まじめにやるのになぜか成績が平均前後の子には「努力」ではなく「能力」を伸ばす教育を

どうしてこの子はこんなに勉強しているのに点数が低いんだろう?最近そんなことを考えます。努力しているのに人よりもできないのはやっぱり才能の壁があるからなんだろうか…?

まじめにやるのになぜか成績が平均前後の子

最近こういう子をみかけます。まじめに解いてて偉いんです。やれよって言わなくても問題集やってる。本当に偉い。なのに、フタをあけてみるとイマイチ振るわない。なんなんだろう。

それで、何人かそういう子を分析してみたところ、いくつかパターンがあることがわかりました。

①やり方が正しくない

数をこなしているが、本質的に理解できていない場合。
例えば、因数分解では、次数でルールが存在しているが、それを知らずなんとなくで挑んでいる。
例えば、食塩水ですぐに天秤を使い、天秤が使えない問題はあきらめてしまう。

②本当に才能がない

本当にその分野において才能がない場合。どんなに正しいやり方を身につけようとして身につけても、なぜか身についたはずなのにできないしどこかズレている。どうやら才能がないらしい。別の方法で補う(テクニックなど)か、その科目をあきらめるか。

③同じ問題しか解かない

女の子に多いのですが、同じ問題集を4週して丸暗記しているがテストではできないという。違う問題がでるとできない。焦ってしまう。
これは簡単で、別の問題集を何種類もやらせると解決することが多い。

④自分はできないからと決めつけている

自分はできないから~と決めつけていると、本当にできないのです。
できない自分を確認してしまっているといったほうが正しいでしょうか。
だいたいの場合、できないと決めつけてしまっている原因は、親から他人と比較されて苦しい思いをしたり、先生からおまえには才能が無いと言われてしまったからとか、外部的要因が多いです。

⑤復習のやり方や効率が悪い

単語を覚えても覚えられないという男子。単語カードにしてみたら、できないものがたくさんでてきました。目で見てわかる量だから、カードはわかりやすいのです。とにかく覚えるまで徹底的にやり通したら、三回やればさすがにだいたいのカードはできるようになっていました。
ところが、来週までなにもやらないとまた少し退化します。適切な間隔で、できるものは一週間後とか、できないものは帰宅したらすぐでしかも毎日とか、ちゃんと分けて効率を考えてやらないといけません。

塾に何時間も拘束されている女子。すごい勉強しているなーと思うのに成績が伸びていない模様。
どうやら確認してみると、範囲をカバーすることを優先してしまって、できなかったものを復習することが後回しになってしまっていました。こなすので満足してしまって、復習できていないし、できなかったものをできるようにしなければいけないという意識もありませんでした。

天才と才能と努力の違い

前、この記事で天才と才能と努力の違いについて書きました。天才は「見えない的に矢をあてる」能力をもつ者。才能は「見える的に矢をあてる」能力のことらしいです。本質的に理解するスピードが速いのは才能ですよね。努力は能力とは別にあると思う。というわけで、最近、私は、成績に反映される要素の計算式はどんなものだろうと考えるようになった。

成績に反映される要素の計算式

能力×技術×努力±運=成績?
※努力=正しいやり方×効率×時間?

能力は、本人のもつ潜在的な才能です。天才は天才的な才能を持っているから、能力が高いことになるでしょう。遺伝的な要素も大きく、養育環境はそれにも増して大きい。小さい頃から本を読んでいれば国語力が高くなるし、理系一家であれば数的処理の能力が高い傾向にあります。

技術は、本人の才能とは別に、テクニックで補うものを指します。例えば、読むのが遅い場合、漢字にだけ集中して送り仮名には集中しないで読むようにすると素早く読めます。それは技術で補っているといえるでしょう。元々の能力が低くても、テクニック…あとは、文明の利器で補うこともできます。まっすぐ線を引けないなら定規を使えばいいし、計算が遅いなら高級な計算機を使って複雑な計算を補うことができます。ここでは、持ち込みが可能かどうかは別問題です。

努力は、例えば、ミスをしないようにこまめに見直しをするとか、テストで出る範囲が決まっているから問題集を徹底してやりこむとか、そういったものです。才能や技術とは別に存在し、正しいやり方×効率×時間によるところも大きいです。適切ではない問題集をやりこんでも結果には結びつかないので、やはり正しい方法である必要があります。効率が悪ければ努力の数字は伸びません。時間だけが延びるだけです。最後に、時間はやはり、他のものが他人と差がつかない状況では一番工面しやすいものです。

最後に、運です。運はかけるのではなくプラマイだと思います。どんなにダメダメでも運さえよければというわけにはいかないので。

なお、この計算式はコネや人柄、さらには相手側の要素が大きく生きてくる就職や院進学には通用しないと思います。

「努力」ではなく「能力」を伸ばす教育を

こんな年になってから気づいたのですが、日本はみな「努力せよ」と言い過ぎです。「能力を高めよ」というべきなのです。

努力でなんとかなるレベルはそりゃあります。しかし、能力が3で努力が10=30と、能力が5で努力が6=30は一緒になってしまう。
なら能力がもっと伸びればいいじゃない。努力が10以上にいくのはちょっと、ご飯削るとか、寝る時間削るとか、そういうほうにいってしまう。
寝る時間を惜しんで勉強するのはいいけど、それ以前に能力がもっと高くなれば短時間で効率よく成績を出せるのではないだろうか?

まあ、なぜそんなことを考えるようになったのかというと、私はいわゆる象牙の塔に住んでいるので、「努力はみんなしている」んですね。
だから、努力だけでは超えることができない壁があるのです。その分野にやたら才能があるやつがいれば、努力をしたところで勝てません。
ならば、自分も不得手な分野で努力して勝負するのではなく、得意な分野で才能を生かして勝負すればよいのです。

で、じゃあもし得意がなかったらどうするんだって話です。
能力を伸ばすってどうやって?って話です。

文章を書くことに困らなかったある大人が子供だったころの話

例えば、国語の記述なんて、才能が大きく基礎に根を張っています。
幸い、わたしは生まれてこのかた、文章を書くことに困ったことがありませんでした。だからこんなブログも書いているわけですけど、この能力がどこで培われたのだろう?と振り返ってみると……。

まず、両親には日記をつける習慣がありました。必ず十年日記がリビングにありました。
私もですが、両親も、例えばゲームをするときはメモをしていました。攻略本にこの宝箱にはキメラのつばさが入っていた、とか書いていました。先にボスを倒した人が倒し方を書いておいたり…。
あとは、祖母が文章が大好きで、しょっちゅう葉書を送ってきたので返事を書いていました。
祖母は俳句が趣味で、たくさん俳句を書いては紙に書きためて、あったときに見せてくるのです。なつかしい。
さて、幼稚園児~小学校低学年のころ、ドラクエ3をやりながら、自分のプレイ日記を書いていました。
くだらない字ですが、ちゃんと物語調で書いていたようです。
父親が会社からもらってきたいらない手帳のメモスペースをすべてくだらない落書きと物語…つまり絵本のような物語で埋めていました。
もともと物語が好きで、親はもっとマシな本を読んでほしかったようですが、物語ばかり読んでいました。そのせいでしょうか?
それから、昔からなぜか話をするのが好きで、よくどこからか仕入れたくだらない話を人に話していました。
これは、どうやら叔父と似ているようで、叔父は演劇が趣味で友人となにかやっては語り部などをやっていたようです。
小3のころ、担任が全員と交換日記を始めました。38人全員に終礼でA6~B6サイズほどの日記に一日1ページ書かせて提出させ、すべてに一言コメントを書いていたのです。なんて労力!すごい…
そのころ、私は先生からいいコメントをもらおうと話のネタを集めては書いて、時々クイズを作って先生を困らせたりしていました。
例えば、「1階は滑り台、2階は冷蔵庫。これなーんだ?」とか…。うん、答えは自動販売機なんですよね…。先生は「おてあげ。むずかしいね」とかいてました。ドヤ顔でしたね私は。やめろよ9歳…。先生を困らせてやるなよ…。
小4のころ、部活動で絵本を作り始めました。A4コピー用紙を半分に折ってつなげて作るだけの本ですが、なぜかシリーズものを37巻くらいまで書いていました。
それをいやな顔をせず毎回読んでくれる友達がいました。友に感謝しなきゃいけませんねほんと…。
親も、大量に白い紙を消費しているのに、広告の裏を使えとは言いませんでした。計算用紙には広告の裏を使えとは言われましたが。
やはり、作品だから、広告の裏じゃみっともないだろうって思ったんでしょうか。理解がありました。

で、振り返ってみると、親も先生もだれも、私に書くなともいわないし、下手だともいわないんですね。
本当にくだらないものをかいていたのに(苦笑)、かくなっていわなかったんですよ。ありがたいものです。
そういう環境もあって、高校のときは演劇の台本を書いたり、小説を書いたりしました。
毎日部活で楽器を演奏して、貴重な時間はそういうものばかりやって、勉強をおろそかにしたりしていたのに、それをするなとはいわれなかった。
誰も周りの大人はそこを否定してこなかった。ただ、やることはやりなさいと言われた…(高校の先生ごめんなさい…)

もう、過ぎてしまった幼い頃の時間は取り戻せないから、わたしだって、幼い頃に剣道とかバイオリンとかやってみたかった(実際は水泳とピアノをやっています)。ただ、幼い頃って、よくわからないけど楽しいことを素直にやっていたと思います。それを責める人がいなくて、むしろそれをもっとやれと見守ってくれる人がいて、さらに楽しみにしてくれる人がいたから、それについてだけは自信をもって生きてこられた。

能力って、まずそこからなのかもしれません。興味をもつ。なんだかわからないけど楽しい。もっとやりたい。あこがれる人みたいなすごいやつをやってみたい。そして努力する。そうやっているうちに、苦行じゃなく能力が伸びていくのだと思います。

それは大人になってもきっと可能なことだと思うんです。まあ、大人の能力開発はちょっと脇に置いておくとして。

大人が子供のためにしてやれる大切なこと

それは、彼らの「すき」を否定しないことです。
「すき」を育んで、暖かく見守る。自分の思うとおりの作品(こども)にならなくても、否定せずに育てること。

自分を基準に子供を理想的に育てようとするのではなく、子供の目線でその子に必要なことを、先に生きてきた者として教えてやること。
それが、先に生きてきたもの、先生、じゃないでしょうか。親は、子供の、一番最初の先生であり、一番大切な先生なのです。

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ABOUTこの記事をかいた人

 現役塾講師。某塾での表彰経験有。生徒と保護者の架け橋になることが趣味。小学生から高校生に加え、大学院でTA・RAをしていたので大学生や修士まで幅広く指導可能。科目も算数から小論文・古典・世界史・物理基礎・地学1など幅広く対応。
 ★合格実績(中学):頌栄、普連土、品川女子、香蘭、八雲、実践女子、日大日吉ほか。
 ★合格実績(大学):上智大、明治大、星薬科大、横浜市立大、東京都市大、日大、専修大ほか。
 お問い合わせは syn※int.raindrop.jp まで(※を@に)