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青梅サッカー事始め(PART-3)、楽しきかな我がサッカー人生

                           青梅スポーツ 編集長・元青梅市サッカー協会会長 吉永昌一

平成23年11月17日(日)梅郷の吉川英治記念館和菓子処「紅梅苑」駐車場で紅葉まつりが開催されたおり超感激的ハプニングに出あいました。会場に青梅市環境経済部商工観光課課長伊藤博司氏が来ていて鈴木博梅郷商店会会長と話し込む姿が印象的だった。課長さんとは初対面だったので名刺交換すると課長の口から思わぬ言葉が飛び出した。「私は吉永さんをよく知ってますよ」と。カラオケ店かやきとり屋さんで、それともどこかのスナックか政治集会でお会いしたのかなといぶかしんだ。なにか弱みを握られているのかな・・・とも。事実はこんな具合でした。伊藤課長が青梅市立西中の中学生時代、当時サッカーの普及に熱中していた私がコーチに行った。40年以上前のことです。そこに課長がいて私が話したことをよく覚えていた。サッカーが野球を超える日が来る、プロサッカーの時代が来る、サッカーのワールドカップが日本で開催される等日本サッカーの未来について当時私が口にしたことを忠実に再現してくれたときはもう感動した。いや超感動だった。靑梅にサッカーを広めたいと大きな夢をいだき私は20代のころに中学校他に出向きひとりで巡回コーチをやった。西中でのサッカースクールのおり課長に会ったあったわけでる。
それにしてもそんな半世紀も前のことを覚えていてくれた課長に心より感謝したい。その昔、日本サッカー協会会長の長沼健氏(故人)が「あなたとの付き合いは1973年のソウル以来だ。人生ふれあいだね」と、2002年日韓ワールドカップの折、しみじみ筆者に語ったことをふと思い出した。

   長沼健代表監督他との座談会を開く

そんなわけで、こころあたりで私のサッカー人生を振り返り記録しておこうと思いペンをとりました。第一回は日本サッカーが低迷期にあった1976年の、長沼代表監督、3大日刊新聞サッカー記者、それにファン代表である私との年頭座談会のことに触れました。1968年のメキシコ五輪サッカー銅メダル獲得以降日本サッカーはじり貧状態に陥り先の見えない暗夜行路を彷徨っていた。熱烈サッカーファンを自認している私はこれはなんとかしなきゃとの思いで長沼健監督に話を持ち込み座談会が実現したわけです。そのとき私はチャンスとばかり持論の「プロサッカー論」を口酸っぱく執拗に展開し出席者のひんしゅくを買った。日本のサッカーを救う方法はプロ化以外にないとの信念を披露したわけです。しかし残念なことに日本のプロカッカー実現迄にはその時からさらに17年間を要し実現したのは1993年でした。それでも私の夢であったプロサッカー「Jリーグ」が発足したことを喜び、私は仲間と国立競技場バックスタンドの最上段で観戦したことを昨日のことのように覚えている。これで日本のサッカーは世界に雄飛できる。将来のワールドカップ優勝も夢ではないと欣喜雀躍した。
そこで、「青梅サッカー事始め」の2回目として今回は私のプロサッカー論の原点と言うべき日本人初のプロサッカー選手奥寺康彦氏との思い出に触れたいと思います。

             ドイツ行きを勧める

サッカーファンなら誰でも奥寺康彦選手の名前は知っていると思う。日本人サッカープロ第一号である。実は私と奥寺選手との関係は深い。奥寺選手は相模工業大学附属高等学校(現在の湘南工科大学附属高等学校)から1970年に古河電工に入社。ここで私と出出会うことになる。ポジションはFW。その快速たるや見ていて気持ち良かった。1976年にブラジル・パルメイラスに留学しメキメキ頭角を現しユース代表を経て日本代表入り。ムルデカ大会で得点王に輝き,古河ではJSL,天皇杯の二冠達成に貢献した。主な経歴は次の通り:
1970-1977 古河電工
1977-1980 ドイツ・1FCゲルン
1980-1981 ドイツ・ヘルタ・ベルリン
1981-1986 ドイツ・ヴェエダー・ブレーメン
1986-1988 古河電工
1970-1987 日本代表
1996 ジェフ・ユナイテッド市原監督

獲得タイトルは次の通り:
日本サッカーリーグ優勝1回
天応杯優勝1回
ドイツ・ブンデス-グ優勝1回 準優勝1回
アジアクラブ選手権優勝 1回
ムルデカ大会得点王 1回


                その潜在能力は世界で通じる

以上、ちょっと見ただけで凄い選手であることがお分かり頂けると思う。今ならさしずめミラノの本田圭佑選手のようなものだ。私の目から見て彼のスピードは当時日本人離れをしていて、レベルの低い日本においておくのが勿体ないと思われた。それにスターでありながら飾らない庶民的で素直な性格が大好きだった。このまま日本リーグの選手で終わっていいのだろうか。そんな疑問を抱いていた折、ドイツ行きの話が持ち上がった。しかし日本にプロのない当時、ドイツのプロリーグでプレーすることに対して反対の意見が新聞紙上等で圧倒的に多かった。メキシコ五輪で銅メダルに輝いたある有力選手が新聞紙上で、「一週間で怪我をして帰ってくるのが関の山!」と言っていたのを今でも鮮明に覚えている。当時の日本の実力からして仕方のないことだ。世の中、初めてのことに挑戦する時は周囲の目はそんなものだ。経験や実績がないところに反対はつきもの。しかし、私の意見は違っていた。当時の日本サッカーのレベルは低い。これは認める。しかしサッカーは一人でやるスポーツではない。複数以上の選手の連携で成り立つスポーツである。低いレベルでやっていればそれだけのこと。高いレベルの中でやればそれなりにやれるはずだ。当時のドイツはベッケンバウアー、ゲルト・ミュラーそしてウーベ・ゼーラーなど世界最高峰の選手がいる国だ。そんな選手を生み出す国のヨーロッパNO.1のプロ・リーグでプレーすればレベルの高い周囲の選手に引っ張られ刺激される。つられて必ず才能が開花し実力以上の力を発揮でき伸びる。これが私の信念である。奥寺選手ならできる、期待に応えてくれると。

       1FCケルン行きの記者会見直前にアドバイス

そこで、彼がいよいよドイツの1FCケルンに入団を決めその記者会見が丸ノ内の古河総合ビル内の本社で行われることになった。時は、40年前の、1977年の某月某日の午前10時だったと思う。マスコミ界の論調よりして厳しい記者会見になると予想した私は気が気ではなく、記者会見の日の朝9時、彼と古河総合ビル1階の有名なレストラン「門」で会い、コーヒーを飲みながら、「今日は記者から厳しい質問が出るだろうが我慢して自信をもって応対してほしい。日本サッカーを変えてやるくらいの気概を持って会見に臨んでほしい。貴君の力なら必ず成功間違いない!」等などおよそ40分間話し込み激励した。「わかりました。そうします!」と奥寺選手は笑顔で元気よく会見場に出て行った。

        ドイツで開花、ヒーローとなり凱旋帰国

それから1年後、レギュラーポジションを手にしてドイツのブンデスリーグで活躍し一躍スターダムにのし上がった奥寺選手は1FCケルンのリーグ優勝とドイツ・カップ優勝の勲章をひっさげ凱旋帰国。日本サッカー界の新たなスター誕生である。多分、メキシコ五輪得点王釜本邦茂以来のスター選手の誕生ではなかったか。一躍日本人プロ第一号奥寺康彦の名は全国区になった。そんなヒーロー奥寺選手は帰国するなり真っ先に私を訪ね優勝報告をしてくれたときは嬉しかった。思い出のレストラン門でコーヒーを飲み近くの三菱電機ビル一階の有名な日本食レストラン「菊亭」に移り昼食の天丼をたべながらドイツサッカーの思い出話で盛り上がった。後掲の写真はその時のものです。奥寺選手が輝いていた。実はこのとき、レストランは昼時なのでいつものように行列ができ混雑していた。行列の最後尾に立っていたが時間がかりそうなので店内に入りカウンターを見るとたまたま私が勤務する会社の同僚がいたので、「奥寺さんと一緒なの。早く切り上げてよ!」と冗談半分に告げると、急ぎかきこんで平らげた。更に後ろで待っていた次のお客さんが、「あのサッカーの奥寺さん?お先にどうぞ!」となって10人抜きで昼食にありつけた。このときばかりはスター奥寺選手と知り合いであることを誇りに思った。
こんなエピソードもあり奥寺選手とは長い付き合いになった。たくさんの思い出がある。その後、奥寺選手とはほとんど会う機会はない。一度、多分5年ぐらい前だったと思うが、青梅2FC出身のキーパー下川照平君が、奥寺選手がGMを務める横浜FCのユースチームに入団したので横浜に取材に行ったことがあった。が残念ながら取材は夜間だったので先方の都合で会見できなかった。


          古河電工サッカー部との出会い

さて、青梅サッカー事始めとしてあれこれ書き始めたわけですが、最初にご登場いただいた長沼健日本代表監督や奥寺康彦選手はみな古河電工の社員です。これから登場する川渕三郎元Jリーグチェアマン、小倉純二前日本サッカー協会会長、八重樫茂生メキシコ五輪時主将(故人)、不死身のエイトマン宮本征一選手(故人、Jリーグ初代チャンピオン鹿島アントラースの監督、「キャプテン翼」が出る前、当時日本中を沸かせた「若き血のイレブン」のモデルと言われた永井良和選手らも皆古河電工の選手です。プロサッカー誕生以前の40年前の古河電工は社会人サッカーの王者で日本サッカーの牽引車でありそのまま日本代表的存在だった。そんな古河電工のサッカー選手と私との出会いはひょんなことがきかっけでした。全くひょんなこと、ちょっとした偶然のできごとからだった。

     会社の診療所で偶然スター八重樫茂生氏を見かける

私が勤務する会社の診療所で社会人サッカーのスター、メキシ五輪銅メダリスト八重樫茂生選手にサインをもらったことがすべての始まりだった。私の会社(丸ノ内の千代田ビル内にあった)の目の前が古河電工ビルです。しかし、それだけでは接点となりません。何しろ大きなビル内ではフロアが1階違えば別世界。
実は千代田ビルの5階に私の会社の診療所がありました。何故、水産会社に診療所が?答えは簡単。南氷洋で操業する捕鯨船団に従事する船員、作業員などは捕鯨シーズンには総勢1500人以上となり怪我の治療や手術のため捕鯨母船に病院が必要です。そんな関係で本社に診療所を持っていたのです。院長は海軍兵学校出の元特攻隊員で戦後医学を学んだ人で私は大変面倒を見ていただいた。(後年、それから30年後のことですが、ふとした縁で石川要三防衛庁長官との料亭会見を斡旋することになるとは思いもよりませんでした)。
さて、ある日診療所に行くとサッカー場でよく目にする有名選手がいました。週刊誌を読みながら右の大腿部に電気か、多分紫外線を当てていたと思う。毎週定期的に決まって時間に来ることがわかり、ある日、サインをお願いしたところ快く応じてくれた。その人が古河電工サッカー部主将の八重樫茂生選手だったのです。診療所の先生や看護婦などは全く気が付いていなかった。と言うよりサッカーが世間で認知されていなかったというべきか。院長は「サッカーのそんなに有名な選手か?」。看護婦に至っては、「サッカーってどんなスポーツ?」。大体こんなところが相場だった。なにしろ野球全盛の時代だったから。
私は親しい院長や看護婦に向かって、「八重樫さんは日本代表の大切な人、宝もの。是非、丁寧且つ親切に診療を・・・」とお願いした。そんな些細なことが縁となり八重樫さんはいつしか診療所の人気者になりました。一言でいえば看護婦さんに非常に持てた。八重樫選手が診療所に来ると看護婦が必ず連絡してくれるようになり急速に私と親しくなった。と同時に古河電工のサッカー部員がうわさを聞いて次々とやってくるようになり、診療所はやがて「古河電工サッカー部ご用達診療所」の感を呈するようになった。

         八重樫、奥寺両選手がプロサッカー論の出発点

そんなことが縁となり、私は古河電工のサッカー選手と親密になり練習に参加したり一緒に食事したり試合のビデオを観戦したり交流を深めた。そんな選手の中の一人が奥寺康彦選手だった。八重樫、奥寺選手他の日常生活を見ているうちにアマチュア・サッカーではだめ,限界だ。プロサッカーこそ日本の進むべき道と信じるようになった。そのことについては、次回じっくりと書いてみたい。今日のところはここまでとします。
尚、八重樫選手との関係は平成に入り亡くなるまでの付き合いとなった。「おれは日本のサッカーが盛んになればそれでいい。好きなサッカーをやって給料をもらえるだけで古河電工に感謝している」。これが八重さんの口癖、サッカー哲学。サッカー以外に何も求めない。今日まで、私はこの八重樫サッカー哲学の継承者を自認し、いつも心の中に八重さん精神を刻み込んでいる。(続く)

ドイツより凱旋帰国直後訪ねてくれた奥寺選手(左)と私
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1992年1月バルセロン五輪アジア予選のときマレーシアの首都クワラランプール市内でショッピング中の左より永井選手奥寺選手と私
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同じくムルデカスタジアムで現地の日本人を招集し応援してもらい感謝の記念写真です
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現地在住日本人を30名ほど集め熱烈応援中の私です(中央)。この時日本は中国に敗れてがっかりだった
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ムルデカスタジアムで談笑中の私(左)と奥寺さん(右)
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右より筆者吉永、奥寺さん永井さん
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日本代表が練習した陸軍士官学校校庭にてカメラマンと。ボールを持っているのが筆者で、この時観戦に現地を訪れた川渕三郎氏(たぶん当時日本サッカー協会副会長)や記者とボールを蹴った後に写したもの
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日本代表チーム
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ムルデカスタジアムの貴賓席で試合前に
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マレー系インド人と
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スタジアム近くの中国人街にあるホテルに宿泊した。朝食中
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試合後は毎夜中国人街で一杯やった。世界の観光客との交流は実に楽しかった
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試合の合間にマレー半島のあちらこちらを観光した。大東亜戦争の開戦劈頭日本海軍は真珠湾を攻撃したがその1時間前にマレー半島のここコタバルに上陸した。日本軍上陸地点に立ち椰子林を見つめる
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日本軍上陸地点にある英軍トーチカの上に立ち遥かに東シナ海を眺める。沖では英軍が誇る東洋艦隊の主力艦戦艦レパルスとプリンスオブウエールスが日本海軍航空隊の魚雷攻撃で撃沈された。およそ30分間トーチカの上で眺めていると、待たせたいたタクシーの運転手が「何をしているのか?」と聞いてきたので、(アジアの解放戦争はここはら始まった。そのことを考えているのだ」と答えた。
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友好的なマレー人と一緒に記念撮影。そういえばスタジアムでもどこでもマレー人は、中国系、インド系、マレー系を含め日本に好意的だった。特にマレーシアの独立は日本軍に負うところが大きいと皆感謝してくれた
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Jリーグ初代チャンピオン鹿島アントラーズの宮本征勝監督(左)と鹿島のクラブハウスで
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上田康太選手が入団したジュビロ磐田の山本監督(右)と
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by omesports | 2014-01-28 10:46 | サッカー