私たちの中の朴正煕-大邱イデオロギーの誕生
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イラスト=キム・デジュン//ハンギョレ新聞社
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新教育機関ができ知識人層成長
朝鮮戦争時の粛清を免れ進歩力量保存
チョ・ボンアム圧倒的支持に2・28義挙まで # 大邱が「左派都市」だった理由 大邱は「抗争の都市」だった。1907年借款1300万ウォンを無理やり提供して大韓帝国を経済属国にしようとしていた日帝に対抗した國債報償運動(訳注:国民の募金により日本からの借款1300万ウォンを返して国の主権を回復しようとした)は、大邱の中央路から始まった。1946年米軍政の収奪に立ち向かった10月抗争も、大邱から始まった。 9月の労働者のストライキに次ぐ10月1日のデモに大邱市民 1万余名が集まると、警察はデモ隊に銃口を向けた。警察により命を失う犠牲者が増える中で、彼らは「山の人」となって左翼活動に出た。 大邱八公山(パルゴンサン)の「野山隊」は、朝鮮戦争以前の左翼パルチサン活動の始まりの一つであった。10月抗争は朝鮮戦争前後の左・右対立と保導連盟民間人虐殺(訳注:1949年左翼系の人々を転向させ別途管理するという名目で保導連盟が組織され、地域の割当を満たすために左翼と無関係の人も多く登録されたが、朝鮮戦争勃発とともに李承晩大統領の命令により軍と警察が保導連盟登録者を連行し集団虐殺した事件。全国的に犠牲者は数十万と言われる)へとつながる。「谷に行く」という俗語は「谷に連れて行かれて殺された」この地域の悽絶な抗争の歴史に由来する。 日帝強占期から大邱に左派が多かった理由は大きく三つ挙げられる。まず、狭い農耕地のせいで大地主階層が形成されず、早い時期に自営農など自立的経済主体が形成されたという点である。日帝は大地主や両班階層を植民支配の下位パートナーとしたが、大邱地域はそうした流れから一歩退いていたわけである。漢陽(ハニャン)大比較歴史文化研究所のユン・ヘドン教授は「都に上って政治の主流になった安東金氏と安東に残っていた安東金氏は大きく違う。後者は既に中央の政治舞台から排除されていたが、この人々は日帝に対し非妥協的な特性を持っていた。初期社会主義者の中には、このような両班出身が非常に多い」と説明した。 第二に、日帝期に新教育機関が京城、平壌、大邱にでき、南側地域での新文物の吸収と若い知識人階層の成長が大邱を中心に成された。学生運動の脈が大邱で広がり、左派形成につながった。 第三の理由は、大邱が朝鮮戦争当時、人民軍の占領地ではなかったため大々的な粛清を避けることができたという点である。10月抗争直後の大邱民衆運動史を研究したキム・サンスク博士は「大邱は人民軍占領地ではなかったという点で朝鮮戦争後の附逆者虐殺から比較的自由であり得た。そのお陰で進歩的力量と気風が保存され得たし、4・19革命など戦後の進歩運動の中心になることができた」と説明した。 進歩性の根は制度政治空間でも花を咲かせた。1956年第3代大統領選挙の結果が代表的だ。当時無所属で出馬したチョ・ボンアム(曺奉岩)との二者対決で、自由党李承晩(イ・スンマン)は全国的に70%の支持率で再選に成功した。現職大統領と対戦した無所属進歩候補チョ・ボンアムは全国で30%の得票にとどまった。そのチョ・ボンアムが全国で最も多くの支持を受けた地域が、ほかならぬ大邱であった。大邱は江華島(カンファド)出身の無所属進歩人士チョ・ボンアム候補になんと72.3%という圧倒的な支持を送ったのだ。 選挙後も大邱は李承晩独裁政権とことごとに対立した。1960年2月28日、自由党不正選挙に立ち向かった大邱市内の高校生たちの 2・28義挙は 4・19革命の口火となった。4 ・19 直後、大邱は教員労組設立と革新政党(慶北社会党)結成など本格的な進歩運動の根拠地となった。 # スターリンのグルジア、朴正煕の大邱 大邱の歴史は朴正煕の登場以後、劇的反転を経る。朴正煕は1961年の5・16クーデター以後、大邱・慶北地域の「左翼活動」に対する大々的な弾圧に出る。「真実 ・和解のための過去事整理委員会」が作成した「5 ・ 16 クーデター直後の人権侵害事件真実糾明決定書」によれば、人権弾圧の対象となった進歩政党(中央本部・地域支部含む) 13のうち慶北社会党など 5つが嶺南地域(慶尚南北道)を基盤に活動していた政党だった。民主民族青年同盟系列の事件は 3件とも慶北 ・慶南すなわち嶺南地域が基盤であったし、保導連盟被虐殺者遺族会事件で弾圧された8件も皆嶺南地域が中心だった。スターリンの「恐怖政治」の始まりが故郷のグルジア(現ジョージア)に対する大々的な弾圧で始まったように、朴正煕もまた自分の故郷から左翼粛清を行なったわけだ。 少数民族出身で民族問題委員長として活動していたスターリンと南労党出身で同志たちを密告して辛うじて生き残った朴正煕とは、コンプレックスを乗り越えて主流になる方式でも似ている。 「レッドコンプレックス」の朴正煕登場で潰滅
朴、米国の支持を得ようと「反共闘士」に急変
政治的故郷で左翼勢力大々的弾圧
「金鍾泌の 2万8千名予備検束計画も」 # ‘レッドコンプレックス’から始まった恐怖政治 朴正煕は米国の政治的支持を得るために、過去を消して「反共の闘士」に急変した。国家再建最高会議で法制司法委員長を務めたイ・ソクチェは回顧録『閣下、革命しましょう』の中で「5・16直後に陸軍本部状況室でアメリカが朴正煕と金鍾泌(キム・ジョンピル)の背景を内偵しているという情報を手に入れ ( … ) アメリカの思想攻勢を一挙に逆転させ軍事革命成功の決め手となる非常措置が必要だから、保導連盟員など左翼思想犯をいけにえにして反共への意志をアメリカに見せてやろう」と決心して、「全国の軍憲兵隊や警察に非常召集をかけて保導連盟関連者と革新政党関連者、左派知識人、社会団体リーダー、労組リーダーなど社会不満勢力と左翼活動経歴者を大々的に見つけ出し、4000人あまりを逮捕し収監した」と書いた。 さらに5・16クーデターの主導勢力の一人だったユ・ウォンシクは『5・16秘録、革命はどこへ行ったか』の中で「李承晩政権期に作成された要視察人名簿を根拠に金鍾泌が2万8000人を予備検束し巨済島で殺害する計画を立てて朴正煕に報告した。国家再建最高会議の席上でハン・ウンジンなどと一緒に抗議した結果、大量虐殺の計画は阻止された」と回顧した。もう少しで韓国版「キリングフィールド」が起きるところだったヒヤリとさせられる瞬間だ。 # 5 ・16でひっくり返った加害者と被害者 保導連盟被害者家族の集まりである「慶州遺族会」のキム・ハジュン会長(84)は 5・16 クーデターを基点に極と極を行き交う経験をした。 彼は慶尚北道慶州内南面ホムシルで育った。慶州南山から下ってくる谷川に溝(ホム)を掘って水路を作ったことから付けられた村名だった。ホムシルから4キロメートル離れたバタンコルにはキム氏の親戚4世帯 27人が住んでいた。南山に抱かれたこぢんまりとした集落だった。1949年8月1日から2日にかけて、このバタンコルの住民 80人余りのうち30人が二晩の間に「赤色分子」という理由で銃殺された。彼の親戚22人が犠牲になった。当時 2歳だったスンジャとスンヨン、3歳だったイアム、5歳だったスンホン…。「一体全体、2歳のアカだなんて…」。今月6日ハンギョレと会ったキム氏は、68年前の出来事を回想しながら声を震わせた。慶北全域で「山の人」たちが左翼運動をしていた時代だった。
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保導連盟被害者たちにとって 5・16クーデターは世の中が引っくり返る事態だった。「韓国戦争前後民間人犠牲者慶州遺族会」の会長が6日午後、慶北慶州市城東洞の事務室で2016年に行なわれた慰霊塔除幕式の写真を見ながら説明している=慶州/キム・ミョンジン記者//ハンギョレ新聞社
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1949年民保団が親戚など30人虐殺
「なんと2歳の共産主義者だなんて…」
4・19法廷設けたがクーデターで水の泡
良民虐殺被害者たちが逆に検束対象に # 嶺南覇権主義というニンジン(飴) 朴正煕は大々的な共産主義者弾圧で大邱の思想的土壌を整理した後、この地域の人士を高位職に大挙登用することで嶺南覇権主義の芽を植え込んだ。オム・ミンヨン、キム・ソンゴン、パク・ナムオク、イ・ヒョサン、朴浚圭(パク・チュンギュ) など共和党の主役は皆大邱高等普通学校(慶北高の前身)出身であった。朴正煕の統治期間だった第3第4共和国当時、維新政友会 ・全国区国会議員の出身地域別分布を見れば、慶尚道出身が100人(26.6%)でソウルの93人より多く、全羅道53人、平安道33人などとは比較にならない。 高級官僚社会に「TK人脈」が移植され、特定地域の支配階層化が成立したのである。 地域感情の助長もこの時から始まる。1963年9月19日の大邱寿城川辺での遊説が代表的だ。朴正煕候補側の賛助演説者だったイ・ヒョサン(後日国会議長となる)は「この地域は新羅千年の燦爛たる文化を誇る土地であるが、その矜持を引き継ぐこの地の王はいまだに一人もいなかった。朴正煕候補は新羅の王の誇らしい子孫である。今こそ彼を大統領に選んで、この地の人間として千年万年王様に仕えよう」と演説した。縁故主義の強い嶺南地域で「新羅大統領論」は功を奏した。朴正煕は尹普善(ユン・ポソン)に対し嶺南だけで66万票の差を付け圧倒的優勢(全国的には 15万票差)を見せて、大統領に当選する。進歩人士チョ・ボンアムに圧倒的な支持を送った大邱の雰囲気が、わずか7年で劇的に変わったのだ。 現時点で知りたいのは、この時に形成された地域感情と覇権意識がどうして数十年間も持続しているのかという点だ。TKだと悪口はずいぶん言われるけれども、実際に大邱の経済が豊かなわけでもない。2015年広域市道別1人当りの地域総所得を見れば、大邱はビリから二番目で光州より一段階上に過ぎない。ユン・ヘドン教授は「現在大邱の情緒は70年代以降大きく変わっていない一種の認識遅滞現象を見せている。全羅道や首都圏は向都離村など解体の過程を経ながら多様化が成されたが、大邱はそうした動きのないまま停滞している。人口流入もなければ流出もなかった。それでなのか、地域の情緒自体が停滞している感じだ」と言った。 「嶺南覇権」なるニンジンに半世紀以上地域主義が「金城鉄壁」 1963年寿城川辺で「新羅大統領論」登場
全国で15万票差 … 嶺南だけで 66万票の差を付ける
大統領府・全国区議員にTK出身重用し
国家資源を動員した経済開発の恩恵集中 # 人革党死刑囚8人のうち5人が大邱 大邱を中心に残っていた革新勢力に対する「根絶やし」 作業は続いた。人革党事件と人革党再建委事件が代表的だ。最初の人革党事件が3人の担当検事の起訴拒否で事実上失敗に終わると、朴正煕政権は 10年後の1974年4月「人革党再建委」というまた別のスパイ でっち上げ事件を企てる。李哲(イ・チョル)、ユ・インテなどの民青学連事件の背後指揮部としてソ・ドウォン、ト・イェジョン などかつての人革党事件の連累者(人革党再建委)が隠れているという話であった。拷問と強圧で作られた事件だった。 1年後の1975年 4月8日、最高裁判所は人革党再建委事件で起訴されたヨ・ジョンナム慶北大元学生会長など8人に死刑を宣告した原審を確定する。 そして翌日の4月9日、「判決文のインクも乾かないうちに」 死刑が執行される。 死刑囚8人は皆嶺南で生まれた。ヨ・ジョンナム、ソ・ドウォン、ト・イェジョン、ソン・サンジン、ハ・ジェウァンの 5人は大邱に住んでいた。大邱地域に一握り残っていた革新系列が根こそぎにされた瞬間であった。朴正煕政権は「司法殺人」という国内外の非難が激しくなると、民青学連など残りの関連者を刑の執行停止で釈放する。 人革党・再建委スパイ捏造事件を企画
「司法殺人」で革新勢力の残りまで消す
「要視察対象」で家族たちも会うことを憚り
生き残った人々も大邱を去って“散り散り”に # 人革党再建委当事者が大邱を去った理由 人革党再建委事件で投獄されたチョン・ファヨン氏(68)はその事件以後大邱を去る。死刑にされたヨ・ジョンナムの慶北大法学部の後輩だった彼は、ヨ・ジョンナムが学校を去った後、反維新闘争に力を注いだ。1974年 3月慶北大で「反独裁民主救国宣言文」を撒いた疑いで人革党再建委に連座した。一週間眠らせないで殴る酷い拷問にも、ヨ・ジョンナムを知らないと言い張った。慕っていた先輩を否認することで彼はやっと生き残った。1975年最高裁で懲役刑を確定されて大邱刑務所に収監された。彼が収監された日の朝、ヨ・ジョンナムの死刑が執行された。出所後緊急措置9号違反でまた投獄され、1981年に出所した。彼は暗い獄中で夜ごと心の中で朴正煕を殺したと言った。
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彼は尊敬していた先輩を否認することで生き残った。人革党再建委事件の被害者チョン・ファヨン氏が3日午後、仁川西区の黔岩(コムアム)駅でハンギョレ新聞とインタビューをしている= 仁川/キム・ミョンジン記者 //ハンギョレ新聞社
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「連座制知ってますか? 私は一生家族に気兼ね」
また別の被害者の妻「今もやっぱり世の中が恐ろしい」
人革党謝罪問題受け流した朴槿恵候補に
大邱は父親より高い80%の支持 # 依然としてそこには … 朴槿恵(パク・クネ)大統領は、2012年の大統領選挙過程で人革党再建委の遺族に対し謝罪する意思があるかという質問に「同じ最高裁で相反する判決(1975年の死刑判決と2007年の再審無罪判決)もあったし、その組織に携わった方々のいろいろな証言もあって、そういうものをすべて勘案して歴史の判断に任せるべきだ」と答えた。父親の「司法殺人」に対して謝る意思が無いことを明確にしたわけだ。歴史認識に対する議論が起きてから初めて、「以前から私は、当時被害を被った方々に本当に申し訳なく思い、慰めの言葉を申し上げるということをお話してきました。その延長線上の同じ話です」と言ってはぐらかしただけである。その年の大統領選挙で大邱は朴槿恵候補に80.1%の圧倒的支持を送った。父親の朴正煕が最後に選挙に出た1971年(朴正煕 67.0%、金大中(キム・デジュン)32.3%)よりはるかに高い支持率であった。 朴槿恵が顔をそむけたかった人革党再建委被害者の立場はどうだろうか。第 1次人革党事件と人革党再建委事件とで二度の獄中生活を強いられた故チョン・ドクチン氏は、再審を通じて「公式的に」名誉を回復した。しかし彼の妻Cさんは依然として世の中が恐ろしいと言う。Cさんはインタビュー要請を断ってこんなふうに言った。「私どもはただ、何もお話しません。私どもは世の中が恐ろしいのです。再審で無罪も受けて補償金も少しは受取ったけれども、その後却って一層後ろ指をさされて。私どもは世の中の人々がただ恐ろしいのです。このまま静かに暮したいのです」 チョン・ドクチンは1940年大邱で生まれ、嶺南大の前身である大邱大学法学科を卒業した。死刑囚ヨ・ジョンナムの懇意な先輩だった彼は、1964年第1次人革党事件で拘束され、1975年の人革党再建委事件で懲役 20年の刑を宣告された。1982年に刑の執行停止で出所した彼は、拷問・獄中生活の後遺症で闘病を続け、1998年に亡くなった。彼の妻Cさんは今も大邱に住んでいる。 ノ・ヒョンウン記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr ) 韓国語原文入力:2017-01-11 20:40 http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/778365.html 訳A.K