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Skinerrian's blog

論理学・哲学・科学史・社会学などに興味があるので、その方面のことを書きます。更新は不定期。

ゲーデルの定理(2)

数学 ポストモダン

仲正昌樹ゲーデルの定理についてこんなことを書いている。

不完全性定理」というのは、「現代思想」の文脈に合わせて簡略化して言うと、いかなる無矛盾な体系においても、その体系自体の中では証明も否定もできない論理式=命題が存在する、ということである。もっと崩して言うと、「この体系には矛盾がない」という”命題”を証明しようとしたら、まず「体系」とは何で、「矛盾しない」とはどういうことか、、といったルールをきちんと規定したうえで、その体系の「内部」で、その通りになっているか検証してみなければならないが、その初期設定自体が正しいか否かは、体系の「内部」で証明することはできない、ということである*1。 

一文目は第一不完全性に関わる話だが、二文目ではいつのまにか第二不完全性のような話にすり替わっている。また、「いかなる無矛盾な体系においても」は強すぎで、一階の実数論のように無矛盾で完全な理論は普通にある。これは「現代思想」の文脈どころかどんな文脈だろうと間違い。文脈に合わせた適度な「簡略化」として認められるのは「十分に強い算術の公理系では」とかそういう類の言い回しまでだと思うよ。

上の引用は次のように続く。

ゲーデル自然数論に即して、かなり複雑な手順でこのことを証明しているが、ある理論の"証明のためのルール自体"を、そのルールによってこれから証明しようとしている当の理論によって証明しようとすれば、循環論法になってしまってうまくいかないことは、直観的にわかるだろう。

「証明のためのルール」で算術の公理を意味しているのなら、算術の公理はテクニカルな意味ではその公理系によって「証明」できると思う。「循環論法」云々は、ある理論の無矛盾性証明を行うのは別のメタ的な理論なのだから当たり前、という第二不完全性定理に関して割とありがちな批判ではないかと思う。これがどう的外れなのかは、例えば、野矢茂樹の『論理学』5章あたりで解説されていたと思う。

引用をさらに続ける。

これは論理学で、「自己言及性のパラドックス」と呼ばれるものから生じてくる問題である。ある論理体系、あるいは理論が、自分の依って立つ大前提を自分で証明することはできな「この論証方法は論理的である」ということを、その論証自体によって”論理的に”証明することはできない

二文目は演繹の正当化みたいな話になっていて、自己言及のパラドクスの説明にはなっていない。この辺りまで来ると、理解の浅さが浮き出てるように思う。

なお、ここで引用した文章は、柄谷行人が「形式化の諸問題」などでゲーデルを持ち出した、という歴史を解説しているところである。柄谷が色々と間違いを犯していることは多くの識者たちによって指摘されてきたし、仲正もそれを認知しているわけだが、残念ながら、この日本の現代思想の解説書では、間違いは適切に修正されることなく再演されたか、あるいはさらに増えてしまったようだ。日本の現代思想がいかにユルいかがよく分かる。

*1:『集中講義!日本の現代思想』p.179f