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無駄のないあがき

男子大学生がジタバタしています。

「表参道の美容院で髪を切っている」への違和感

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表参道の美容院で髪を切っています、という発言に対してモヤモヤする時がある。

 

 

 

「いつもどこで髪切ってんの?」

 

 

「私は表参道の美容院で髪切ってる~」

 

 

まってまって~何故、そなたは大宮に住んでいるというのに表参道の美容院で髪を切られているのか~

 

 

「え~だって~あそこは他のとこと違って~技術が凄いの~おしゃれな街だから~」

 

 

ここで私は、心のちゃぶ台を盛大にひっくり返す。「表参道の美容院で髪を切っている」というフレーズを私の聴覚が捉えたその瞬間、合図が来たとばかりにちゃぶ台をひっくり返す。その姿はまるで星一徹

 

ちゃぶ台の上の数多のみかんが宙を舞う。お前のような者は1000円カットにいけ。

 

 

 

 

 

勘違いしないでほしい。

 

私は表参道の美容院で髪を切るという行為を否定しているわけでは決してない。

 

 

「表参道の美容院で髪を切っている」と口にしている自分への自己陶酔感を感じさせる

 

あるいは、

 

「表参道の美容院で髪を切っている」と口にすることで、こちらにマウンティングしてくる人物に対して私の中の星一徹がはじけてしまうのだ。

 

 

仮にそこで、「表参道で切ってるってだけでおしゃれに見られるじゃん笑」みたいな感じで潔く魂胆を見せてくれるのなら、逆に私の相手に対する好感度はうなぎのぼりだ。

 

心の中の私は星一徹に擬態するのをやめて、いそいそと床に散らばったみかんを拾う。「あ~それはたしかに~!!わかるわかる~~」とにこやかに相槌を打って、みかんを食べる。

 

 

まあこんな感じで「表参道の美容院で髪を切っている」というフレーズに対して、私は敏感である。自分はマイノリティなのだろうか。私以外にも同じ意見を持っている方がいることを願ってやまない。

 

 

なぜ、こんなにも鼻につくのだろうか。

「表参道」というフレーズが余りにも上品すぎるのだろうか。上品な「表参道」とどこか上品な感じを受ける「美容院」という言葉の組み合わせが鼻につくのだろうか。

 

試しに「表参道」とそれを打ち消すような言葉を合わせて用いて文を作ってみる。

 

 

「いや俺さ~、家に風呂ないから表参道の銭湯に毎日通ってるんだよね~」

 

 

実際に口に出して言ってみて欲しい。

「風呂無しアパートに住んでる」という「表参道」の対極のモノを持ってきて打ち消そうとしたのにもかかわらず、それを感じさせない仕上がりになっている。どこか鼻につく上品な感じも出てしまっている。

 

本人の意図に関わらず、表参道の銭湯に通っている俺カッケーという自己陶酔感ならびに、表参道の銭湯に通うためにあえて風呂無しアパートに住んでいるんじゃないかコイツは、と聞き手は受け取ること間違いなしである。

 

 

 

「やべえ金がない!!!表参道のサンクスでおろしてくるわ!!!」

 

 

今日お金を使うはずなのに財布に少額のお金しか入れてきていないという計画性の無さ、これはまさに「表参道」の対極。ちなみにコイツは15分遅刻してきている。それにも関わらず、友達を待たせてサンクスで金を下ろすのだ。まさに外道。まさに「表参道」の対極。コンビニの中でもサンクスを選ぶセンスもやや「表参道」にはそぐわない。

 

だが、実際に口に出して言ってみて欲しい。

表参道のサンクスでカネをおろす俺カッケーという自己陶酔感ならびに、表参道のサンクスでカネをおろすために家を出る前に財布の中身を抜いてきたんじゃないかコイツは、と勘ぐられても仕方がない状況に陥っている。

 

 

分かった。これは完全に「美容院」のせいではない。「表参道」のせいだ。

「表参道」を全てのフレーズの前に付けることで、聞き手のちゃぶ台がひっくり返るのだ。

 

 

 

 

 

 

 ちなみに、いつも表参道のスタバでこのブログを書いてます。

 

 

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