とりあえず、こんな記事が一部で話題になっている。最近、拙僧が構築している「つらつら日暮らしWiki」で「参禅」がやたらと検索されるから、何かと思っていたら理由はこれか。
韓国仏教の『参禅』をフランスで広報、「日本の『禅』は偽物」=韓国(サーチナ)-Yahoo!ニュース
事の発端は、フランス・パリにあるギメ東洋美術館ということで、韓国仏教が用いる「参禅」が日本の「禅」と間違って紹介されているのを見て、自尊心が傷つけられたそうで、今後は「参禅」という私たちの固有の言葉で統一し、世界の人々に知らせたいそうだ。合わせて、日本の「禅」という言葉は間違っているとも主張する。
・・・大きなお世話だ!!と思うし、この報道が事実だとすると、極めて残念な発言だ。今回の「東日本大震災」などの後には、韓国曹渓宗と、我々曹洞宗も手を取り合って、様々な活動をしてきたが、そのような態度は見せかけだったのだろうか?
用語の違いなんて、そりゃ随所にわたって存在するだろう。後は立場の違いによって、どれを用いるかというだけであって、一方的に正しいか間違っているかなんて決められない。韓国仏教に於ける「参禅」も、多分我々曹洞宗が用いる「参禅」の意味とは違っているのだろう。実際、日本に於いても、我々と臨済宗とでは違う。そんなことは日常茶飯事だ。例えば、この記事であるように、その美術館で、韓国仏教に因む説明の記述が間違っていたというのなら自尊心が傷つくのは分かる。だが、仏教全般や東洋思想全般の説明で、一方的に韓国仏教のそれが正しく、日本のが間違っているとは言えない。
所詮、韓国仏教の用語は、韓国にのみ通用するのだ。それは我々も同様であるが、我々の用語がフランスで一般的に受け容れられているとすれば、それにはそれなりの理由がある。つまり、実績があるということだ。
曹洞宗の僧侶であった弟子丸泰仙は1965年、51歳で単身フランスのパリに入った。シベリア鉄道経由だったと聞く。10年後に著された弟子丸『パリの禅僧』(実業之日本社)は、弟子丸自身による自己宣伝の嫌いが無いとはいわないが、しかし、描かれる様子からは、日本の曹洞禅が明らかに受け容れられていることが分かる。その後、紆余曲折が有ったとはいえ、21世紀の現在、弟子丸が植えた種は、明らかにフランスに根付いた。その本の中に、こんな記述がある。
・「勝敗」「対立」「二元」の要素をもつものは禅ではなく、またいい方をかえれば、こうした二元的対立の要素があるからこそ、現代文明に悲劇があるともいえる。(136頁)
・宗教の原点、本質とは、「なにも求めない」ところまで到達しなければならないのである。(137頁)
フランスで10年にわたって布教教化を実践した人の言葉である。この人の言葉を前にした時、今回「自尊心」が傷ついたという人達の「自我・吾我」の強固さに改めて驚く。また、自分達が、世界の仏教界を統べる立場になろうとしている辺りからは、まだまだ無所得の境地にまで至っていない未熟さを感じることが出来る。
無論、こういう言葉遣いや考え方が、彼らにしてみれば「間違っている」ということになるのだろう。だが、我々からすれば、おたく等こそ間違えているともいえるわけで、この辺はただ、自分の立場を確認するに留まる。だとすれば、戯論である。問題は、違いをまず認めることである。そして、現状もし、自分達の都合に合わない様子であったとしても、それを、先行する相手を貶めるような発言でもって、性急に結果を求めるべきでは無い。「サムスン」とは違うと思いたいが・・・
なお、自分達が良く、相手が悪いという発想は、「不自讃毀他戒」に反している。また、相手を一方的に間違えていると断じるのは「不説過戒」に反している。更に、龍樹菩薩は、大乗仏教の基本として、次のことを述べる。
復た次に、一切の諸の外道の出家は、心に「我が法は微妙にして、第一清浄なり」と念えり。是の如くの人、自ら所行の法を歎じ、他人の法を毀す。是の故に現世には相打ち闘諍し、後世には地獄に堕ちて、種々無量の苦を受く。偈に説くが如し。
自法愛染の故に、他人の法を呰毀す。
持戒の行人と雖も、地獄の苦を脱せず。
『大智度論』
ここで言われていることは、自らの法が正しいと把われ愛し、他人の信奉する教えを毀そうとするというのは、大きな罪を得るとしているのである。朝鮮仏教も、1700年の歴史を持ち、大乗仏教国の一端を自負するというのなら、せめて『大智度論』くらいは学んでおいて然るべきでは無かろうか。ただ、文字で知るだけでは無い、身心に銘記し、実践することを求めたい。まぁ、こういう書き方をしてしまったが、拙僧は彼らに対して怒りを懐いているわけでは無い。ただ、憐れに思っているだけである。
徳あるは、ほむべし、徳なきは、あはれむべし。愛語をこのむよりは、やうやく愛語を増長するなり。
道元禅師『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法」巻
このように、徳の無い人には憐れみを持ち、正しき道理を垂れるように道元禅師は説かれている。拙僧もその考えに従うのみである。ところで、道元禅師も朝鮮仏教の僧侶と中国留学中に出会い、或る評を与えている。
大宋嘉定十七年癸未十月中、高麗僧二人ありて、慶元府にきたれり。一人は智玄となづけ、一人は景雲といふ。この二人、しきりに仏経の義を談ずといへども、さらに文学士なり。しかあれども、袈裟なし、鉢盂なし、俗人のごとし。あはれむべし、比丘形なりといへども、比丘法なし。小国辺地の、しかあらしむるならむ。日本国の比丘形のともがら、他国にゆかむとき、またかの智玄等にひとしからん。
『正法眼蔵』「袈裟功徳」巻
道元禅師が出会った朝鮮の僧達は、仏経の義を談じる勉強熱心な様子があっても、比丘として必要とされる威儀を調えていなかったという。道元禅師はその僧達に、憐れみを寄せている。ただ、一方で次のような評もしている。
我朝・高麗等は仏の正法、未だ弘通せず、何が為ぞ、何が為ぞ、高麗国、猶お正法の名を聞く、我が朝未だ嘗て聞くことを得ず、前来入唐の諸師皆な教網に滞る故なり。
『学道用心集』
まだ、朝鮮の方が、仏の正法の名前を聞くチャンスがあるという。反面、当時の日本は未だそれすら無かったという。ここは、おそらく何かの事実に基づく認識だと思われる。ただ、今はどうだろうか?今回の報道に見えるような物言いを、朝鮮仏教の曹渓宗関係者がしているのを聞くと、どうなんだろ?と素直に思う。
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これまでの読み切りモノ〈曹洞宗7〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。
韓国仏教の『参禅』をフランスで広報、「日本の『禅』は偽物」=韓国(サーチナ)-Yahoo!ニュース
事の発端は、フランス・パリにあるギメ東洋美術館ということで、韓国仏教が用いる「参禅」が日本の「禅」と間違って紹介されているのを見て、自尊心が傷つけられたそうで、今後は「参禅」という私たちの固有の言葉で統一し、世界の人々に知らせたいそうだ。合わせて、日本の「禅」という言葉は間違っているとも主張する。
・・・大きなお世話だ!!と思うし、この報道が事実だとすると、極めて残念な発言だ。今回の「東日本大震災」などの後には、韓国曹渓宗と、我々曹洞宗も手を取り合って、様々な活動をしてきたが、そのような態度は見せかけだったのだろうか?
用語の違いなんて、そりゃ随所にわたって存在するだろう。後は立場の違いによって、どれを用いるかというだけであって、一方的に正しいか間違っているかなんて決められない。韓国仏教に於ける「参禅」も、多分我々曹洞宗が用いる「参禅」の意味とは違っているのだろう。実際、日本に於いても、我々と臨済宗とでは違う。そんなことは日常茶飯事だ。例えば、この記事であるように、その美術館で、韓国仏教に因む説明の記述が間違っていたというのなら自尊心が傷つくのは分かる。だが、仏教全般や東洋思想全般の説明で、一方的に韓国仏教のそれが正しく、日本のが間違っているとは言えない。
所詮、韓国仏教の用語は、韓国にのみ通用するのだ。それは我々も同様であるが、我々の用語がフランスで一般的に受け容れられているとすれば、それにはそれなりの理由がある。つまり、実績があるということだ。
曹洞宗の僧侶であった弟子丸泰仙は1965年、51歳で単身フランスのパリに入った。シベリア鉄道経由だったと聞く。10年後に著された弟子丸『パリの禅僧』(実業之日本社)は、弟子丸自身による自己宣伝の嫌いが無いとはいわないが、しかし、描かれる様子からは、日本の曹洞禅が明らかに受け容れられていることが分かる。その後、紆余曲折が有ったとはいえ、21世紀の現在、弟子丸が植えた種は、明らかにフランスに根付いた。その本の中に、こんな記述がある。
・「勝敗」「対立」「二元」の要素をもつものは禅ではなく、またいい方をかえれば、こうした二元的対立の要素があるからこそ、現代文明に悲劇があるともいえる。(136頁)
・宗教の原点、本質とは、「なにも求めない」ところまで到達しなければならないのである。(137頁)
フランスで10年にわたって布教教化を実践した人の言葉である。この人の言葉を前にした時、今回「自尊心」が傷ついたという人達の「自我・吾我」の強固さに改めて驚く。また、自分達が、世界の仏教界を統べる立場になろうとしている辺りからは、まだまだ無所得の境地にまで至っていない未熟さを感じることが出来る。
無論、こういう言葉遣いや考え方が、彼らにしてみれば「間違っている」ということになるのだろう。だが、我々からすれば、おたく等こそ間違えているともいえるわけで、この辺はただ、自分の立場を確認するに留まる。だとすれば、戯論である。問題は、違いをまず認めることである。そして、現状もし、自分達の都合に合わない様子であったとしても、それを、先行する相手を貶めるような発言でもって、性急に結果を求めるべきでは無い。「サムスン」とは違うと思いたいが・・・
なお、自分達が良く、相手が悪いという発想は、「不自讃毀他戒」に反している。また、相手を一方的に間違えていると断じるのは「不説過戒」に反している。更に、龍樹菩薩は、大乗仏教の基本として、次のことを述べる。
復た次に、一切の諸の外道の出家は、心に「我が法は微妙にして、第一清浄なり」と念えり。是の如くの人、自ら所行の法を歎じ、他人の法を毀す。是の故に現世には相打ち闘諍し、後世には地獄に堕ちて、種々無量の苦を受く。偈に説くが如し。
自法愛染の故に、他人の法を呰毀す。
持戒の行人と雖も、地獄の苦を脱せず。
『大智度論』
ここで言われていることは、自らの法が正しいと把われ愛し、他人の信奉する教えを毀そうとするというのは、大きな罪を得るとしているのである。朝鮮仏教も、1700年の歴史を持ち、大乗仏教国の一端を自負するというのなら、せめて『大智度論』くらいは学んでおいて然るべきでは無かろうか。ただ、文字で知るだけでは無い、身心に銘記し、実践することを求めたい。まぁ、こういう書き方をしてしまったが、拙僧は彼らに対して怒りを懐いているわけでは無い。ただ、憐れに思っているだけである。
徳あるは、ほむべし、徳なきは、あはれむべし。愛語をこのむよりは、やうやく愛語を増長するなり。
道元禅師『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法」巻
このように、徳の無い人には憐れみを持ち、正しき道理を垂れるように道元禅師は説かれている。拙僧もその考えに従うのみである。ところで、道元禅師も朝鮮仏教の僧侶と中国留学中に出会い、或る評を与えている。
大宋嘉定十七年癸未十月中、高麗僧二人ありて、慶元府にきたれり。一人は智玄となづけ、一人は景雲といふ。この二人、しきりに仏経の義を談ずといへども、さらに文学士なり。しかあれども、袈裟なし、鉢盂なし、俗人のごとし。あはれむべし、比丘形なりといへども、比丘法なし。小国辺地の、しかあらしむるならむ。日本国の比丘形のともがら、他国にゆかむとき、またかの智玄等にひとしからん。
『正法眼蔵』「袈裟功徳」巻
道元禅師が出会った朝鮮の僧達は、仏経の義を談じる勉強熱心な様子があっても、比丘として必要とされる威儀を調えていなかったという。道元禅師はその僧達に、憐れみを寄せている。ただ、一方で次のような評もしている。
我朝・高麗等は仏の正法、未だ弘通せず、何が為ぞ、何が為ぞ、高麗国、猶お正法の名を聞く、我が朝未だ嘗て聞くことを得ず、前来入唐の諸師皆な教網に滞る故なり。
『学道用心集』
まだ、朝鮮の方が、仏の正法の名前を聞くチャンスがあるという。反面、当時の日本は未だそれすら無かったという。ここは、おそらく何かの事実に基づく認識だと思われる。ただ、今はどうだろうか?今回の報道に見えるような物言いを、朝鮮仏教の曹渓宗関係者がしているのを聞くと、どうなんだろ?と素直に思う。
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どこまで突っ走るつもりなんだろう。
まあ、いつもの通常運転ですね。
残念ながらそのようですね。
色々と彼らなりに言い分はあるようですが、ちょっと聞いても、やっぱり微妙です。
肉食妻帯しないとされる曹渓宗、よほど立派なのか?と思ったら、こんな事しかいわないなんて、いっそのこと、肉食妻帯した方が、余程まともなことを発言するって事でしょうね(笑)
上記ニュースまだかわいいものです。
曹渓宗は、反日活動の大規模拠点の一つであり北朝鮮の工作機関であると言われているのですが、曹洞宗と協力関係にあるのですか?
そうであるのならば、日本側の知識の無さ無防備さに驚きます。
政治関係の情報をもっと集めて知ってください。
彼らを日本に入れないでください。
追加です。
日本仏教界を守ってください。
御指摘の内容が事実だとすれば、非常に憂慮されますね。拙僧には、日本仏教界を守る力は有りませんので、よろしければ、御所見を然るべき諸機関に対して発信されては如何でしょうか?
韓国曹渓宗
フィリピンの日本が建てた学校の碑を勝手に「韓国が建てた」と書き換え、日本国旗を韓国国旗に塗りつぶした事件も、「韓国軍、及び曹渓宗の資金による」との表記が記事・映像として残っています。
兵庫の山奥に建造された、京都の占い師が興した「例の自称仏教の新興宗教の巨大寺院」になぜか寄せられた「東日本大震災」へのお見舞いメセージとやらには"曹渓宗 ドスンサ寺院管長パクジャエケウン大僧正"の名で「日本と日本人が全ての問題を克服し、元の正常な国を取り戻すことを」と論意を異した言葉を吐いています。
かの国はキリスト教も盛んですが、全ての宗教がナショナリズムと個人利権に関する大事件を起こしていますね…
残念でなりません
あちらにはあちらの言い分があると思うのですが、ナショナリズムの高揚に、宗教者が自らの言動を利用するというのは、何とも残念な印象です。