「教育勅語」(「教育ニ関スル勅語」)復活論は亡霊のように何度でもよみがえる。1948年6月に衆参両院でその排除および失効確認が決議されたにもかかわらず、政治家や教育関係者でその再評価を唱えるものがあとを絶たない。
最近では、大阪の私立幼稚園で、園児が「教育勅語」を暗唱させられているとして話題になった。今年4月に開校予定の系列小学校では、「教育勅語」が「教育の要」におかれるのだという。しかも、同校の名誉校長に安倍昭恵首相夫人が就任するというのだから驚かされる。
こうした「教育勅語」の再評価は、今後も繰り返されるだろう。
それにしても、なぜ「教育勅語」復活論はいつまでたっても消えないのだろうか。それは、この文書の内容や歴史がかならずしも広く知られていないことが関係している。
「教育勅語」について、あるものは、いつの時代にも適用できる普遍的な内容として金科玉条のごとく尊び、またあるものは、狂信的な神国思想の権化として蛇蝎のごとく嫌悪する。
だが、「教育勅語」に対する評価としては両方とも一面的で適切とはいいがたい。
「教育勅語」の内容や歴史をただしく知れば、議論もおのずと収束するはずである。そこで、以下では「教育勅語」のたどった道を事実ベースで振り返ってみたい(なお引用にあたって、読みやすさを考慮し、カタカナをひらがなに直し、漢字を開いたところがある)。
「教育勅語」は1890年10月30日に発布された。日清戦争が勃発する約4年前のことである。これが「教育勅語」の内容を考えるときのひとつのヒントになる。
当時の日本は、不平等条約を押し付けられ、いつ植民地にされてもおかしくない、極東の弱小国家のひとつにすぎなかった。それゆえ、「教育勅語」の内容は、後世の文書などにくらべて、意外にも慎ましいものだった。
たとえば、「日本は神の国であり、世界を指導する権利がある」などという大それた神国思想は、「教育勅語」のなかに見られない。これは、『国体の本義』(1937年)や『臣民の道』(1941年)などで、教育界に広められたものである。
むしろ「教育勅語」の内容はかなり抑え気味だった。たしかに、「我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ」「天壌無窮ノ皇運」など神話にもとづく記述もあった。だが、そこに掲げられた個々の徳目は現実的で、日常的な振る舞いに関するものが多くを占めた。
当時の日本に、空想をもてあそぶ余裕などなかったのだ。
そのため、日本が日清戦争や日露戦争に勝利し、帝国主義列強の一角を占めるにいたって、かえって問題が指摘されるようになった。大国日本の国民道徳として、「教育勅語」はあまりに物足りないのではないかと注文がつきはじめたのである。
その動きはのちに触れるとして、以上を踏まえたうえで、まずは「教育勅語」発布の経緯をみておきたい。