私が時々読んでいるブログの中で、気になる文章がありました。それは、内田樹さんという人(哲学研究者、コラムニスト、思想家、倫理学者、武道家、翻訳家)が、ある新聞のインタビューに答えている文章です。その中に次のような言葉がありました。【ヨーロッパ諸国でも、次々と極右政治家が登場してきています。その前提になっている歴史的条件は「グローバル資本主義の終わり」ということです。グローバル資本主義によって、世界はフラット化し、資本・商品・情報・人間が国境を越えて高速移動するようになった。グローバル化に適応できない人たち、高速移動できるような社会的機動性を持っていない人たちは下層に脱落した。製造業の工場労働者が典型的ですけれど、特定の業種に特化した技術や知識で生計を立て、生まれ故郷の地域社会で暮してきた人は、グローバル化した世界では、それだけの理由で下層に振り分けられる。両親や祖父母の代までだったら「まっとうな生き方」をしてきたのに、まさに「まっとうな生き方」をしてきたという当の理由で下層に格付けされることになった。不条理な話です。ですから、彼らが「アンチ・グローバル化」に振れるのは当然なんです。】えっ、現代は「まっとうに生きる」と社会の下層に格付けされる社会だと言うのです。そうならば、子どもたちに「まっとうに生きろ」と言うことは、「社会の下層で生きろ」と言うことになってしまいます。
先日、国会で「IR法案」が可決しました。これまで日本は建前上ギャンブルを禁止しています。でも国が管理する公営(:競馬・競輪・競艇)や宝くじ、そして遊技というパチンコが行われています。これらを合計すると年間25兆円を超える金額が動いています。同時に、ギャンブル依存症の人は500万人以上と言われています。しかし、「これからは民営のカジノを認める」という法律ができたのです。これを、「国策として行う」と首相が先頭に立って言っているのです。すでに、大阪や横浜などいくつかの都市が実現に向かって動き出したと言われています。
私は思わず「まっとう」という言葉を辞書で引いてみました。『まとも・まじめ』とあります。それは社会に適応して生きるということを意味しています。「ギャンブル」は「まじめ」という言葉とは全く逆の意味を持つことだと私は思うのですが、現代では通用しない考えになっているということのようです。
先日○○の会で、「教育に希望がありますか?」と質問されたことがあります。その時私は「教育はもう全く無能になりました」と答えました。「それじゃ、全く希望がない社会になったということですね」と言われ、返す言葉がありませんでした。でも、その時はまだ、「いや、教育の意味が変わったんです」という気持ちが私の中にありましたが、今度の「IR法案」の可決で、私が語れる言葉が全くなくなったような気がしました。でも、何とか言葉を見つけて語り続けたいと思います。だって、私はいつの時代も「まっとう」という意味は変わらないと信じているからです。
「過去を振り返ってみても文科省が改革(?)した結果、良くなった例を私はあまり知りません。何年たっても、いじめ・不登校・中退・体罰などの状態は変ってないように思います。」
って、おいおい、何を他人事みたいに。、
あんたのところのイジメの対応も大概だろ。
「いじめは都合が悪いから無かった事にしたい、それがダメなら小さな事にしたい、小さな事を忘れられない被害者が悪いって事にしたい、そんな対応を自分が過去にした事自体をなかった事にしたい」ってのが数学塾むれの池見恒則の対応でしょうが。
原発避難者いじめ事件での横浜市の対応と何も変わらんでしょう。
国が悪いだとかどの口でいってるの。