•  スポーツ報知では大型連載「あの時」を始めます。各スポーツの大記録達成の瞬間や著名人らの失意の時などを担当記者が再取材。当時は明かされなかった関係者の新証言やエピソードで、歴史的なできごとを再現します。

【あの時・白井貴子モントリオール金への軌跡】(2)引退決意も新聞に移籍報道

2017年1月16日14時6分  スポーツ報知

 72年ミュンヘン五輪期間中の9月5日、パレスチナ過激派組織が選手村に侵入、イスラエル人選手、コーチ11人が殺害されるテロが発生。このため、大会が1日延期になった。女子バレーボール決勝も6日から7日に変更された。だが、小島孝治監督はレギュラーにはすぐには伝えず、6日の昼にまで話すのを遅らせた。

 白井は「動揺するから(レギュラーには)言うなよと、私たち控えには言っていたけど、分かった時の動揺の方が私は大きいと思っていた。今日が決勝だと思っていたのに決勝じゃないんだから。決勝当日は眠れなかったのか、みんな真っ青だった。だから、私は敗因のひとつだと思う」と振り返った。

 当時は日本、ソ連の2強時代、金メダル獲得が至上命令の時代だった。失意の選手たちに、小島監督は「みんな、精いっぱいのことをやったんだから、胸を張って帰ろう」と声を掛けた。その帰国の機中でのことだった。「おい、白井、こんなのが出とるぞ」と同監督に新聞を渡された。「白井、日立に移籍」という見出しが躍っていた。白井は引退することを決めていたので、何のことか分からなかった。

 帰国してからは地元の岡山・倉敷市役所に男子バレーで金メダルの南将之とともに、祝勝会に出席した。「ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」とあいさつしたものの、チームに戻ると、荷物をまとめて、実家に帰った。しかし―。

 「1年たってもまだ、21歳。食べていかなきゃならないんですよね」。テニスは得意だったが、その当時、日本ではほとんどプロがいなかった。プロゴルファーへの道も考えたが、持病の腰痛があり、断念した。行き着くところは、結局バレーしかなかった。

 白井が引退しても、ミュンヘンでの大活躍に、水面下での争奪戦は激化していた。日立、ユニチカ、ヤシカなど日本リーグをリードする実業団チームが、獲得へ動いていた。その騒動の中、白井の気持ちは日立に傾いていた。

 倉紡倉敷時代の17歳、日立武蔵が合宿に訪れた際、日立・山田重雄監督は、白井に対して暗に日立に欲しいということを伝えていた。そのことが頭をよぎり、山田監督に連絡を取った。すると、すぐに群馬・前橋に来るよう言われた。到着すると、驚くことが待っていた。(久浦 真一)=敬称略=

 ◆ミュンヘン五輪のテロ 72年9月5日早朝、パレスチナ武装組織「黒い9月」のメンバー8人が、イスラエル選手団宿舎に侵入。選手ら2人を射殺した後、9人を人質にとり、イスラエルに収監されているパレスチナ人の解放を要求。交渉はまとまらず、占拠部隊は人質を連れて、カイロへの脱出を求め、空軍基地に向かった。ここで銃撃戦となり、人質全員が死亡する最悪の結果に。五輪の中止を求める声も上がったが、国際オリンピック委員会のブランデージ会長は続行を決めた。

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