天地燃ゆ

第七部『歩の一文字』

第六章『小松城の戦い』(後編)

 柴田勝家率いる軍勢一万六千の兵は、大聖寺城を橋頭堡に一向宗門徒五千の篭る小松城に攻め寄った。隆広は勝家本隊と共に後詰として位置していた。
 そして小松城に到着した当日、小松城の東に沼地があり、敵方が寄せようのない事から城の東方は警備と防備が手薄と判明した。沼地の水深は比較的浅いので、夜のうちに木板や筏を沼地に並べるように浮かせて侵入経路を作り、そこから攻めてはどうかと云う隆広の意見が通った。
 翌日に佐久間盛政隊、佐々成政隊、前田利家隊、毛受勝照隊、不破光治隊が城に一斉攻撃を仕掛けると勝家が決定した。
 その夜間の作業は隆広が指揮を執る事になり、隆広は本陣をあとにして全軍の工兵を集めた。
「翌朝になって敵に仕掛けがばれては何にもならない。今のうちから木々の伐採にかかってもらい、夜間で沼地の水面を板と丸太で覆いつくす。そして夜が明ける前に夜襲をかける。こたびの合戦、そなたら工兵にかかっているぞ!」
「「ハハッ」」

 時を同じころ、柴田勢本陣。
「申し上げます!」
「うむ」
「敵軍勢、二千で討って出てきました!」
「向こうから出てきたか! よし、備えていた先鋒の盛政、成政、利家、勝照、光治の軍勢に当たらせよ!」
「ハッ!」

「申し上げます!」
 本陣から離れた隆広の本陣、戦闘状態に入った事が伝令により報告された。
「戦闘状態に入ったと?」
「はっ 小松勢が城から討って出て参りました!」
 状況が変わった。もはや隆広の城攻めの策は使うに適さない。
「そうか……。佐吉、工兵に伐採は中止し各備えに戻れと伝えよ」
「はっ」
「で、討って出てきた敵勢の兵数はいかほどか」
「二千ほどにございます」
「二千……?」
「はい、そして討って出てきたものの柴田の陣容を見てすぐに退きました。すぐに追撃しておりますが、敵勢と共に小松城に雪崩れ込めるのは必定かと」
 隆広はそれを聞くとすぐに本陣の軍机に置いてある地形図、そして勝家の忍びが掴んだ小松城の簡略図を見て軍机に扇子を叩きつけた。
「バカな! すぐに先鋒隊を退かせろ! 罠だ!」
「は……?」
「急ぐのだ! 先鋒隊が全滅する!」
「は、ははッ!」
「慶次、伝令兵一人では止まるまい、そなたも行け。松風の迫力ならばたいていの馬は止まる。大手門をくぐったら最期だと脅してまいれ!」
「ハッ!」
 前田慶次はすぐに陣幕を出て、自分の手勢を率いて先鋒隊に向かった。

 隆広はそのまま頭を抱えて軍机にもたれた。
「隆広様……罠とは? しかも全滅とは……」
 奥村助右衛門が尋ねた。
「この小松城の図面を見ろ」
「図面……?」
「大手門を越えると広大な空地がある。オレが城主ならば、ここに落とし穴を掘り、城に引き入れて敵の軍勢を落とし、身動きが取れなくなったところに一斉射撃をして駆逐する」
「隆広様、そんな奇計を考え付くのは隆広様だからでございましょう。敵将の若林長門がそんな高度な策を扱えるとは……」
「……佐吉、合戦は常に最悪の事も考えなくてはならない。オレの危惧がハズレならば、それが一番いい。しかし的中した場合先鋒隊は全滅する。落とし穴に落ちたら鉄砲などいらぬ。弓矢で全軍ハリネズミだ」
 水沢軍の軍監を務める老練の中村文荷斎も小松城の簡略図をしばらく眺め
「おそらく隆広の危惧は当たりじゃろう。隆広、永福(助右衛門)も向かわせて止めたほうが良かろう」
 と、意見を同じくした。
「はい! 助右衛門頼む!」
「承知しました! 奥村隊ついてまいれ!」
「「ハハッ!」」

「よし! 敵は引くぞ! このまま小松に雪崩れ込め―ッ!」
 佐久間盛政と佐々成政は有利を確信して、敵勢を追撃しながら小松の大手門をくぐった。
「…………ッ!」

 ドドドドッッ!

「なんだこれは!」
「うわあッ! 落とし穴だ!」
「助けてくれ―ッ!」

 佐久間盛政隊、佐々成政隊がそんな状況とは知らず、前田利家、不破光治、毛受勝照隊も大手門に迫りつつあった、その時。

 ドンッ

 前田慶次が先鋒の前田利家隊の先に回りこんだ。そして松風が脅威の眼光を持って将兵の乗る馬を見た。馬は恐怖で凍りつき、一斉に止まった。急に止まり落馬する者が相次いだが、利家、光治、勝照は馬の首を掴んでこらえた。
「なにをするか慶次!」
「叔父御! そして先鋒を務める各将よ! 我が主君隆広の言葉を伝えます。『大手門をくぐれば最期だ』と!」
「さ、最期? それはどういう意味か」
「さあ、そういう指示でございますので」
「さ、さあとは何だ! キサマそんなあやふやな指示でこの攻撃の好機に横槍入れたのか!」
「利家様!」
「助右衛門……」
「ハアハア、すいません。詳細を伝えます」
 奥村助右衛門は利家、光治、勝照に隆広の意図を説明した。ようやく理解を示した三将。
「確かに……敵にそんな備えがあったら我らは壊滅だ。しかしそれは想像の範疇であろうが! 今ごろ雪崩れ込んだ軍勢は後につづく我らが来ずに苦戦しているかもしれぬのだぞ!」
 と毛受勝照が助右衛門を叱った時だった。大手門から命からがら逃げてきた兵がいた。

「お、お引きを! 敵に策がありました! 大手門をくぐった直後に落とし穴にはまり、狙い済ましたように城壁から雨のような矢が! 佐久間隊、佐々隊壊滅にございます!」
「なんだと……!」
 助右衛門を叱っていた毛受勝照は絶句した。

 ダーンッ!

「ぐあ!」
 利家たちに先手の凄惨を伝えた兵は狙撃により絶命した。
「なんとしたことだ……! こんな二流の策にひっかかるとは!」
「前田様―ッ!」
 隆広が兵をつれてやってきた。
「おお、隆広!」
「前田様、不破様、毛受様! ここは大手門周囲を包囲して鉄砲と弓矢で敵を牽制して佐久間隊と佐々隊の救助をする以外にありません!」
「分かった! よいか! 前田、不破、毛受の各隊は水沢隊の指揮下に入る! 飛び道具を持つ者は大手門周辺に配備! 騎馬隊は馬から降り盾を持ち射手の防備! 歩兵は佐久間隊、佐々隊の救助に入れ!」
「「ハハッ!」」

 大手門周辺の激闘が始まった。隆広は鉄砲と弓を交互に撃たせ、城壁の射手を狙撃した。こうなると柴田軍の方が数は多い。城壁の上にある射手はバタバタと倒れていった。
 当然、この様子は本陣の勝家に伝わった。
「佐久間隊と佐々隊が壊滅だと!」
「はっ 辛うじて前田隊、不破隊、毛受隊は水沢隊の制止が間に合い難を逃れましたが佐久間隊と佐々隊はほぼ壊滅!」
「なんということじゃ!」
「現在、大手門周辺で水沢隆広様指揮の元に攻撃中!」
「よし! ワシも討って出る!」
「なりませんぞ殿!」
「ええい止めるな文荷斎! だいたいキサマ、隆広の軍監であろう、ここで何をしているか!」
「隆広は、『状況を知れば殿は出てくるに違いない。それを止めてください』とそれがしに頼みこちらに寄こしました! 今のそれがしの主は隆広にございます。その命令に従わなくてはなりませぬ。絶対に殿をここから出しませんぞ!」

 佐久間隊と佐々隊の救助に向かったのは隆広の兵である。城門をくぐると同時に槍が襲ってきたが、隆広は弓隊の盾隊を槍隊と行動させた。盾隊は鉄砲の弾さえ通さない鉄板を張った大盾を渡されている。ふいをついてきたが、それは盾に封じられ、逆に隆広の兵たちの槍に突かれた。
 それを繰り返しているうちに大手門周辺から敵は後退していった。佐久間隊と佐々隊の生存者はわずか全体の六割程度。四割にも及ぶ犠牲者を出してしまった。盛政と成政は辛うじて生き延び、城外に助け出された。自分を肩にかつぐ兵士の旗指しを見て隆広の兵と分かると、盛政は悔しさで一杯になった。一番助けられたくない男に助けられたと思ったからである。生存者すべてが城外に連れ出されたと隆広に伝えられると
「どんな巧妙な罠も成功しなければ裏目に出る。開放済みの大手門から一気に攻め入る。本陣に本隊、可児隊、徳山隊、金森隊の加勢を要請! 一気に本丸に突撃する!」
 と号令した。
「「オオオッッ!!」」

 小松城は落ちた。城主の若林長門は金沢御殿に逃げ延びた。大手門で勝家はその報告を受けて追撃を命じたが、早い時期に彼はすでに逃げていたので追いつけなかった。落とし穴に伴う奇計は時間稼ぎであったのだろう。小松勢の犠牲者はまたも名もない門徒である。
 城下の長屋も火に包まれた。それを指示したのは隆広である。もはや抵抗するチカラをなくした門徒たちが捕らわれていく。着物が乱れた女が死んでいた。おそらく柴田の兵士に陵辱されたのであろう。その女の死体の側に二人の童がいた。小さい妹は母の亡骸にすがりついて泣き、その兄と思える童は悔し涙と鼻水を流して隆広を睨んでいた。隆広はその視線から目を逸らさなかった。いや逸らせなかった。
 小松城を占拠し、そして勝どきをあげる柴田軍。だが隆広の顔には笑顔はなかった。
 柴田勝家は小松城に残る者の殄戮(『てんりく』殺し尽くす事)を隆広に命じた。下命の時、
「良いか、大殿の『女子供一人でも生きていた場合は城を落としても認めぬ』と直にそなたは聞いたのだ。わかっておろうな、殄戮せよ!」
 と厳命した。この戦いには信長直属の戦目付けも柴田本陣にいる。ごまかしなど利かないのである。隆広の繊細で優しい気性を知る前田利家や不破光治は『隆広では逃がす可能性がある。あいつの優しい性格では無理』と考え、我々の隊がやると名乗り出たが、『過保護じゃ』と勝家に一喝されてしまった。隆広にとり、ここまで敵を殲滅した合戦は初めてでもあった。そしてその指揮を自分が担当したのも。

 隆広と助右衛門が城下の家に入ると、短刀を構えて震えている少女がいた。妻のさえと年ごろが同じで、その娘はさえが好む桃色の着物を着ていた。隆広の後ろに立つ奥村助右衛門が言った。
「どうします? 殺しますか、楽しみますか?」
「楽しむ……? 犯せとでも言うのか?」
「それが敗者の定めです。奥方以外の女は知らぬのでしょう? 楽しんだらどうです? 奥方には遠慮してできない行為も好きなだけできまする」
 助右衛門は隆広が戸惑うほど、日常クチにしない無慈悲な言葉をことさら娘に聞こえるように言う。娘は首に短刀を突きつけた。
「仏敵勝家の下っ端武将にこの身を汚されるくらいなら!」
「よ、よせ!」
「南無阿弥陀仏……! これで御仏の元に行ける……!」

 ザシュッ!

 娘は自ら首を切り裂いた。吹き出した血が隆広にかかる。
「バカな事を……! あたら花の命を何て粗末に……!」
 隆広はガクリと膝をついた。
「どのみち……陵辱された上の斬刑が娘には待っていた……。当家の雑兵に犯されることなく、自分で命を断てた分だけマシでしょう」
「助右衛門……!」
「『見逃すと云う選択肢があったではないか』と云う目ですな。だがそれはできません。確かに女は殺すものでなく愛でるもの。されど一向宗門徒に限っては別です。殄戮せぬ限り、血に飢えた敵の雑兵に恋女房を献じるのはいずれ我々になります」
「…………」
「大殿に、門徒一人でも逃がしたら城を落としても認めぬ。そう言われておられるはずですな?」
「言われている」
「なら、ためらいますな。鬼になられよ」
「……分かった」
「さ、次の家に参りましょう」
 次の家には火の手が上がっていた。だが火の手をあげて、そのすきに逃げ出すと云う方法もありうるので隆広と助右衛門は家に入った。すると、そこでは二十人ほどの家族が集団自決をしていたのである。幼い子も、年寄りもいた。
「う、ううう……」
「生きているのか……!」
 隆広は苦悶の声をあげている者のところへ走った。その者もまた、さえと歳が同じ頃の娘だった。死にきれず、苦悶しながらも娘は自分に歩んでくる者がいることに気付いた。
「あ、あなたはお味方ですか……敵……ですか……」
「……味方だ、安心なさい」
『敵だ』と隆広は言えなかった。娘の苦悶の顔から安堵の表情が出た。
「どうぞ……とどめを……!」
「……分かった、今……ラクにしてさしあげる」
 隆広はうつぶせで横たわる娘の左肩をあげ、そこから心臓めがけて脇差を刺した。脇差を収め合掌し、隆広はその場を立った。
「次にいくぞ」
「……は!」
 隆広の指揮の元、潜んでいた門徒たちは見つけられ、ある者は斬られ、またある者は捕らえられた。味方の家族たちのため、領民のため、隆広は鬼になるしかなかった。
 勝家は『降伏も許さず斬れ』と命じている。それほどに『南無阿弥陀仏と唱えて死ねば極楽に行ける』と盲信している一向宗門徒の狂気を恐れていたのである。義将と呼ばれる上杉謙信でさえ、一向宗門徒との戦いでは殄戮を迷わなかったと言われている。

 捕らえられた者たちの処刑が始まる。小松城の錬兵場でそれは行われる。勝家が見分の元、どんどん処刑場に門徒たちが連行されてきた。勝家のすぐ横に隆広は座らされた。兵が報告に来た。
「殿、捕らえました門徒たち。おおよそ数百人と云うところです。他に潜んでいた者たちは水沢様指揮の元に殄戮いたしてございます」
「ふむ、隆広ようやった」
「……はっ」
「あとは捕らえた者たちを見せしめのため処刑するだけじゃ。織田家に矛を向けたらどうなるか門徒も少しは理解しよう」
 連行されてきたのは負傷兵、そして女子供と年寄りたちだった。女の中には全裸の上、大腿部に血を垂らして歩かされている者もいた。おそらく隆広の兵以外の雑兵たちが陵辱したのだろう。心身傷つき、焦点の定まらない目。その女は勝家の前で立ち止まった。
「おのれ……柴田勝家! 人面獣心の悪鬼羅刹! 末代まで織田と柴田に祟ってくれようぞ!」
 憎悪のまなざし、そして血を吐くように恨みを叫ぶ女。勝家は視線を逸らさなかった。
「斬れ」
「地獄の鬼になって! 永遠に柴田に祟り続ける!」

 ズバッ

「ギャアアアッッ!」
 隆広は目を背けた。連行されてきた女たちは老婆を除けば全員陵辱されていた。
 織田と柴田の軍規では略奪や陵辱が固く禁じられている。だが一向宗門徒相手には別だった。『犯すなり好きにせい』と許されている。だから柴田の兵は容赦なく若い娘を捕まえて集団で犯したのである。隆広の隊だけは相手が一向宗門徒であろうと略奪と陵辱は禁じているが、他の隊は違うのである。
「ひどい……あんなまだ初潮も向かえていないような娘まで……!」
 まだ十歳くらいの娘がボロボロの状態で連行されてきた。誰が犯したのかは知らない。だがそんな者が味方にいると隆広は信じたくなかった。
 処刑場に残る門徒すべてが連れてこられた。勝家はスッと立ち上がり指示した。
「皆殺しにせよ!」
「「ハハッ!」」

 さながら屠殺場のような処刑が隆広の眼前で繰り広げられた。始まって間もなく隆広は嘔吐を覚え、勝家の傍らから離れた。だが勝家は厳しかった。隆広の後ろに座っていた前田慶次に命じた。
「……慶次、連れ戻せ」
「はっ」

 処刑場の外で隆広は嘔吐していた。
「オエエ…」
「惰弱な!」
「慶次……」
「いかに傑出した軍才と行政能力があったとしても! そんな細い精神で乱世を生き残れるとお思いか!」
「もういい……! たくさんだ……!」
 慶次は隆広の言い分を聞かずに奥襟を掴んで処刑場にズルズルと引きずっていった。
「は、はなせ! 見たくない!」
「いや見なければならない! 見る義務が隆広様にはあるのです!」
 隆広はそのまま慶次に引きずられて、再び勝家の横に連れてこられた。
「見届けよ。これが戦よ」
「……殿」
 小松城攻め。隆広の一つの機転がもたらした勝利だった。だが隆広にはあまりにも辛い勝利だった。

 小松城代に徳山則秀が命じられ、柴田軍は北ノ庄に凱旋した。領民の歓呼の声に迎えられる柴田軍。さえは隆広を見つけた。『お前さま』と声をかけようとしたが、できなかった。他の将兵が勝ち戦で沸き返り、領民に手を振っているに関わらず、隆広だけ大敗でもしたかのように憔悴しきっていたからである。
 その隆広の後ろを進む助右衛門、慶次、佐吉も心配そうである。
「勝ったというのに元気がない。隆広様は勝った後の戦後処理で心を痛められたようだ」
「それを云うな助右衛門……。伊丹の時と今回の戦は違う。一向宗門徒が相手だ。根絶やしにしない限り、越前に平和はこない。勝家様とて辛かった決断だろう……」
「しかし慶次様……! 何も隆広様にやらせなくても……!」
「オレが勝家様でも隆広様に命じている。隆広様の最大の欠点は心がお優しすぎること。荒療治も必要だろう……」
「だからといって……! ああ、おいたわしい……!」
「もう泣くな佐吉。凱旋中だぞ」

 軍勢は錬兵場で解散し、隆広はトボトボと家路についた。笑顔で夫を迎えるさえ。三つ指を立ててかしずく。
「おかえりなさいませ」
「……ただいま」
「あらあら、そんな汚れて! 湯が沸いていますよ!」
「…………」
 愛妻の笑顔を見た瞬間に、隆広はこみ上げる気持ちを抑えきれなくなった。
「さえ……」
「はい?」
「さえ……ッ!」
 隆広はさえを抱きついた。膝枕に顔を埋める。少し肩が震えていた。最初は驚いたさえだが、すぐに隆広を抱きしめた。
「つらいことが……あったのですね……」
「…………」
「泣いてください、男だからって我慢する事はないのです。思い切り泣いてください」
 さえは少し嬉しかった。いつも自分を子ども扱いしていた夫が子供のように自分に甘えてくれた事が。弱みを見せてくれた事が。

 一方、勝家の妻のお市はと云うと
「隆広にそんなことをさせたのですか!」
「何をそんなに怒っているのだ」
 事を聞くと、市は憤然として勝家に怒鳴った。勝家の持つ杯に注ごうとしていた酒を引っ込めて酒瓶を畳にドンと置いた。
「あの優しい隆広に殄戮を命じるなんて! 今ごろどんなに心を痛めているか!」
「確かに内政においては、あの優しさはいいだろう。だが戦時においては命取りにもなる! ワシが意地悪な気持ちで命じたとでも思っているのか! 一向宗門徒相手には鬼とならねばならぬ。荒療治が必要だった」
「ですが、悪夢にでもうなされて立ち直れなくなったら……!」
「そんな弱い男に隆家殿が養育するものか。しばらくは沈んでいても必ず立ち直るわ」
『酒!』と云わんばかりに杯を市に出す勝家。
「殿……」
「心配いらぬ。さえもおるし、助右衛門たちもついている。何よりあやつはワシらの……」
 少しの微笑を浮かべ、勝家は市に注がれた酒を飲み干した。

「もう泣き虫は静まりました……?」
「うん……。少しみっともなかったけれど思い切り泣いてスッとしたよ。ありがとう、さえ」
「ううん、少し嬉しかったです。だってお前さまが子供のように……うふ♪」
「偽善の極地だけれど……加賀も越前も、そして日の本からも戦をなくして平和な世にすることが……オレが手を下した人々への唯一の償いのような気がする。そう信じて働くよ。殿のために、北ノ庄の人々のために、そしてさえのために」
「お前さま……」
「さあ、明日からまた行政官に逆戻りだ。忙しくなるな」
「はい」
「だから、もう一回……」
「んもう……何で、それが『だから』に繋がるのですか? 助平……」


第七部『歩の一文字』 完


第八部『嵐の前の静けさ』
第一章『路傍の賢者』に続く。