天地燃ゆ

第四部『信長と秀吉』

第五章『織田信長』


 大殿、織田信長のいる部屋のふすま。そこに二人の小姓が座り、蘭丸と隆広を来るのを待っていた。その小姓も隆広は知っていた。
「坊丸と力丸ではないか。元気そうだな」
 二人は蘭丸の弟たちであり、あの石投げ合戦で隆広にのされた苦い経験を兄と同様に持っている少年である。つまり三兄弟揃ってコテンパンにのされたのである。しかし、それも今ではいい思い出。自分を覚えていてくれたと喜びつつも、坊丸は人差し指を口に立てた。
「シ―ッ! 積もる話は後にいたしましょう。大殿がお待ちですぞ」
「あ、すまん」
 蘭丸、そして坊丸、力丸も感じた。だいたい大殿に初めて対面しようとするものは『第六天魔王』とも称される信長を恐れて部屋の入り口付近に来れば、だいたい斬刑を待つ囚人のごとくであるが、隆広は長じた幼馴染の坊丸と力丸をちゃんと理解できるほどに落ち着いていた。
「大殿、水沢隆広殿、お越しにございます」

「とおせ」

 ふすまの向こうからも分かるほどに信長の威厳が伝わってきた。坊丸、力丸がふすまを開けた。隆広は部屋に入った瞬間に空気が一変したことに気付く。信長の覇気か、すさまじい裂帛を感じた。ゴクリとつばを飲んで静かに信長の前に歩いていき、そして平伏した。蘭丸はその隆広を横に通り過ぎ、信長の左後ろに座った。
「柴田勝家が家臣、水沢隆広にございます」
「うむ」
「本日は大殿に、主君勝家の書状をお届けに参りました」
「見せよ」
「はっ」
 隆広が書状を差し出すと、蘭丸がそれを受け取り信長に渡した。それを信長は静かに開いて読んだ。隆広は平伏したまま読み終わるのを待つ。だが静かに座しているだけの信長から
(なんて圧迫感だ……)
 と感じ、体が固まった。
「表をあげい。顔をよう見せよ」
「は、はいッ」
 信長は隆広の顔をジッと見た。肘掛に腕をおき、睨むように隆広を見つめる。隆広も目をそらせず信長を見た。
(……何て高貴な顔をしておられるのだ……)
 信長の眼光に気圧されつつも、隆広はそう感じた。第六天魔王と呼ばれる大殿信長、隆広は鬼のごときの形相をしていると思っていたからである。
「……ふむ……中々いい面構えをしているな。養子ゆえ容貌は少しも似ておらんが、その眼は親父を感じさせる」
「あ、ありがたき幸せにございます」
「しかし、まるで女子のごとき顔をしているな。お蘭(蘭丸)といい勝負じゃ。頑是無いネコのごときの面持ち。そうじゃ、これからはお前の事を『ネコ』と呼ぼう」
「ネ、ネコ?」
「これで織田家中にはイヌ(利家)、サル(秀吉)、ネコが揃ったわけじゃ。はっははは」
「は、はあ……」
「隆家の最期は聞いた。惜しい武将であった。ワシに仕えていれば今ごろは城持ち大名であったろうにな」
「……父に、一度だけ大殿の事を聞いたことがございました」
「ほう、なんと申していた?」
「『正徳寺で信長殿と初めて会うた時、道三公とワシは遠からず斉藤はこの若者に討たれるであろうと感じた。だからできるだけ高値で信長殿に美濃をくれてやろうと思った。たとえ殿の『美濃明け渡し状』があろうとも、ワシが立ちはだかり、手に入れるに困難にしたかった。美濃を手に入れるまでの苦労が大きければ大きいほど、信長殿は美濃を良い国にしてくれると思った。そしてその通りとなり、その美濃を橋頭堡として畿内一円を豊かな国々として治めてくれている。信長殿には迷惑であったろうが、ワシは彼と名勝負をしたことを誇りに思う』と……」
「名勝負……そう申したのか……?」
「はっ」
「ふふふ……よく言うわ。ワシなどまるで子供扱いであったではないか」
 第六天魔王と呼ばれる信長が、父に褒められた事を喜んでいる。隆広はここでも父を誇りに感じた。

「ネコ」
「はっ」
「権六(勝家)も言ったと思うが、ワシもそなたが隆家の養子とて特別扱いする気はない。親の七光りなど織田家には存在せぬと知れ。武功を立てぬムダ飯くらいは即刻叩ッ斬る。陪臣とてワシのこの方針から逃れられると思わぬことだ」
「はっ」
 一つクギを刺し、信長はフッと笑った。
「だが、すでにお前は織田家最年少の足軽大将。武功や勲功は重ねておるようだな。権六がベタボメしておるぞ」
「は?」
「一向宗門徒を声一つで退かせて、かつ敵から鉄砲を大量入手する一手も打ったそうだな」
「え……っ!」
 勝家は隆広の武功として計上はしなかったが、やはり鉄砲の大量入手は隆広が五度も言った『武器を捨てて逃げよ』が決定打となったことは知っていたのである。
「面白い兵法を使いよるな、これも親父の薫陶か?」
「は、はい。信玄公が三増峠の合戦で使った策。父はたいそうこの策を好まれました。『城を攻めるは下策、心を攻めるは上策、この策はその見本である』と。あの時、敵軍に不和があるのは明白でした。不和がなければなんの意味もない策ですが、不和ならば使えるのではないかと」
 信長は隆広の話を微笑浮かべ聞いていた。傍らの蘭丸はめったに見せない主君の表情に驚き、そして喜んだ。
(やったな、竜之介。おまえ大殿に気に入られたぞ!)
「ネコ、そなたは武人肌の多い柴田家中では唯一の智将と見える。また開墾や治水にも長けた行政官とも書いてある。権六も拾い物をしたと喜んでいよう。権六に仕えるはワシに仕えると同じ。よう励めよ」
「はっ」
「そして一つ、釘を刺しておく」
「は?」
「一向宗門徒には容赦するな。お前が大聖寺城で行った事、今回は相手が多勢だったゆえ認めてもやる。しかし結果を見れば門徒を逃がした事となる。二度は許さん。次に戦う場合は逃がす事など考えず、皆殺しにせよ。門徒相手に限っては『戦わずして勝つ』などと云う考えは捨てよ。『皆殺しにして勝つ』のだ。分かったな」
「え、あ……」
「分かったのか?」
「は、はい!」
「近いうち、小松(加賀小松城)を落とすことを権六に下命するが門徒一人でも取り逃がしてみよ。城を落としても認めぬ。もしお前がいらぬ情けを門徒の女子供にかけて逃がしてみよ、キサマは無論、権六も処断する」
「う、あ……」
 第六天魔王の眼光は厳しく隆広を見据える。信長は隆広を一目見て、隆広が敵勢を駆逐することをためらう性格をしていると見抜いたのだろう。
「返事はどうした?」
「は、はい! 水沢隆広肝に銘じます!」
「権六への返書はすぐにしたためる。明日には渡せよう」
「はっ」
「うむ、下がれ」
「はっ」

 信長のいる部屋から出た隆広は大きな息を吐き出した。蘭丸も出て行った。
「ふう」
「初対面であれだけお言葉をいただけた者は珍しいぞ。大殿の覚えはめでたいようだ」
「しかし、いきなりあだ名をつけられるとはな……」
「ははは、大殿は家臣にあだ名をつけるのが好きなんだ。お前の主君の勝家様も『アゴ』と呼んでいるし、光秀殿も『キンカン頭』、仙石殿も『ダンゴ』と呼ばれている。気に入られた証拠だ」
「『ネコ』かぁ」
「それから、門徒に対しての言葉だが、あれを間違っても脅しと思うなよ。門徒相手に手心を加えるような事あったら、大殿は絶対にお前を許さない。大殿は心の底から一向宗門徒を憎んでおるのだ」
「それは伊勢長島攻めや比叡山焼き討ちで分かるさ。心配ない、オレとて越前を蹂躙しようと考える門徒たちは許せない」
「分かっていればいいさ。あと、これはもしかしたら…の主命かもしれないが、一応踏まえておいて欲しい」
「なんだよ?」
 コホンと森蘭丸は一つ咳をした。
「大殿は男色家でもある。お前には未知の世界かもしれないが、オレも伽を命じられ、閨を共にしている」
「……な、何だよいきなり!」
 隆広は顔を赤めた。
「大殿は美童がお好きだ。もし戦場で柴田と陣をともにした場合、お前に伽を命ずるかもしれない」
「オレに衆道(男色)の趣味はないぞ!」
「お前の趣味など大殿には関係ない。オレだってご奉公の一環として割り切って受け入れいる。怨むなら『ネコ』と呼ばれるような頑是無いキレイな顔を怨め」
「そんな事言ったって……イヤなものはイヤだ」
 この当時、男色家は何ら非道徳なことではなかった。特に信長は両刀使いであるが、美童への愛欲も抜きん出ていた。隆広はこの当時十五歳で、かつ美男子、十分信長には射程距離である。
「拒否するのはお前の勝手だ。だが陣が同じになった時はそういう命令がありうる事と一応アタマに入れておけ。いきなり命じられて断り文句を考えているうちに押し倒されてしまうぞ。そうなったらもう拒否などしても無駄だからな」
「わ、分かったよ」
(参ったな……。気に入られるのは嬉しいが、男と色事に及ぶなんて絶対にイヤだ。かと言って邪険に拒めば殿が叱られる。どうしよう……)
「とにかく、お前が城下にとった宿の場所を教えろ。明日に使いを出すから」
「あ、ああ。頼む」

 安土城から出た隆広は両手で自分の頬をパンパンと叩いた。
(気持ちを切り替えよう。今のオレの君命は安土城下の繁栄の秘訣を模索し、北ノ庄城下で導入する方法を考える事だ。まずは楽市楽座の研究をするか)

 隆広は城下を歩いた。北ノ庄とは比べ物にならない賑わいである。美男の隆広が歩いていると、やはり目立つ。北ノ庄と同じように町娘たちは、隆広を頬染めて見つめていた。本人は全然気付いていないが。
 宿に帰り、武士の正装を脱いで普段の着物に着替えて再び出かけた。部下の三人は今ごろ酒で出来上がっているだろうから、この宿には帰って来ていなかった。

 細かく安土城下の町を見て歩く隆広。北ノ庄では物乞いもいて、ゴミなども道にポロポロと落ちているものだが、安土にはそういうのが一切ない。
(ふーむ、こちらは琵琶湖の恵み、北の庄は海の恵みもあるから、資源的には北ノ庄は何の引けもとっていない。なのに何だろう、この差は……)
 まわりの商店を次々と見てまわる隆広。
(これは甲斐の名産の葡萄、伊予の名産の蜜柑……。驚いたな、丸亀の砂糖まである。北ノ庄の市場には越前のものしか並んでいない。だから他国から金が入らない。やはり楽市楽座の導入は不可欠だ。すぐに殿に具申しないと!)

「竜之介?」
 ふと隆広は自分の幼名を呼ばれた。
「は?」
「竜之介ではないか?」
「あ!」
 そこには二人の武士を連れた長身の優男が立っていた。
「義兄上!」
「おお、やはり竜之介か! 大きくなったなあ」
「義兄上もお変わりなく!」
 隆広は義兄上と呼んだ男の元に走っていった。およそ五年ぶりの再会である。
「柴田殿に仕えたと聞いたが、こんなに早く会えるとはな」
 長身の武士の背中から小男がポンと出てきた。
「ん? なんだその若いのは?」
「殿、この者はそれがしの義弟竜之介です。現在は水沢隆広と云う柴田家の足軽大将です」
「なに竜之介? その者の幼名は竜之介と云うのか?」
 小男は隆広をジーと見た。
「殿、いかがされました?」
「いや、何でもない。それにしてもそうですか! そなたが水沢隆広殿ですか!」
「殿……? も、もしや……羽柴筑前様?」
「はい、それがし羽柴秀吉でございます」
「こ、こ、これは知らずとはいえご無礼を! それがしは水沢隆広と!」
「いやいや、そう畏まらずに! 我が家臣の弟子ならばワシの弟子と同じでござるよ。のう権兵衛」
「はい、それがしも隆家殿のご養子殿とはお会いしたかった。今日はついています」
「権兵衛……? まさか仙石秀久様ですか?」
「『様』なんてガラではありませんよ、同じ足軽大将の身です。権兵衛と呼んで下され、水沢殿」
「と、とんでもない! 姉川合戦の勇者の仙石秀久様を呼び捨てなど!」
 思わぬ大物武将二人と会ってしまい、隆広は慌てた。
「あ、義兄上も羽柴様と仙石様を連れているのなら一言申して下さいよう!」
「ははは、いやいや二人とも気さくな性格だ。そう恐縮することないぞ」

 隆広が義兄上と呼んだ人物、それは今孔明と名高い竹中半兵衛重治である。彼はわずか十七騎で主君斉藤龍興の居城、稲葉山城を落とした英傑である。その後に龍興に城を返して、近江の堀家の家老、樋口家の食客として隠棲して暮らしていた。
 その後に秀吉に仕えた半兵衛であるが、清洲城の半兵衛宅に彼の恩師といっていい水沢隆家からの書状を持った童が来た。森可成の居城を離れて、父の隆家が息子に向かわせたのは、清洲城下の竹中半兵衛の屋敷だったのである。書状の内容は『重治の軍略を少し教えてやってくれ』だった。
 当時は木下藤吉郎秀吉の足軽組頭であった半兵衛は多忙を極めていたが、隆家の頼みでは無下にもできず、半兵衛は十日間だけ休みをもらい清洲から離れて、城下の安宿にて惜しみもなく徹底的に竜之介に軍略を教えた。十日間と云う期限が、より竜之介の集中力を高めたか、八日経ったころにはわずか十歳の子供に教える事がなくなってしまった。それどころか図上の采配では半兵衛さえも舌を巻くほどの作戦を示した。真綿が水を吸収するかのように知識を頭に入れていく教え子に半兵衛も教えがいがあったのか、九日後になるころには共に風呂や寝床も共にするほどに竜之介を可愛がっていたという。
 歳は十六も半兵衛が上であるが、まるで年の離れた弟を愛する慈兄のようだった。期限の十日目は、半兵衛も別れを惜しみ、二人は義兄弟の契りをかわした。後に半兵衛の息子の竹中重門が隆広を叔父上と呼ぶのはこれが理由である。
 義兄弟の契りを交わしたとしても、竜之介は新たな修行を父に課せられ、半兵衛も織田家軍団長羽柴秀吉の右腕として働いていたので、会うゆとりもなかったが、あの充実した十日間は二人には大切な日々。離れていても忘れようはずがない。

「いやぁ、それにしても聞いていますぞ! 北ノ庄の城壁を修復した割普請! ワシ以外使う者はいないと思っていたが、見事再現されたとか!」
「は、はい! マネさせていただきました!」
「ははは、別に使用料など取らぬゆえ、そう畏まらず。まあ立ち話もなんです。ほれ、あそこの酒場で一杯やりましょう」
「は、はい! 夢のようです! 義兄上や羽柴様、仙石様と酒が酌み交わせるなんて!」
 隆広の喜びを表す顔は、人たらしと言われる秀吉さえ微笑まずにはいられないものであった。
 この時、隆広は想像もしていなかったであろう。義兄上と思慕する竹中半兵衛の没したわずか数年後に、今から自分と楽しく酒を酌み交わす羽柴秀吉、仙石秀久と血で血を洗う合戦を繰り広げることになろうとは。


第六章『羽柴秀吉と仙石秀久』に続く。