ようするに、ひきこもりの当事者にとって重要なのは、実際にはオタク文化でもハイ・カルチャーでもないのである。かれらにとって本当に重要なもの、それは、その文化に貼られたレッテルであり、社会がその文化をどう見ているか、という問題である。
以前、趣味について書いたことがあるが、まさに僕が不安に思っていることを
代弁してくれている記事だ。
履歴書に書けない趣味は要らない。
僕はそう思う。
それが酷く窮屈で歪な考えなのは分かる。
でも仕方がない、そうしないと生きていけない。
本当の自分、ありのままの自分で生きていきたいという欲求と
ありのままの自分は受け入れて貰えないから
社会が求める人間を演じなければいけないという強迫観念
なぜ私が清潔感に疑問を持つのかというと、清潔だけど清潔感がないということがあるからです。化学的には清潔だけど印象が悪い場合もある。シャツがよれていても清潔の場合もあります。
身だしなみについて調べました。相手に不快感を与えない言動や服装なんだそうです。いや、無理だと思います。他人に嫌われないようにするのは無理なのではないでしょうか。
他人から受け入れてもらえる服装
他人から受け入れてもらえる趣味
他人から受け入れてもらえる・・・
いったい、いつまでこんなことをすればいいのだ。
こんなことは、いつまでも続かない。
社会が変わる前に私の心がだめになる。
相手から決めつけられた自分を救うには、もう一人の第三者に救いを求めるしかありません。(中略)上司から「無能」呼ばわりされてしまった人は、他の同僚に「そうではない」と言ってほしい。それが一つの解決法です。
番組では他人から貼られるレッテルについての回答はなかったが
番組本には一つの解答が書かれているようだ。
それにしてもサルトルはなぜまなざしを向けられることを他有化と考えるのか。考えの筋道はこうです。私はまなざしを世界に向けることによって世界の意味を構成し、所有していた。ところが他人のまなざしが出現すると、今度は他人が私の世界を構成し、所有し、私の世界は盗まれる。そればかりか、他人が私にまなざしを向けると、私についての評価が相手に委ねられ、自分が自分のものではなくなってしまう、と。しかし他人がいるかぎり、そして他人が自由であるならば、私がこうした他有化を蒙(こうむ)るのは当然のことです。そこでサルトルはこれを「自由の受難」と呼び、「人間の条件」と考えている。
というかさ、俺が100分de名著とか見てること自体が
オタクにはなりたくない、という抵抗なのかも知れない。
他人のまなざしとは実に恐ろしいものだ。
彼らは何もしていないにも関わらず、私は身動きが取れなくなってしまった。
だからこそ、アドラー心理学を知った時の驚きもまた凄まじかった。
サルトルもアドラーも、他人がいる限り嫌われるのは仕方がないと考えている。
アドラーはそこに、なんとか解決策を見出そうとした。
それが目的論。
窮屈な人生なのは、他人のまなざしのせいではなく
他人からレッテルを貼られたくないと、「そう思った」自分自身なのだと。
嫌われても構わない、と覚悟する必要があるとアドラーは考える。
そして、他者貢献によって人は幸福になれるという。
ペーパーナイフは紙を切るために作られる。
それは本質=紙を切る、という目的があって、
ペーパーナイフが作られる=実存する。
しかし人間はそうではない、とサルトルは考える。
先に存在していて、その後に自分は何者かを考えるのだ、と。
これが実存主義。
嫌われる勇気でも同じことが書かれている。
人生に意味はない、自分が意味づけしろ、と。
ありのままで生きろ、というのは簡単だ。
では、どこまでありのままでいいのだろう。
差別的発言をtwitterやブログに書くのはいいのだろうか。
萌え絵ポスターに貼るのはいいのだろうか。
あるいはオタク趣味を履歴書に書くのはいいのだろうか。
そんなことをすれば嫌われる。
でも嫌われても仕方がない。
そしてそこから、みずから主体的に生きるという「主体性」の概念が出てきます。みずからをつくるということは、未来に向かってみずからを投げ出すこと、すなわち、みずからかくあろうと「投企」することだ、と。
投企せよ。
他者を仲間と見ている人は、その仲間である他者に貢献し、貢献感を持つことで自分に価値があると思えれば、対人関係に入っていく勇気を持つことができます。生きる喜びや幸福は他者との関係からしか得ることはできません。アドラーは以上のことを「自分自身の幸福と人類の幸福のためにもっとも貢献するのは共同体感覚である」と説明しています。
共同体感覚を持て。