『朝鮮史研究会会報』第154号、20041月発行


「創氏改名」の実施過程について

                                      水野直樹


1 はじめに

 

 「創氏改名」に関わる歴史認識は、日韓両国の間でも、また日本社会においても問題になることがしばしばである。今年(二〇〇三年)五月、自民党の麻生太郎政調会長が、創氏改名は朝鮮人が望んだという趣旨の発言をして問題となった。また、植民地支配を正当化しようとするグループからも、創氏改名に関して日本の支配当局者の責任を免罪しようとする言説が盛んになされている。例えば、杉本幹夫『「植民地朝鮮」の研究』(展転社、二〇〇二年。二〇〇三年に韓国でも翻訳)は、創氏改名に「かなりの強制があった事は事実」だが、「最も熱心に遂行したのは、朝鮮人ジャーナリストに煽られた朝鮮人地方官僚だったと考えられる」(92頁)と述べ、その論拠を「朝鮮人特有の熱しやすく、激しやすい気風により、行き過ぎた強制になったと思われる」(90頁)という点に求めている(『正論』二〇〇三年八月号にも同趣旨の座談会がある)。

 「朝鮮人の希望」という点は、創氏改名を実施する際に朝鮮総督府が強調していたことであり、末端の官僚に強制の責任を押し付ける言い分もすでに総督府が戦時中から非公開の文書に記していたことであって、今に始まったものではない。

 しかし、このような言説が今なお続いている理由の一つは、創氏改名の実施過程を資料にもとづいて実証的に明らかにした研究が少ないことにあろう。実施過程に関する研究は、宮田節子氏が執筆した論文(宮田ほか『創氏改名』明石書店、一九九二年)が唯一のものといってよい。ここでは、新たに発掘した当該時期の資料から実施過程を検討することによって、総督府においても一貫した政策が立てられていたわけでないこと、しかし氏設定の届け出が低調であったため強制的な届け出をさせるようになったこと、その責任は末端行政官僚にあるのではなく総督府当局そのものにあったことなどの点を明らかにする。

 

2 法令運用をめぐる見解の違い

 

 朝鮮に氏制度を持ち込むために、朝鮮民事令をして家の称号としての氏を定めるようにしたが、それが法的強制であったことは、すでに金英達氏の研究によって明らかにされている。届け出期間内に氏を設定して届けを出さなかった場合は、戸主の姓が氏となった。これに対して、名を改めることについては許可制がとられた。創氏と改名の扱いの違いは、朝鮮人に日本的な氏名をつけさせるという政策をめぐって、総督府内部に見解の相違があったからだと思われる。警務局は、当初創氏改名に反対していたといわれるが、それは日本人と朝鮮人との識別ができなくなるという理由からであった。そのような反対意見に配慮する形で、なるべく「朝鮮的」な名を残すために改名は許可制とされたのではないだろうか。

 さらに、法務局の文書は、氏に関しても、「内地人式の氏即ち二字制の氏を設け得るものにして、日本既存の氏を踏用せしむる趣旨にあらざること」を周知徹底させると記している。つまり日本にある氏をそのまま借用するのではなく、新たに「朝鮮的」な氏を設定するのが望ましい、という見解である。氏においても、日本人と朝鮮人との差異を残すべきだという考えがあったと思われる。

 運用をめぐる見解の違いのもう一つは、家を単位とする氏か、宗族を単位とする氏か、という問題に関わる。具体的には、宗中(門中)会議での氏設定を抑制するか、それを黙認ないし奨励するか、ということになる。宗中会議で氏を決めることについて、法務局は否定的な見解を何度も表明していたが、届け出数を増やすためにはそれを認めるしかなかったと思われる。しかし、この問題をめぐる見解の違いは現場に混乱をもたらすものとなった。

 このように当初、総督府内部でも一致した見解がなかったことが、朝鮮民衆の反発とあいまって届け出の不調につながったと思われる。

 

3 実施過程における強制

 

 創氏改名は、一九四〇年二月一一日から実施に移された。ここで検討するのは、届け出期間を半年とされた氏の設定についてである。八月一〇日までの期間を便宜的に前半(四月まで)と後半(五月以降)とに分けて検討する。

(1)前半

 この時期には、総督府当局は、氏設定の届け出は「強制でない」と何度か言明していた。また、宗中会議で氏を決めることを「厳に抑制する」よう指示を出していた。そのため、氏の届け出はきわめて低調であった。新聞には連日、「引続く氏の創設/戸籍係も“世紀の悲鳴”」というような記事が出ているが、「寂しい創氏受付」(『京城日報』二月一三日)という実状を認めねばならない有りさまであった。

 届け出をしたのは、主に官吏・警察官、あるいは道会・府会議員などであった。彼らに圧力がかかったとは断言できないが、民衆に模範を示すことが期待されたことは間違いない。しかし、行政の末端レベルにおいて届け出を積極的に促す動きが後期ほど活発でなかったことは、新聞記事から推測できる。

 届け出戸数(累計)が全戸数に占める比率は、二月末〇・四%、三月末一・五%、四月末三・九%でしかなかった。

(2)後半

 総督府の姿勢の変化は、四月下旬に開かれた道知事会議前後にあらわれた。同会議で、南総督は「氏制度ハ半島統治史上マサニ一期ヲ画スルモノデアリマシテ、往古ノ史実ニ顧ミ、大和大愛ノ肇国精神ヲ奉ズル国家本然ノ所産デアルト共ニ内鮮一体ノ大道ヲ進ミツツアル半島同胞ニ更ニ門戸ヲ開キタルモノニ外ナラズ。各位宜シク本制度ノ大精神ヲ究メ管下民衆ノ各層ニ徹底セシメラレタシ」と訓示している。そこには「強制でない」という言葉は見られず、「内鮮一体」「肇国精神」が強調されるばかりであった。また、同会議の諮問事項の一つは、「氏制度の趣旨の周知徹底方に関し執りつゝある具体的方策如何」というものであった(ただし、この諮問事項はすでに三月中旬に決まっていたものである)。これに沿って、道知事会議で氏の届け出を促進するための具体的方策が協議されたと考えられる。

 これを受ける形で、五月に入ると、各道の府尹・郡守会議でも同様の事項についての協議がなされたほか、「氏設定強調週間」などを定めて届け出の促進を強化する動きが各地方であらわれるようになった。

 さらに、戸籍事務を監督する権限を持つ地方法院が面事務所に対して届け出を強く督励するよう指示した文書が残されている。六月一二日付けで釜山地方法院長が管内の府尹・邑面長に送った「氏設定督励ニ関スル件」と題する文書である(韓国政府記録保存所所蔵)。この文書は、氏の届け出に関して、「一般民衆ニ周知徹底方強調シ来リタル」が「総戸数ニ比スレバ未ダ一割程度ニ過ギズ甚シキハ三分以下ノ所モアリ」と現状を述べた上で、「愈々期限切迫シ」ているので、事務処理の上からも「来ル七月二十日迄ニ全戸数ノ氏届出ヲ完了スル様特段ノ配慮相成リタシ」として、届け出督励を促している(なお、この文書は「先ヅ氏ノ設定届ヲ提出セシメ名ノ変更ハ後日為ス様取扱ヒ相成リタシ」とも記しており、改名が重視されていなかったことを示している)。

 他の地方の法院からも同様の指示がなされていたことは、新聞記事から推測できるが、六月中旬の時点で「全戸数ノ氏届出」が指示されたことは、公権力による強制がいっそう強まったことを表している。こうして、各部落に創氏相談所を設置し、区長が各戸を回って届け出を促し、あるいは届け出用紙の代書を行なうという「督励」がなされたのである。

 その結果、届け出戸数(比率)は、五月末一二・五%、六月末二七・〇%、7月末五三・七%へと「幾何級数的」に増加し、期間終了の八月一〇日には八〇・三%に達したのである。

 

4 批判言動の抑圧

 

 行政機関などによる「督励」とともに見落としてはならないのは、創氏改名に対する批判を厳しく取り締まる措置がとられたことである。異論を許さない雰囲気が作り出されたといってよい。

 当初、創氏改名に反対した警察当局も、創氏改名をめぐる民衆の動向に目を光らせ、批判的言動を厳しく取り締まる姿勢を示した。警察署長会議で行われた検事の訓示には、「〔創氏に関わる〕民情の推移動向に付ては厳重警戒を怠らす其の指弾すへき思想表現の糺弾に付萬遺漏なきを期せられたい」という指示が数多く見られる。

 創氏改名を批判・誹謗したとして起訴され裁判にかけられた事件としては、五件の資料が残っているが、警察・検察で取調べを受けた者は相当な数に上ると考えられる。

 起訴された事件のうち、忠清北道在住の金漢奎の事件を見ておこう。金は親族と創氏の問題について話をする中で、創氏に反対であること、「内鮮一体」といいながら差別が改められていないことなどを述べるとともに、将来朝鮮が独立したならもとの朝鮮姓に戻ることになるであろう、と語ったとされる。金は保安法違反で起訴され、懲役一年の判決を受けたが、担当検事は新聞に掲載された談話で、「創氏制度は興亜大聖業の完遂上における画期的なもので実に内鮮一体化の世紀的英断として今や半島の津々浦々に至るまで只管感激の歓声に溢れてゐる現状の下に、こんな不穏極まる反国民的言動は断然容赦の余地がない、神聖なる我が国体に対する不遜行為たるのみならず忠良なる半島同胞の名誉を傷けることも又甚大なものである」(『京城日報』一九四〇年五月九日)と述べている。そこには、創氏制度に対する「不穏言動の流布を防止すると同時に厳に他戒を加へる」ことが必要であるという取り締まり当局の認識が端的にあらわれている。

 創氏について親族とさえ自由に相談することを許さず、「内鮮一体」の掛け声だけが強調される中で、創氏は実施されたのである。

 

5 おわりに

 

 以上のように、改名はおくとしても、創氏(氏の設定)に関しては総督府当局が届け出をさせるために全力をあげたことは否定できない。末端官吏が功を争って民衆に強制したに過ぎないという見方は誤りといわねばならない。強制の度合いに地域や機関によって濃淡はあるとしても、批判を許さない雰囲気の中で強制がなされたからこそ、八割に達する届け出率となったのである。

 最後に、創氏に関わる検挙事件の資料をもう一つ紹介しておきたい。京城(現ソウル)郊外の農村で国民総力部落連盟理事長を務めるある農民が知り合いに次のように語ったため警察に検挙されたことが記録されている(処分としては起訴猶予となったと思われる)。この言葉こそ、創氏実施の実態を示すものである。

 「朝鮮人ノ創氏ハ私ノ面デハ九割八分程度ニ達スルガ、其ノ中八割以上ハ皆何ノ意味カ解セズ、当局ガ無理矢理ニ勧メルカラ仕方ナク創氏シタ実情デ、私モ柳(ヤナギ)トシテ別ニ柳本ト創氏スル必要モナカッタノデアルガ、人ニ強制スル立場上柳本ト創氏シタルモ、一般部民ハ之レニ対シ非難シテイル、私モ反対者ノ一人デアル」。

 

(追記)例会報告の内容と異なる部分があります。ご了解ください。

 


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