考えている?」
「はい、金ヶ崎、小谷、佐和山、日野、伊賀上野、大和郡山を野営地と考えておりますから、およそ六日間の行軍です。兵糧はすでに十分押さえておりますし、軍費も大殿と殿からのを合わせて三千貫確保してあります」
「うむ。して隆広、我ら可児隊が千五百、その方らは?」
「それがしの兵と、殿と金森様、文荷斎様の兵を借りまして三千五百です。それで可児様の合わせちょうど五千の進軍です。一向宗門徒の動きも微妙ですから府中衆からは出兵できないようですし……」
「佐久間様は相変わらずか……」
「……はい。お願いしてみたのですが……」
「僭越ながら隆広様がお嫌いと云う理由で兵の貸付依頼を断るのならば、それがしが、と思ったのですがやはりそれでもダメでした」
 と、助右衛門。
「困ったものよなァ…佐久間様の隆広嫌いは。明智様や羽柴様は八千から一万と聞いている…。柴田としてもそれくらいの数がないと他の諸将に示しがつかぬのに」
「まあまあ可児様、その足りない兵士の分、我ら柴田家の槍自慢三傑が踏ん張れば良いだけの事です」
「そうだな」
 慶次の楽観的な意見に才蔵は笑って頷いた。

「ところで隆広様」
「なんだ助右衛門」
「隆広様が最初に預けられた三百の兵の中で、矩三郎、幸之助、紀二郎は合戦や内政土木でも働きが目覚しゅうございます。それがしや慶次も彼らには安心して指示も出せていますし、兵の統括も最近は堂に入っています。おそらく最初に主君と槍を交えたという誇りがそうさせているのでしょう。兵士の鼓舞も含め、明日の出陣前に役と名を与えてはいかがでしょう。部将ならば部下の昇格の判断も認められておりまする。それがし、慶次、佐吉も足軽大将になった事ですし、他の足軽たちも手柄次第でと感奮するかと!」
「そりゃあいい考えだ助右衛門、隆広様、オレも異存はございませぬ」
「うん! 彼ら三人の働きはもはや組頭に相応しい。明日の出陣に先立ち、彼らを足軽組頭に任命して名も与える。実はもう名前は決めてあるのだ」
「用意がいいな」
 才蔵、助右衛門、慶次は笑った。
「よし、出陣前の大まかな陣容は決まった。あとの陣立てや作戦は大和についてからだ」
「ハッ」
「ではメシにしよう。さえ―ッ! 四人分のメシと酒だ―ッ!」
「は―い!」

 兵農分離の最たる効果は出陣が決まったら一日か二日で兵が揃う点にある。隆広の手勢や、借り受けた兵、そして可児隊の兵はすぐに召集に応じ、錬兵場に揃った。
 掘割の完成式典を横に、隆広たちは円滑に隊編成を進め、明朝の出陣準備を終えた。
 石田三成が主宰を務めた北ノ庄城掘割の完成式典は無事成功をおさめ、勝家と市を喜ばせた。三人の姫は舟に乗り、城下町に張り巡らされた水路を舟でスイスイ進むのに大喜びだった。
 また大和遠征であるが、三成は留守居となった。導入間もない水運流通の指揮を執るためである。また隆広と三成は高瀬舟で物資だけではなく人を運ぶ定期舟の導入も考えていた。それを北ノ庄を空ける隆広に代わり実行するためであった。

 出陣を明日に控えた夜、隆広とさえの寝所。出陣前に妻は抱かないと云う理はこの夫婦には存在しない。しばらくの別れを惜しむように、抱き合った。
「明日また……出陣ですね」
「うん。ずっとさえとイチャイチャしていたいけれど……これも務めだからな」
「無事のお帰りを待っています。だから……」
「ん?」
「昨日、さえに言ってくれた言葉をもう一度聞かせてください……」
 愛妻の耳元で隆広はつぶやいた。
「オレは……さえが思っているよりもずっと……さえに夢中なんだ」
「さえも……」
 夜月も目のやり場に困るような二人の夜はこうして更けていった。

 北ノ庄城錬兵場。水沢・可児連合の柴田軍五千が揃った。例によって忍者の舞とすずは男装して隆広の本隊に紛れ込み、白やその他の忍びたちも歩兵隊に化けて潜り込んでいる。実質五千二百の手勢である。
 台座に乗り兵の前に立つ隆広。その左右には前田慶次、奥村助右衛門、可児才蔵と云う柴田家が誇る豪傑が並び、そして『歩』の旗が靡いていた。
「出陣前にあたり、任命の儀を行う。松山矩三郎、小野田幸之助、高橋紀二郎、前に出よ!」
「「は、はい!」」
 何も聞かされていない三人は何事かと思いつつも、隆広の前に横隊で並んだ。
「本日をもって、その方たち三名を足軽組頭に任命する!」
「「え、ええ!」」
 奥村助右衛門が隆広に半紙三枚を渡した。
「よいか、その方たちはこれから一兵士ではない。水沢軍の一翼の大将であり、軍議の出席も命ずる! オレを生かすも殺すも己の器量次第と心得よ! よってこれからそなたたちに名を与える。松山矩三郎!」
「は、はい!」
「その方、今日より『松山矩久』と名乗れ!」
『矩久』とデカデカと隆広が書いた書を渡した。矩三郎は震える手でそれを大事に両手で受けた。
「小野田幸之助!」
「はっ」
「その方、今日より『小野田幸猛』と名乗れ!」
「ははっ!」
「高橋紀二郎!」
「は、はは!」
「その方、今日より『高橋紀茂』と名乗れ!」
「はは!」
 三人は隆広がくれた新たな名前が記されてある書を大事に握り、そして感涙していた。ぐれん隊、バカ息子軍団と後ろ指を指されて、味方にもバカにされつづけた自分たちが今、足軽組頭となり立派な名前までもらえたのである。
 感動していたのは三人だけじゃない。隆広三百騎の残る二百九十七名も次は自分がと感奮していた。
「えぐッえぐッ」
 特に矩三郎は鼻水まで垂らして泣いていた。十人兄弟の末っ子で、養子に出されてもその家に馴染めず、いつも突っ返され父母にも呆れられ、家の中では厄介者。メシも残り物だけ。ヤケになって戦でも云う事を聞かずに、ただ自分の鬱憤を晴らすために戦場で暴れていただけ。
 その自分を心より認めてくれる若き主君がいた。たとえずっと足軽のままでも満足だった。だが足軽組頭と云う一翼の大将に抜擢され、『矩久』なんて立派な名前ももらえた。
「矩久、幸猛、紀茂!」
「「ハハッ!」」
「頼りにしているぞ!」
「「ハハ―ッッ!」」
 三人はこの時の感動を生涯忘れる事はなかった。
「では水沢・可児の柴田軍! 大和多聞山城に出発するッ!」
「「「おおおおッッ!!」」」


第二章『織田中将信忠』に続く。