「新自由主義」の妖怪 稲葉振一郎

2017.1.25

17知が導く「混合経済」は到来したのか

 

 乱暴ですが、社会学の発展の歴史を踏まえたうえで、産業社会論の含意についてここいらへんで簡単にまとめてみましょう。

 社会学が学問として自立するにあたって、模範であり打倒してとってかわるべき相手としては、やはりマルクス主義の社会科学体系があります。また同時に、マルクス主義の基盤には独特の経済学があり、それはずいぶん変わり種ではあれ、19世紀古典派経済学の一バージョンと考えることが可能ですので、そう考えると社会学はマルクス主義のみならず、それを含めた経済学(中心の社会科学体系)をもライバル視していた、と解釈するとわかりやすいでしょう。
 全面的に市場メカニズムが生産を把握し、あらゆるものが商品化していく方向にある資本主義経済においては、旧来の身分制度は解体され、すべての人が同じような所有権の主体でありかつ取引の主体へと変えられていきますが、全員が均質な市民(ブルジョワ)となるのではなく、財産を所有する資本家と、財産を持たず労働力を切り売りする賃金労働者との二大階級に分かれていきます。つまりそこでは、経済メカニズムが社会構造を決めていきます。資本主義経済は階級社会を生む、というわけです。そしてそれに対応して政治体制の方も、それぞれの階級を支持基盤とする政党を主役とするようになります。
 マルクス主義の革命論は、階級間の格差と対立を生む資本主義経済を廃して、社会主義計画経済に取り換えよう、というものです。その際短期的には、資本主義の下で既得権益に浴する資本家の抵抗を排するために、労働者階級による独裁が必要となるが、長期的には計画経済によって平等化が達成され、社会における階級分断は消滅していくため、独裁の問題も解消する、というのが大まかな考え方です。
 マルクス主義の革命論には、もう一つ別の側面もあります。資本主義は格差を生むがゆえによくない、というだけではありません。マルクス主義の理論によれば、資本主義の下での経済の成長、生産力の発展には限界があります。資本主義は景気循環による好不況の波を解消できないし、独占は技術革新を停滞させる。科学技術の無限の発展は社会主義の下でこそ可能になる。そういう発想もまたありました。
 以上のようなマルクス主義的、さらにそれを含めた経済中心の近代社会認識に対して、社会学はどのようなオルタナティブを提示しようとしたのでしょうか? 第一にはその批判は経済中心主義に。マルクス主義の発想では政治や文化も究極的には経済によってそのありようが決められます。先述のように政党の基盤は経済的階級であり、また階級ごとに人々は異なったライフスタイル、異なった価値観を持つようになります。それに対して社会学はより多元的な世界観を提示します。経済が政治や文化のありようを規定するのではなく、それぞれは一定の自律性を持ち、相互に影響しあっている、と考えます。
 第二に批判の矢は、マルクス主義、というよりもその基盤となる古典派経済学の個人主義に向けられます。経済、とりわけ資本主義的市場経済の運動を支配するのは、その中で活動する人々の個人的な自己利益の追求である、と古典派経済学は考えます。それに対してマルクス主義では、そうしたメンタリティ、行動様式が資本主義の社会で支配的であるのは事実だが、それはあくまでも資本主義経済が人々にそう強いているから、そうでなければ資本主義の中で生き延びていくことは難しいから、と考えます。つまり資本主義において支配的な個人主義は、「自然」なものではなく歴史的、社会的な形成物である。このような発想を社会学もまた継承しますが、もっと強く打ち出します。つまり資本主義のただなかにおいても、実は人はそれほど個人の自己利益を優先して生きていくわけではないのだ、と。
 このような形でのマルクス主義、さらには経済学中心の社会観への批判から浮かび上がってくるのは、どのような社会像でしょうか? まずそこにおいて、社会は必ずしも階級分裂したものとしてはとらえられません。確かに社会の中には格差や不平等、断絶が存在しますが、それを導く論理はマルクス主義が描くような経済の論理、経済的な財産を持っているか持っていないかの違い、だけではありません。人々を序列づけ、引き裂くのは経済の論理だけではなく、政治の論理や文化、宗教等様々な尺度で社会の中の人々は序列づけられ、かつそれらの複数の多次元的な序列づけは、必ずしもきれいに対応しません。経済的に豊かであれば、政治的影響力が強くなる傾向はあっても、経済的には別に豊かではない政治的エリートは確実に存在します。そのような多次元的な序列構造は、マルクスが想定したような社会の二極分解をもたらさず、階級間の質的断絶はあまりはっきりせず、なだらかで連続的で、中間層が無視できない社会を生み出します。
 第二に、そのような社会において、経済成長の究極的な動力源はなんでしょうか? 古典派経済学の考え方からすれば、それは人々が個人的利益のために行う経済活動です。しかしながら、ただ単に個人的利益のためにのみ行われる活動が、未来に向けての投資に十分に振り向けられる保障は実はありません。マックス・ウェーバーの「資本主義の精神」論もここを突いたものです。必ずしも本人がその成果を享受できないような長期的で不確実な投資が安定的に行われるためには、単なるエゴイズム以上の、より社会的、共同体的な動機が必要になるというわけです。
 さらにほかならぬマルクスによれば、持続的な経済成長のためには単なる投資では不十分で、のちにシュムペーターがいうところの「創造的破壊」、技術革新を伴う投資、いや技術革新のための研究開発投資が必要です。こうした研究開発投資は、その成果の不確実性が極めて高いだけではありません。通常その成果は特定の具体的な物財ではなく、新しい知識です。知識は物財とは異なり、独占的に占有し、他人の利用を排除することが非常に難しい。知識の成果を記した文書は、複製が相対的に容易です。また新知識自体がそのように文書として流通しなくても、新知識の成果である新製品を、買い手は分解解析(リヴァース・エンジニアリング)して、そこから新知識を再構成することもできます。つまり新知識という財に対しては、タダ乗り、費用を負担せずに利用することが比較的容易なのです。このような財は私有財産制度、それに基づく市場経済制度の下では供給不足をきたしてしまう、ということはよく知られています、それゆえに学術研究や学校教育では、営利目的の民間企業ではなく、非営利の公共団体、とりわけ国家の役割が大きい、とされるわけです。むろんそれだけであれば標準的な経済学的政策論ですが、マルクス主義や産業社会論の認識は、そこからもう少し先に進みます。
 20世紀以降の工業化社会(産業社会はindustrial societyですから、いうまでもなくそれは工業社会でもあるわけです。語源的にはindustryという語は必ずしも工業、製造業のことを意味するものとして用いられてきたわけではなく、18世紀以前ですとむしろ「勤勉」とか「勤労」といった意味合いが強い言葉でしたが、19世紀以降の機械化された製造業をとりわけindustryと呼ぶことが普通になりました。科学的知見に基づき、合理的に経営される製造業についてindustryなる語があてはめられるようになったわけです。さらにそれが「第一次産業・第二次産業・第三次産業」といった言葉遣いに現れる通り、合理的に経営されるビジネス一般に適用される言葉になりました)においては、技術革新のための研究開発投資が経済のダイナミズムの中心となったということは、その主役が市場経済ではなくなったということだ、とマルクス主義や産業社会論は論じます。非営利の公共セクターとしての学術研究部門がその主役であり、市場経済はむしろそこにぶら下がるのだ、と。
 マルクス主義の場合はそこから計画経済への移行を歴史的必然とし、資本主義の終わりを宣告するわけです。しかしそれに対して産業社会論は、必ずしも資本主義の終わりを展望せず、いわば「混合経済」の到来を予想します。ここでマルクス主義と産業社会論の予想が分かれたのはなぜでしょうか? 第一に、マルクス主義においては、資本主義においては経済的ファクターが政治や文化を圧して、二大階級への分極化が進行する、と予想されたのに対して、産業社会論においてはより緩やかで中間層が厚く、社会内の対立軸も経済的なそれに集約されない多元的な社会として資本主義社会が描かれ、革命的変革の必然性は否定されます。産業社会は必ずしも平等な社会ではなく、不平等や格差はありますが、その発生要因は経済的なものばかりではなく多元的です。極端な意見としては、もっとも支配的な格差発生要因は、個人の能力、それも知的能力である――とさえ論じられます。すなわち、学術研究セクターを下支えする学校教育制度もまた公共部門であり、人々は経済力にかかわらずその恩恵を受けることができます。そしてそこでの成績に応じて人々は労働市場の各階層に配分される。つまりあえていえば学校教育制度こそが産業社会における最大の格差発生装置である、というわけです。かといって、社会の各部門で指導的なポジションにつく学歴エリートの地位は、学校教育のこのような公共性から、私有財産のように「相続」され、世代的に継承されるようなものではないので、学歴エリートは「階級」とはなりません。かくして資本主義が革命によって計画経済にとって代わられる、という予想は否定され、市場と計画の双方の要素が混在する社会が20世紀においては支配的になった、とされます。

――と、ここまで書いてみれば、あくまでもあと知恵ですが、産業社会論の挫折の理由は明らかであるように思われます。単純に言うと、第一に、やはり技術革新投資の基盤として、競争的市場経済の役割は小さくはなかった、ということ。そして第二に、学歴競争は純然たる個人の知的能力のみによるものではなく、経済的な「市場の論理」による作用を強く受けるものだったということ。この二つの事情は、21世紀の現時点に生きる我々には、いっそ自明にさえ見えます。
 回を改めて、この問題について振り返ってみましょう。

 

 

(第17回・了)

 

この連載は月1更新でお届けします。
次回2016年2月28日(火)掲載