書評
文学は本当に「ゆっくり」なのか?
ラングザマー世界文学でたどる旅
イルマ・ラクーザ(共和国)
第3168号 2016年12月09日
文学は本当に「ゆっくり」なのか?
芸術作品は「速さ」に対する「遅さ」に属するものではない
ラングザマー世界文学でたどる旅 イルマ・ラクーザ(共和国)
本書には、著者と交流のある作家、多和田葉子による「日常を離れた時間の流れの中で」というエッセイが付されている。本文を読む前にこちらを読んだ評者は、そのなかの次のような一節にいたく共感した。「優れた小説を読んでいると、それぞれの単語や文章が様々な記憶や連想を呼び起こし、先へ読み進みたいという気持ちと比例して、その場にとどまり、もっと味わいたいという気持ちが強まる。すると時間は前方にではなく、深みに向かって進行し始める」。この一節を読んだ瞬間に、いくつかのテクストが数珠つなぎのように連想されてきて、早くも本書の読書が中断されそうになった。言い換えれば、さっそく「ゆっくり」になり始めた――本書の表題「ラングザマー」とは、ドイツ語で「ゆっくり」という意味である。それらのテクストとは、幼年時代の読書の記憶を、残りのページが少なくなったときの終わってほしくないという気持ちなどと共に語ったプルーストの「読書について」、そして、まさしく多和田葉子が語ったようなことを「顔を上げて読む」という美しい言葉で表現したロラン・バルトの「読書のエクリチュール」、などである。バルトの言葉は、テクストの文字に目を走らせていない時間にもひとは「読んでいる」のだということを教え、読むことの限りない自由を肯定してくれるものである。こうした連想と共に多和田葉子のエッセイを先に読んだため、本書は読書が開くあの別の時間について語ってくれるものと期待していた。実際、帯にも「極上の世界文学ガイド/読書論」とある。
けれども、予想に反して、本書は読書論に留まるものではなかった。確かに第一章は「読書(愛)」と題され、「愛の営みとしての読書」が語られているが、九章から成る本書の射程は広く現代社会全般にわたり、書物のタイプとしては、速さを至上価値としテクノロジーの発展を享受する現代文明に対する警世の書と言える。「ゆっくり」とは効率重視の現代文明が求める「速さ」に対する「遅さ」のことだった。したがって本書は、本書にも冒頭から登場する、加速化する文明に対するゲーテの嘆きから、ポール・ラファルグの『怠ける権利』を通って、『速度と政治』に代表されるポール・ヴィリリオの諸著作、そして、昨年訳された視覚文化論の泰斗ジョナサン・クレーリーの『24/7 眠らない社会』に至る批評の系譜に位置づけられる。実際、クレーリーの著書は焦点をあえて「睡眠」に絞ることで、年中無休の現代資本主義社会が人間を不眠にするという事態を深く掘り下げて追及していたが、本書でも「眠り」に一章が割かれ、さらに別の章でもトリエステでのシエスタの様子が平和な風景として描かれており、一脈通じるところがあるだろう。けれども、先述のように、この文明批判の系譜にはすでに少なくとも三世紀の伝統がある。そのなかで、ゲーテは一九世紀の、ヴィリリオは二〇世紀の、クレーリーは二一世紀現在の技術発展の状況に即した批判を行っている。対して本書はどうかと言えば、加速化する社会を危険視するその根拠については特に目新しいものは提示しておらず、批評としても深く掘り下げた考察は行っていない。速度の発展によって触覚的、嗅覚的な体験が失われるといった指摘は紋切り型の域を出ないし、電子メールを出す代わりに手紙を書き郵便局まで歩いてゆけば様々な感触を味わい会話を交わすこともできるといった議論は、正論ではあるが一面的な校長訓話の趣である。
本書の特徴はむしろ、技術社会に警鐘を鳴らしてきた様々なテクストがちりばめられていることである。読者はそのなかで自分の感性に響くものを見つければよい――本書が「世界文学ガイド」でありうるのはその意味においてである。評者にとってそれは、「われわれは芸術作品において佇むという行為の特別なあり方を学ぶ」というガーダマーの一節であり、ここからむしろ、本書の主張に反し、芸術作品は「速さ」に対する「遅さ」に属するものではないことを読み取った。引用されているテクストは、具体的には、ゲーテ、ペーター・ハントケ、エドゥアルト・メーリケ、レイ・ブラッドベリ、クンデラ、リルケ、等々である。「時間の豊かさ」を問題にしているにもかかわらず、『華氏451度』がたびたび言及される一方で、灰色の「時間泥棒」が出現する社会を描いたミヒャエル・エンデの『モモ』に一言も言及がないのは不思議であった。また、文学者だけでなく批評家やエッセイストによる現代文明批判も多数引用されているのだが、その混合は、本書の議論を安直な次元に引き下げているように思われた。というのも、たとえば、「ゆとりの時間がたっぷりあってぶらぶらする人間のうち、一定数の人たちは、「より高い文化の発展のために必要」」だという議論が援用されているのだが、いったい、本書で称揚されている「ゆとり」とは、「高い文化の発展」に寄与するためのものにすぎないのか。書物を読むことで得られる「ゆとり」とは、そうした効用概念からこそ逃れるものではなかろうか。
その意味で、結局のところ、本書が「文学はゆっくりとしている」と確信していることにも疑問を抱かざるをえなかった。本書は映像メディアを批判しながら文学はゆっくりしたものだと主張し、それに反する「スタッカート文体」の作品を否定する。また、文学は造形芸術における未来派のように速度に歩調を合わせることはなかったと主張する。けれども、本当だろうか。アポリネールは未来派の時代に「同時性」をその詩や小説にも取り入れなかっただろうか。文明論者にして国民的な詩人ヴァレリーは「遍在性の獲得」において音楽における遍在性を言祝がなかっただろうか。本書の最終章で引用されている鉄道の印象を描いたユゴーの一節は、著者の読解に反してむしろ、文学がいかに新しい知覚を描けるかということの例証ではないだろうか。文学はもっと複雑である。それは「速さ」に対する「遅さ」に属するものではなく、多和田葉子の言うように、「前方にではなく、深みに向かって」進む、別の時間を開くものである。(山口裕之訳)
けれども、予想に反して、本書は読書論に留まるものではなかった。確かに第一章は「読書(愛)」と題され、「愛の営みとしての読書」が語られているが、九章から成る本書の射程は広く現代社会全般にわたり、書物のタイプとしては、速さを至上価値としテクノロジーの発展を享受する現代文明に対する警世の書と言える。「ゆっくり」とは効率重視の現代文明が求める「速さ」に対する「遅さ」のことだった。したがって本書は、本書にも冒頭から登場する、加速化する文明に対するゲーテの嘆きから、ポール・ラファルグの『怠ける権利』を通って、『速度と政治』に代表されるポール・ヴィリリオの諸著作、そして、昨年訳された視覚文化論の泰斗ジョナサン・クレーリーの『24/7 眠らない社会』に至る批評の系譜に位置づけられる。実際、クレーリーの著書は焦点をあえて「睡眠」に絞ることで、年中無休の現代資本主義社会が人間を不眠にするという事態を深く掘り下げて追及していたが、本書でも「眠り」に一章が割かれ、さらに別の章でもトリエステでのシエスタの様子が平和な風景として描かれており、一脈通じるところがあるだろう。けれども、先述のように、この文明批判の系譜にはすでに少なくとも三世紀の伝統がある。そのなかで、ゲーテは一九世紀の、ヴィリリオは二〇世紀の、クレーリーは二一世紀現在の技術発展の状況に即した批判を行っている。対して本書はどうかと言えば、加速化する社会を危険視するその根拠については特に目新しいものは提示しておらず、批評としても深く掘り下げた考察は行っていない。速度の発展によって触覚的、嗅覚的な体験が失われるといった指摘は紋切り型の域を出ないし、電子メールを出す代わりに手紙を書き郵便局まで歩いてゆけば様々な感触を味わい会話を交わすこともできるといった議論は、正論ではあるが一面的な校長訓話の趣である。
本書の特徴はむしろ、技術社会に警鐘を鳴らしてきた様々なテクストがちりばめられていることである。読者はそのなかで自分の感性に響くものを見つければよい――本書が「世界文学ガイド」でありうるのはその意味においてである。評者にとってそれは、「われわれは芸術作品において佇むという行為の特別なあり方を学ぶ」というガーダマーの一節であり、ここからむしろ、本書の主張に反し、芸術作品は「速さ」に対する「遅さ」に属するものではないことを読み取った。引用されているテクストは、具体的には、ゲーテ、ペーター・ハントケ、エドゥアルト・メーリケ、レイ・ブラッドベリ、クンデラ、リルケ、等々である。「時間の豊かさ」を問題にしているにもかかわらず、『華氏451度』がたびたび言及される一方で、灰色の「時間泥棒」が出現する社会を描いたミヒャエル・エンデの『モモ』に一言も言及がないのは不思議であった。また、文学者だけでなく批評家やエッセイストによる現代文明批判も多数引用されているのだが、その混合は、本書の議論を安直な次元に引き下げているように思われた。というのも、たとえば、「ゆとりの時間がたっぷりあってぶらぶらする人間のうち、一定数の人たちは、「より高い文化の発展のために必要」」だという議論が援用されているのだが、いったい、本書で称揚されている「ゆとり」とは、「高い文化の発展」に寄与するためのものにすぎないのか。書物を読むことで得られる「ゆとり」とは、そうした効用概念からこそ逃れるものではなかろうか。
その意味で、結局のところ、本書が「文学はゆっくりとしている」と確信していることにも疑問を抱かざるをえなかった。本書は映像メディアを批判しながら文学はゆっくりしたものだと主張し、それに反する「スタッカート文体」の作品を否定する。また、文学は造形芸術における未来派のように速度に歩調を合わせることはなかったと主張する。けれども、本当だろうか。アポリネールは未来派の時代に「同時性」をその詩や小説にも取り入れなかっただろうか。文明論者にして国民的な詩人ヴァレリーは「遍在性の獲得」において音楽における遍在性を言祝がなかっただろうか。本書の最終章で引用されている鉄道の印象を描いたユゴーの一節は、著者の読解に反してむしろ、文学がいかに新しい知覚を描けるかということの例証ではないだろうか。文学はもっと複雑である。それは「速さ」に対する「遅さ」に属するものではなく、多和田葉子の言うように、「前方にではなく、深みに向かって」進む、別の時間を開くものである。(山口裕之訳)