•  スポーツ報知では大型連載「あの時」を始めます。各スポーツの大記録達成の瞬間や著名人らの失意の時などを担当記者が再取材。当時は明かされなかった関係者の新証言やエピソードで、歴史的なできごとを再現します。

【あの時・白井貴子モントリオール金への軌跡】(1)最後はガチガチだったミュンヘン決勝

2017年1月16日14時8分  スポーツ報知
  • ミュンヘン五輪、決勝でソ連に敗れ準優勝となった白井貴子(右)ら日本バレーボール女子(共同)

 ◆ミュンヘン五輪バレーボール女子決勝 日本2(11―15、15―4、11―15、15―9、11―15)3ソ連 ※当時は1セット15点でサイドアウト制

 女子バレーボール界で歴代世界有数のアタッカー、白井貴子(64)は、1976年モントリオール五輪で金メダルをつかんだ。72年ミュンヘン大会では20歳で鮮烈な世界デビューを飾りながら、直後に引退。1年後に復帰し、世界の頂点に立った。監督に対しても納得できないことには徹底抗戦。それが、白井のゴールドメダリストへの道だった。

 まさかの出番だった。72年9月7日、ミュンヘン五輪決勝で日本は宿敵ソ連と対戦していた。18歳で日本代表に選出された白井は控えで臨んでいた。第1、3セットは途中から出場。後のない第4セットは、5―7から交代で入り、182センチから強打を決めまくり、フルセットに持ち込む立役者になったが、最終第5セットも途中からコートに入るとばかり思いこんでいた。

 しかし、小島孝治監督からかけられた言葉は「初めからいくぞ」。さらに、日本チーム総監督の前田豊氏から「白井君、5セット目も頑張ってくれたまえ」と言われた瞬間、それまで、のびのびとスパイクを打ち込んでいた白井に緊張が走った。「私、期待されちゃった…と怖くなったんです」

 前日まで右肩を痛め、出場できる状態ではなかったが、選手団のトレーナーのハリ治療によって、うそのように痛みが引いた。20歳ながら、この五輪を最後に引退する決意を固めていた。所属していた倉紡倉敷・白井省治監督が、五輪前の代表合宿から戻った時に解任されていたショックからだった。18歳の時、同監督の養女となった白井にとって、バレーを続ける熱意が急激に失われていった。

 「もうバレー生活も終わるし、どうせなら出たい」。ソ連戦に出場する気持ちが高まり、佐藤忠明コーチに「肩が治った」と訴えた。“思い出作り”のつもりで出場、重圧も全くなかったのが、前田氏のひと言で、ガチガチになってしまったのだ。

 さらに、ベンチの致命的なミスが重なる。第5セットのメンバー提出で、当たりに当たっている白井をバックのライトで記入してしまったのだ。通常、エースはフォワードのレフトからスタートする。ローテーションで右回りにポジションが移動していくバレーでは、なるべく強打の選手がスパイクを多く打てるように配置する。ところが、白井は最も遠い位置に置かれてしまったのだ。当時はバックアタックの戦法はなく、白井はフォワードに移動するのを待つしかなかった。

 日本は終盤まで粘り強さを見せ、接戦に持ち込んだ。だが、11―12の場面で痛恨のミスが出る。飯田高子がサーブをネットにかけてしまった。選手たちの緊張の糸が切れ、金メダルの夢は消えた。

 だが、白井には、もうひとつ敗戦につながる出来事が、いまだに頭の中に残っている。(久浦 真一)=敬称略=

 ◆白井 貴子(しらい・たかこ)1952年7月18日、岡山県生まれ。64歳。68年、片山女高(現・倉敷翠松高)を中退し、倉紡倉敷入り。72年ミュンヘン五輪銀メダル。74年世界選手権、76年モントリオール五輪、77年W杯の3冠を達成。2000年、日本人女子として初めてバレーボール殿堂入り。

  • 楽天SocialNewsに投稿!
あの時
今日のスポーツ報知(東京版)