天地燃ゆ
第八部『嵐の前の静けさ』
第一章『路傍の賢者』
「お前さま、大丈夫ですか?」
「ああ、もう大丈夫だ」
ここは北ノ庄城下、佐久間盛政の屋敷である。盛政は小松城の戦いで深手を負ったが、数日経ちかなり容態が良くなっていた。今は家の庭を散歩できるほどになった。だがまだ包帯はとれる状態ではない。盛政の妻である秋鶴が案じた。
「父上―!」
「おお、虎か、こっちにこい!」
当年十歳の娘の虎を抱き上げた。
「アイチチ……」
「ほら言わぬことではありません、横になって下さい」
「ああ、分かった」
虎を下ろし頭を撫でた。
「すまんな、虎、もう少ししたらもっとたくさん遊んでやるからな」
隆広には冷たい盛政も娘や妻には暖かい人物であった。妻の言うとおりにして横になる盛政。
「小松でお前さまを助けて下されたのは水沢様、佐久間家として何かお礼をしなければなりません。私ちょっと行ってまいります」
「……必要ない。むしろ余計な事をしたとオレは腹に据えかねている」
「またそれ、どうしてお前さまは水沢様をそう嫌うのですか。水沢様の奥様が見舞いに来た時も眠っていると私にウソつかせてまで会わないし!」
「うるさいな、嫌いなものは嫌いなんだ、仕方ないだろ! アイチチ……」
「分かりました。でも夫の命を助けてくれたのに何も礼をしなければ佐久間家の女は礼儀も知らぬのかと北ノ庄城下で笑われます。そんなの私耐えられません。佐々様も奥様が小丸から出向いて礼を述べたらしいですし、私、勝手にやらせてもらいます」
「勝手にしろ! ったく」
盛政は蒲団にもぐりこんだ。
「奥方様、水沢様へのお礼の品、揃っております」
侍女が揃えて持ってきた。あまり高価な品ではかえって迷惑なので、酒三樽と初鰹三匹だけであるが。
「そんないいものあやつにくれてやることない!」
「佐々様の奥様と量的には同じです。ちゃんとつり合いは取れております」
「……隆広は成政の妻からの礼品を受け取ったのか」
「はい、もっともすぐに掘割の人足たちへの労いで消えたらしいですが」
「ほれみろ! 人の謝礼をすぐに他人に与えるのならくれてやる必要なんてない!」
「何を言うのです。そういう使われ方をされてこそ、お渡しする意味があるのではないですか」
「まったく、ああ言えばこう言う! 勝手にしろ!」
頭から湯気を立てて、盛政は蒲団に入った。
「水沢様に本日伺うと伝えてありますか?」
秋鶴は侍女に尋ねた。
「はい、そろそろお約束した時間です」
「よろしい、では虎、出かけますよ」
「は―い」
盛政は飛び起きた。
「何で虎姫まで連れて行く!」
「なんでって……水沢様は北ノ庄で名うての美男。虎が見てみたいと言うので」
「い、いかん! 連れて行っては、イチチチ……!」
「夫の面倒をお願いね」
侍女に言い渡し、盛政の妻の秋鶴と娘の虎姫は下男に礼品を荷台に引かせて隆広の家に向かった。
「ごめんください」
「お待ちしておりました、さ、主人がお待ちです」
隆広の妻さえが秋鶴を通した。居間にて隆広は盛政の妻と娘に会った。もはや水沢隆広と佐久間盛政が犬猿の仲と言われているのは有名であったが、それゆえに隆広は盛政の妻と娘に会うのを楽しみにしていた。
「はじめまして、水沢隆広です」
「こちらこそ初に御意をえます。佐久間盛政の妻の秋鶴にございます。ここにいるのは娘の虎姫にございます」
「虎姫……ずいぶんと勇ましいご尊名。お父上の勇猛に相応しいですね」
母の後ろで頭を垂れていた虎姫は隆広の顔を見るなり頬をポッと染めた。美男と聞いてはいたが、それは秋鶴と虎の想像を超える尺度だった。
(あらあら、虎ったら)
「ご主人、盛政殿のご容態はいかがですか?」
「はい、おかげさまでもう庭を散歩できるほどになりました」
「そうですか、良かった」
「これというのも、小松の戦いで水沢様が夫を助けて下されたおかげです。夫は表立って礼はいいませんが、私ども佐久間家の女たちはとても感謝しております」
「いえ、同じ柴田家の者。当然の事をしただけです。周知のとおり、それがしと佐久間様はあまり仲が良くはないですが、それは平時の事です。立場が逆でも佐久間様はそれがしを助けて下されたはずです」
「ありがとうございます。お礼といってなんですが、佐久間家から礼品を用意しました。受け取って下されると幸いでございます」
「分かりました。ありがたく受け取ります。佐久間様の一日も早い快癒を祈っていると申していたと伝えて下さい」
「お言葉、嬉しく頂戴します」
その後、隆広とさえと秋鶴は楽しく歓談した。子供の虎にはつまらない話であろうが、虎はずっと隆広の顔を飽きることなく見ていたのである。
「虎、そろそろ帰りますよ」
「……もう?」
「何を言っているの、大人の話ばかりで退屈しているかと思っていたのに」
「ははは、そうだ。虎殿にはお土産を一つお渡ししましょう。さえ、小瓶のあれを」
「はい」
隆広は虎に一つの小瓶を渡した。それは透明なビン。虎も秋鶴も初めて見るビンである。
「これはギヤマン、南蛮の技術が作った透明なビンです。そして中にあるのは金平糖と言いまして、同じく南蛮の菓子です。手前のよく知る商人が堺土産にくれたのですよ」
「そんな貴重なものを娘に……」
「いえいえ、今日の縁を大切にしたいですから。私は戦時でも平時でも、佐久間様と共に柴田を支えていきたいのです」
「水沢様……」
ビンから金平糖を一つだけ取り出し、虎の口に優しく差し出す隆広。虎は恐る恐るそれを口に含んだ。
「あ、あま〜い!」
満面の笑みで口の中の金平糖をなめる虎姫。
「これを虎に?」
「ええ、受け取って下さい」
「ありがとう、水沢様!」
隆広とさえは秋鶴と虎姫の姿が見えなくなるまで家の前で見送っていた。秋鶴と虎姫は家に戻ると盛政に隆広を褒めちぎった。そんな隆広びいきの妻と娘の言葉に盛政の機嫌は悪くなった。
だが隆広が言った言葉の中で一つだけ嬉しいものがあった。それは『立場が逆でも佐久間様はそれがしを助けてくれたはず』と云う言葉。
そして思う。自分がその立場なら隆広を見捨てていただろうと。隆広の言葉を嬉しいと思う反面、たまらなく惨めにもなった盛政である。
そして虎姫は想像できただろうか。今日自分が頬をそめた相手と後に……。
この日、隆広は秋鶴と虎姫との面会を終えると源吾郎に会いに行った。本日に舞、すず、白が『流行つくり』の主命を終えて帰ってくると聞いていたからである。
三名は見事に越前の名産品の評判をあげて京と堺に販路を確立したのだった。それどころか堺の硫黄や、京の茶を越前敦賀への流通も取り付けたのである。彼らの働きに隆広は無論、当主である柴田勝家も満足させた。
「三名とも、素晴らしい出来栄えで満足している。お疲れ様」
「もったいなきお言葉にございます」
すずが頭を垂れた。源吾郎が隆広に盆を渡した。上には三つの袋が乗っていた。
「少ないが、オレからの気持ちだ。受け取ってくれ」
「うひょう! 気前のいいご主君て大好きよ! 隆広様!」
「これ舞! はしたない!」
「いいじゃないですか、上忍さまァ」
「まったく、最近のくノ一は慎みがない!」
すず、白も隆広からの報酬を受けた。本来彼らは上司忍者である源吾郎こと柴舟からの給金のみが収入である。現在で云う臨時賞与と云うところだろう。舞は銭の入った袋に頬擦りした。いまや北ノ庄は楽市楽座などで栄えてきているから、舞やすずにも欲しい物はある。里を出て北ノ庄番になったのが嬉しかった。任務がなければ彼女たちも普通の年頃の娘なのであるから。
「ふんだ、で、隆広様。次も『流行つくり』?」
「そうしたいところだが、もしかしたら近々合戦があるかもしれない。しばらくは待機だな。だがそれが落ち着いたら敦賀に来る蝦夷地の牡蠣を伊勢に広めたい。同時に伊勢海老を越前に入れたい。待機中はその方法を算段していてくれ」
「分かりました。蝦夷地の牡蠣と伊勢海老ですね。で、合戦て?」
「うん、実は先日に織田と畠山が同盟を結んだ」
「畠山ァ? 能登の小大名と大大名の織田がどうしてなのですか?」
「上杉に備えてだろうな。上杉は最近一向宗門徒と和睦し、北条家と同盟も結んでいる。もはや越後を攻めるのは出羽の最上くらいだ。そしてその最上へ対しては国境に防備を強化していると聞く。つまり越軍の大半は今自由が利く」
「能登の南の越中はすでに上杉領……。では能登を?」
「そうだ、だが一向宗と和睦したという事は、東加賀をそのまま妨害なしで通過できてしまう。湊川から西の西加賀は織田領。そこを取られたら……」
「この越前!」
「その通り。残念だが上杉軍は戦国最強の軍隊と云っていい。軍神謙信公率いる軍勢が畿内に乗り込んできたら、安土まで一直線だろう。なんとしても加賀で謙信公の南下は阻止しなくてはならない。それで利害の一致した能登の畠山と織田が同盟を結んだと云うワケだ」
「なるほど!」
「だが……謙信公南下が実際あるかはまだ分からない。謙信公はまだ春日山にいるそうだからな。何より謙信公は合戦の大義名分を大切にする。たんに能登領が欲しいからと進発はすまい」
「いや、ありうると考えた方が良いでしょう」
と、源吾郎。
「隆広様ならすでに承知でしょう。能登畠山家は分裂していると」
「聞いています」
「家老の遊佐続光を筆頭に親上杉派、同じく家老の長続連の親織田派、君主の畠山殿にはこの分裂をまとめる器量はなく、かつ病弱と聞いています。また上杉には畠山からの人質もございますれば……」
「確かに……オレが謙信公なら君側の奸を除き、人質の畠山某を立てると云う名目で能登を攻める。富山湾流通は謙信公とて欲しかろうしなァ……」
さきほどの陽気な顔と違い、引き締まった顔で舞は言った。
「では……上杉の動向、我らが内偵しましょう」
「いや、それはダメだ。上杉には軒猿衆と云う強力な忍者軍団がいる。忍者の世界に疎いオレですら軒猿の上忍の飛び加藤こと加藤段蔵の恐ろしさは聞いている。言うには心苦しいが荷が重い」
「な、なんだとお!」
舞は激怒して立ち上がり、冷静なすずや白も憤慨した。
「聞き捨てなりません!」
「そうです! 我らの忍びとしての力量を試しもしないでそれはあんまりです!」
「よさんか! 教えたであろう。忍びは徹底した現実主義たれと! 己の力量の算定に一切の水増しや過信も入れてはならぬと! 軒猿衆がどんなに恐ろしい忍びか! 知らぬとは言わさんぞ!」
「じゃあ上忍様も我ら三人では上杉内偵は無理だと言うのですか!」
「そうだ! 頭領の銅蔵が『飛び加藤』あるうちは軒猿と事を構えるなと何度もクチをすっぱくして言っていたのを忘れたのか!」
「お言葉ですが父上、飛び加藤はすでに老境にございます! 聞けば武田の軍師だった山本勘助と同年と云うではないですか! もはや八十歳の老人をどうしてそんなに恐れるのですか!」
「白、忍びの力量を年齢で測っている時点でお前は忍び失格だ! よいか、私も隆広様と同意見だ! お前たちでは荷が重い!」
三人は立ち上がり、部屋を出て行く。
「どこへ行くか!」
「心配しなくても越後なんて行きません! ど―せ私たちは迫りつつある敵国の情勢さえ探れないダメ忍者ですから! せっかく隆広様にお小遣いをもらえたし! 城下で饅頭でも食べてきます! ふんだ」
三人はふて腐れたまま、部屋を出て行った。
「申し訳ございません……お見苦しいところを見せて。やつらは里の中で優秀な忍びと言われ、『流行つくり』でも成果を示しました。少し天狗になっているのでしょう」
「いえ……少しでもそれがしの役に立とうと云う気持ちは嬉しかったです。それがし直属の忍びが動かずとも、殿や大殿の忍びが動いているはず。上杉の情報はそれらに任せましょう。それで柴舟殿、もし上杉が南下をした場合は忍兵をお貸し願いたいのです。小松の戦では助力得ずとも大丈夫と思いましたが、もしかかる戦が現実になれば相手は軍神謙信公。助力を請いたいのです。そしてその者たちの指揮は舞たちに任せますゆえ」
「承知しました。里に連絡を入れておきます」
「あともう一つ、ある作戦のため用意していただきたいものがあります。出世払いになりそうなので申し訳ないのですが……」
「なんでしょう? 我らが用意できるのであれば」
「はい、それは……」
北ノ庄城下の甘茶屋で舞たちは本当に饅頭を食べていた。
「あ〜面白くないなァ。私たちそんなに頼りなく思われているのかな」
四つ目の饅頭をクチに運ぶ舞。
「いや、外に出て頭を冷やすと少し冷静な判断もできてきた。隆広様は内政主命でも適材適所を心がけておられる。上杉との戦が現実になったとしても、きっと違う局面で用いて下さるよ」
父の言うとおり、忍びのチカラを年齢で判断してしまった自分に反省しながら白はところ天をクチに運ぶ。
「そうね。でも隆広様の危惧が当たった場合、私たちはあの軍神と呼ばれる謙信公と戦う事になるのだから、心しておかないと」
ズズズと茶を飲むすず。
「とりあえず今は待機と言われています。その間は上忍様のお店を手伝いながら、隆広様の護衛をしつつ指示を待ちましょう」
本当は二人が自分の考えに同調してくれて、一緒に不満をガ―ッと言いたかった舞。しかし白とすずは頭の切り替えが早い。もうさっきの憤慨は消えていた。少し残念の舞。
「ねえ、ところで護衛といえばさ。里から出された私たちの任務には『隆広様の護衛』があるけれど、『流行つくり』や他の主命を受けた時はできないよね。隆広様の兵や部下の将たちなんかちゃんとやっているの?」
「何度か助右衛門殿や父の源吾郎も隆広様に屋敷へ番兵を置くことを薦めたらしいが、隆広様は固辞したらしい」
「なんでよ白、確か部屋三つに風呂と庭に厩舎。結構広いのに…………あ、そうか」
「そういうことだ」
「……? 二人ともどうしたの」
「分からない、すず? 我らが主君は奥様との大切な二人の時間と空間を邪魔されたくないの」
すずの顔が赤くなった。
「なに赤くなってんのよ」
「赤くなってなんかないわよ!」
「かなり好きあっているって話だものねえ。閨もアツアツかも」
「主君のそういう話をするのどうかと思う! 私帰る!」
すずはスタスタと店を出て行った。
「なに怒ってんのかしら」
苦笑する舞と白。
「しかし舞、どうせ主命があるまで待機だ。隆広様の士分は今まで低かったから他の大名や門徒の刺客の心配などなかったろうが、今や柴田の侍大将で、かつ隆広様は小松攻めの時に戦後処理を担当したと聞く。門徒の恨みが向けられる事も考えられる。交代で寝ずの番をさせてもらう事を父の源吾郎に許可してもらおう」
「そうね。すいません、お勘定!」
夕刻、隆広は自宅への帰路にあった。足軽組頭以上の士分が住む武家屋敷は北ノ庄城からほど近い。また武家屋敷の一角に入るには兵の守る門をくぐらねばならない。それは寝ずの番で行われているが、やはり足軽大将以上の士分になると、だいたい番兵を屋敷に置いていた。
だが隆広は置かなかった。それは舞の見越したとおり、さえとの甘い生活を邪魔されたくないからである。後の歴史家もこの点は隆広の無警戒ぶりを指している。
そしてこの日、自宅に戻る道すがら隆広は道で倒れている老人に出会った。身なりの汚い老人だった。顔もやつれ、何日も食事をしていない、そんな状態だった。
「ううう……」
「もし、ご老体いかがしました?」
「……う、うう……情けあれば……水を……」
「…これはいかん、お飲み下さい」
竹の水筒を隆広は渡した。
「ありがたや……」
「どうされたのですか? こんなにボロボロになるまで」
「いや……ただの家なしの流れ者にござる。お笑い下され……。これでもそれがし元は越前の野武士……。しかし参加する戦と云う戦すべてが負け戦。名を成せないままに気がつけばこの歳……。せめて死ぬなら故郷へと……そう思いここまで来ました」
隆広はしばらく老人の顔を見つめた。
「……少しご老体の話を聞かせてくれませんか? 講義料は一食と一日の寝床にございます」
「……は?」
「見ての通り、手前は若輩。お年寄りの体験は何よりの参考となるのです。失礼ながら成功したお話より、失敗されたお話の方が。いかがですか?」
「…………」
「話したくなければ結構です。しかしこのまま通り過ぎるわけにもいきますまい。手前の背に乗って下さい」
「も、もったいない。身なりを見るに相当に身分の高い士分の方。それがしなどを背負うたら臭いますぞ」
隆広は戸惑う老人を何も言わずに背負い、そのまま家に連れ帰った。最初さえは隆広が汚い年寄りを連れてきて驚いたが、隆広はそのまま風呂に連れて行き、髷を整えて隆広の着物を着せると結構上品な年寄りに見えた。空腹で急に物を詰めては毒と、さえの作ったカユを美味しそうに食べた。
「名乗るのが遅れました。水沢隆広です」
「妻のさえです」
「これは丁寧に……それがしは源蔵と申します。しかし、話を聞かせろと申されても水沢様はあの美濃斉藤家の名将水沢隆家殿のご養子君。それがしがお話できる事などございません」
「手前は出来ることならこの日本の戦国の世を駆けぬけ、現在は隠居している老将たちの話を敵味方関係なく、すべて聞きたいとさえ思っています。ですがとうていそれは無理です。年寄りのシワの中には経験と叡智が隠れております。たとえそれが失敗談でも。あとに続く手前にお伝え下さい」
おだてるのが上手い、横でさえはそう感じていた。
「分かりました。では……」
隆広のおだてに気をよくしたか、老人は惜しみなく自分の体験談を話した。昔は甲斐の国にいて武田の信濃攻めに参加した事とか、北条氏の里見攻めにも参加したなどと、とにかく老人は関東甲信越の古い合戦についてよく知っていた。知らず知らず、さえもその話に聞き入ってしまった。
知り合った年寄りに話を聞く。これは隆広の養父である隆家がよくやっていた事である。これはと見た老人からは徹底して体験談や見聞録を聞かせてもらい、それを記録し研究して、最後には自分の叡智としてしまう。先人の生きた経験を学び、玩味し、さながら自分が見聞きし経験したかのように昇華した智恵にしてしまうのは水沢流の勉強方法であったのだ。
隆広は最初に源蔵に会った時、彼の言動と顔に見える雰囲気から学ぶに足る知識を持っている老人と養父譲りの『年寄り目利き』で見抜いたのだろう。
源蔵の話に身を乗り出して聞いていた。年寄りにとり、若い者が自分の話しに夢中になってくれるほどに嬉しい事はない。途中から酒も勧められ、源蔵の話は尽きることなく続いた。さすがにさえは途中で眠ってしまった。
「奥様には少し退屈なお話でしたかな」
「そんなことはございません。妻とて武家の娘で、妻なのですから」
「しかし、久しぶりに楽しい一日でした。老い先短いそれがしの話が水沢様の今後に役立ては負け人生だったそれがしも報われると云うものです」
「楽しかったのはそれがしも同じです。まさか山本勘助公、宇佐美定満公の用兵までお聞かせ願えるとは考えてもいませんでした。甲越の名軍師の軌跡、胸が震えました」
「勘助公、定満公の用兵は、鉄砲が主流となりつつ織田の戦ではさほど使い道がないかもしれませんが、騎馬と歩兵を用いる用兵に両名のそれは戦国屈指と、それがしは思います。水沢様の用兵に役立てばお二人も喜ぶでしょう」
「ありがとうございます。隣室に寝所を用意してございます。今日はもうお休み下さい」
「かたじけない」
隆広はさえを蒲団の上に寝かせ、自分はその横に寝て、妻の寝息を心地よく聞きながら眠りについた。隣室の源蔵の目はまだ開いていた。
(聞いたとおりの男であった……)
フッと笑い、源蔵もまた眠りに着いた。
時を同じころ、北ノ庄城下の宿。二人の旅の僧侶がいた。
「何人集まった?」
「四人だ」
「そうか、我ら合わせて六名……。まあ十分だろう。いかに上泉信綱直伝の腕前だろうと、寝込みを襲えばひとたまりもないわ」
「しかし、侍大将までの士分になって番兵も置かぬとはな。無用心も甚だしい」
「ヤツは愛妻家で有名と聞く。二人の空間を大事にしているのだろう。ならばヤツの目の前で愛妻を犯してやろう。そのくらいせねば気がおさまらぬわ!」
「ああ、小松城の無念晴らしてくれよう」
「突き詰めれば、諸悪の根源は信長であろうし、ヤツはその部下の勝家の命令をただ受けた実行者にすぎぬかもしれぬが、それを甘受した以上ヤツも仏敵! 今日限りの命日と知れ! 水沢隆広!」
第二章『刺客』に続く。