稀勢の里横綱昇進への異議 ― 2017-01-23
稀勢の里の優勝、長い長い長い間の重圧を思うと、この安堵と喜びは、稀勢とともに落胆し続けてきたファンにしかわからないものもあると思う。入門時から横綱候補と言われてきたその才能と努力がようやく報われたことを心から祝福したい。稀勢の里関もファンの方もおめでとうございます。
しかし、それと横綱昇進とは別問題だ。私はただただ唖然としている。40年相撲を見てきて、こんな事態は初めてだ。
いくつもの問題が重なっているのだが、まず最も不可解なのが、どうして昇進できるのか、その基準が明確に示されていない点だろう。昨年の年間最多勝であること、安定した成績や優勝争いの多さ、優勝次点の多さなど、理由はいくつも挙げられているが、問題はそれらの成績は今まで横綱昇進の条件として顧みられたことはほとんどない、ということ。
横綱昇進の基準は、1987年の双羽黒の廃業以前と以降とで分けられる。双羽黒(北尾)の廃業以降は、横綱審議委員会の内規である「二場所連続優勝、もしくはそれに準ずる成績」が、極めて厳格に適用されてきた。「準ずる成績」の部分に解釈の余地があるわけだが、1990年の旭富士からは、「優勝力士と同成績での準優勝」つまり優勝決定戦で敗れての準優勝のみに限定されてきた。実際には鶴竜がこの同点準優勝と優勝だったほかは、8人全員が連続優勝を果たして昇進している。
今回の稀勢の里については、前の場所は優勝次点とはいえ星2差の12勝とレベルが低く、今場所は2横綱1大関と当たらなかったばかりか、不戦勝も含まれている。厳密にいえば13勝1敗である。これまでならば確実に横審へ諮られることはなく、来場所が綱取りということになっただろう。
この評価基準については常に賛否があり、それを見直すのであればそれはありだと思う。ただし、きちんとした議論を経た上で、新たな基準を事前に明確に示してから、綱取りに臨んでもらうべきだ。議論もなく、結論ありきで突然基準のほうを合わせるのはあまりにもご都合主義で、横綱の地位を損なってしまう。
そこにもう一つの問題がある。稀勢の里は今場所について、はっきりと綱取りの場所と明示はされずに臨んでいるのである。私は、綱取りのかかった場所という重圧の中で、連続優勝できるかどうかを見ることは、横綱審査の重要な一要素だと思う。稀勢はそれをスルーさせてもらってしまったのである。八角理事長が場所の始めに、「横審の規定にはないが、年間最多勝は評価すべきであって、優勝すれば、内容いかんでは横綱の声も出てくるかもしれない。ただしそれは審判部の裁量なので、あくまでも私見だが」というような内容のことをインタビューで答えていただけ。これを綱取りのかかった場所と規定するには、あまりにも根拠が薄弱である。
喩えて言えば、1次2次を突破しないと合格できない試験で、1次試験をクリアしたところで、「君は普段の成績がいいから、2次試験は特例で免除で合格ね」と言われたようなものである。制度にない特例を急に持ち出すのでは、上げ底合格、コネ合格と言われても仕方ない。
さらに問題は続く。稀勢の昇進は、前例となるのである。では今後、年間最多勝をとった大関はどんな力士であれ、内容いかんにかかわらず優勝すれば横綱になれるのか。協会、横審は、稀勢を横綱にした根拠を明示し、今後の力士にも厳密に適用する義務がある。果たしてそんなことができるのか。今後はなあなあで、力士によって横綱にしたりしなかったりが出てくるのではないか。
このような、根拠のはっきりしないままの横綱昇進の例が、北尾(横綱双羽黒)である。2場所連続で千秋楽での敗北により準優勝だったことを「優勝に準ずる」と解釈し、さらに将来性という曖昧な理由を持ち出し、優勝経験のないまま横綱にした(仮免横綱と言われた)。それが次第に負担となり、結局優勝できないまま暴力事件を起こして廃業することになる。その教訓から、内規の厳格な運用が行われるようになったはず。
なぜ性急に北尾を横綱にしたかといえば、当時は千代の富士1人しか横綱がおらず、当時急成長して大相撲人気を支えていた「花のサンパチ組」(昭和38年生まれの北尾、小錦、寺尾、琴ヶ梅ら)から早く横綱を誕生させたいという思惑が協会にあったからである。
今回も、この性急で曖昧すぎる昇進決定には、「日本人横綱」誕生のチャンスを逸したくないという焦りが丸見えである。裏を返せば、来場所に綱取りをかけたら稀勢の里はまたチャンスを逃すかもしれない、と信頼のなさを表明しているようなもの。稀勢の里も舐められたものだと思う。稀勢が逃したらまた何年か「日本人横綱」は誕生しないからだ。実際、長年稀勢の里を支えてきたコアなファンからは、この昇進を素直に喜んでいない様子をけっこう見かける。普通に2場所連続優勝を課せばいいだけのことではないか。私は稀勢の里なら十分それを果たせるし、そうして手に入れた自信は稀勢の里をさらに強く魅力的な横綱にすると信じている。
ではもし例えば照ノ富士がこのような状況にあったら、こんなにまで条件を下げて突然の横綱昇進を認めただろうか。これは「日本人」にだけ許された特権ではない、と協会や横審は証明できるのか。
相撲には相撲の世界なりの平等さ公平さがある。それを捨ててしまった大相撲業界のやり方に私は失望したし、軽蔑の念も覚える。
法令を遵守せずに、世の熱狂だけで押し切ってしまうこのやり方は、法治主義を壊す依存症文化を育てているようなものである。その熱狂のためにナショナリズムを使うと、いつかナショナリズムに自分たちの首を掻き切られるだろう。