「革命って”アタリマエ”を覆す闘い」と書くと、たぶん、「そんなことはアタリマエだろう」というヒトがいるだろう。
けれども、それ自体がもうアタリマエのパラドックスに陥っとると思う。
いろんな例があると思うけれども、たとえば、「労働者が不安に思うことは安易に怒りに転換できる」という、中核派のアタリマエは誤りや。
大勢のヒトが将来を不安に思うからこそ、結婚もできずに少子化が進む。コレは事実や。
けれども、それを、権力に対する怒りに変えてこれたか?
少子化がどんどん進んでいるけれども、それを権力に対する怒りに変えられてない結果として、いまの日本政府がある。
ただ、ここ数日の官僚の天下り問題とか、私なんか
「日本政府は問題を発見したときに、清廉潔白にやろうとしています」
というポーズだと思うし、大きな問題を隠蔽するために小さな膿みを出す”目くらまし”やと思う。
また、「仲間になったら意思が一緒で、革命に向かって団結できる」というのは、”アタリマエ”ではなくて願望でしかない。
意思を一緒にして、革命に向かって団結するためには、相互が理解することが必要や。
「それもまた、アタリマエだろう」と言われるやろけど、現実的に”路線”とか言って、相互の理解は比較的軽視しとる。
だからこそ、中核派内でも、あんまお互いの出自とか知らんかったりする。
てか、”あんまお互いの出自とか知らん”って、改めて考えると、私に近いヒトはそこまで認識してないかもやけど、それでも中枢のヒトは考えとるやろけど、スパイとかガサ入れ対策やろ。
けど、スパイとかガサ入れ対策があるといって、仲間を理解することを軽んじて、”あんまお互いの出自とか知らん”ような状態にしとるとすると、それこそアーリーン・イノウエさんというか、その前に中野洋さんが言った、目の前のヒトの言うことを理解し、家族までをも全部知る、ということと完全に相反する。
それは権力に対する迎合やし、権力の思うツボにハマっとる。
言い換えると、目の前のヒトの言うことを理解し、家族までをも全部知る、こんな仲間ができたら、みんな生きやすいと思うやろし、そりゃ、たとえカネはなくとも、こんなヒトとならば子供ができてもなんとかやってける、と思って少子化対策にもなると思うし、その結果が、仮に怒りを結集できなくても、日本政府にとっての恐怖になると思う。
その中で全員でなくてもいいから、有志が、怒りを結集して起ち上がったらええやん。
だから、こんなこと言うと非常にヘンかもやけど、別に中核派に結集したからとして、全員が全員ビラを配ったり、集会に参加せんでもええとも思う。
だって、ビラを配ったり、集会に参加するというのは、いっくら帽子とかマスクとかしたところで、やっぱ権力側に名前を知られるということで、そりゃ一大決起やねん。
一大決起とは、目の前のヒトの言うことを理解し、家族までをも全部知ったり、中核派のファンと思う段階の、さらに向こうにあるはずのものやねん。
だから、決起に行き着かなくても、「中核派ナントナクええんちゃうか?」みたいに思う人間がいるような土壌でないと革命なんて行き着かんわけで、もっと手前に、団結とかストライキとか堅苦しいことばかりでなくて、もっと中核派があけっぴろげに、森羅万象について主張したら、「中核派ナントナクええんちゃうか?」と思ってくれるヒトが増えて、興味を持ってもらえて、それが段々と理解を増やしていく基盤になると思う。
私がAKBを観に行って、公演の感想を必ず書いているのも、そんな「中核派ナントナクええんちゃうか?」みたいな発想になってくれる若者を探しているというのもある。
やっぱ、若者を獲得したいと思ったら、ジジイが主張してきたことをいっくら叫んでもダメで、若者が興味があるもの、もっというと若者が頑張っているものを自分らが率先して理解して、自分らが若者の中に入って行って、自分らは若者の頑張りを見てどう考えるか、をガンガン叫んだほうがわかりやすいやん。
若者がどう思うかワカランけれども、「なんか自分らについて言ってくるのがいる」と話題になったら勝ちやねん。
大勢おるんやから、話題になるということは、全員が否定的に考えるのではなくて、たとえ一部でも好意的に見てくれとるということやねん。
私なんて、AKBメンバーの中でそれこそ話題の中核なんやから、同じ闘いをもうちょっと広めたらええだけなんやけど。
このAKBを用いた、若者の中に入っていく主張は、もう中核派のアタリマエの対極にいる。
そしてこの、ブログを用いた闘争も、中核派のアタリマエの対極にいる。だからやめろと言われる。
中核派は、若者は未熟なんだから、一方的に教えるしかないだろう、みたいな発想ばっかやねん。教師もおるのに。
未熟だろうがなんだろうが、そこで自分の人生をどうやっていくか?を真剣に考えている者と、真剣に考えているところでちゃんと議論してかなアカン。
そこで、自分らが考えてきたことと、若者たちが出した考えが異なるかもワカランけれども、そんな解を若者が出してきたときに、
「君たちは未熟だからそう言うのであって、我々は歴史的にこういう結論を出してきた」
みたいに言うてまうのは誤りで、
「ああなるほど、あなたがたはそういう考えなんだね」
と言って、どうしてそういう考えになるのか、コッチから出て行って検討する、そんな意志を持つことこそが、もはや革命やねん。
だって、
「君たちは未熟だからそう言うのであって、我々は歴史的にこういう結論を出してきた」
みたいに言うてまうのは、中核派が体制を取ったと仮定すると、もう完全に体制派の、極右の発想やろ。
「ああなるほど、あなたがたはそういう考えなんだね」
と言って、どうしてそういう考えになるのか、コッチから出て行って検討する、コレが体制に抗する、極左の発想やねん。
そう考えると、中核派の”アタリマエ”を覆せたら、ホンマに革命に到達すると思うやろ。
だから、外的革命と内的革命はひとつのもの、と私は言うとるんやけど、まだまだ理解してもらえてない。
みんなは理解してくれるか?
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