蹴球探訪
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【プロ野球】山本昌のスクリューボール 無名の同僚野手に握り聞いた2017年1月24日 紙面から
◇4紙独断野球殿堂スポーツ4紙合同企画第3弾! 選考委員会が独断で「野球殿堂」入りを決定する。今回のテーマは「魔球」。山本昌広(51)を名球会に導いたスクリューボールと、佐藤義則(62)が「宝」と呼ぶヨシボールを選出した。魔球誕生の秘話をたっぷりとご賞味あれ−。 (文中敬称略) ◆1988年の春 “島流し”で運命の出合い運命の出合いは1988年春。星野仙一率いる当時の中日は、米国フロリダのベロビーチでキャンプを張っていた。対外的には留学。だが、山本昌に言わせれば「島流し」。帰国するチームを空港で見送り、ドジャース傘下のルーキーリーグへの合流を命じられた。 現地で面倒を見てくれたアイク生原は、メジャーリーガーが練習するメイン球場へ山本昌を連れて行き、こう命じた。 「ヤマ、この球を覚えろ。すごいピッチャーになれるぞ」。目の前ではすごいピッチャーが投げていた。フェルナンド・バレンズエラ。当時のメジャーを代表する左腕で、中でもスクリューボールが最大の武器だった。 「とても同じ人間が投げているボールの軌道だとは思えませんでした。覚えろって言われても、覚えられるわけがない」 1軍未勝利の5年目が、世界屈指の魔球を習得できるはずがない。尻込みした2カ月後、山本昌の前に幸運の神が舞い降りた。その名はジョゼフ・スパグニョーロ。のちに大成したわけでもなければ、そもそも投手でもない。ルーキーリーグのチームメートだった。ある日の試合前。なぜか野手のスパグニョーロとキャッチボールをした。ふざけて投げてきたのがスクリューボールだった。 「これならオレにも投げられるんじゃないか。そう思ったんです」。バレンズエラには聞けなかった握りも、無名の同僚になら聞けた。たまたま登板日だった。ブルペンで1球だけ。いきなり試合で投げた。空振り三振。「いつクビになってもおかしくなかった」という山本昌の野球人生が、一気に開けた瞬間だ。 「このボールがなければ、ここまでやれなかった。相性も良かったんですね。僕のように股関節が開く投げ方に合う球種だったんです。体に合うボールと出合えたということです」。なぜ自在に操れるのか。その理由が理解できたのは、のちに骨格の仕組みから筋肉、関節の動きまで学んでからだった。 ◆「中指で変化をつける」チームは優勝を争っていた。報告を聞いた星野は日程を前倒しして帰国を命じた。誰もが別人のような投げっぷりに目を見張った。初勝利を含む5勝。あまりに鮮烈な米国土産だった。 投げ方はストレートに近く「中指で変化をつける」。右打者からは逃げるように落ち、左打者には食い込む。投球全体におけるスクリューボールの割合は25から30%。球速は速球から5キロほど遅く、変化球の中では最も速く、最も多く投げた。「自信をもってどのカウントでも投げられた。特に左を抑えられたのはスクリューのおかげ」。左打者の通算被打率は、右よりも2分以上低い2割4分2厘。しかもブルペンでもほとんど練習不要だったという。 「ストレートは一生懸命調整していましたけどね。スクリューはその必要がなかった。優等生だったんですね」 人生を切り開き、支え、名球会に導いてくれた代名詞。現役最後のマウンドも、スクリューボールで締めた。(渋谷真) PR情報
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