天地燃ゆ
第八部『嵐の前の静けさ』
第二章『刺客』
その夜は雨となった。北ノ庄の宿屋から六人の刺客が隆広の家に向かった。俊敏な動きにみなぎる殺気。武家屋敷入り口の門番は痛みすら感じる前に斬られて死んだ。次の門番交代まで数刻。それまでに仕事を完遂しなくてはならない。
彼ら六人は小松城落城時、命からがら脱出に成功した一向宗門徒である。小松城主である若林長門に雇われた流れ忍びで、腕前を見込まれて登用されたものの、彼らは門徒衆を見捨てて自分だけ加賀門徒の根拠地、金沢御殿に逃げた若林をとうに見限っていた。
小松城に身を置いた期間はそれほどに長くはないが、それぞれ情婦などが城下町にでき居心地の良い小松城下が好きになっていた。それを攻め落としたのが柴田勝家であり、その後の戦後処理で生き残った門徒を殄戮(『てんりく』殺し尽くす事)したのは隆広である。彼らの情婦らも柴田の雑兵に陵辱された挙句に殺された。門徒の城に門徒ではない民は存在しない。殄戮は勝家が隆広に課した厳命である。
隆広の心も傷つく凄惨な戦後処理となったが、その尺度は敗者である門徒たちの方が大きいのは当然である。逃げて生き残った彼らの憎悪は殄戮の指揮官となった隆広に向けられた。
これで隆広が殄戮を悔い、自分が殺した門徒たちに対して冥福を祈る意志でも見せていれば印象は違ったかもしれないが、隆広は殄戮の数日後には何事もなかったように行政官の現場指揮官として復帰している。
それが彼らには許せなかった。戦場の仇は仇としないのが戦国の世のならいではあるが、そんな美辞麗句で片付けられるほど彼らが隆広に抱く憎悪は軽くない。殄戮の心痛のあまり隆広が妻さえにすがって泣いたなんて事も彼らは知らない。知っていたとしても歯牙にもかけないであろうが。
(……同じ思いを味わわせてやるわ! キサマの両手両足切り落とし! そして目の前でキサマの女房を犯し尽くし殺してやる!)
雨の降る音で、彼らの足音もより消されていた。六人は隆広の屋敷に到着した。
(おやおや、織田北陸部隊の侍大将にしてはずいぶんと貧相なお屋敷だな……。ま、妻と二人暮しでは十分であろうが)
(……ふむ、オレも先日に内偵したときは意外に思ったものだ。六名では逆に人数を持て余す。かねて申し合わせたように、中に三人、外に三人で実行しよう。外組は万一の退路を断て)
((分かった))
(では行くぞ!)
ミシ……
ポチョン……
雨に濡れた刺客たちの着物から水滴が廊下に落ちる。
ポチョン……
「……!」
隆広はパチッと目を開けた。
バターンッ!
襖戸が勢いよく開いた!
「ちぃッ!」
隆広は枕元に置いてある刀を握り、横で眠るさえを左腕で抱いて蒲団から飛んだ。刺客の刃は枕を切った。
「何者か!」
「これから死ぬヤツに名乗っても仕方あるまい」
「……しかし、よく我らの気配を察したな。さすがは上泉信綱直伝の腕前と褒めてやるわ」
残る二人が入ってきた。囲まれた。
「お前さま……!」
さえはガタガタと震えていた。
「ジッとしていろ……」
隆広はさえを離したとたんに刺客がさえを人質に取る事は分かりきっている。妻を抱きながら片手で撃破できる相手ではないことは分かった。しかし離したら確実に刺客はさえを人質にとり、結局は武器を捨てる事を迫られる。今の状態で戦うしかない。その時だった。
シュッ!
グサッ!
「ぐあッ!」
刺客の眉間に飛び苦無が刺さった。
「隆広様!」
「白! 来てくれたか!」
「お話は後!」
父の柴舟に交代で夜間の隆広様を護衛すべきと進言した白。柴舟は快諾し、それを任せた。そして今は白の担当の時間であった。
「忍び笛を使いました。舞とすず、父も応援に駆けつけます!」
「すまぬ!」
突然の敵の援軍だったが刺客たちは冷静だった。そして白の投げた飛び苦無を受けた刺客。倒れて動かず死んだと思えば、にわかに起き上がり
ズバッ!
白の背中が逆掛けに斬られた!
「うあッ!」
「甘いわ小僧」
「変わり身……!」
苦無は丸太に刺さっていた。出血が激しい。白はたまらず倒れた。
「ふん、こんな三流の忍びに護衛されてキサマも気の毒だな。さあ、覚悟を決めろ!」
隆広は刀をにぎる。左腕には恐怖に怯えるさえの体の震えが伝わった。ここで自分が斬られればさえがどんな惨い目にあうか。
(一対多の戦いに勝つことが新陰流の極意とは云え……片手では無理だ……。一瞬さえを離して切りかかるしかない……!)
隆広の表情から刺客は隆広が斬ってかかってくる事を読んだ。
(女房を一度放して斬りかかる気だな……。よし二人で対するから、お前は女を押さえろ)
(分かった!)
「そうはいきませぬな……」
「……源蔵殿!」
刺客たちは無論、隆広も一切その気配に気づかなかった。それは昨日に隆広に路傍で拾われた老人源蔵だった。源蔵は隆広とさえを守るように刺客の前に立った。
「いかん源蔵殿! 殺されてしまいます!」
「心配ご無用、一向宗の流れ忍び風情が何をできようか」
「え……?」
「ぬかしたな!」
三人の刺客は、源蔵に刀を振りかざした。
「冥土の土産にお見せしよう……『おぼろ影の術』……」
ブォン
源蔵が三人になった。刺客たちも、隆広もさえも、そして意識がもうろうの白も驚愕した。
「な、なんだこのジジイ!」
「軒猿……加藤段蔵である」
「な……ッ!」
ザザザザ!
三人の刺客は源蔵、いや加藤段蔵が隠し持っていた小太刀でアッと云う間に斬られて死んだ。
「さて、外の連中も片付けてくるか……」
そして数秒で戻ってきた。
「水沢殿、おケガはござらぬか」
白が息も絶え絶えに立ち上り、隆広の前にふさがり加藤段蔵に苦無を向けた。
「……加藤段蔵……。キサマ上杉の軒猿が忍び『飛び加藤』だな!」
「いかにも」
「どういうつもりかで主君を助けたか知らぬが! 軒猿の忍びと分かった以上生かして帰さぬ!」
「ほっほっほ……仕方がないのう」
段蔵の眼がキラリと光ると、白はそのまま倒れた。
「白……! 源蔵殿何をしたのですか!」
「心配ござらん。気を失わせただけにござる。眼力で止血もいたしましたゆえ、手当てを急ぎましょう。幸い傷は浅い、化膿しなければすぐに治る」
段蔵は慣れた手つきで白の手当てをはじめた。
「奥方殿、包帯と水。あと針と糸を」
「は、はい!」
その時になってようやく舞たちが到着した。
「隆広様! ご無事で!」
「ああ、なんとか。すず、役人に刺客たちの亡骸の始末をするよう頼んできてくれ」
「分かりました!」
柴舟は刺客たちの致命傷となった傷を見た。
「すごいウデだ……。しかもこれは隆広様の新陰流による斬撃ではない……」
息子白の治療をしている老人を柴舟は見た。
「ご老体……あなたが?」
「一食と一夜の寝床、熱い風呂、そして年寄りの話を聞いてくれた恩を返したまででござる」
「…………」
さえの持ってきた包帯で、何とか応急処置は終わった。
「これでよい。幸い刺客の持っていた武器に毒は塗っていなかった。しばらくは傷により熱も出るであろうが、安静にしておれば回復する」
「ありがとうございます、源蔵殿」
武家屋敷の役人が刺客たちを運び出した。隆広宅の居間に白を寝かせ、早くも熱が出始めた彼の看病にあたるさえ。その横で改めて源蔵と隆広主従は対した。
「まず、偽りの名をもって水沢殿に近づいた事をお詫びいたす。改めて、拙者は軒猿の忍び加藤段蔵でござる」
柴舟、舞、すずは自分の耳を疑うほど驚いた。舞とすずは小太刀を抜刀してすぐに斬りかかろうとするが
「よせ、オレとさえを助けてくれたのは加藤殿だ」
「しかし……軒猿の忍びを帰しては!」
「よさんか、すず。隆広様の命の恩人ならば我らにとっても恩人。刃を向けるなどもってのほかぞ」
体裁のいい止め方であるが、魔性の忍びと呼ばれる加藤段蔵相手に攻撃を仕掛けても、舞とすずでは相手にもならない。柴舟は二人のくノ一には刀をおさめさせた。
「ですが……どうして上杉の忍びである加藤殿がそれがしを?」
「実は……拙者はある仕事を最後に隠退するつもりでござる。歳もとり、いささか人を殺し、裏の世界で暗躍するのも飽きましての。しかし忍びの世界は、そう簡単に辞める事は許されませぬでな。その仕事で死んだ事にして忍びの世界で会得した医術を生かし、瀬戸内海の無医の孤島で余生を送ろうと思っていたのでござる」
「それと……それがしを助けた理由と何が」
「分かりませぬかな、拙者の仕事は織田北陸部隊で最大の脅威となりうる武将を殺害する事にござる」
「まさか……!」
「藤林の柴舟殿でしたかの? お見込みの通り拙者が軒猿の里で受けた命令は水沢隆広殿の暗殺でござる」
さえはその言葉に驚いた。急ぎ隆広の横に行き、段蔵の前に塞がった。
「心配いりませぬよ奥方殿。もうかような気はございませぬゆえ」
「ほ、ホントに!?」
「いかにも。しかしこの仕事、拙者の忍びとして最後の仕事であるがゆえ拙者も少し遊び心を入れもうしてな。あえて汚い流れ者の年寄りとして水沢殿が通るであろう道に倒れておったにござる。水沢殿は仁将と伺っておりましたがゆえ、その噂どおりに拙者を見捨てずに助けたら殺さない。そのまま放置したなら殺そう、そう思っていたのでござる」
「そうでしたか……」
「試すようなマネをして申し訳ございませぬ」
加藤段蔵は隆広に頭を垂れた。
「いえ、加藤殿がいなければ、それがしとさえは殺されておりました。さえなど殺される前にクチにするのもおぞましい陵辱を受けた事でしょう。どんな意図をお持ちであったにせよ、加藤殿はそれがしと妻の命の恩人です」
「では……それに対しての礼と言ってはなんですが、お願いがござる」
「なんでしょうか? それがしにできることならば」
「拙者が……あの一向宗門徒の流れ忍びと水沢隆広と云う獲物を取り合い、そして殺されたと云う事にしていただきたいのでござる。それで拙者は死んだことになり、軒猿の仕返しが水沢殿に及ぶ事もない。また、その刺客も柴舟殿や水沢様が討った事にしてもらいたい」
「それはかまいませんが……良いのですか? お名前に傷が……。それに忍びの仕事は実行するものと、その遂行を見届ける者がいると聞きます。我らがそれを受けたとしても軒猿の里に抜けた事は知られてしまうのでは?」
「はっははは、忍びに名声など入りませぬ。また、その見届ける者も我が幻術で加藤は流れ忍びに討たれたと思い込ませてござる。もう里に帰っているころにござろう。拙者の気持ちはすでに無医村の医者という立場に向けられております。なにとぞ拙者の申し出を受けていただきたい」
「……分かりました。何か手柄を譲られるようで申し訳ないですが、加藤殿がそれでいいと云うのならば。柴舟殿も、舞もすずもよいな」
「「ハッ」」
コホンと段蔵は一つ咳をして続けた。
「あともう一つ、水沢殿はあまりにも無用心にござる。ありていに申して、この屋敷に来て番兵が一人もいなかったのを見て驚いたと云うより呆れ申した。織田は敵が多いですし、柴田もそれは同様。軒猿から第二第三の刺客が来るとも限りませぬし、織田家に怨みを持つ門徒の逆襲もいつあるか分かりませんぞ。また水沢殿は手柄を立てすぎてござる。妬みをもった同じ織田や柴田家中の者から寝首をかかれる事もありうる。身辺警護にもう少し気を使いなされ。二千近い兵を預かるのならば、もはや水沢殿の命はご自身だけのものではござりませぬぞ」
「金言、ありがたくいただきます」
「よろしい」
刺客襲撃の緊張からか、隆広もさえも、柴舟とくノ一二人も気持ちが高ぶってしまったか、全然眠気が襲ってこず、その日明け方まで加藤段蔵と語り合った。
そして朝が来た。
「命まで助けて下されたばかりか、色々とお教えくださりありがとうございます。加藤、いえ源蔵殿」
「いえいえ礼には及びませぬ。拙者を道端で放っておいたなら拙者も転じて刺客になっておりましたゆえ。ご自分の命と奥方の命を助けたのは水沢殿ご自身でござる」
「源蔵殿、お弁当と水筒、そして失礼かもしれませんが少しの路銀です」
「おお、これはありがたい。奥方殿、ありがたく頂戴します」
「道中、気をつけて」
源蔵は隆広とさえ、そして柴舟、すず、舞の見送りを受けて北ノ庄を後にした。
「『死ななければ忍びをやめられない』、考えた事もなかった。上忍様、藤林もそうなの?」
舞の質問に柴舟は答えた。
「当然だろう。まあくノ一の場合は後に母親になるから忍び自体はやめるだろうが、里から抜けることは許されない」
「厳しいなあ……」
「ま、それが忍びの世界の掟と云うものだ。さあ帰ろう」
柴舟は白を背負い、隆広にペコリと頭を下げて自分の屋敷へと帰っていった。その途中、白が目覚めた。
「父上…」
「……白、そしてお前たち、これでよく分かったであろう。自分たちの未熟さを」
「「はい」」
「たとえ藤林で優秀でも、上には上がいる」
「はい…」
「しかし軒猿……。早くも隆広様を要注意人物と見ていたか」
一方、隆広とさえ。
「台風一過だったな、さえ」
と、苦笑しながらさえを見ると、さえは隆広をジーと睨んでいた。
「な、なんだよ」
「なに、あの二人の女忍び」
「え?」
そういえば隆広は舞とすずの事を一切さえに言っていないのである。舞とすずは隆広に主従の筋は通しているが、それは親しそうに隆広と話していたのをさえは見逃さなかった。
「あ、ああ、彼女たちは父の使っていた忍び衆の子弟でな……」
「なんで女なんですか!」
「し、仕方ないだろう! その忍び衆がオレの元に派遣したのは白を入れた、あの三人だったんだから!」
「二人とも美人だったけれど……妙な事していないでしょうね!」
「してないよ! オレはさえ一筋だよ!」
「……あんな怖い思いをした後なのに、抱きしめてもくだされず、それどころかさえの前でよその女子と親しく話すなんてあんまりです。さえは怒りました。当分閨事お預け!」
「そ、そんなあ……」
「んもう……せっかくそろそろ明るい部屋でしてもいいかなと思っていたのに……お前さまが悪いのです!」
さえは拗ねた顔で部屋に戻った。
「待ってくれよ! 謝るから! お預けだけは勘弁してくれよ〜」
隆広が刺客に襲われたと聞いた柴田勝家は隆広をより大きな屋敷に移り住むよう指示して、隆広の兵が交代で十人づつ警備する事が命令した。隆広の忍び三人も夜間はほぼこの屋敷に常駐する事になった。隆広とさえの二人だけの甘い空間は中々確保できなくなったが、それも命を守るためには仕方ない。
そして、魔性の忍者と恐れられた飛び加藤こと加藤段蔵が歴史に登場することは、これ以降なかった。
だが瀬戸内のある無医村の小島に一人の名医が現れたのは、これから間もない事だった。八十を越した老人であったが、自身の健康にも気遣い当時としては驚異的な百歳まで生き、そして最後まで医師として現役であった。そして名を源蔵と云うその医師は、その小島の歴史において比肩なき偉人として称えられ、今日も島民が源蔵の命日に祭りを行い遺徳を偲んでいる。彼がいなければ、自分はこの世に生を受けなかったかもしれないと、島民には現在も神仏のように敬われているのであった。
手柄を譲られたのが心苦しかったか、後に隆広は回顧録で門徒の刺客を撃退したのは我々ではなく、その日に我が家に訪れていた老剣客だったと述べている。しかしこの発言が後の歴史家を大きく悩ませる事になる。その老剣客はいったい誰なのか長年に渡り不明だったのである。
だが近年、源蔵の手記が発見されて歴史家たちの間で大きく問題だった門徒の忍びに襲われた水沢隆広を救った謎の老剣客の正体が明らかになった。
『瀬戸の源蔵』と『加藤段蔵』が同一人物であることが近年ようやく定説になったのである。
冷酷無比な忍者である飛び加藤が後世に水沢隆広を主人公とした数々の物語に名脇役として登場するのは第二の人生を名医として過ごした点が後世の人々に愛されたからだろう。そしてその源蔵の手記に興味深い事が書いてあった。現代風に書くと
『“水隆(隆広の事)は源蔵と名乗りし身形卑しい自分を背負い、食と湯と床を施され、かつ拙の話を嬉々として聞くにいたる。本来拙は刺客として訪れたのに、水隆の心根に惹かれ、逆に他の刺客よりお助けした。拙がかような気になり刺客から転じて守りに向けさせたのは何であろうか。あの夜、拙が水隆の屋敷にいた事、これすべて何の巡り合わせか。神仏や天佑が水隆を生かそうとしていると拙は感じたのである”』
飛び加藤は直感的に水沢隆広が歴史に選ばれた人間と感じたのだろう。そしてそれは的中するのか、それとも……。
第三章『石田三成の花嫁』に続く。