いろは伝奇外伝 ブレイブ・サーガ(前編)
晴天、波穏やか、風向は南南西。洋上に一つの帆船があった。そして向かう先はアリアハンであった。
あのアリアハンの勇者アレルが五人の仲間と共に、魔王バラモスを倒してから百数十年が経っていた。勇者アレルと仲間たちは、バラモスを倒した数日後に突如として姿を消した。母のルシアに『まだ、やるべきことがある』と書置きを残し、そして、とうとう戻っては来なかった。
当時のアリアハン国王ノヴァクや騎士団長ロカ、その妻レイラは、ゾーマと云う怪物を倒しに異世界に行ったのだと分かっていた。しかし、それを公表しようとはしなかったのである。異世界と云う存在そのものが眉唾であるに加え、バラモス以上の大魔王が存在すると云う事実を明かせば人々の混乱は避けられない。
ノヴァクやロカ、レイラの他にもアレルブルクの長フレイアと、その夫マサールとアレル一行のその後を知るものはいた。しかし、それは自分たちの胸の中に秘め事と置いていた。
だが晩年のフレイアが娘イナミにポツリともらしたことがある。
「いろは、ステラ、アレルたちはきっと成し遂げたんだ……。だから私たちは今平和に生きていられるんだよ」
いつも傍らに置いてある夫マサールの位牌を愛しく撫でながら、フレイアはそう言ったと云う。
イナミは最初、バラモスを倒したことと思っていたが、それならば「きっと成し遂げたんだ」の言葉と通じない。フレイアは異世界でいろは一行がゾーマを倒したことを言っていたのである。だがイナミにその意味は分からないままであった。
そして、それから百数十年後の今では、アレル一行のバラモス討伐後を知るものはなく、色々な憶測が流れてはいたが、彼らを英雄と呼ぶ声はいまだ衰えず、アレル一行の活躍を最初に舞台化したサマンオサ王立劇場にはいまだ、客足が途絶えることはない。
勇者アレルの故郷であるアリアハンも、やがて劇場を作りアレル一行の活躍を舞台化したが、やはりサマンオサの演劇には及ばず最初の上演は不評に終わった。
頭をかかえた劇場の支配人はもう一度アレルの冒険記を見直すために、森の都アレルブルクにある勇者の冒険の書を読もうと考え、同町の博物館に大切に保管されている勇者の冒険の書の写本を何日も待たされた上、ようやく読むことができた。
彼らの最初の上演は、勇者アレルがいたころのアリアハン歴史記録官の手記を元に脚本を作ったが、やはりアリアハンの記録官の手記であるから、どうしてもアレルびいきになる。世界の国々ではアレル以上に彼らの仲間たちをひいきする演劇ファンも少なくない。マリスにおいてはロマリアにファンクラブさえあるほどである。
勇者アレルの舞台はサマンオサとアレルブルクがもっとも歴史が古く、二つの上演地も互いの舞台を尊重して同時期に上演することはない。
そして、ある年、サマンオサの劇場は老朽化のため、まる一年は上演できなかったことがあった。アリアハンはその一年で世界中にいる勇者アレルの冒険劇を愛する人々を、こちらに呼び込もうと考えた。観光産業で城下町と国庫を潤すためもあったが、何より勇者の故郷であるアリアハンが、こと勇者の舞台で他国に遅れをとっていることはアリアハン国民にとって悔しいことであった。
そして急ぎ舞台化したものの、不評著しく、劇場の支配人は今度の公演が失敗したら首が飛ぶ。
無論、世界の劇場には勇者アレル以外の演目は多いけれども一番に客の入場を期待できるのは勇者アレルの冒険記なのだ。それほどに世界中の人々に愛されているのである。そして若い役者たちはアレルやその仲間たちを演じることを目標としていた。
自分の首が飛べば、妻と子供が路頭に迷う。劇場支配人トーマスは必死だった。アレルブルク博物館にある、勇者アレルの冒険の書の写本。原本はアレルブルクの長が代々守る慣わしとなっているが、拝読を希望する者が殺到し、やむなく原本を受け取ったフレイアの一人娘イナミが書き写し、それを博物館に寄贈した。
その写本を借りるのは無理なので、博物館に許された時間内で書き写すしか術はない。目の下にクマを浮かべてトーマスは必死に書き写した。そして、トーマスは書き写すうちに、冒険の書の中にアレル以上に興味の出てきた人物がいた。それは、その写本の原本を書いた人物である。名をいろはと言った。
「彼女を主役に舞台化できないだろうか……」
無論、いろはも数ある勇者アレルの舞台で演じられてきた。いろはを演じるのは女優にとって夢なのである。だが、彼女を主役に舞台化されたものはない。頭脳明晰な切れ者で美女の呼び声高い彼女は主人公には向かないキャラクターなのだろう。
アレル以外に主役になったのはカンダタだけである。しかし、それも昔にロマリアで上演されたもので物語はカンダタの少年期からはじまり、そしてアレルの仲間になって終了している。カンダタ子分の書いた『義賊伝』が元となっている演劇であったからである。
いろはとアリアハンの縁は記録を読むとかなり深いことが分かり、現在でもジパングと友好関係にあるのは、元はいろはの好きな食べ物『米』を前線に送るために、アリアハン王室がジパングに交易を求めたことが発端となっている。
写本のすべてを書き写すと、トーマスはいろはを主人公に勇者アレルの冒険記をアリアハンで舞台化することを決めた。そして写本を書き写して、すぐに彼は脚本を書いた。出来上がった脚本を持ち、トーマスは満足げに言った。
「できた!」
タイトルは『いろは伝奇』であった。
無論、アリアハンの劇場の者たちは最初にいろはを主役に舞台化すると云うトーマスの意見に反対したが、トーマスの書いた脚本を見たら一同は黙った。そしてスタッフの一人が言った。
「配役はどうしましょうか。特に主役のいろはには姉のひみこがいます。今まで、ひみこが登場する舞台はありませんでした。急遽双子の姉妹を探して、演技を仕込みませんと……」
「ふむ……」
トーマスは考え、そして言った。
「実際にジパングの娘は使えないか?」
「気持ちは分かりますが、無理です。ジパングとアリアハンは言語が違います。いろはは世界共通語のアリアハンの言葉を流暢に話せたと言いますが、役者にそれを望むのは……」
「うむ……」
トーマスは頭を抱えた。意外にもサマンオサやアレルブルクでも、今までジパングの娘がいろはを演じたことはないのである。やはり、それは言語が問題であった。
「しかし、いろはが主役なんだ。やはりジパングの娘に演じてもらいたい……」
トーマスは妥協したくないようだった。スタッフの一人エミリオが言った。
「分かりました。とにかくジパングに行ってみましょう。しかし双子の姉妹、アリアハンの言語が話せ、美女と呼ばれるいろはに引けをとらない美貌の持ち主の娘など……そう簡単には」
「だろうな……」
トーマスの考える舞台は、最初から暗礁に乗り上げてしまった。
しかし、彼らは一つ見落としていた。ご当地ジパングでもっとも人気のある歴史上の人物は『いろは』である。それなのに舞台の様式は違えど演劇化されていないはずがない。
特にサスケが箱根の関所突破のために泣いて主人いろはを打ち据える場面は人気が高く、観衆は涙を流していつもその場面を見ているのである。
トーマスとエミリオはアリアハン国王から交易品もついでに持ってジパングに訪れた。船を動かすのはゴールドがかかる。ただの役者探しで王国の船を使わせるわけには行かず、ついでに商用も課せられたのである。
交易品を渡し、そして前もって約束されたジパングの品を受け取るだけなので、商売に素人のトーマスとエミリオにも用は足りた。さて役者探しだと思い、まず彼らは交易の窓口を勤めたジパング宰相府の役人カンベエに尋ねた。
「……というわけなのですが、ジパングに演劇に通じた人がいたらご紹介を」
カンベエは流暢なアリアハン語で返した。
「いろはは我がジパングの誇りです。それを主役にして演劇をやっていいのは我が国のみです」
「……お言葉ですが、彼女はジパングのみの英雄ではありません。またアリアハンと彼女の縁は……」
困ったトーマスにカンベエは笑って制した。
「失礼、今まで私たちジパングの人間から見て納得できるいろはを演じた役者さんがいなかったもので」
「はあ……」
「しかし、我が国の娘をいろは役で登用したいとは、ジパングにとっても朗報です。ちょうど、ここからしばらく歩いたところに旅の一座が、いろはの演目を出し物にしているそうです。一緒に見に行きませんか?」
「一座ですか?」
「そちらではジプシーと言うのでしょうか。旅から旅へ、その土地に行って劇や芸を見せる一族です」
「なるほど、ではご一緒したいのですが」
「かしこまいりました、これ!」
カンベエは部下の役人に駕籠の用意を命じた。その時エミリオがトーマスに小声で言った。
「ジパングでも勇者の演劇がされているのですね……」
「うむ、私も初耳だ。どんなものだろうか……」
やがてカンベエに連れられ、トーマスとエミリオは目的の場所に着いた。質素な掘っ立て小屋みたいな演劇場だった。
「カンベエ殿、これが劇場なのですか?」
「はい、容易に建てられるように、このように簡素な作りなのです。収容人員八十名くらいでしょうか」
カンベエは三人分の入場料を演劇小屋の入り口にいた一座の男に渡した。男はトーマスとエミリオをジロジロと見た。彼は外国人を見たのは初めてだったのだ。
「これこれ、そんな奇異な顔をするでない。我が国の客であるぞ」
「あ、すいません。ではどうぞ」
その男ばかりではなく、何人もが自分を好奇の目で見るのに、いささか不愉快であった二人だが、カンベエに連れられ、そのまま客席に座った。地面にゴザをひいて、薄っぺらな座布団があるだけの客席である。
「支配人、こんなトコにマシな役者など……」
「シッ、始まるようだぞ」
だがトーマスも同じ気持ちだった。こんな掘っ立て小屋の役者にアリアハン王国劇場の舞台など任せられないと思っていた。
やがて弁士が拍子木で調子を取りながら演目のナレーションを始めた。
「さあ第三幕だ! 時は今から百五十年前! ひみこといろは率いるジパング軍はヤマタのオロチに〜破れた!」
タンタン!
弁士が壇上の机に拍子木を叩いて調子を取る。
「そして、姉のひみこは討ち死に! いろははオロチの生贄にされてしまう! そこに現れたのが忠臣サスケだあ!」
タンタン!
「辛くもオロチの攻撃から逃れたが! 二人には過酷な試練が待っていた! ニセの女王ヒミコは部下に命じて箱根の関でいろは、サスケ主従を捕らえるため張っていた!」
タンタン!
「さあ! 忠臣サスケの選択やいかに! そしていろはは無事に海に出られるのかあ!」
タンタン!
「始まり始まり〜!」
タンタンタンタンタン!!
「いよ! トラゾウ名調子だ!」
弁士のトラゾウに観客席から拍手が響いた。そして幕が開いた。トーマスとエミリオはあっけにとられていた。
箱根の関、関守のヤスベエ役の役者が叫ぶ。
「その面体! いやいや、いろはと似ておるぞ! その大男はサスケと似ておるぞ! 主従仲良く!斬〜り捨てい!」
今まで見た演劇とは、まるで違うものであった。セリフはいっぺんに流れるようには言わず、区切りをつけ、そして溜めて言っている。だがすごい迫力であった。トーマスとエミリオはアングリとクチを開けたまま舞台に見入った。
「このノロマがあ!」
「あう!」
サスケ役の役者がいろは役の少女を叩く。無論実際には叩いていないが、まるで本当に叩かれたような迫真の演技であった。
「明日の昼にはアワに到着せんとするのに! お〜のれの足が遅いばかりに! ま〜た足止めだ! 今後また、いろはのヤツバラに間違えられては迷惑千万! 打ち殺してくれん!」
そしてサスケ役の役者は本当に泣きながら、いろは役の少女を打ち据える。本当に叩いてはいないものの、演技の達者さゆえか、いろはが受ける痛みが観客に届くようだった。
下唇を噛み、時に首を振り、そして目をつぶり、涙をポロポロと落としながら主君いろはを打ち据えるサスケの姿、そして家来の心の慟哭が聞こえるかように、苦痛の声も上げずにジッと打たれるいろはの姿に観客席に嗚咽があがる。いつのまにかトーマスとエミリオも泣いていた。役者のセリフの内容は分からない。でも涙が止まらない。
そして次のシーン、サスケが打ち据えたのを詫び、それをいろはが許すシーン。
「敵を欺く方便とはいえ……! 主君に対し……! 打ち据えるとは……!」
座るいろはにサスケは平伏している。
「お許しくだされ――ッッ!」
そして、そのサスケの手を、いろはは微笑んで握った。
「なにを言うのです……! あなたのとっさの機転がなければ……! 私は捕らえられ、どんな辱めを受けたことでしょう……!」
もうトーマスとエミリオは涙が止まらない。ハンカチはぐっしょりと濡れていた。そしてトーマスは決めた。
「決まった……。サスケといろははあの二人だ!」
後編に続く