天地燃ゆ
第八部『嵐の前の静けさ』
第五章『商人司誕生』
ひとしきり暴れて、ようやく頭が冷静になってきた直賢は隆広に詫びた。
「……ウソをつかせて済まなかった」
「何の事だ?」
「妻の絹の事さ。アンタはオレの妻を側室なんかにはしていない。それどころか会った事もないだろう」
「なんで分かった」
「カンだ」
「カンか」
「あと、さえ姫様を侮辱した事も済まなかった。さきほどの言葉、お忘れ下さい」
直賢はさえに平伏した。
「……は、はい」
「父母をよろしくお願いします。それがし一人ならば食っていけます。貴方と殴り合い目が覚めましたゆえ」
「いんや」
「は?」
「正しく言うならば、直賢殿の父母はオレの妻に仕えるのです。それがしが迎えに来たのは」
「……?」
「直賢殿だ」
「は、はあ?」
「確かに絹殿の事は知りませぬ。だが直賢殿の事は調べてあります。さえが恩を受けた夫婦の息子と云うのは、本当に偶然なのです」
「ぐ、偶然?」
隆広は詳細を話した。自分の忍びが直賢を推薦していた事。そして直賢が朝倉家でどのような活躍をしていた事も調べたと云う事も。
「そうでしたか……。しかし、水沢殿はまだ侍大将で、しかも陪臣。失礼ながら自分の家中に勘定方を置くほどに収入があるとは思えませんが」
「水沢家じゃない、柴田家です」
「は?」
さえ、監物、八重も家に入り、隆広の言葉に耳を傾けた。
「直賢殿、柴田家が朝倉家同様に一向宗門徒たちに悩まされているのは知っておりますね」
「無論です」
「そしてそれはそのまま越前の民の苦しみでもあります。軍備に伴い、どうしても現状の高い税を徴収をするしかなく、楽市楽座を導入していささか緩和しましたが、やはり大幅な減税には踏み切れない有様です」
「でしょうね」
「だからそれがしは考えた。柴田家そのものに軍資金を稼ぐ集団がいればいいのだと。もはや民からの搾取のみで国費を賄う時代は終わらせなければなりませぬ」
「な……今なんと申された?」
監物と八重も驚かされた言葉だった。こんな事をクチにする武士を見たのは初めてであり、しかもまだ十六歳の若者がである。
「民からの搾取のみで国費を賄う時代は終わらせなければならない。そう言ったのです。かつて直賢殿は朝倉義景殿の浪費を強く戒めたと聞きます。それは君主の贅沢のために民に負担を強いるのが耐えられなかったからではないのですか? 敦賀港流通に貴方が積極的に取り組んだのも、せめて自分で国費を稼いで越前の民を重税から救いたいと思ったからではないのですか?」
「……おっしゃるとおりです」
「朝倉から柴田の統治になっても……まだ税に苦しむ民は多い。この上、越前には治水と云う絶対にやらなければならない事業があります。特に九頭竜川の治水です。これを税で賄ったらどうなるか。どんなに優れた治水家が実行しても六万貫はかかる。放っておけば大型台風が来るたびに、およそ倍以上の損失! 推定五百の人々の犠牲者。それに続く飢饉の死者など考えたらキリがない! また税が増えるという泥沼。
それがしは治水、開墾に伴う資金を柴田家そのものが稼いで、そして民のために使いたいのです。そのためには朝倉家で名勘定方と言われた直賢殿のチカラが必要なのです」
直賢は隆広から眼をそむき、拳を握っていた。監物はじれったくなり怒鳴った。
「何をためらう! 男子としてこれ以上の誉れの仕事があるか!」
「水沢殿が……織田の家臣でさえなければ……こちらから地面に顔をこすりつけても仕える事を望みたい。だが……狭量と言われようがオレの左腕を切り落とし、左足の自由をうばい、妻との幸せな暮らしを踏みにじった織田に……どうして仕えられる!」
「弥吉……」
「確かに義景様は評判のいい主君じゃなかった。だが、オレの才能を認めて……合戦じゃ臆病で役立たずの陪臣のセガレを本家の勘定方に抜擢し重用して下された。たとえご自分の贅沢のためとはいえ、オレは嬉しかった。子供のころから武芸が苦手で、百姓の子にも泣かされたオレが唯一長けていたのが算術。父上母上さえ認めてくれなかったオレを義景様は認めてくれた。国士として遇してくれた。それを死に追いやったのは景鏡様じゃない、織田だ! それがどうして仕えられる!」
「お前さま……」
さえが隆広の着物を掴んだ。説得は無理。そう思ったのだろう。だが隆広はあきらめなかった。
「織田家、柴田家のためじゃない。越前の民のため、と考えられませんか。それとも貴方は私怨を越えられない器なのですか?」
「私怨だと!」
「国の経営に銭金は不可欠。それをまったくの無から生み出すチカラを直賢殿はお持ちだ。聞いていますよ、海水から塩を作り、それを山国に転売して数ヶ月で八千貫稼ぎ、九頭竜川の治水をしようとしていた景鏡殿に渡したと云う事を」
「……どこでそれを!」
監物と八重も知らなかった事である。
「手前の忍びが調べてくれました。だが誰がやってもできる事ではない。直賢殿だから出来た事。その優れた商才を体が不自由だからと埋もれさせるのは天下の損失。直賢殿は経理と云う特技で人々を救えるのですよ。貴方の働きによっては大幅な減税も夢ではないし、稼いでくれたお金によって九頭竜川の治水がなされ、大型台風にも氾濫せず犠牲者も皆無で築き上げた財を失わない。それどころか永遠に人々の美田の水源となる。後の人は私怨を越えて越前の民のために織田に組し、減税の立役者となり、そして治水資金を見事に稼いだ吉村直賢様と尊敬し賞賛するでしょう」
「水沢殿……」
「失礼ながら、直賢殿がこの近隣の人々に『隻腕を理由に働かぬ怠け者のバカ息子』と呼ばれている事は聞きました。その人々を見返してやり、かつ感謝されるほどの人物になりたいと思われぬか? それにもし、それがしが一度でも直賢殿の稼いだお金を自分の欲望のために使ったら、その時はいつでも斬って下さって結構。いかがか、柴田家に来ては下さらぬか。越前の民のため、そして他ならぬ直賢殿のために」
「水沢殿……!」
枯れたと思っていた涙が直賢の頬に落ちる。八重と監物も隆広の言葉に泣いた。
「義景殿が貴方を認めて必要としたように、それがしも直賢殿が必要なのです」
「良いのですか……! それがしは見ての通り左腕がなく、歩行もままなりませぬのに!」
「すぐに直属の部下も用意いたします。直賢殿ご自身がアチコチ出て行く必要はございませぬ。帷幄にあり部下を使いこなし人々を救うお金を生み出して下さい。それがしの目の黒いうちは越前に『増税』の二文字はありえませぬ。ご助力を頼みます」
「分かりました! 殿!」
残る右腕を地に付け、不恰好に隆広へ平伏する直賢。隆広はその右手を両手で握った。
「武人らしからぬウソを言って直賢殿の誇りを傷つけた事をお許し下さい。だが思います、直賢殿が再び生きた眼を取り戻したと聞けば……絹殿も戻ってくるのではないかと」
「ハッ……!」
監物と八重は心優しい主君の気持ちに感涙し、さえもまた惚れ直した。
(ホントに化けさせたわ……素敵よお前さま♪ 大好き!)
これが後に石田三成と共に水沢隆広の政治を支えた吉村備中守直賢である。神業の経理、隻腕の商聖とも称され、一度として隆広に国費の心配はさせず、柴田の兵と民を飢えさせなかったと言われている。当時に商人として名をはせていた今井宗久や茶屋四郎次郎も『とうてい及ばぬ』と感嘆したとも云う。水沢隆広十六歳、吉村直賢三十四歳であった。
吉村直賢を召抱えると、隆広はかつて兵糧奉行だった時に摘発した不正役人たちを北ノ庄城下の宿に呼び戻した。労役を課せられ自分たちが不当に搾取した賄賂分の金額を稼ぐように隆広に言い渡されていた。
あれから二年近く経ち、だいぶ不正役人たちの顔から邪気が取れていた。『金銭関係で悪事をする者は頭がいい。上に立つ者次第でその毒は薬にもなる』と養父に教えられた事のある隆広は、その頭脳を正しい方向に持っていくために労役を課した。
北ノ庄城、一乗谷の町、金ヶ崎の町の不正役人たちは隆広に呼び戻された。全部で二十四人である。隆広は主君勝家に不正役人二十四名は追放したと報告していたが、今その二十四名は北ノ庄に帰って来ている。
「どうであったか労役は?」
「はい、下々の苦労を知りえる機会を与えて下された水沢様に感謝の気持ちでいっぱいです」
本来、斬首になってもおかしくない罪を犯したのに、生き延びる道を与えた隆広に対して彼らの感謝は大きい。
「全員、手のひらを見せよ」
隆広は一人一人の手のひらを見た。きれいな手をしている者などいない。クワを振る事によって出来たタコ、そして手荒れも著しい。
「美しい手だ」
「「ありがたき幸せに」」
「本日より、全員柴田家の帰参を許す」
「ま、まことにございますか!」
二十四人は感涙した。
「まだ規定額に達していない者は、新たな勤めで稼ぐがいい」
「「ハハーッ!」」
「ただし、新たな仕事は兵糧関係ではない。直賢入れ」
「はっ」
隣室に控えていた吉村直賢が入ってきた。二十四人は隻腕で左足を引きずるように歩く男を怪訝そうに見た。
「そなたらは、この吉村直賢に仕えるのだ。勤務地は敦賀港」
「「え!」」
「『柴田家商人司』、それがそなたたちの新しい役職名だ。仔細を説明する」
「殿、それはそれがしから」
直賢は隆広を制して、自分の部下になる男たちに説明した。
「うん、たのむ」
「コホン、よく聞かれよ。我らの務めは『交易により国費を稼ぎ開墾、治水、架橋などの工事資金に当て、越前の民に減税をもたらす事』である。他の大名はどうであろうと、他の織田軍団長はどうであろうと柴田家は自分で金を稼ぐ。かつ民の仕事に迷惑をかけずに、である」
ポカンとする二十四名。
「つまり、越前の国は『民からの搾取のみで国費を賄う時代を終えさせる』のだ。それが柴田家商人司の我らの任務。それがしが指揮を執る」
「あなたが?」
「申し遅れた。それがしは吉村直賢と申す。元朝倉義景様にお仕えしていた勘定方にござる」
急な話で戸惑う二十四名に吉村直賢は理路整然と『商人司』の任務と、その大事な役割を説明した。二十四名はだんだん直賢の話に興味を示し、そしてその仕事をしてみたいと思った。
「そなたらの過去は聞いた。だがそれがしはそんなもの興味ござらん。そなたらの能力が欲しいのだ。チカラを貸していただきたい。それがしは穀潰し息子と生まれた村で蔑まれ、そなたは不正役人とこの地で蔑まされた。我らの手でこの国を豊かにして、逆に感謝させてみようではないか!」
「「承知しました!」」
「「お頭!」」
途中から隆広の出番はなくなってしまった。目の前の二十四名は直賢を大将と心から認めたのである。直賢はこの二十四名を縦横に使いこなし、柴田家を支えていく事になる。
数日後、隆広は主君柴田勝家の前にいた。
「朝倉家の勘定方だった吉村某を召抱えたそうじゃな」
「はい」
「ふむ、侍大将ともなれば配下武将が三人では足らぬと思ってはいたが……聞けばその男は隻腕のようだな。しかも一気に二十四人もの部下を与えたと聞く。もはやお前も柴田の重鎮。禄の範囲で誰を登用するもお前の自由であるが登用した理由を知りたい。詳細を聞かせよ」
「はい、包み隠さずお話しますが、その前にお詫び申し上げたい事ございます」
「なんじゃ?」
「その者に与えた二十四名の部下、前身は北ノ庄城、一乗谷の町、金ヶ崎の町の不正役人たちにございます」
「なにぃ? そなた追放したと報告したではないか!」
「いいえ、実は労役を課し越前領内に留めました」
「虚偽報告をワシにしたか!」
「恐れながらその通りです。支城の不正役人はすべて斬刑となりました。労役を課すと報告しても殿はおそらく許さず斬刑にしたでしょう。しかし不正とはいえフトコロに大金をもたらしたのは、それなりに頭が良いからにございます。それがしは労役によりそれを正しい方向に変え、当時から考えていた役職につけたいと思っていたのです」
「ううむ……。で、労役によりそやつらはマシになったのか?」
「はい、真人間に変わりました」
「そうか……ならば聞かなかった事にしてやろう。しかし時に主君に虚偽報告をせざるをえないのはワシも信長様に仕えているのだから分かる。ゆえに一つ申しておくが、どうしても虚偽を言わざるを得ないときはそれでいい。しかしその後に折を見てワシに面談を申し込み真実を伝えよ」
「はっ」
「では話を最初に戻せ」
「はい、その男は吉村直賢といいまして、仰せの通り朝倉家で勘定方をしていました。残念ながら隻腕であり、また元々武芸には不向きのようで戦働きを望むのは無理です。しかし彼には傑出した特技があります。交易です」
「交易?」
「はい、敦賀港は古くから日本海海輸の拠点。そこを根拠地として交易をさせます。つまり柴田家の中に、軍資金を稼ぐ専門機関を発足させたのです」
「軍資金を稼ぐ……専門機関?」
「はい。これから越前をとりまく情勢は厳しくなります。一向宗門徒、そして上杉、鉄砲や軍馬や兵農分離を行うにも、まず金が必要。無論の事に内政全般にも。よって…」
「バカモノ!」
「…………」
「そなた、ワシに恥をかかせるつもりか! いやしくも柴田の家中に商人集団だと! 織田や柴田の名前をもって米転がし交易品転がしなど断じて許せんぞ! すぐに解雇せよ!」
「……お断りします」
「なんじゃと! ええい隆広! ワシがそなたを高禄で召抱えておるのは、そんな事をさせるためではない! 商人の長として召抱えた覚えはないぞ!」
勝家は床の間に置いてある刀を抜いて隆広に突きつけた。隆広はひるまずに訴えた。
「それがしは殿に領内の内政を任されました。粉骨砕身それに励んでおります。しかし悲しいかな何をするにおいても金は必要! 軍備にも内政にも! そして民を守るためにも! お金がないからできませんでは行政官は失格でございます! また国費の事を主君に心配させるようでも内政家臣は失格です! だからと言って増税すれば民の怨嗟はそれがしでなく殿に降りかかります! 殿に無断でその機関を配下に置いたのはお詫びします! しかし増税なしで満足のいく内政を実行するにはこれしか方法はありませんでした! 越前の民のため、織田家のため、柴田家のため、それがしはそのために高禄で召抱えられているのではないのですか? それが不忠というのならば! 殿の顔に泥を塗ると云うのであれば! お斬り捨て下さい!」
熱を込めて訴えるあまり、途中から隆広の声は涙声になった。
「ふん」
勝家は刀を納めた。
「分かった、お前の思うとおりやってみよ」
「はっ」
「ええい! いちいち泣くな!」
「は、はい!」
「隆広」
「は!」
「成果が上々の場合は減税も考える。手柄によってはワシ自ら吉村とやらに褒美も与えよう」
「は、はい!」
「ふ……ワシはよい行政官を拾ったものだ。主君にダメだと言われて『ハイそうですか』では話にならぬのも確かだからな。今後もこういう衝突はお前とはあるだろう。お前には迷惑であろうが、それを楽しみにしている」
「はい!」
「ふむ、下がれ」
隆広は部屋から出て行った。勝家は嬉しそうに微笑んでいた。
「ふふ……今日の酒は格別美味そうじゃ」
城を出ると源吾郎が隆広へ駆けてきた。
「隆広様―ッ!」
「源吾郎殿、いかがされた」
「ハアハア、絹殿が見つかりました」
「本当ですか! で、どこに?」
「それが……」
「……?」
翌日、隆広は源吾郎と共に敦賀の町に来ていた。吉村直賢が常駐する商人司本陣もここにある。楽市のように自分の店はなく、現在で言う事務所みたいなところである。そこで直賢が部下を使い米相場、馬相場、交易品相場を玩味して転売して利益をもたらす。はては各国の金山から出る金の入手や売買なども行う。
以前に隆広が忍びを作って確立した越前の海の幸や名産などの都への流通は民の運営する楽市楽座のものであるので、直賢はその交易に接触はできないものの、まったくの無から金を生み出すと言われた彼だけあって、元々敦賀の町に出来上がっていた交易販路は民に任せた。主君の期待に応え、すべて自分から販路を新たに開拓すると決めていたのである。
隆広が本陣をのぞくと、直賢が生き生きと部下たちに命令を出していた。伸ばし放題だった髪も無精ひげも整えた。今は立派なマゲを結い、口髭も貫禄を示している。糊の効いた裃を着た威風堂々の二本差しの武士である。
「うん、ふて腐れて酒をかっくらっていた時とは別人のようだな」
「ははは、これだけの厚遇をいただければ誰でも生き返りましょう。げにも隆広様は人使いが上手いです」
源吾郎の褒め言葉に照れ笑いを浮かべつつ、隆広と源吾郎はそのまま直賢には会わずに本陣から立ち去った。
「しかしまさか同じ町にいたなんてなァ……」
「直賢殿はすでに販路をいくつか確立しておりますので、この商人の町に名も広まっておるはず。奥方の耳にも入っているでしょうが……合わす顔がなかったのでしょう」
「うん……オレは直賢を感奮させるためとはいえ、絹殿を側室にし閨を共にしたと虚言を吐いた。武士らしからぬ下策を用いたと恥ずかしく思う。だからその侘びを含めて、何とか再会を取り持ちたい」
「直賢殿は特に何とも思ってはいないかもしれませぬが、そういう配慮が人を惹き付けるものです。さ、着きましたぞ」
そこは遊郭の通りだった。
「キャ―いい男! 私と遊びましょう!」
「あなただったらタダでもいいわよ!」
美男の隆広に娼婦たちの黄色い声が飛び交った。隆広は赤面しながらも目的の店に入った。
「これはこれは水沢様!」
敦賀の町の楽市楽座や、その他の商業にも隆広は尽力している。敦賀の夜の顔というべく遊郭のやり手婆たちも一目置いているので、当然隆広の顔は知っていた。
「水沢様に来店いただけるとは当店の誉れ。水沢様と同じ年頃の『蓮の蕾(処女)』を水あげして馳走させていただきまする」
「い、いや指名がある。紅殿を」
「紅を? よ、よいのですか? あの女はそろそろ三十路の安女郎です。失礼ながらお財布にゆとりがないのでしたら後日でもよいのですよ。是非当店の蓮の蕾を堪能していただけたらと……」
「女将、水沢様が紅がよいと言っているのだから……」
処女を薦められ困る隆広に源吾郎が助け舟を出した。
「分かりました。ではどうぞ。で、そちらの方は?」
「ワシは酒だけでいい」
「かしこまいりました」
部屋に通された。初めての遊郭に少しドギマギする隆広。
「よいですか隆広様、間違っても雰囲気に流されて絹殿を抱いてはなりませんぞ」
別室に通される源吾郎と離れる際、小声で言われた。
「む、無論です。紅殿は、いや絹殿は家臣の妻。大切にしなくてはならんのですから!」
(そんなに助平と思われているのかなオレ……)
部屋にはいり、窓から敦賀湾を少し眺めていたら……
「紅にございます。ご指名、恐悦に存じます」
源氏名を紅と名乗る女が入ってきた。
「あ、ああ……」
紅は顔を上げるとギョッとした。なんでこんな若い美男が遊郭などに来るのかと。いかに敦賀の商人衆に名と顔が知られた隆広でも、その末端にいる安女郎が知るはずもない。
「では、お召し物を」
紅は隆広の着物を脱がせようとした。
「いや待たれよ」
「え?」
「貴方は萩原宗俊殿の娘御、絹殿ですね?」
「…………!?」
なんでそんな事を知っているのかと驚くと共に、紅は首を振った。
「お人ちがいでしょう」
認めたら父の名を辱めると思ったのか、紅は当人と言わなかった。
「いや、こちらも名乗らずに失礼。それがし柴田家家臣、水沢隆広。絹殿の夫、吉村直賢の主でございます」
「私は絹と云う女ではありません! 帰って下さい!」
紅、いや絹は直賢の暴力に耐えかねて家を出たが、すでに彼女の実家の萩原家は滅亡しており行くあてもない。金もない孤独な絹が糧を得るのは女郎しかなかった。
「直賢は知っての通りヤケになり、絹殿にもひどい事をしたとの事。しかし今は働き場所を得て生き返りました。だが彼は左腕もなく、歩行も不自由。日常生活には相変わらず支障が多いでしょう。なのに彼は女中も雇わず後妻も娶ろうとはしません。貴方を待っているからではないですか」
「……今さら、どのツラ下げて会えるのですか。私は女郎になりました。私の体はすでに汚れています。どうして主人に……う、ううう……」
「……直賢の姿は見ましたか?」
「……見ました。柴田家の家臣になり、この敦賀に本陣を与えられて商売に勤しんでいると聞き……いてもたってもいられずにあの人のいる本陣に行きました。そしてそこにはあの人が朝倉家で働いていた当時の輝く顔がありました。嬉しくて嬉しくて……。でも私はすでに女郎。会う事はできません」
「困ったなァ……。どうしても直賢の元に戻る気はないのですか」
「はい。せめてお情けあれば……私がここにいる事を夫には……」
「もう遅い」
襖の向こうから声がした。そして勢いよくパンと開いた。立っていたのは直賢だった。不自由な体で大急ぎに駆けてきたのだろう。汗だくだった。
「お前さま……!」
「絹……!」
隆広は何も言わずに部屋から出た。廊下には源吾郎がいて片眼を軽くつぶった。
「そうか、源吾郎殿が知らせたのか」
「はい、ある程度隆広様によって直賢殿の事を聞かせた後、本人登場ならば効果大と思ったのですよ」
「なるほど。本当にその通りだ。まだ女心については源吾郎殿には及ばないなァ」
「ははは、単なる年の功ですよ。ならば我ら邪魔者は退散いたしましょう」
「そうですね」
「会いたかったぞ絹……すまん、辛い思いをさせてばかりで」
「私は女郎に……とても顔向けできぬと……」
「何を言う、生きていてくれただけで満足だ」
「お前さま……!」
「さあ帰ろう、ここの店主とは話をつけておいた。またオレの妻となってくれ」
「はい……」
「見ただろう、オレは良き主君を得た。もういつかのようにヤケになどならぬ。いやそんなヒマすらない。あの若き主君は人使いが荒いでな。お前も忙しゅうなるぞ」
「はい!」
元女郎と云う事で、しばらく蔑みの眼を浴びたが絹は負けなかった。それどころか体の不自由な夫への献身や内助振りはまさに良妻の鏡とも思われ、数ヶ月もすれば蔑みの眼は直賢の部下からも水沢の女衆からも消えうせていた。辛苦を味わっただけに人物としても深みがあり、隆広や妻のさえにも信用された。
直賢もまた、隆広の期待に応え越前の国庫を潤わせた。鉄砲や軍馬を買うに役立ち、隆広は無論、勝家を大いに喜ばせ、直賢は勝家自身から褒美の品と言葉をもらい、かつ部下の増員もしてくれたのだ。
北ノ庄の城下町、水沢隆広の屋敷。
「そうかぁ、殿から直々にお言葉と褒美を!」
「はい、これも殿がそれがしに働き場所を与えてくれたおかげです。なあ絹」
「はい、夫婦共々感謝しております」
「大した事はしていませんよ絹殿。場を預けて後は任せきりなのですから。あははは」
「そういえば、絹殿はご懐妊されたそうですね」
隆広のかたわらにいたさえが言った。
「はい、本当に幸せな事ばかりです」
絹は愛しそうに自分の腹を撫でた。もうすぐおじいちゃんとおばあちゃんになる監物と八重もその腹を愛しそうに見ていた。
「いいなあ……早くさえも欲しい」
「さえ姫様は十六歳でございます。これからいくらでも」
「そうともさえ! じゃ早速に子作りを……」
「んもう! なんでそうなるのですか!」
と、六人の楽しそうな笑い声が湧いた時だった。
ドン、ドン、ドン
北ノ庄城から陣太鼓が轟いた。
「ん……?」
「殿、あれは臨時評定を始めるという合図の太鼓では?」
「そのようだ。いよいよ謙信公が動いたかもしれないな……。直賢、合戦となれば軍費の問題もある。まだ評定衆には加われぬだろうが、殿もそなたがいた方が話の進みも早かろう。参るぞ」
「ハッ!」
「監物、直賢の歩の補助をせよ。いささか急ぎで歩くゆえな」
「承知しました」
「八重、さえを頼むぞ。絹殿には今日泊まっていただくがいい」
「かしこまいりました」
「では、さえ」
「はい」
「行ってくる(チュッ)」
愛妻との口づけに満足すると隆広は直賢と監物を連れて出て行った。
第六章『軍神西進』に続く。