映画「この世界の片隅に」と絵を描く事の意味

主人公「すず」は何を見ていたのか

物語の後半、すずはある衝撃的な出来事によって以前のように絵が描けなくなる。なぜ作者は、すずから絵を描く能力を奪ってしまうのか? 私はこの映画を見終えたときからそれをずっと考えていた。いや、そうやって考えさせるために、奪ったのではないか。失われたから、分かる意味がある。

絵を描くとは何か

絵を描くことは技量である以上に、知性でもあるのだ。絵を描くときは常に自分が世界をどう捉えるかを問われている。構図・輪郭・色彩・質感を、意識的に計画したり、直感的に発想したり、無心になって手の動くままにつくりだす。

絵を描くとは、外部世界を参照しながら、自分の知覚・経験・記憶・意識・感性と繰り返し応答して、画面にひとつの世界をつくりあげていく行為である。科学が世界を描く場合は、自己参照は主観的なものとして排除される。

しかし、どんなにリアルな絵であっても、世界は必ず観察者の手と目──つまり身体を通して描かれる。絵の達人たちは、客観的観察と自己参照を両立させる。しかも優れた自己参照は、自我を超えて神話や民話などの人類が積み重ねたより深い記憶にもつながっていく。誤解してはいけないのは、自己参照は自己表現ではないということだ。自己表現は目的だが、自己参照は、自分の身体や知覚に意識的にも無意識的にも濃密な問いかけを繰り返すことによって、より広い世界とつながりあう手段である。

すずは絵を描く技量を失うが、知性が失われたわけではない。下手な絵でも自分なりに世界を描きだす活力が喪失したわけではないことは物語の終盤に示唆されている。そう考えると、すずが神々しいほど知性的な人物に見えてくる。彼女は、近代的な知性とは異なる知性で世界とつながっているのだ。

世界の中心から世界の絵は描けない。片隅にいるから、全体を眺められ、世界の絵が描ける。みんなそれぞれ違う片隅にいて、それぞれ異なる風景を見て、それぞれ違う経験と身体と照らし合わせながら、それぞれ異なる世界を描く。絵を描くことには、このような知性のあり方が凝縮されている。

『この世界の片隅に』は、新しいタイプの反戦映画として片付けてしまうにはあまりにもったいない。特にデザインや美術を職業とする方々や美大生に、絵を描くことの意味を考えながら観てもらいたい。そこには近代化が極まった21世紀に暮らす私たちにとって、未来のビジョンを描くために大切な知性のあり方が示されているのだから。

(文)藤崎 圭一郎 1963年横浜生まれ。デザイン評論家、編集者。『デザインの現場』元編集長、東京藝術大学美術学部デザイン科教授。

(写真:(C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会)

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