天地燃ゆ

第六部『総大将』

第四章『黒田官兵衛』

 隆広の伊丹城攻略成功の報は国許の勝家にも届けられ、妻のさえも知るところとなった。特に水攻めという電撃的な作戦を成功させたことを勝家は事のほか喜び、さえも早く夫を誉めてあげたくて帰宅を首長くして待っていた。
 信長が伊丹城から尼崎城に出陣した翌日、水沢隆広と明智光秀の城代交代が正式に行われた。まだ起き上がるに容易ではない隆広に光秀は気遣い、隆広が療養している伊丹城二ノ丸で隆広が蒲団に入ったまま行われた。
「すいません、明智様。横になったままでこんな大事な辞令を……」
「気になされるな。それにしても柴田殿はよき家臣を召抱えられました。光秀、昨日の隆広殿の勇気、感服しました」
「いえ……なんか無我夢中で……」
「はははは、とにかく体がよくなるまで城におとどまりあれ。官兵衛殿の方もこちらでちゃんと対処いたしますから」
「ありがとうございます」
「そうそう、隆広殿は大根はお好きかな?」
「は、はい大好きですが。特に妻の作る煮物のが……」
「ははは、この地の名産は大根でしてな。奥方の手料理にはかなわないかもしれませぬが、ふかした大根などが療養中にはちょうどいいでしょう。じきに持ってこさせますゆえ」
「あ、それはぜひ食べてみたいです」
「食欲があるのなら、じきに立って歩けるでしょう。では私はこれにて」
「色々と面倒かけます」

 隆広率いる柴田軍は引き上げを開始した。一陣の佐久間盛政、ニ陣の佐々成政、三陣の金森長近、四陣の可児才蔵、五陣の不破光治は伊丹城を出て北ノ庄城に向かったが、隆広と副将であった前田利家はまだ若干の後始末が残っていたのと、隆広の体調を考えてまだ滞在していた。処刑中止から五日後、隆広の容態は良くなり、利家と共に残務を行い出した。翌日に引き上げをするつもりである。
「正直、こうして隆広と平穏に戦後処理の文書を書き上げているのがウソのじゃな。今回の城攻めはずいぶんと苦労するだろうと感じていたからな」
「これも利家様たちのおかげです」
「こやつめ、世辞もだいぶ板についてきたではないか」

「申し上げます」
「なんだ佐吉」
「長浜より、稲田大炊殿、早馬にて到着しました。隆広様との面会を求めているとの事」
「稲田大炊殿? 羽柴様配下の猛将の……?」
「そうです」
「隆広、だいぶ家中の者もお前に面会を求めるようになったな。文書処理はもうすぐ終わるからワシとワシの部下たちだけでいい。稲田大炊と会ってくるがいい。おそらく官兵衛生還についてだろう」
「はい」
 伊丹城本丸は光秀に渡しているので、隆広と利家一行は二ノ丸にいる。稲田大炊はそこに通されて隆広を待った。稲田大炊の後ろにはもう一人いる。
「お待たせしました。柴田勝家家臣、水沢隆広です」
 稲田大炊の待つ部屋に隆広は入った。
「お忙しいところに申し訳ございません。羽柴秀吉家臣、稲田大炊助です。そしてこちらにおわすは……」
 稲田大炊の後ろに控えていた細面の武士が隆広に深々と頭を垂れた。
「女……?」
「はい、黒田官兵衛の妻、幸円です」
「貴女が……」
「はい、先日に前田様の早馬が長浜にお越しになり、夫の生存を知りました。それを聞いて私はいてもたってもいられなくて……。また聞けば夫は暗い土牢に閉じ込められて片足を悪くされたとか……! 妻として……長浜でジッとなんてしてられず……秀吉様にお願いして稲田様と共に伊丹に来ることを許していただいたのです」
「そうでしたか……」
(きれいな人だなあ……)

「主人秀吉も、官兵衛殿生還を歓喜しておりました。お救い下された水沢殿には羽柴家あげて礼をせねばならぬところですが、今はとにかく官兵衛殿の様子が早く知りたいのです。礼を後回しにして申し訳ござらぬが、ぜひ官兵衛殿に会わせてくだされ」
「お礼なんて……同じ織田の家臣同士ではないですか。当たり前のことをしただけです。官兵衛殿もこの二ノ丸で療養しております。幸い峠を越したそうですし、今はゆっくり眠っています。起こさぬよう注意して下されれば……」
「もちろんです」
「ああ! 水沢様、早く夫に会わせて下さい!」
「分かりました、どうぞこちらに」

 そして幸円は見た。やせ細り、シャレ者の夫が無精ヒゲを伸ばし放題で精も根も尽き果てて眠っている様を。
(ああ……! なんて姿に……!)
 官兵衛を看病していた侍女たちは隆広と稲田大炊に頭を垂れて、部屋を出て行った。
「想像以上にひどいですね……」
 稲田大炊は顔をしかめた。
「これでもだいぶ落ち着いたのです。一昨日までは高熱と悪寒と異常な発汗……。ひんぱんに寝巻きを変える必要がありそうでしたから、さきほどの侍女を交代で看病させまして……。本日朝にようやく意識を取り戻し薬湯を飲ませました。薬が効いたか、ご覧の通り今はぐっすり眠っています」
「ありがとうございます……。もう少し伊丹城を落とすのが遅れたり……水沢様の適切な処置がなければ今ごろ夫は……!」
「奥方、顔をあげて下さい。官兵衛殿とそれがしは同じ織田の家臣です。当たり前のことをしただけなのですから」
「何とお礼を申し上げてよいか……」

 隆広と稲田大炊は官兵衛と幸円二人だけにしてやろうと思い、部屋を出た。
「大炊殿、官兵衛殿は嫡男松寿丸の死を知りません。今知らせると心痛も大きいと思うので……」
「ああ、それは心配いりませぬ」
「え?」
「確かに大殿より松寿丸を殺せと云う命令はありました。実行せねば羽柴にも叛意ありと受け取ると云う厳命でした。殿も苦悩されましたが殺さないと決断し、そして半兵衛殿が機転を利かせて匿いましてございます」
「義兄上が!」
「はい、領内で病にて死んだ同年の童の死体を届けましてございます。疑い深い大殿ですが松寿丸と面識がないのが幸いでしたよ」
「良かった……」
「それがしは、明智様に官兵衛殿と幸円殿のことを頼み、その後に殿へ報告するため長浜にすぐに帰ります。あわただしくて、ろくに水沢殿とお話もできず残念です」
「それがしも残念です。ぜひ墨俣築城のことなどをお聞きしたかったのに」
「ははは、今度長浜においで下さい。それがしで良ければゆっくりお聞かせいたします」
「ありがとうございます」

 稲田大炊は長浜に戻った。そして翌日、隆広本隊の陣払いが始まった。帰国前に隆広は官兵衛と会った。
「もう大丈夫のようですね、官兵衛殿」
「何から何まで……本当になんとお礼を申したらよいか」
「いえ、同じ織田の家臣同士です。当たり前の事です」
 隆広が挨拶に来たので、官兵衛は蒲団の上に座位で対していたが、やはりまだ体力が回復しておらず、眩暈を感じた。
「官兵衛殿、無理せずとも」
「なんの、恩人が帰路に向かうというのに伏せていては……」
「お前さま、無理をしてまた体調を崩したら、それこそ水沢様の本意ではございませんよ」
 幸円がやんわり叱り付けた。
「その通りです。しかし幸円殿と官兵衛殿は仲が良くていいですね。それがしも早く国許の妻に会いたいです」
「水沢様の奥様は、とても美しいと長浜にも伝わっておりますよ」
「そうですか? いやあ自慢の妻なんですよ」
 と、隆広と官兵衛夫婦の楽しい談笑の中、明智光秀がやってきた。
「これは明智様」
「いや、官兵衛殿、無理をなさるな」
「明智様、そろそろ我らも伊丹城から引き上げまする。今までのご厚情、隆広忘れません」
「隆広殿……」
「……? 何か」
「悪い知らせがある」
「え……?」
 官兵衛と幸円は顔を見合わせた。光秀はため息と共に座った。
「何でしょう? 明智様」
「……尼崎城と花隈城が落城しました。荒木村重殿は城を脱走し行方知れず……」
「そうですか……」
「だが……双方の城内の残った荒木殿の妻子や、他の重臣、兵士、他の女子供、合わせて三千数百……。大殿に処刑されました。磔、斬首……さながら屠殺場のようだったそうです」
「…………ッ!?」

「なんとむごいことを……!」
 幸円は絶句した。
「…………」
 黒田官兵衛は顔色を変えなかった。
「バカな……! それでは先日にオレの言ったことは大殿に何も届いていなかったと云うことですか!」
「そうなります……。あの日はたまたま隆広殿の意気に感じ入ったから……この伊丹の捕虜を見逃したのでしょう。しかし昨日と同じ風が今日の大殿の心に吹くとは限らないのです」
「そんな……」
 隆広は拳を畳に叩きつけた。
「満座の前であんなに打ち据えられ……命を賭けて諫言したのに……! 何も聞き遂げては下されなかったなんて……!」
 無念の涙がポツポツと畳の上に落ちた。そして何かを決心したかのように目をカッと開き立ち上がった。
「隆広殿、国許に……?」
「いえ、明智様、播磨の織田本陣に」
「何をするおつもりか!」
「もう一度、いや何度でも同じ事を言ってみます! 武力だけでは天下は取れないと! 何度でも!」
「バカな事はやめなされ! 今度こそお手討ちに!」
 と、光秀の制止も聞かず隆広が部屋を出て行こうとした時だった。隆広の足が掴まれた。
「官兵衛殿……」
 官兵衛は蒲団から体を引きずり出して、隆広の足を掴んだ。
「……『武力だけでは天下は取れない』。確かにそうかもしれません。しかし同時に……優しさだけでは天下は取れません。それでは野心を持つ者に利用されるだけ……。応仁の乱から今に至るまで、ズタズタに寸断された麻の如しの日の本。誰かが強力な針で繋ぎあわさなければならないのです。それには……やはり一罰百戒の断固たる厳しさは必要不可欠。敵にも味方にも! 大殿が血に飢えた悪鬼のように、喜んで殺戮を繰り返していると思われますな! 徹底的にやらなければ、敵に余力を残しておけば同じことを敵は繰り返し、戦はいつまで経ってもなくなりません。だから大殿は敵に容赦しないのです。
 大殿はこうも言っています。行軍中に部下が木陰でのんびり眠っている年寄りを見て『この織田家の危急存亡の時に!』と腹を立てて斬ろうとしたとき、それを止めて『オレの作る理想の国は年寄りがああして木陰で安心して昼寝できるような平和の国だ』と! けっして隆広殿が考えているような殺戮を好む暴虐の君主ではないのです! あの方は誰よりも繊細で、お優しい方なのです! 疑いあるな! 世間に魔王と呼ばれている大殿、我ら家臣が理解せずしてどうするのです!」
 病み上がりの官兵衛が掴む足。振り払うのは簡単だった。だが隆広は振り払えなかった。
「……分からないよ……。人の屍の上に築く平和な国なんて……」
 官兵衛は手を離した。
「……今に分かります。御歳十六歳の隆広殿にはご理解が難しいかもしれませぬが、それが乱世……。優しいだけでは……自分の大切なものさえ守れませぬ。聞けば水沢隆家殿と半兵衛殿の薫陶を受けた軍才の持ち主とのことですが、そんな甘さではその才も宝の持ち腐れです。
 優しさと甘さが仇になり、恩を施した者から逆襲を受けて滅ぼされた例は歴史にいくらでもあります。ご自慢の愛妻が敵の雑兵に陵辱を受ける可能性さえあるのですぞ。織田の武将になったのなら、そんな甘さなど捨てなされ。辛いかもしれませぬが、それが大切なものを守る術なのです」
「お前さま、言い過ぎです!」
「いえ……幸円殿、良いのです」
「水沢様……」
「官兵衛殿、お教えありがとうございました……。それがしは国許に帰ります」
「そうですか……。それでは道中気をつけて」
 官兵衛は蒲団に戻り横になった。光秀と官兵衛、幸円に頭を垂れて、隆広は部屋を出て行った。

「……官兵衛殿の言葉、隆広殿の胸を貫いたようですな。さすがは羽柴殿の軍師、言葉に重みがございました」
「いえ……明智殿の前で出すぎたことを」
「しかし……頼もしい若武者に成長したものだ……」
「は?」
「い、いや! 独り言にございますよ。それでは私はこれで」
 光秀も部屋から出て行った。
「なあ……幸円」
「はい」
「松寿丸も隆広殿のように育ってほしいものだ。そう思わぬか?」
「はい、私もそのように思いました」
 黒田官兵衛はこの時には考えもしていなかっただろう。今の若者と後に戦う運命にあろうとは。

 水沢隆広は無事に北ノ庄城に到着した。領民の歓呼の声に出迎えられ、隆広は慶次、助右衛門、佐吉を連れて先に到着している盛政、成政、才蔵、そして帰路を共にした利家と登城し、勝家に勝利を報告した。
「殿、隆広ただいま戻りました」
「うむ」
 妻の市も隆広を出迎えるべく、勝家の隣にいた。
「伊丹城を落とし、その後に大殿を出迎え、城代となりました明智殿に申し送り帰路と相成りました。なお、荒木殿の支城であった茨木城、高槻城、尼崎城、花隈城は大殿の手により陥落。荒木殿の反乱、終息いたしましてございます」
「うむ、大儀であった。伊丹城は堅固と聞いていたが、よう落とせたものよ」
「はい、これも前田様や佐久間様、可児様、佐々様、不破様、金森様、そして部下や兵たちのおかげにございます」
「うむ、褒美をとらせる」
「は!」
 勝家は隆広と六将、そして隆広の部下である奥村助右衛門、前田慶次、石田佐吉にも褒美を与えた。市から隆広に労いの言葉がかけられた。
「ご立派ですよ、隆広殿。そのお若さで見事です。これからも夫を助けて下さいね」
「もったいないお言葉にございます、奥方様」

「利家様、妙だと思いませぬか?」
「何がだ? 才蔵」
「奥方様が隆広を見る目です。あれは夫の部下を見つめる目ではありません。いかに有望な士と云えども……何か違います」
「……確かにな、オレもそれを感じる。まるで慈母が愛しい我が子を見るような……」
「利家様……」
「ふ、まさかな……」
 勝家はスッと立ち上がった。
「一同、疲れていよう、戦の詳細は後日の評定で聞く。今日は帰って休むがいい」
「「ハハ―ッ!」」

 隆広は城を出ると、すぐに自宅に走った。さえに会いたい、もうこれしか考えていない。
「ただいま―ッ!」
「おかえりなさい!」
 いつも隆広の方からさえに抱きつくのに、今日はさえから抱きついた。そのさえをギュウと抱きしめる隆広。
「会いたかった……」
「さえも……」
 まるで十年は離れていたようであるが、実質一月も離れてはいない。
「さえ! メシにしてくれ! ずっとそなたの料理を食べたくて仕方なかったんだ!」
「はい、すぐに準備できますから!」

 夫の隆広が無事に帰って来た喜びの熱が少し冷めると、さえは隆広があちらこちらケガをしていることをようやく理解した。美味しそうに自分の作った料理を食べる夫に尋ねた。
「お前さま……。あちらこちらに傷跡が……激しい戦いだったのですね……」
 敵ではなく、信長につけられた傷ではあるが、それを言っても仕方ない。
「ん? ああ少し苦労したよ。でも落とした後の伊丹城で静養したから」
「本日の湯、熱い湯が好きなお前さまのために熱くしたけれども……少し水を埋めた方がいいのかも……それではしみてしまわれます」
「大丈夫だよ、それより一緒に入ろう。いいだろう?」
 恥ずかしそうにさえは首を縦に降ろした。そして、この日の閨に、さえは隆広に違和感を覚えた。灯は消してくれたけれど、いつもより少し隆広の愛撫が乱暴だった。何かを忘れたい。そんな印象も受けた。
 このキズ痕に何か関係があるのだろうか。そう思いながら妻の勤めを果たした。自分を抱く事でイヤな事を夫が忘れられるのなら安いもの。そう感じた夜だった。

 翌朝、早朝鍛錬のため庭で木刀を降る隆広。たらいに水と手ぬぐいを入れて縁側に来るさえ。いつもの朝だった。
「お前さま、そろそろ朝餉です。汗を拭いてお召し物を」
「ありがとう」
 縁側に座り、さえの渡す冷たい手ぬぐいで汗を拭く隆広。
「あの…さえ…」
「なんですか?」
「昨日の閨はごめん……少し乱暴だったよな……」
 カアッと顔が赤くなるさえ。
「お、お前さま、朝にそんなこと言わないで下さい!」
「い、いやゴメン。でも詫びさせてほしい。今度から気をつけるよ。仕事で何かあるたびにお前に閨で痛い思いをさせちゃかわいそうだから……」
「痛いなら痛いとちゃんと言います! だから昨日の閨でさえは痛みを感じていません! だって……お前さまの手が触れたところではないですか……」
「え?」
「な、なんでもありません! 早く着替えてください! 風邪をひきますよ!」
「はは、すまない。じゃ朝餉にしようか」
 隆広は官兵衛の(自慢の愛妻が敵の雑兵に陵辱を受ける可能性さえある)と云う言葉が頭をよぎった。繊細なさえがそんなものに耐えられるはずもなく、自分も耐えられない。今の妻の笑顔を守るためにも、そして乱世を終わらせるためにも、自分が生来に持つであろう優しさと甘さを戦時には捨てる決意を固めた隆広だった。


第六部『総大将』 完


第七部『歩の一文字』
第一章『侍大将隆広』に続く。