•  スポーツ報知では大型連載「あの時」を始めます。各スポーツの大記録達成の瞬間や著名人らの失意の時などを担当記者が再取材。当時は明かされなかった関係者の新証言やエピソードで、歴史的なできごとを再現します。

【あの時・白井貴子モントリオール金への軌跡】(4)滞空力から生まれた秘密兵器「ひかり」

2017年1月16日14時2分  スポーツ報知
  • 1976年モントリオール大会、バレーボール女子決勝のソ連戦でスパイクを決める白井貴子(共同)

 世界選手権金メダルの勢いを利用するように、山田監督は2年後のモントリオール五輪に向けて、温めていた計画をスタートさせた。洋書などで、運動生理学、心理学、栄養学などを勉強し、その分野の専門家も招いた。

 午前6時からのランニングは近くの小金井カントリー倶楽部をはだしで1時間走った。「破傷風の注射を打って、雨の日も雪の日も走りました」と白井。ボールを使った練習が終わると、当時の女子では珍しいウェートトレに励んだ。食事も白米は麦になり、魚と野菜中心のメニューに。甘いものや炭酸飲料は禁止になった。

 午前5時半に起床し、午後10時に就寝。練習時間は10時間を超えた。それでも「松ちゃん(松田)は腹が割れてきたし、私も肺活量が2800ミリリットルから5600ミリリットルになって、びっくりした。きつかったけど、成果が表れて、みんなやる気満々だった」と練習嫌いの白井も五輪金という目標のために、まい進した。

 ある日突然、山田監督から「滞空力を知っているか」と聞かれた。白井はいろいろ考えた末に「スパイクを打つ時に空中で、きょうの夕飯は何だろうなあとか、ものを考える時間が持てることじゃないでしょうか」と答えた。「そうなんだよ」と監督。この会話が「ひかり」攻撃開発のスタートとなった。

 山田監督は攻撃面で秘密兵器が欲しかったのだ。それが「ひかり」だった。当時はセッターからアタッカーまでの距離の短いAやBなどのクイックはあったが、それを伸ばして、攻撃できないかを考えていた。長く速いトスを白井がレフトから切れ込んで打つ練習が始まった。

 「約6メートルのトスで(ネットに立ててある)アンテナについている印を目指して上げる練習を繰り返しました」とセッターの松田。白井もタイミングを合わせるのに苦労しながら「半年くらいで完成した」(白井)。

 五輪直前には「空中で相手コートの空いているところが見えるようになった」と白井。「ひかり」は当時最速だった新幹線の名前を取って、つけられた。

 76年モントリオール五輪、日本は失セットゼロの快進撃で決勝に進んだ。7月30日、迎える相手は永遠のライバル、ソ連。コートに立った白井は、ソ連コートを見て、山田監督にVサインを出した。ミュンヘンの時とは違う自信に満ちあふれた表情だった。(久浦 真一)=敬称略=

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