日本映画を代表する俳優、高倉健さんが亡くなりました。主演した映画「あなたへ」が公開された2012年、日経電子版に連載した「高倉健のダイレクトメッセージ」では誠実な人柄が伝わり、読者からも多くの反響が寄せられました。当時の連載を再掲し、高倉健さんの優しさ、芯の強さを改めて伝えます。
偶然の出逢いから始まった私の映画俳優としての人生。
その後も、人生の岐路を大きく左右しているのは「人との出逢い」です。
全18作のシリーズとなった『網走番外地』のうち、10作目までメガホンをとったのは石井輝男監督。
第1作のロケ地で、ある朝、肝心の監督がなかなか現場に現れませんでした。しばらく待ちましたが、心配になり監督の部屋に向かいました。部屋をのぞくと、布団をかぶって寝ている監督の枕元に、ガラスの割れた窓から吹き込んだ粉雪が白く積もっていました。低予算だということは知っていましたが、これほどまでとは…。
「この監督を喜ばせたい!」
この想いが、『網走番外地』シリーズの私の原点となりました。
■実感したハリウッドのスケールの違い
初めてのハリウッド映画出演となったのが、第二次大戦下の太平洋の島を舞台に、英米軍と日本軍との死闘を描いた『燃える戦場』(1970年)です。『花と龍』の撮影が終わって、すぐカメラテストを受けにフィリピンへ。首都のマニラからロケ地近くの米軍スービック基地まで乗り継ぐ時でした。空港で「出発は何時ですか?」と聞くと、スタッフの返事は「貴方(あなた)のチャーター機ですから、お好きな時にいつでも。まずはコーヒーでも飲まれては?」という具合…。これが最初の驚きでした。
ロバート・アルドリッチ監督は、毎朝ロケ現場に駆逐艦で通っていると聞き、日本とのスケールの違いをいよいよ実感しました。
監督は、祖父が上院議員、従兄弟(いとこ)が副大統領を務めたという名門の出。自分個人のスタジオをノースハリウッドに所有していました。
4か月にわたるフィリピンロケのために、監督専属のシェフ、マッサージ師をはじめ、あらゆる役目のスタッフが常駐。ロケ地に隣接した土地には、スタッフの余暇のために、何と6レーンのボウリング場までが作られていました。日本の映画界とは、あまりにもかけ離れた世界でした。
私の撮影はノースハリウッドのスタジオでした。ロサンゼルス空港で出迎えてくれたのは、キャデラックのリモ(リムジン)。恐れ入って乗り込むと、ショーファーが手持ち無沙汰な様子で「荷物はこれだけか?」と聞きます。指さす方向を見ると、キャデラックの後ろに荷物用のステーションワゴンが控えていました。
宿泊は、ルーズベルトホテルのキングスウィート。「明日の本読みには、気楽にこれをお召しになってください」と、わざわざ用意されていたのは、ジャンプスーツとスニーカーでした。
撮影が予定より10日間も長引いたのですが、破格の待遇に感激していた私は、アルドリッチ監督に「オーバーギャラ(追加出演料)はいりません」と申し出ました。すると監督は「大丈夫、お金の管理は銀行がやってくれているから。それにしても、おまえはいいやつだな」と、満面の笑みで私の頭をなでました。
■忘れられないヘンリー・フォンダとの記念写真
私が今までに、自分からお願いして記念写真を撮っていただいた俳優が、たった一人だけいます。名優ヘンリー・フォンダ。
同じシーンでの出演はありませんでしたが、新設スタジオのテープカットに駆けつけ敷地内を歩いているところを偶然見かけた私は、思わず走り寄り「『燃える戦場』の日本兵の役で出演しています」と、無我夢中で話しかけました。
「『荒野の決闘』の貴方の芝居が忘れられません」と続けると、彼は「『十二人の怒れる男』を観てくれたか?」と何度も繰り返していました。
うまくかみ合わない会話でしたが、ハリウッドを体感した至福のひととき。いつか、ヘンリー・フォンダのような俳優になれたら・・・。忘れられない思い出です。
■独立直後、私を支えてくれたマモちゃん
東映を出て、1975年に個人事務所を作りました。
独立後の1本目が『八甲田山』でした。組織を離れ、単身で現場に向かうことになった私のことを聞きつけ、「旦那独りで、行かせられますかいや!」と、たった1人付いて来てくれたのは、東映京都衣装部で当時の部長だった森護(まもる)氏。
撮影所ではマモちゃんという愛称でした。マモちゃんは大好きだった酒もたばこも断ち、八甲田の山に一緒に入ってくれました。もしかしたら、組織をクビになるかもしれないというリスクを覚悟の上での行動でした。
それから3年にわたる雪山との闘いが始まり、最初の年の1か月、彼は共に闘ってくれました。何があっても途中でやめるわけにいかなかったのは、マモちゃんのような人の熱い想いに支えられたからです。ありがとうマモちゃん。
■一期一会だからこそ……
映画では、共演者やスタッフなど大勢の人間が一定期間、それぞれの役目を果たしながら、本物の家族よりも密度の濃い時間を共有します。
東映撮影所で、プログラムピクチャーと呼ばれる低予算の量産映画を撮影していた頃は、いつもの顔といつものスタジオという感じでしたが、東映を離れてからは1本1本の撮影ごとに、それまでと違った人間関係が生まれました。
2005年『単騎、千里を走る。』撮影の時、私を迎えるために10数年かけて脚本を練ってくださった張芸謀(チャン・イーモウ)監督は「夢にまで見た高倉健と、こんな旅をすることができて本当にうれしい」と、何度も何度も何度も、インタビューで話していました。当初は遠巻きにしていた中国人スタッフとも日ごとに距離が縮まり、中国語での冗談も交わせるようになっていきました。
そしてとうとう撮影最終日。雲南省の村を去り日本に帰国するという場面。ラストシーンで「OK!」の声がかかった瞬間、スタッフがひそかに準備していたクラッカーが一斉に鳴らされ、口々に辛苦了(シンクウラ=お疲れさま)、謝謝(シェイシェイ=ありがとう)といいながら、皆、私に抱きついて泣き出しました。
顔見知りのスタッフだけでなく、裏方である日よけの傘の係り、コックさん、警備員、とにかく全員が声をあげてワンワン泣くのです。(どうしてこんなに…)と驚きつつ、ふと気づけば、私も泣いていました。
過酷なスケジュールの中で作られた寄せ書きには、参加したスタッフの顔写真と、それぞれのメッセージが添えてありました。200本以上の映画に出演させていただきましたが、こんな温かい贈りものは初めてでした。
同じスタッフ、共演者が2度と再び集まることがないからこそ、1本1本の映画には、一期一会に全身全霊で臨んだ人たちのエネルギーが焼き付くのだと信じます。
すべては、出逢いから…。
読者からのコメント
石山勉 60代男性 山形県
8月25日、映画館で健さんに逢えるが、楽しみです。自分は63歳です。健さんとお会いしたのが、昭和45年に、浅草東映での、舞台挨拶でした。いつもパソコンで、健さんのポームページを開いてはみています。健さんが出した「 想う 」何回もみています。これからもがんばってください。
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シン子 40代女性 北海道
毎月楽しみに読ませて頂いてます。健さんが新たに映画を撮られ&コラムなんて!とてもうれしいです!お母様のお話…健さんの人となりが納得できたような気がします。小さい頃から健さんのヤクザ映画を観はじめて、一番好きな作品は「冬の華」主人公が健さんと重なります。今後も「素」の健さんを教えて下さい
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大棟梁 60代男性 神奈川県
『おふくろを悲しませたくない』万人共通の思いだと思います。7人兄弟の末っ子に育った母は、戦後に父と結婚したことで相当な苦労をしたようです。中国で生活していた父の家族は敗戦で職や家を失い、長男の嫁の母に多大な負担がかかっていました。そんな中で子供三人を育てた、母の最大の楽しみは夏休みに子供たちを連れて実家で過ごすことだったと思います。母の実家は、岩手県大槌町でした。昨年大槌に行って、全く何もなくなった光景を、目にした時、最初に浮かんだことが『おふくろが見なくて良かった』。母は15年前に他界しています。
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眠りの小五郎 50代男性 千葉県
「一期一会」素敵な言葉ですね。「出逢い」を大切にすること。それは、わたくしの4つある人生のテーマの内のひとつです。人や本や音楽、そして映画。どれだけの出逢いに救われて来たことでしょう。わたくしも高倉様のように一緒に仕事がしたいと熱望される人間になりたいです。そして、お互いが更なる高みへ行ける仕事を残したいです。「すべては、出逢いから始まりました。あなたとの出逢いがすべてでした」という感謝の心を込めて。
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izumi 70代以上男性 宮城県
相田みつをさんの詩に「人の世の幸不幸は人と人とが逢うことからはじまる よき出逢いを」そして更に「その人といるだけで 身も心も洗われる そういう人を持つがいい」…と。まったくそのとおりであると思います。一期一会だからこそ…。この高倉健さんの想いと心が、映画「単騎千里を走る」を観て、頷けます。DVD何度観てもいいですね。直接的出逢い、書物、映像を通しての間接的出逢い、形は様々であってもその出逢いを大切にしていきたい。
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40代男性 海外
健さんが常に一生懸命考えながら生きている。だからこんな小さな自分は手を抜いて生きてはいけないと思って自分を奮い立たせています。言葉の持つ重み、きちんと生きることの大切さ。健さんありがとうございます。
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堀内伊智子・ポリ 50代女性 島根県
とても貴重な高倉健さんの気持ち・体験談が聞けて嬉しく思います。一人一人との出会いにドラマがあり力を貰い今の健さんが居るんだなと感じました。以前読んだ本でお母様が八甲田山ポスターを見てかかとに貼ってある凍傷の手当用肌色テープを見て心配されたって書かれてあり、いろんな出会いで大きくなる息子を嬉しくも心配してる。子を持つ同じ母として感動した事を思い出しました。掲載されてる自分からお願いした初めての写真は、ちょっと左向きの照れ屋さん健さんがまた素敵ですね。有難うございます。
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ごーごー 60代男性 栃木県
私は高倉健さんの佐久間良子、鶴田浩二との共演である人生劇場からのファンです。八甲田山が独立後の最初の映画だったのも思い出しました。新境地とも思える山田洋二監督の「幸せの黄色いリボン」「遥かなる山のかなたに」などに心を打たれました。独立して見事に脱皮されたようですね。いまでも、これからも高倉健さんのファンでいます。
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福島庸一 60代男性 兵庫県
心待ちにしていた第三金曜日で、「あなたへ」の封切りまで約1ヶ月、今回も「健さん」の「想い」十分感じながら拝見させて頂きました。文中で「ヘンリー・フォンダ氏」に触れられていらっしゃいましたが、私は、ヘンリー・フォンダの映画を観てヘンリー・フォンダに「高倉健」をダブらす事あります…ジョン・ウエインではなく。我儘言わせてもらえれば「健さん」と「田中邦衛」の新聞記者で「ローマの休日」のリメイク観たかったナと・・グレゴリーペックの雰囲気。
世の中の流れにぶれる事無い、もっと奥のほうにある「健さん」の「一途な想い」に、自分もかく有りたいと・・。
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遠藤カズオ<ガッツ> 50代男性 福島県
3.11での出来事でしばらく時間がたつにつれ、自分では知らないけど終戦時と同じ?イメージが浮かびました。と同時に何かすぐにでも行動を起こさねばと思い今に至りました。
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すーちゃん 60代女性 東京都
メッセージを読みながらすでに胸が一杯になっています。当時学生だった私は、映画好きの間では有名な「京一会館」(京都)に入りびたり、網走番外地や花と竜を観て、観客(もちろんおやじも一杯いました)と一体になり拍手喝采していました。京都にいた5年間の間にはものすごい数の映画を観て、美大の学生だった私は本気で映画関係の仕事に就きたいなどと夢のような事も考えたりしました。京都は学生の街でバンカラな学生も多く、女だてらに一人で京一会館で朝までいてもなぜか安心観がありました。ちなみに一番好きな映画は「駅」です。これからも楽しみにしています。
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志鷹 豪次
50代男性 大阪府
拝啓 高倉健 様 私は、不器用をこれまでいけないことだと思っていましたが、高倉様の「芸の無い…」というコメントを拝見させて頂き、不器用は武骨に極める、武極用だと知りました。私もこれから、武極用に生きて行きます。
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RST 40代女性 埼玉県
高倉健さんに一目惚れしたのは「南極物語」まだ小学生の頃でした。もしこのとき「南極物語」を観ていなかったら、健さんとの出会いが(画面上ですが…)なかったと思います。健さんの人とのつながりを大切にする気持ちを次世代(子供達)が受け継いでほしいです。
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Butchi
40代男性 兵庫県
映画俳優とは何か? 僕の考えでは、たぶん宣教師の役割をする、人々だと思います。その真剣さが、そんな感じです。
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