FUKUSHI Plaza街道 Now and Then中山道日本橋

神田

最終更新日:2011年10月16日

神田

街道沿いに草屋町、白金町、乗物町、鍛冶町、新石町、須田町、連雀町と続いた。 「神田」は町名ではなく、広い地域を示す地名で、日本橋地区、京橋地区とともに下町の中心部分を形成していた。

【歩く】 国道17号線を進んでJRの高架をくぐり、「須田町」交差点で国道と分かれて直進すると神田川にでる。昌平橋を渡ってすぐ左折し、次の信号を右折し、また次の信号を左折して国道に合流する。神田明神の鳥居脇の天野屋のところで国道から分かれて北側の小路を進む。100mほどで道が失われているので国道に戻る。 東大農学部の前で左折し国道を道なりに進む。

今川橋

天和年間(1681〜83年)に神田堀(別名神田八丁堀、龍閑川)に架けられた。日本橋から最初に渡る橋である。 橋名は当時の名主今川氏の尽力により架けられたことに由来する。橋の両側に瀬戸物の問屋が並んでいた。

1950年に堀は埋立てられ、橋も撤去された。

【今】「今川橋」交差点になっている。 神田今川橋郵便局の南の歩道に説明板がある。

紺屋町〔こんやちょう〕

神田紺屋町

紺屋が多く、町内には藍染川〔あいぞめがわ〕と呼ばれる水路が流れ晒しに利用されていた。 1719年に防災対策のために幕府の命令で一部の住民が北部に移されたため神田北乗物町を挟んで南部と北部に分かれている。

【広重「神田紺屋町」】 通りの両側に並んだ櫓の干場から、浴衣地が垂れ下がっていて、その間から富士山が見える。  切手と美術「名所江戸百景」

鍛冶町〔かじちょう〕

金物のなかでも、とくに刀や薙刀〔なぎなた〕といった打物〔うちもの〕を扱う流通業者や小売業者が集まっていた。 下駄の製作・販売にたずさわる職人や業者が集まっていた「下駄新道〔げたじんみち〕」と呼ばれる裏通りがあった。 また、書物問屋、薬の小売業者もいた。

1947年の区画整理で、黒門町〔くろもんちょう〕、上白壁町〔かみしらかべちょう〕、下白壁町〔しもしらかべちょう〕、紺屋町〔こんやちょう〕、松田町〔まつだちょう〕、鍋町〔なべちょう〕、塗師町〔ぬしちょう〕、新石町〔しんこくちょう〕、竪大工町〔たてだいくちょう〕、鍛冶町二丁目が統合されて「神田鍛冶町二丁目」となり、さらに1974年に「鍛冶町二丁目」となった。

【今】町名由来板がある。

神田青物市場

慶長年間(1596〜1615年)には須田村〔すたむら〕で野菜市が開かれていた。 明暦大火(1657年)のあと江戸中に分散していた青物問屋を多町〔たちょう〕周辺に集め1686年に正式に青物市場を正式に設置した。 1714年からは幕府の御用を仰せつけられ、1725年には問屋が94人となった。 佐柄木町〔さえきちょう〕、通新石町〔とおりしんこくちょう〕、連雀町〔れんじゃくちょう〕などに広がって1万5千坪(約5万平米)にもなり、「お江戸の台所」といわれてにぎわった。千住駒込とともに、「江戸三大市場」のひとつだった。

1928年に秋葉原西北(外神田4丁目、秋葉原UDXビルのあたり)に移転した。さらに1989年には大田区に移転し、太田市場となった。

【今】「青果市場発祥之地」と刻まれた碑と説明板がある。

八ツ小路(八ツ路原、八辻原)

八ツ小路

火除け地。 昌平橋、芋洗い坂、駿河台、三河町筋、連雀町、須田町、柳原、筋違御門の8方向に通じていたことで名付けられた。

【広重「筋違内八ツ小路」】 八ツ小路の西半分と下の方に筋違見付の渡櫓門からはいってきた行列が描かれている。 中央の左手には旗本天野弥五右エ門の屋敷、その右は辻番所と昌平橋に通じる冠木門、そして柳原の土手などが描かれ、遠景には神田明神の櫓門と本殿を描かれている。  切手と美術「名所江戸百景」

筋違〔すじかい〕見附(筋違御門)

将軍が上野寛永寺参拝や日光東照宮社参の際に使った御成門。

1872年に桝形石垣が取り壊され、その石材で筋違橋の場所に萬世橋が造られた。  萬世橋完成(1873年)

【今】JR中央線の高架があり、万世橋駅のホームの遺構が残っている。 高架の前に「御成門」の説明板がある。  万世橋駅開業(1912年)

筋違橋

1639年に架けられた。名前は中山道とは筋違いに架けられていたことによる。御成橋の別称もあった。

昌平橋

最初の架橋は寛永年間(1624〜44年)と伝わる。「一口橋」「芋洗橋」「相生橋」とも称されたが、湯島聖堂を建築したさいに孔子の生誕地である魯国の昌平郷にちなんで改名した。

【広重「昌平橋聖堂神田川」】 右下にわずかに昌平橋が見える。  切手と美術「名所江戸百景」

神田松住町〔かんだまつずみちょう〕

長福寺の境内だったが、明暦大火(1657年)の翌年に長福寺が浅草新寺町に移転して町屋となった。 「湯島横丁(のちに湯島横町)」という名前が付けられ、材木を扱う商人が集まっていたことから「材木町」という通称もあった。 神田川の河岸周辺に薪を売る商人が集中していたことから「薪河岸〔まきがし〕」という異名もあったという。

【今】町名由来板がある。

神田明神下御台所町〔かんだみょうじんしたおだいどころまち〕

明暦大火(1657年)後に城内の御台所御賄方〔おだいどころおまかないかた〕の武家屋敷として再建された。さらに寛文1672年、町屋も形成された。1869年には、神田明神下御賄手代屋敷〔かんだみょうじんしたおまかないてだいやしき〕を合併し、神田御台所町〔かんだおだいどころまち〕と呼ばれるようになった。

『銭形平次捕物控』で、平次が住んでいたという設定になっている。

【今】町名由来板がある。

湯島

古代には海岸線がこのあたりまで迫って島のような地形をなし、温泉が出ていたことから「湯島」といわれるようになったという。中山道沿いに湯島一〜六丁目があった。江戸時代初期に開けた古い町家だったが、1683年の火災で一〜五丁目が御用地になり、その後一丁目と三〜六丁目が新しい町家となった。

湯島聖堂(昌平坂学問所)

前身は忍ヶ丘(現在の上野公園の一角)に建てられた孔子廟で、1690年に5代将軍綱吉の命により湯島へ移され名称を聖堂と改めた。綱吉は幕府官学の拠点と位置づけた。1797年に聖堂の西側に学寮や学舎が増築され昌平坂学問所と改称された。

博覧会発祥の地でもある。  文部省博覧会(1872年)

神田大明神社〔だいみょうじんのやしろ〕(神田明神)

神田明神

平将門首塚付近に創建され、駿河台への移転を経て1616年にこの地に移された。 祭神は大国主命で平将門を合祀している。 江戸の総鎮守で、隔年9月の神田祭は江戸三大祭の一つに数えらえれている。 『江戸名所図会』でも四景をさし絵にして紹介している。

【広重「神田明神曙之景」】 元旦に若水汲みの儀式を終えた神主・巫女・仕丁が朝焼けの江戸の下谷方面を見ている。  切手と美術「名所江戸百景」

【今】狭い境内となった。
[写真]神田明神の鳥居と天野屋(2009年3月撮影)

天野屋

1846年に丹後出身の天野屋亀太郎が神田明神の門前に店を構えた。濁酒を商い、のちに地下の土室で作られた花麹で作る明神甘酒が評判になった。

【今】昔の風情を残し営業している。

お茶の水渓谷

人工の渓谷。 景色がよかったので舟遊びにも使われ、中国の名勝「赤壁」になぞらえて「小赤壁」と呼ばれた。