小島一志の一人息子であり、現MUGEN舎代表。士魂SABAKI修練会幹事も務めている。ある意味で小島の一番の被害者。幼少時から「黒沢浩樹 ザ・ラストファイト 」といった小島の書籍に出演させられ、父である小島にとって都合のいい台詞を吐かされていた。またブログでも父親を礼賛する内容を度々投稿していた(小島による代筆の可能性あり)。極真空手は幼少時から始め、江口芳治氏が師範を務める極真会館城西支部に在籍し、少年部黒帯を取得していた。またボクシング、柔道の経験もあり、講道館強化指定選手であると小島は主張していたが、講道館にはそのような制度は存在しない。本人は初の著書となった小島との共作である「芦原英幸正伝」において
「僕は空手が好きではなかった」「正直に言えば、嫌いだった」「父は僕にとって最悪の抑圧者だった。陳腐な言い方をすれば、『独裁者』という言葉が最も適しているかもしれない。さらに困ったことは、この独裁者は常に僕の近くにいるということだ」
「こんな父の傲慢な音楽論の影響で、僕はまさに『物心が付く』頃から、『Cream』や『Doors』など、一九六〇~七〇年代にかけてヒットした洋楽ばかり聴かされていた。ほとんど強要されていたと言っていい。しかし『物心が付き』、本来ならば少年期から青年期に移る頃、僕は父の批判を承知しながら、ある日本のバンドにのめり込んでいった。仮に父のすすめる欧米の音楽のレベルに比べ、演奏面で劣ろうとも、それでも技術だけでは表現できない独特の魅力がそのバンドにはある。自らシングルやアルバムのCDを購入し、ライブDVDも揃えた」
「ある日、僕が持っているCD、DVDを全部出せと父は言った。言われたようにすると、父はケースからディスクを取り出し、空手の試割りで使うブロックの上に並べた。そして五キロのバーベルプレートを僕に持たせると、『これでディスクを全部割れ』と言った。父が言い出したら絶対に引かないことを僕は知っていた。だから、僕は奥歯を食いしばりながらまるで『踏絵』を踏むように一枚、また一枚とCDを割っていった。その時の僕の感情は、簡単には言葉にできない。悔しさや惨めさは当然あった。もっと言えば、父への殺意さえ一瞬頭をよぎった。ここまでの酷い仕打ちを常人ができるものか」
等と父である小島による虐待に該当する過去があった事を告白している。
しかし現在では吉田豪に対する脅迫行為など父と同じ道を順調に歩みつつある。