【あの時・白井貴子モントリオール金への軌跡】(3)山田監督とは1年間口をきかなかった
◆74年世界選手権決勝リーグ女子最終日 日本(5勝)3―0ソ連(4勝1敗) ※最終成績〈1〉日本〈2〉ソ連〈3〉韓国〈4〉東ドイツ〈5〉ルーマニア〈6〉ハンガリー
73年9月1日、白井は前橋市の群馬県スポーツセンターにいた。W杯代表選考会の最終日だった。代表チームを争っていた日立武蔵は、ヤシカに敗れた。白井はその会場で突然、日立側が準備した入団会見に出席することになったのだ。「話を聞きにいったつもりだったのに、お膳立てができていた」と、白井は山田重雄監督の用意周到さに驚くしかなかった。
だが、日立に加入した白井は、がくぜんとした。主力が引退し、若手や新人しかいないチーム構成だったからだ。山田監督に「これで金メダルが取れるんですか」と聞くと、「お前が入ってきたんだから、金メダルは取れるんだ」。この言葉に納得がいかず、1年間、監督とは口をきかなかった。
それらの不満がたまって、74年の世界選手権(メキシコ)で爆発する。直前の米国遠征でセッターの松田紀子がひざを故障し、緊急帰国。自らも腰を痛め、日本代表は大ピンチを迎えた時だった。沈んだチームを元気づけようと、ホテルの広場でメンバー全員と歌を歌った。その時、山田監督から「何をのんきに歌ってんだ。お前なんか帰れ」と、どなられると「帰ります」と返し、他の選手は泣き出す騒ぎとなった。
「お金は持ってないし、飛行機の手続きも分からない。誰か止めてくれー、と思いながら納得がいかないので、翌日は練習もせず、ハンストをしました」。その状況を見かねた米田一典コーチが説得し、監督と話すことになった。
山田監督は「おれも悪かったけど、お前も悪いよな」と握手を求めてきた。白井は「『おれも』を先に言ってくれたので、許した」と笑う。山田はその時、自身の生い立ちや、銀メダルに終わった68年メキシコ五輪代表監督時に、「国賊」と言われたことなど、自らの胸の内をさらけ出した。そして「君たちに金メダルを取らせたい」と熱っぽく語りかけた。
「おれが取りたいじゃない。私たちに、と言ってくれた。この人を男にしないで、誰を男にするんだ、と感動しました」。白井はこの瞬間に変わった。控えセッター、金坂克子に「いいトスは私以外に、悪いトスは全部私に上げて」。決勝リーグ4戦全勝同士で対戦したソ連戦は打ちまくり、ストレート勝ち。64年東京五輪以来の金メダル奪還を成し遂げた。
モントリオール五輪へ向け、さらに厳しい練習が始まるのはこの後だった。(久浦 真一)=敬称略=
◆74年世界選手権決勝リーグ女子最終日 日本(5勝)3―0ソ連(4勝1敗) ※最終成績〈1〉日本〈2〉ソ連〈3〉韓国〈4〉東ドイツ〈5〉ルーマニア〈6〉ハンガリー