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管理事務所
入り口から坂道を少し登っていくと、正面に管理事務所があります。
パネル展「中世の古城を歩く」で、歴史などが紹介されていました。
中世の古城を歩く
現在、神奈川県内及び近隣各地に中世の城跡が残っています。
最近では発掘調査が進み、各地の中世城郭がタイムカプセルから甦っています。
しかし、残念ながら発掘調査は調査期間でなければ簡単に見学することはできません。
そので、大庭城をはじめとして、現状でも遺構のうかがえる中世の古城を中心に、
その歴史的背景をたどってみたいと思います。
土塁や空掘の多くは、土に埋まり草に覆われ、発見しにくいかも知れません。
また、表面観察によって見ることのできる古城の多くは、その城が改築を重ねた最終段階の姿、
つまり中世城郭の最も発展した戦国時代(16世紀)の遺構とされています。
しかし、ここで紹介する古城の中には、公園として整備されている城址もあり、
眺めのすばらしい城址もあります。機会があれば、ハイキングやドライブを兼ねて
訪ねてみてはいかがでしょうか。
大庭城:位置と現況
大庭城は、相模台地の南端部に位置し、城山(しろやま)と呼ばれる海抜30mほどの
台地上に築かれた中世城郭である。
かつては南北800m、東西250mほどの台地の全域を城域とし、
北に駒寄(こまよせ)・二番構(にばんがまえ)東に門先(もんさき)、
西に裏門(うらもん)・城下(しろした)などの地名が残ることから、
その周辺にも城に関連sる施設があったといわれている。
1970年代に台地の北側が宅地化され、現在は南部の450mほどが城址公園として名残をとどめている。
大庭城:歴史的背景
中世城郭の多くがそうであるように、この広大な城を、いつ、だれが築城したのか、
はっきりしたことはわかっていない。ただ、現在の大庭城址は、平安・鎌倉時代の
大庭氏の館址ではなく、室町時代後半に相模に勢力を持った扇谷上杉氏の拠点の
ひとつであったと考えられている。その後、戦国時代初めに小田原北条氏に攻め落とされ、
少なくとも江戸時代には廃城となっている。
明応8年(1499)の「玉隠和尚語録」は、大庭城に関する唯一の確実な史料である。
ここで、建長寺住持玉隠は、扇谷上杉持朝の子弟について触れた中で、
「一人大庭堅其塁、大庭氏館、此去不遠」と述べている。
つまり扇谷上杉氏の「一人」が大庭城で守りを固めており、かつての大庭氏の館は
その近くにあったというのである。
この記述から、当時の大庭城主である「一人」とは扇谷上杉朝昌であり、
「館」lが「タテ」「タチ」とも呼ばれたことから、
大庭氏の館は大庭城址南西の城(たて)にあったと考えられている。
大庭城:立地と遺構
開発以前に実施された発掘調査やかつての地形図などから、大庭城の姿を想像してみよう。
城山の東に引地川、西に小糸川が流れ、二つの川は城山の南部で合流している。
その流域は湿地帯であり、大庭城は東西南の三方から敵の攻撃を受けにくい自然地形を利用して
築かれていた。城山の北側はさらに北方の台地と細い尾根続きになっていたが、
この尾根上を土塁と空掘で遮断して北面からの攻撃に備えている。
城内は土塁と空掘によって南北に連なる四つの曲輪に大きく区分され、
南端部が近世城郭でいう本丸に相当する部分であったと考えられている。
現在、城址に残る土塁や空堀は、その規模や遺構の形態から、小田原北条氏によって改築された
可能性が指摘されている。1970年前後に行なわれた発掘調査の結果、
建物跡や土橋跡などが確認されている。
しかし、天守閣はもちろんのこと、石垣も検出されていない。
(藤沢市教育委員会)
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