1月26日 オンエア
オリンピック史上最も有名な写真★知られざる真実
 
 
photo  あなたは、この写真をご存知だろうか? 今から49年前、メキシコオリンピックの表彰式で撮影された、オリンピック史上最も有名とされる一枚である。 拳を突き上げた、2人のアメリカ人メダリスト。 彼らはこの行いにより、世界中から非難を浴び、迫害され…壮絶な人生を歩む事になった。
 だが…この写真によって、最も過酷な道を強いられたのは、ただ立っているだけに見える、2位のオーストラリア人だった。 しかもその事実は、最近まで彼の母国でさえ知る人はほとんどいなかった。 オリンピック史上もっとも有名な写真に写る、知られざるアスリートの激動の人生とは?
 
 
photo  時は今から34年前に遡る。
12歳の少年マット・ノーマンは、叔父であるピーターの家に足繁く通っていた。
 ピーター・ノーマン当時41歳。 マットは、高校で体育を教えているこの叔父が大好きだった。 マットは、叔父が出場したオリンピックのレースの話を聞くことが大好きだった。 そう、ピーターは15年前、オリンピックで銀メダルを勝ち取ったトップアスリートだったのだ。
 
 
photo  だが…マットにはある疑問があった。
それは、誰もピーター・ノーマンという陸上選手がいたことを知らないのだ。
 陸上のオリンピックメダリストともなれば国の英雄。 引退後は、大学やナショナルチームのコーチに招かれたり、政治家やテレビのタレントになったりするなど、活躍している者も多い。 だが…銀メダルを取ったはずの、ピーター・ノーマンの名前は、オーストラリア人でさえ知る者はほとんどおらず…彼は高校で体育を教える傍ら、精肉店でアルバイトをして生計を立てていたのだ。
 
 
photo  マットは祖母に、その疑問をなげかけた。 すると…ピーター・ノーマンのことを誰も知らないのは、彼が正しいことをしたからだという。 そして、マットがピーターにそのことを尋ねると…ピーターは、驚くべき物語を語り始めた。
 今から75年前。 彼はオーストラリアのメルボルン郊外で、貧しい労働者階級の家に生まれた。 走るのが大好きだったピーターは、地元の陸上チームで活躍していたものの、シューズを買ってもらえないほど貧しかった。
 
 
photo  だが…当時のオーストラリアには、彼よりも不幸な人々が大勢いた。 当時のオーストラリアには、先住民のアボリジニやアジア系移民など、有色人種への差別が色濃く残っていた。
 それは、イギリスの植民地だった18世紀に始まる「白豪主義」という政策によるもの。 何事にも白人が優先され、有色人種はオーストラリアの市民権が得られないなど、長年、法的にも迫害されていたのである。
 
 
photo  だが、ピーターは…敬虔なクリスチャンだった両親と共に、貧しい有色人種の人々に炊き出しを行うなど、白人でありながらも、差別することは決してなかった。 他の白人たちは、そんな彼らのこともバカにしていた。 だが、父はいつもピーターにこう言い聞かせていた。 「肌の色や生まれた場所なんか関係ない。人間はみんな平等なんだ。それをいつも忘れるな。」
 だがこの時、彼はまだ知る由もなかった。 父親から受け継いだ信念を、後に思いもよらない場所で試されることを…
 
 
photo  小学校を卒業後、家計の為に精肉店で働き始めたピーター。 だが、仕事の傍ら、大好きな陸上だけは続けていた。
 リレーの選手として頭角を現すと、やがて200M走に転向。 するとその才能が一気に開花! ついに…オリンピック代表に選ばれたのだ。
 
 
photo  そして1968年、メキシコオリンピック開幕。 だがこの時、ピーターは母国オーストラリアでさえ、全く期待されていなかった。
 なぜなら、当時の陸上短距離は、アメリカが絶対王者として君臨。 特にピーターが出場する男子200Mは、世界記録保持者ジョン・カーロスを始め、トミー・スミスら3名のアメリカ勢が表彰台を独占すると予想されていた。
 ピーターは予選突破さえ危ぶまれていたのである。 だが…予選をいきなりオリンピック記録更新となる20秒20で走ると、その後、準決勝を突破! ついに決勝進出を決めたのだ。
 
 
photo  そして、決勝の前日練習のこと… ピーターは、ジョン・カーロスとトミー・スミスに話しかけた。 話すのは初めてだったが、ピーターの気さくな人柄もあり、3人はすぐに古くからの友人のように打ち解けた。
 だが…ジョンが「あんたは人権を尊重するか? オレら2人は表彰台に立ったら…アレをやってやるつもりだ。あんたはもし表彰台に立ったら、どうする?」、そう問いかけてきたのだ。 ピーターは知っていた…アメリカの黒人選手にとって、このメキシコオリンピックには特別な意味があることを。
 
 
photo  今からわずか50年あまり前、自由の国・アメリカには人種差別の嵐が吹き荒れていた。 バスや公衆トイレにさえ、白人優先席が存在。 ホテルやレストランも有色人種の入店を拒否するなど、人種差別が公然と法律で認められていたのだ。
 そんな中、人種差別に反対するキング牧師らの運動により、1964年、公民権法が制定。 有色人種の選挙権が保証され、公共施設での差別も禁止された。 これで人種差別はなくなる…はずだった。 だがその後も、人種差別感情が収まる事はなく…黒人へのリンチや暴行、彼らの商店や住居への放火が継続的に発生した。
 
 
photo  そして、メキシコオリンピックの半年前、決定的な事件が…キング牧師が暗殺されたのだ。 黒人たちの精神的支柱になっていた指導者の殺害。 彼らの怒りは頂点に達した。
 黒人アスリートたちは、メキシコオリンピックのボイコットを検討。 国内で横行する差別に目を背け、メダル獲得の為だけに平然と黒人選手を送り込む…そんなアメリカ社会に抗議する意志を示そうとしたのだ。 だが…逆にその動きは、スポーツの政治利用を禁じるオリンピックの精神に反するとして、国際的な批判を浴びた。
 
 
photo  この事態を受け、黒人選手たちの意見は割れた。 ボイコットすべきだ、という者。 今後の人生を考え出場すべきだ、という者。
 そして、ジョンとトミーの2人は、出場する道を選んだ。 ある決意を胸に…
 
 
photo  いよいよ迎えた男子200M決勝。 運命のレースは…スタートした。 先行したのは世界記録保持者のジョン・カーロス。 その後をトミー・スミス。 ピーター・ノーマンは出遅れたかに見えた。 だが…ピーターは、大外から物凄い追い上げをかける!
 
 
photo  1位はトミー・スミス。
そして、なんとピーター・ノーマンは、世界王者ジョン・カーロスを抜き、2位に入ったのだ。 自ら予選で出したオリンピック記録を上回る20秒06、1位のトミーとともに当時の世界記録を破った。 しかも男子短距離走でのメダル獲得は、オーストラリア初の快挙だった!
 
 
photo  すると、コーチはピーターにこう釘を刺した。
「やつらが何をやっても無視するんだ。お前はオーストラリアの英雄なんだ…巻き込まれるな。」
 オリンピックの花形、陸上短距離で銀メダルを獲得した、ピーター。 その将来はもはや約束されたようなもの。 もうアルバイトしながら走る必要などなくなるのだ。
 
 
photo  表彰式の直前。 ジョンとトミーの二人は、すでに決意を固めていた。 表彰台の上で、メダリストたちはつかの間の自由を得る。 しかもその瞬間は生中継され、6億人もの人々が固唾を飲んで見守る。 さらに写真となるとそれこそ全世界に配信されるのだ! つまり表彰台こそ…アメリカにおける黒人の悲惨な状況を訴え、差別と闘う意志を世界に訴える絶好のチャンス!
 
 
photo  だが、オリンピックの理念としては…全てのエリアにおいて、いかなる種類のデモンストレーションも、いかなる種類の政治的、宗教的、そして人種的な宣伝活動も認められていない。 もし実行した場合…まだ24歳と23歳、若い2人のアスリートは、オリンピックから永久追放されるだけでなく、他のいかなる大会に出ることも許されず、選手生命が絶たれてしまう。 それでも彼らは、同胞たちの苦しみを世界に訴えるため、胸に人種差別へ抗議する団体のバッジをつけ…あるパフォーマンスを行おうとしていた。
 
 
photo  すると…ピーターが2人のところにやって来て…「オレは表彰台の上で何をすればいい?」と言ったのだ。
「あの時言ったことは忘れてくれ。俺たちの問題だ。白人の君は知らないフリをしてればいい。オレたちは本気なんだ。」というジョンに…ピーターは「僕も本気だよ」と答えた。
 そして、ピーターは、2人と同じバッジを胸につけることにしたのだ。 バッジを胸につけることは、2人の行為に賛同することを意味していた。
 
 
photo  1968年10月16日、世界が注目する中、表彰式が始まった。 2人は靴を脱ぎ、黒い靴下で表彰台に登った。 これはアメリカの黒人が差別によって、貧困に苦しんでいる現状を表現。 そして、黒人であることの誇りと、彼らと共に立ち上がる意志を訴える為に…頭を垂れ、黒い手袋をはめた手を突き上げた。 そして、2人の隣には…あのバッジをつけたピーター・ノーマンが…。 この一枚の写真は「ブラックパワー・サリュート」と呼ばれ、黒人の誇りと威厳を主張し、差別に抗議する意志の象徴として、世界中に配信され、大きな注目を浴びることになったのである。
 
 
photo  この一枚の写真。ブラックパワーサリュートの反響は予想以上だった。 瞬く間に世界中に配信され、賛否両論の嵐を巻き起こしたのだ。
 だが、国際オリンピック委員会は、その理念に反するとして、ジョンとトミーをオリンピックから永久追放することを決定。 2人は閉会式に出ることさえ許されず、その翌日、アメリカに強制帰国させられてしまった。
 
 
photo  一方、その日オーストラリアではピーターの史上初の快挙が大々的に報じられ、マスコミと国民は熱狂。 2週間の開催期間を終え、晴れて彼は帰国の途についた。 だが、空港で待ち受けていたのは…母と妻、そして友人がわずかに数名のみ。 そこにマスコミやファンの姿はなかった。
 実は…ピーターが表彰式で、黒人2人が行なったパフォーマンスに賛同の意志を示した事実が報道されると…賞賛は一変。 未だ白豪主義を貫くオーストラリアのマスコミは、ピーターをこぞって叩き始めたのだ。
 
 
photo  事態はそれだけにとどまらなかった。 自宅に何通もの脅迫状が届くようになった。 そして嫌がらせが一段落ると待っていたのは…徹底した無視だった。 マスコミや国民のみならず、隣人ですら彼の偉業をまるでなかったことのように扱った。
 ピーターはその後、妻とも上手くいかなくなり…離婚。 職を転々とするようになった。
 
 
photo  だが、そんな彼を唯一支えるものがあった。 それは…走ること。 ジョンとトミーは永久にオリンピックから追放された。 だがピーターにはまだ、オリンピック出場の権利が残されていたのだ。
 夢の舞台へ向け練習を重ねたピーターは…オーストラリア国内の大会で何度も優勝。 世界ランク5位を維持し続けた。
 
 
photo  そして迎えた1972年、ミュンヘンオリンピックが開催されるこの年…。 ピーター・ノーマンは30歳になっていた。 それでも、4年間でオリンピック派遣の標準記録を13回突破するなど好調を維持、彼のオリンピック出場は確実に思えた。 だが…オーストラリアは、ミュンヘンオリンピックの陸上男子200Mに、なぜか自国の選手を派遣しないと発表した。
 ピーターは、のちにこう語っている。
「ミュンヘンオリンピックには本当に出たかった。だがこの仕打ちは、私に陸上界からの引退を決意させるには十分でした。」
 
 
photo  メキシコオリンピックから16年。 銀メダリストピーター・ノーマンの名は、オーストラリアの国民から完全に忘れ去られていた。
 マットが「おじさん、後悔していないの?」聞くと…ピーターはこう答えた。
「確かにオレは得るはずだった色んなものを失ったのかもしれない。でもな、自分の信念を貫き通せた。そのことを母さんやマット、アメリカのジョンとトミーも分かってくれている。それで十分だ。」
 
 
photo  アメリカのジョンとトミーは、メキシコオリンピックから帰国後、想像を絶する苦難を味わっていた。 2人ともに勤め先から解雇され貧困に苦しむ生活。 さらに家族への差別・脅迫も相次ぎ、ついには…ジョンの妻が自殺する悲劇まで起こってしてしまった。 それでも、3人の友情は途切れることはなく、事あるごとに手紙や電話で連絡するという関係が続いていた。
 
 
photo  そして1970年代も半ばになると、アメリカでは次第に黒人の人権が認められるようになった。 その結果…2人を人種差別と闘った英雄として評価する声が高まり、彼らの名誉は徐々に回復されていった。 だが、ピーターの名誉だけは回復される兆しはなく…時間だけがいたずらに過ぎていった。
 勇気と信念をもって、黒人差別へ反対の意思を表明した、ピーター・ノーマン。 その人生は、誰にも知られず永遠に葬り去られる…かに思えた。 しかし、メキシコオリンピックから33年が過ぎたこの年、1人の人物がピーターの名誉を回復する為、立ち上がる。
 
 
 ミュンヘンオリンピックを機に現役を引退したピーターは、その後、若い頃の無理がたたったのか、ふとした拍子にアキレス腱を断裂。 大量に処方された痛み止めが原因で、以来、健康が優れずにいた。
photo  だが、そんな彼の身にある変化が… ピーター・ノーマンのドキュメンタリー映画を制作しようと、一人の若手映像作家が立ち上がったのだ。 その映像作家とは…甥のマットだった!
 ピーターの元に足繁く通っていた甥のマット少年は、テレビドラマなどを制作するフリーランスの映像作家となっていた。 マットは、叔父が払った代償、そして彼のしたことがどれほど大変で勇気がいることだったかを伝えたいと思うようになっていた。 そして、それができるのは自分しかいないと…
 
 
photo  だがそれは簡単なことではなかった。 忘れ去られた銀メダリストの映画に興味を持つ製作会社など、どこにもなかったのだ。 だが、マットは諦めなかった。 映画でオリンピックなどの様々な映像を使用するには、多額の費用がかかる。 関係者への取材や撮影費などと合わせると、製作にはおよそ2億円が必要だった。
 また、その資金を捻出するには、相当な時間もかかる。 マットは自らスポンサーを探す一方、自腹を切ってまで映画製作に取り組んだ。
 
 
photo  製作開始から、あっという間に5年近くが過ぎ…すでに、ピーターは64歳になっていた。 そんなある日のことだった。 2006年10月3日…ピーター・ノーマンは心臓発作で、突然この世を去った。
 出棺の時、その棺に付き添ったのは…他でもない、ジョンとトミーだった。 2人は急遽、アメリカから駆けつけたのだ。 そして長年の友に弔いの言葉を贈った。
ジョン「私たちは素晴らしい戦友をなくした。」
トミー「ピーターは道しるべだ。表彰式のあの行為は後世への遺産だ。誇りを持ち、信じていればきっと報われる。」
 
 
photo  ピーターの死から2年後、マット・ノーマン監督のドキュメンタリー映画が完成。 オーストラリアで公開された。 「敬礼」を意味する「サリュート」と題された映画は、当初、わずか15館の公開だったにも関わらず、口コミで評判が広がり、観客数は徐々に増加。 反響は当初の予想を越え、遠く海外からも公開を希望する声が届くまでに… 最終的に「サリュート」はアメリカをはじめ、世界6カ国で上映された。
 
 
photo  しかもその年、オーストラリアの国内外で8つもの映画賞を受賞したのである! こうしてオーストラリアだけでなく、世界中の人々がピーター・ノーマンの名と、彼の物語を知ることになったのだ。 マットはこう話す。 「たくさんの人にこの映画を見てもらい、ピーターの行為を伝える事はできました。だけど私にとって一番心残りなのは、ピーターにこの作品を見せることができなかったことです。」
 
 
photo  その4年後。 あるニュースが、オーストラリア中を駆け巡る。 オーストラリア議会は、ピーター・ノーマンの名誉を回復するための動議を採択。 証人として、母・セルマさんを招いた。 その上で、議会は…ピーターがオーストラリアで受けた扱い、また亡くなる前に表彰台で行った行為が評価されなかったことについて、謝罪ししたのだ。
 オリンピックの舞台で、自らの信念を貫いたピーター・ノーマン。 彼の勇気と信念は、半世紀近くの時を経て、オーストラリアの人々に、そして…世界中の人々に伝えられたのだ。
 
 
photo  現在、シドニーの小学校では、授業の一環として、映画「サリュート」を子どもたちに見せている。 「ピーター・ノーマンを知ってる?」という質問に子供達は…
「ああ、知ってるよ。オリンピックで黒人を援助した人だろ?」「知っているわ、彼はとても偉大だわ」
 マットはこう話してくれた。 「もし伯父が今も生きていたら『これからは僕が意思を受け継いで、世界の問題に取り組んでいく』と伝えたい。彼のしてきた事を尊敬の念を持って受け継いでいきたいです。」
 
 
photo  議会の謝罪によってピーターの名誉が回復される7年前。 銅メダリスト、ジョン・カーロスと金メダリスト、トミー・スミスの名誉もまた完全に回復されていた。 アメリカ・カリフォルニア州にある彼らの母校に…あの表彰台の彫像が作られたのだ。 2人の勇気と信念を称え、後世に語り継ぐ為に…その除幕式には、オーストラリアから招かれたピーターも出席していた。
 
 
photo  だが、2位の場所にピーター自身の像はない。 そこには、彼の強い願いが込められていた。 あの像を見た人に、そこに是非立って自分ならどうするか? 考えて欲しいと…
 
 
photo  台座には、実際にこう刻まれている。
「take a stand」
この言葉には2つの意味が込められている。 1つは「ここに立ってみて下さい」。 そしてもう1つは「自分が信じたことのために立ち上がりなさい」。