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沖浦さんって

 投稿者:Möbius  投稿日:2017年 1月15日(日)18時16分6秒
返信・引用 編集済
  毎日遊び呆けてばかりでうらやましいなぁ~~~
毎日道楽ばっかりでうらやましいなぁ~~
永遠の中学二年生ですなぁ~~

闘いだ戦いだとおっしゃいますが、所詮「道楽三昧」ですよね。
世界戦に勝ったかもしれませんが単なる趣味の世界ですよね。
それが社会的な地位向上や信用に結びついてますか?

極端な話、貴方の戦いの実績でご自身の事業に
融資を受けられるほど世間の信用がありますかね?

趣味道楽の世界で納得のいく成果があったとしても、それは功徳ではありません。
「嬉しいよぉ~~。」ってだけの話ですね。
今まで世間の人々に何百回と書かれているように、沖浦さんの功徳話は「天界止まり」なんですよ。


だから
>  他人の功徳を素直に喜ぶことが出来ない命。
>  怨嫉の念をコントロール出来ない方々は、掲示板への書き込みを即時お止めなさい。
>  堕地獄の因を積んでどうしますか?

こんなこと書かれても、ただの難癖にしか思えません。


私から見ると、貴方がジムで何百ッキロを挙げたぜ~~~~って書き込みしているのと
中学生がゲームセンターで「ベストスコア」叩きだしたぜ~~って
ツイッターでつぶやいているのと、同じレベルなんです。

まぁたった一度の人生ですから「毎日ハッピー♪」なのは素晴らしいことですけどね。
 

(無題)

 投稿者:細野  投稿日:2017年 1月15日(日)14時05分20秒
返信・引用 編集済
  > No.9162[元記事へ]

> 当然、この観点からも「衆生己心の妙法は本・曼荼羅は迹」は、アウトです。

学会において、「衆生己心の妙法は本・曼荼羅は迹」などという教学は有り得ません。
そろそろ管理人さんの判断を、仰ぐべきだと思います。
 

今日は

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月15日(日)13時51分34秒
返信・引用 編集済
  >沖浦さんの主張がすべて正しいのか間違いであるかどうかの決着を、
皆さんが待っているのです。

 私の主張が間違っているなら、大聖人の仏法が間違っているのです。
 そう云う事はあり得ません。
 私は大聖人仏法を奉じ、大聖人仏法を実践し、大聖人門下として世間で闘い、功徳に溢れております。

 『日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず、』
 (三三蔵祈雨事)

 功徳が出る信心のあり方が正しい!!!
 大原則です。

 と云うワケで今日も功徳書くぞ~~~~!!


 新しいチュンナップと新しいワックス。
 そして新概念のブーツオフセットでハーフパイプの板でGS3本入りました。

 ポールの用意しないで普通のウエアーでしたので、ポールがビシビシ当たって腕にアザが出来ました。
 あまり痛いので3本で止めたんですが、コーチの方が、

 その板今日の雪にあってるんですか?

 と驚くほどの調子良さ。
 嬉しい~~~!!

 功徳~~~~~!!
 

雨煽りさんへ

 投稿者:モウ  投稿日:2017年 1月15日(日)00時07分1秒
返信・引用
 

御返信、ありがとうございます。

私自身のことは遠慮させてください。
教学の姿勢について、言われることは一つ一つそうだと思います。

ご返信の真意についてはよく分かるつもりです。
揚げ足を取る人もいるでしょうし、無茶苦茶にされてしまうこともあります。
そこまでして大切なものを掲げて見せようとする必要があるのかと。

ご無理はお願いできませんが。私の考えをまとめておくとこうです。
ああ、自己主張が激しい奴だと思わないでくださいね。お願いしたのは、
真面目に考えていたのだなと分かってもらえればよいぐらいの自己主張です。

一つには、分かる人だけが話してよいとなると、実は誰も話せなくなります。
教学の分野も広すぎて、本当に全てを掌握するのは困難です。現代社会では、
どの専門分野も深くなりすぎて、権威ある人が知らないのに新人が知ってい
たなんて、普通によくあることです。

例えば御書を読んで、「念仏を唱えるのは悪いことだ」と社会で語るには、
きちんと浄土宗を修学してから話をしろと言われても普通の人には無理です。
ですから御書からの引用で立場を明確にしても、「鎌倉時代とはいろいろと
違うだろう」で終わってしまいます。御書を正しいと言うのなら、法華経の
成立から言えるのかとか、なぜ経典は正しいのかとか、批判内容の文献が正
確に伝わってきてるのかとか、たった一つのことを言うのに、おそらく誰に
も言えることがなくなってしまいます。

普通の人が、知っている部分について話す、それは重要なことだと思います。
誰が教学があるのか順番をつけて、その人が話すと他が押し黙る、それだと
無意味です。普通に話せばよいはずです。誤りを出来るだけ避けたいという
のはどこまでもつきまとう心配だと思います。


二つ目には、何もしなければ現実の社会から失われることを危惧します。
差しさわりのないような大昔の話題だと、かって、牧口初代会長が戦争に反
対していたという事実は、聖教新聞にもよく掲載されていました。私は実際
に太平洋戦争に参加した人で、旧人間革命を読んで、牧口先生が反戦思想に
あったことに感銘して入信された人も知っていました。
その同じ「旧人間革命」を読んで、当時を理解出来ない人たちが、ネットで
何年も騒いでいたのを知っていたましたが、私は放置していました。そして
やがて誤解されることを恐れてか、聖教からそういった表現が無くなるのを
見て、私は後悔しています。私だって専門で知ってるわけではありません。
ですが今にして思うことは、誰か一人でも、知ってるのだったら言っておけ
ばよかったと。それで何か世の中が変わるわけでもなかったでしょうけど。
誰も牧口先生のことを語る人がいなかったことに申し訳なさでいっぱいです。
知ってることを普通に話せばよかったと後悔しているわけなんですよ。


三つ目は、ネットはありがたいことに、喧噪とか揚げ足とりはあるものの、
どんなに大きな声によってさえ、声がかき消されるということがありません。
どれほど小さい声であっても、きちんと他の人に声を伝えることができます。
勇気と労をとって、話をされる方が多く増えるのは、私にとっては望外の喜
びです。これまでもお願いして来た人は多いのですが、袖に振られてばかり
だったので、残念ですが、お恨みはしません。
 

細野さん、ご理解感謝いたします

 投稿者:大河  投稿日:2017年 1月14日(土)23時33分46秒
返信・引用
  > 大河さん、初めまして。横レスすみません。
> 全面的に、賛同致します。


細野さん、ご理解感謝いたします。

そして、現役投稿者も含めロムの皆様方へ・・・・

私は、沖浦氏が「衆生己心の妙法は本・曼荼羅は迹」(←オリジナル版)と主張していた当初から ほぼリアルタイムで見ております。
現在は、もはや、沖浦氏&雨煽り氏の御主張は全く関心も無いのですが、

投稿者:阿部日ケ~ン(院政) 投稿日:2017年 1月13日(金)16時50分18秒
>沖浦さんの主張がすべて正しいのか間違いであるかどうかの決着を、
皆さんが待っているのです。

↑これを見て、書いたのが細野さんが賛同してくださった記事です。

本迹の立て分けには、あるルールがあることを皆さんも気づかれたと思います。
当然、この観点からも「衆生己心の妙法は本・曼荼羅は迹」は、アウトです。

なるべく、シンプルな表現で示すのがわかりやすいと思います。
又、書きます。
 

雨煽りさん

 投稿者:Möbius  投稿日:2017年 1月14日(土)22時52分57秒
返信・引用 編集済
  >投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月14日(土)06時41分51秒
>真面目に信心し、闘ってドンドン功徳を出した方がネットで愚痴書いて満足するより一億倍以上は楽しいですよ。
>今日から本気でやって御覧なさい。
> 今日から人生楽しくなります。

> 本当ですよ・・・・・


>私も雨煽りさんも体験済みですからね。



是非、その体験済みの功徳をここでお聞かせ願えませんでしょうか。
沖浦さんが常々口を酸っぱくしておっしゃる通り「実名」でね♪
よろしくお願いいたします。





>投稿者:雨煽り  投稿日:2017年 1月14日(土)22時44分49秒
>沖浦さんであろうと誰であろうと、その主張が正法ならば、
>それに対して「邪義」と言うのは謗法です。

沖浦さんは、創価学会の教義変更に対し「邪義」と言ってますね。
公式見解に対し「邪義」ですよ。
貴方のおっしゃるように謗法ですよね。



 

Re: 一言忠告致します

 投稿者:Möbius  投稿日:2017年 1月14日(土)22時48分1秒
返信・引用 編集済
  > No.9158[元記事へ]

>  他人の功徳を素直に喜ぶことが出来ない命。
>  怨嫉の念をコントロール出来ない方々は、掲示板への書き込みを即時お止めなさい。
>  堕地獄の因を積んでどうしますか?

沖浦さんの怨嫉謗法についての書き込みは、もう何十回以上も読ませて頂いておりますが
どの書き込みに対しておっしゃっているのかよくわかりません。

具体的に誰のどういった書き込みが怨嫉謗法なのでしょうか?
回りくどい言い方はやめて、対話を心掛けませんか?
ここはツイッターや個人のブログではなく掲示板です。

ちなみに
>投稿者:沖浦克治
>創価学会の恥部である、広宣とか教宣などと言う方々

こういう発言は怨嫉にあたると思うのですがいかがでしょうか?

それと、先ほど質問させて頂きましたが、
日馬富士関やチリの落盤事故の生存者は創価学会員なのでしょうか?
ググってみましたが、どちらも創価学会員であるとの記事を見つけられませんでした。
チリの生存者の方にもし会員がいらっしゃったとしても全員がそうだとは思えません。
では、あの方たちは「何の功徳」で生存されたのでしょうか?
ご説明をよろしくお願いいたします。
 

Re: こんばんは『本迹』です。

 投稿者:雨煽り  投稿日:2017年 1月14日(土)22時44分49秒
返信・引用 編集済
  > > 過去のレスを上げておきます。
>
> > > 衆生を本と立て、成仏させる働きの仏を迹と立てるのです。
> > >
> > > もちろん、仏を本と立て衆生を迹と立てても、
> > > それはそれで仏法を論じているのですから間違いはありません。が、
> > > 衆生を本と立て仏を迹と立てる論を「間違い」と言う事が間違っている。
>     と主張しているのです。
>

上げていただいたので、ついでに言っておきます。
私が沖浦さんを擁護していると言う人がおられますが、擁護しているのではなく、
『「間違い」と言う事が間違っている。』と言っているのです。
沖浦さんであろうと誰であろうと、その主張が正法ならば、
それに対して「邪義」と言うのは謗法です。



> 雨漏れさんへ、貴殿が講義録を何度もアップしているとおっしゃるので
> 1/4日の投稿のリンクをつけ骨子の部分を再アップさせていただきました。

ついでにもう一つ、例として…
私のハンネは「雨漏れ」でも「雨漏り」でもありません。
最初は正しく「雨煽り」と書かれていた。次に「雨漏り」と書かれ、そして今は「雨漏れ」と書かれる。
揶揄なのか、字を読めないのか、単なるミスなのか、書いた本人しか真意はわかりません。
内容的にね。私に向けて書かれているであろうと思われますから、
字の間違いなどどうでも良い事ですから、かまいませんが(だから今まで言わなかったのです)
解らない事は勝手に判断しない例として、上げておきます。


> 拙には何度読んでも、御本尊・仏と衆生が等しいという「前提条件」の
> 上での本・迹がのべられているようにおもえます。
> また雨漏れさんもおなじような事を繰り返し述べておられます。

『差別なし』が、前提だと思われているのなら、大きな間違いです。
御本尊が不変真如なのも、われわれが隨縁真如なのも、同じく不変の前提条件です。



> ですが、沖浦さんの「人本仏迹」論は、8年前以上に「御本尊不要論」
> に傾いているのではないでしょうか。(その証拠はすでに引用済み)

そうですか?沖浦さんが、御本尊を「不要」と言われたのですか?
唱題するために御本尊は絶対条件ではなく充分条件だと、言われていたのは知っていますが
何時、何処で、御本尊が不要だと言われたのですか?

「御本尊不要論」というのは、私は初めて目にしましたが、
誰か、御本尊不要論と、言っているのですか?
貴方の造語で貴方が言ったのではありませんか?

天城さんは2008は「曼荼羅御本尊迹」「御本尊迹」2009/3に『所謂「人本仏迹論」』と書かれていますよ。



> 貴殿は“「衆生が本では無い」「仏が迹では無い」という 文証を上げて”
>
> と反問されますが、人本仏迹論を御本尊不要の論拠にしめしているのは
> 沖浦さんだけです。

そうですか?沖浦さんが「人本仏迹論を御本尊不要の論拠にしめしている」のですか?
私は沖浦さん本人ではありませんから、全てを知っている訳ではありません。
知らない事もありますので、それは、何時、何処でですか?



> また「衆生が迹、仏が本なのだ」とは誰も主張しておりませんので
> こういった内容の反問は無意味ではないでしょうか。

無意味ではありません。衆生が本・仏が迹を、否定するためには
「衆生が本では無い・仏が迹では無い」もしくは「本迹には立て分けられない」しかありません。
同じことを沖浦板には書いていますよ。
当時、仏本人迹を当ててくる人がいたのです。
立て分けの違うものをいくら当てて来ようと、破折になどなりません。
天城さんの書かれたものが、破折になっているのだと思える人は
仏法を知らない人だけです。



> とだけ書くと「あなたの主観」だとスルーされかねませんので

そう思われるのでしたら、一度、主観を省いて書かれたらどうですか?



> 「人本仏迹論」を説き「御本尊不要」と指導された歴代会長の指導、または講義 の他に
> 当体義抄講義は「御本尊不要」を導く為に論じられたものであるとの論拠提示を求めます。

で、誰が、何時、何処で、御本尊を不要と言ったのですか?
独り言ではないのでしょうから、その証明を先にしてください。



> 繰り返しになりますが、沖浦さんは
> 【御本尊が信心の絶対条件ではない】という論拠に「人本仏迹論」を説かれました。

【御本尊が信心の絶対条件ではない】の後に「充分条件だ」とでも付けられれば
私も知っているかも知れませんがね。
論拠にされたのを私は知りませんから、何時、何処でですか?



> したがって、御本尊と凡夫が等しいとの立場である雨漏りさんに聞くのは
> 筋違いかもしれません。

そう思われるのでしたら、沖浦さん本人に直接聞かれたらどうですか?



> しかし、教学的に弁護されているのは貴殿のみです。

私は「衆生を本と立て仏を迹と立てる論を「間違い」と言う事が間違っている。」
と言っているのです。
沖浦さんを弁護しているのではなく、謗法を止めなさいと言っているのです。



> 沖浦さんの主張がすべて正しいのか間違いであるかどうかの決着を
> 皆さんが待っているのです。

すべて正しい人が、この世の中のどこかにいるのですか?
人間は誰でも、勘違いしたり間違ったりするものです。それが人間です。
全てが正しい人もいなければ、全てが間違いの人もいません。
もし、そんな人がいたら、是非教えてください。

そして、誰が待っているのか知りませんが、
なるべく主観を入れずに、私宛にレスすれば、返答しますよ。
時間はかかりますがね。






 

一言忠告致します

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月14日(土)22時22分25秒
返信・引用 編集済
   怨嫉謗法は創価学会では固く戒められています。

 所がネットのハンネの誘惑に負け、怨嫉謗法を重ねる人も多い。
 それは堕地獄への道です。

 『新・人間革命第26巻』(法旗・31)

 『山本伸一は、厳しい口調で語っていった。
 「『松野殿御返事』 には、十四の法華経への誹謗、つまり十四誹謗について記されています。
 誹謗とは、“そしる” ことですが、そのうちの最後の四つは、軽善(きょうぜん)、憎善(ぞうぜん)、嫉善(しつぜん)、恨善(こんぜん)といって人に対するものです。
 御本尊を持つ人を、軽蔑したり、憎んだり、嫉妬したり、恨んだりすることです。
 一言すれば、同志への怨嫉(おんしつ) であり、いがみ合いです。
 日蓮大聖人は、十四誹謗の罪は極めて重いので、『恐る可し恐る可し』(1382P) と、戒められている。
 怨嫉というのは、自分の功徳、福運を消してしまうだけでなく、広宣流布の組織を破壊していくことになる。
 だから怖いんです。
 皆が心から団結できない。
 どうも、組織がすっきりとまとまらない。
 皆、頑張っているのに、功徳を受けられないでいる ―― そうした組織をつぶさに見ていくと、必ず、怨嫉問題が潜んでいます」

 なぜ、御本尊を持った人同士が、時には幹部同士が、怨嫉し合うことが生ずるのか。
 大聖人は、「十四誹謗も不信を以て体と為せり」(97P) と御指摘になっている。
 皆が仏の使いであり、地涌の菩薩であることや、生命の因果の理法など、妙法を信じることができないところに、その根本的な要因があるのだ。』
 ~引用終わり~

 他人の功徳を素直に喜ぶことが出来ない命。
 妙法への信なき故なんです。

 御書には、

 『謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなしはかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、』
 (曾谷殿御返事)

 怨嫉謗法と云う仏法上最も重い謗法を犯すなら、どれほど御本本尊に唱題をしていても、堕地獄しかない。
 明確に仰せです。
 そして更に恐ろしいのは、怨嫉謗法をする人を見て諫めもせず見逃している事です。

 『其の上涅槃経に云く「若し善比丘あつて法を壊ぶる者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」と、』
 (立正安国論)

 掲示板で怨嫉謗法の書き込みを見て一言の諫めすら出来ない。
 この人は堕地獄の因を積む人。

 私はそれを恐れる故、雨煽りさんの禿人との書き込みを諫めました。
 創価人として当然の事です。

 怨嫉の念をコントロール出来ない方々は、掲示板への書き込みを即時お止めなさい。
 堕地獄の因を積んでどうしますか?

 それでは私は功徳を声高く語ります。
 皆様方も恨みや愚痴の書き込み止めて、自身の功徳をドンドンお書きなさいね。

 今日は凄く忙しかった。

 朝7時前から除雪して、その後サンライズ滑って10時半に帰宅。

 少しだけ休憩してからジムへ降りてスクワット。
 170キロ2回、120キロ4回。

 トレーニング終了後、朝唱題出来なかったので日課の30分の唱題をして食事。

 又雪かきして少し昼寝。

 夕方から忙しく書類作っていました。
 多忙で頑張れる。

 凄い功徳~~!!

 

そう言えばだ

 投稿者:おっちゃん  投稿日:2017年 1月14日(土)19時48分16秒
返信・引用 編集済
  阿部日殿、

>
> 間違っても、悪道に逸れてしまった人を邪見の人を軽々に
> 「褒めて」はならない。
> 迷うこと無くさらに悪道に墜ちてしまう結果になれば与同罪と
> なってしまうからだ。
> たとえ相手が学会員さんであっても、この道理は忘れてはいけないだろう。
>

おっちゃん以前、阿部日殿に「正義とは何ぞ」と伺いお返事を頂いたが、
これも正義と思うでござる。

でだ、次の投稿も同感でござる。
特に、 「現場で探し出して」ーーー
大事でござるぞな。
 

沖浦さん

 投稿者:Möbius  投稿日:2017年 1月14日(土)19時34分25秒
返信・引用 編集済
  >2016/7/25  15:21
>投稿者:沖浦克治
>日馬富士が8度目の優勝をされました。
>その後インタビュー記事があって、以下の話をされておられます。
>以前は取り組み直前、勝ちたいと祈っていた。
>現在は、怪我をしないように祈っている。

>祈って優勝された。
>功徳以外の何物でもありません。

>2016/7/26  14:50
>投稿者:沖浦克治
>日馬富士さんや、チリでの落盤事故からの
>奇跡と言われる生還を現証としてあげております。


日馬富士さんもチリの落盤事故に遭われた方々も
創価学会員だから功徳があったということをおっしゃっているのでしょうか?
 

学会員さんを褒めたいならば

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月14日(土)19時03分9秒
返信・引用 編集済
  現場で活動されているかた、座談会に参加されたかた、折伏をされた方
目標を達成するため一生懸命信仰を貫かれている方を、現場で探し出して
「当人」を褒めましょう。

自分で自分を褒める言辞を繰り返すのは下品ですし、
他人をこき下ろしたり、持ち上げて自分を良く見せようとするなら下の下です。
 

何故“あべひ”は褒めないか

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月14日(土)17時35分21秒
返信・引用 編集済
  http://spotlight-media.jp/article/368857410295462605?utm_source=facebook&utm_medium=social&utm_campaign=own_page

よく拙は他者の投稿を通じて、自分なりの論評を書いている。

論評の元となっている他者とは、あるときは学会員さんであったり、
法華講員であったり、あるサイトの話題であったり、新聞の話題で
あったり様々な立場の方と縁することによって駄文を捻っている。

時には、論評の元となった方自身や、賛同者の方と内容についての
討論となる場合もある。
時折、「なぜ、あべひさんは他者と暖かく接する事ができないの」とか
「もっと、砕けた感じでやりとりをすれば」といったご指摘を受けること
もある。
余計な美辞麗句はひかえているので冷たい印象を受けるということだろう。

たしかに、学会の指導にも「褒めることが大事」と出てくる事が結構多くある。
だが、こと仏法において正邪を弁えずなんでも「褒めれば」よいはずがない。

ネット初心者の頃は、社交辞令的に「学会員さん」の投稿に対してとりあえず
賞賛を贈っていた。 そうすれば喜んでもらえることが解っているからだ。
今月の大白蓮華でも、法華経普賢菩薩勧発品第二十八を引用して
“ 妙法を受持する人を見たならば、仏を敬うように大切に ”との
有名な箇所の指導が掲載されている。

だがこれは「学会員さんに出会ったら、とにかく褒めましょう」という
社交辞令を勧めていると考えるのなら、表層的だと言わざるを得ないだろう。
不軽菩薩は他者を「褒める」て喜ばせるというよりも、万人に仏性がある事を
覚知したうえでその仏性を称える修行をしていたからだ。
形式ではなく「心が大事」ということになるだろう。
したがって、“敬った”相手が怒ったのか喜んだかといった反応は修行の上では
さして重要事ではない。
失礼な事を告げて相手が怒るのは当然、自分の配慮がたりないせいなのだが、
相手の生命を敬う事で怒られるか褒められるかは、その方の境涯によるもので
しかないからだ。

さて、Twitterであるマンガ家さんが「褒められる効果」という公開されて
話題になっているという。
http://spotlight-media.jp/article/368857410295462605?utm_source=facebook&utm_medium=social&utm_campaign=own_page

褒められる事で得られる「うれしい」という感情の他に
「迷いを減らす」という効果があると書かれて共感の輪が
得られているとのこと。

拙もその通りだと思う。
だれしも自分の行っている事についてある程度の「迷い」はあると
思う。 特に、慣れない事をはじめた時、壁にぶち当たったときなど
はなおのことだろう。
仏法における「成仏」への道のりとは、元本の無明という人間の根源的な
迷いを晴らす所に意義があるといえるだろう。
つまり、仏道修行における「褒める」という行為は、迷いを減らして
正道(正法)に着かせるという大目的を忘れてはいけないということに
尽きると思うのだ。
となると、なにを「褒める」のかが大事になってくる。
日蓮大聖人は

「我が信じたるままに勝劣も弁へずして
 我が阿弥陀経等は 法華経と斉等なり
 将た又 勝れたりなんど申せば 其の一類の人人は
 我が経をほめられ うれしと思へども還つて
 とがとなりて 師も弟子も檀那も悪道に堕つること 箭を射るが如し」
 (上野殿母御前御返事)


あべひ通解:
経文(教え)の勝劣をわきまえず、阿弥陀経を信じている人を
法華経に導こうと、法華経は阿弥陀経は同じように優れているのだと
言ってしまうと、喜ばれるかもしれないが、かえって法華経を貶めた罪を
被って、師弟、檀那もすぐさま悪道に墜ちることは矢を射るような早さである。

と説かれている。

間違っても、悪道に逸れてしまった人を邪見の人を軽々に
「褒めて」はならない。
迷うこと無くさらに悪道に墜ちてしまう結果になれば与同罪と
なってしまうからだ。
たとえ相手が学会員さんであっても、この道理は忘れてはいけないだろう。

特に個人的な表現活動の延長にすぎないネットでは、どういった方を
「褒める」べきなのかをよくよく考えなくてはならない。
学会員の立場で創価学会を貶める、なかんずく日蓮仏法を貶める手段
は「褒める」という行為の中にも含まれているのだから。
 

初めまして。

 投稿者:細野  投稿日:2017年 1月14日(土)10時15分20秒
返信・引用 編集済
  > No.9143[元記事へ]

> 当然、全て、池田先生のご指導からですが、①の出展はいつでも出せますが、今は
> ちょっとした手すきの時間で書いているので・・・
>
> ①「御本尊は究極の本・あらゆるその他の宗教思想は迹」
>
> ②曼荼羅御本尊の相貌は、本・迹に立て分けることができる(御書の世界)
>
> ③衆生つまり私たちの「一念・行動・ふるまい」は、本・迹に立て分けることができる
> (小説・新人間革命8巻・百六箇抄講義の部分)
>
> 賢明なるロムの方、いかがでしょうか。

大河さん、初めまして。横レスすみません。
全面的に、賛同致します。
管理人さんにも御本尊不要論と人本仏迹についてのスタンスを、是非明確にして頂ければと思っています。
 

沖浦克治氏公式見解を邪義と宣言

 投稿者:Möbius  投稿日:2017年 1月14日(土)06時52分24秒
返信・引用 編集済
  >投稿者:沖浦克治  投稿日:2015年 7月15日(水)18時45分25秒
>創価学会の公式見解も、教義内容も、このわずか四半世紀で2回も変更されています。

> 今回の、曼荼羅を本門の本尊と位置付けている件も、大聖人仏法を逸脱した邪義に他なりません。



以下沖浦克治氏が邪義とした公式見解

本門の本尊(ほんもんのほんぞん)
万人成仏の根本法である南無妙法蓮華経であり、それが直ちに図顕された曼荼羅の御本尊のこと。三大秘法の一つ。日蓮仏法における戒定慧の三学のうち定学にあたる。ここでいう「本門」とは、釈尊の法華経の文上の本門ではなく、日蓮大聖人の文底独一本門である。曼荼羅の御本尊は、大聖人の御生命に覚知された仏の境地を説き示した本尊であるので、法本尊である。また日蓮大聖人は、南無妙法蓮華経を体現している仏であられるので、人本尊である。南無妙法蓮華経には釈尊の因行果徳のすべてが収まっているから、南無妙法蓮華経の御本尊を受持することが、成仏のための観心の修行に相当し、その功徳が自身の生命に開き現され成仏できる。これを受持即観心という。
http://k-dic.sokanet.jp/%E6%9C%AC%E9%96%80%E3%81%AE%E6%9C%AC%E5%B0%8A%EF%BC%88%E3%81%BB%E3%82%93%E3%82%82%E3%82%93%E3%81%AE%E3%81%BB%E3%82%93%E3%81%9E%E3%82%93%EF%BC%89/
SOKA net教学用語検索より



>私の立場です  投稿者:沖浦克治  投稿日: 5月31日(火)00時13分50秒
>創価学会員です。創価学会の公式見解には、全く束縛をされません。
>私は私、創価学会の見解は見解。以上の立場です。


このような発言をされていたとは存じませんでした。
ということは、沖浦さんが「創価学会」に関して論じる内容は
全て沖浦克治氏個人の解釈だと捉えさせて頂いてよろしいのでしょうか?

参加者の皆さん、繰り返します。

>私の立場です  投稿者:沖浦克治  投稿日: 5月31日(火)00時13分50秒
>創価学会の公式見解には、全く束縛をされません。
>私は私、創価学会の見解は見解。以上の立場です。
 

師匠が常に云われます

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月14日(土)06時41分51秒
返信・引用
   『これまでは宗教のために人間があって多くの不幸を生んだ。
 今後は人間のための宗教で無くてなならない。』(主意)

 皆様方はこの言葉を深く思索なさるべきです。

 人は本、仏は迹。
 自明の理です。

 私共は幸福を求めて生きています。
 そのためには信心をしなければならない。
 その信心の修行のためのご本尊。

 創価学会のご本尊に対する見解です。
 先日発表されましたでしょう。

 仏道修行のためのご本尊。

 当然修行する私共が主体で本、そのためのご本尊は従であって迹。
 疑う事の出来ない事実です。
 御書にもそう書かれてあります。

 然し正しく拝せない。
 信心がないからです。

 信心は、功徳を出すという実験証明によって深くなって行きます。
 ですから、大聖人も現証第一主義者であられた。

 創価学会は、この現実生活の功徳の面から大聖人仏法を捉えた最初の宗教です。

 現世利益第一!!!!

 本来の大聖人の思想に戻ったのです。
 これは祈りと行の力が無いと不可能です。

 祈って闘って病を治し貧困を解決する!!!

 これまでそう云う宗教は全てインチキの金儲けでした。
 所が創価学会だけは本当だったのです。
 だから世界中に広まりました。

 掲示板でハンネで他人の功徳を貶めて満足する。

 こう云うのはダメですよ。
 あい難き創価に出会い、あい難きご本尊を受持し、なり難き創価人となった。

 真面目に信心し、闘ってドンドン功徳を出した方がネットで愚痴書いて満足するより一億倍以上は楽しいですよ。

 今日から本気でやって御覧なさい。
 今日から人生楽しくなります。

 本当ですよ・・・・・

 私も雨煽りさんも体験済みですからね。
 

雨煽りさん

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月14日(土)06時25分32秒
返信・引用
   一念三千が分かると云う事は、自分が久遠からの南無妙法蓮華経如来であることを信じる事です。

 ですが、現実生活で四苦八苦して生きている私どもです。
 自身が仏法では最高だとされる、南無妙法蓮華経如来だと信じることは極めて困難です。
 法華経とは私どもの命、その命が南無妙法蓮華経。

 経は経文とは違います。
 経文は法華経である私共南無妙法蓮華経如来の説明文。

 命は娑婆世界では法則に則って行動致します。
 その行動が経。

 経とは衆生の行。

 御書にはこう書かれてあります。
 自分が久遠の南無妙法蓮華経如来だと信じることが困難だと書きました。

 法華経は、難信難解・難解難入。

 最も現実離れしたことが書いてあるのですから。
 然しながら、ここを素直に信じることが出来るなら、一切が開けます。
 そして、これは理屈ではなく素直に信じることが出来るかどうかだけなんです。

 止舎利弗!!

 考えてもわかりません。
 信じる以外にない。

 以信得入です。

 先ず自分が現在のままで100%の仏様だと決める。

 ここが教学のスタートですね。
 

おはようございます、皆様方

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月14日(土)06時13分14秒
返信・引用
   雨煽りさん、おはようございます。

 おはようございます。

 『第二代会長・戸田城聖も、こう訴えている。
「信は理を求め、求めたる理は信を深からしむ」
「教学により信心が強くなり、高まるから、功徳がでる」と。』
 (新人間革命厳護 四十)

 信のある人は理を求めます。
 そして理が更に信を深くする。

 教学を学ぶ根底になくてはならないもの。
 それは、
 創価への信!!

 そして最後は闘いの中での唱題による悟りです、

 ここが理解出来ないなら御書も仏法も創価もわかりません。

 御本尊への本気の信がある人は、怨嫉謗法は致しません。
 他人を尊敬すべきだとの悟りがあるからです。

 大聖人が命を墨に染め流して図顕なされたご本尊。
 拝まないと大損ですよ。

 先ずネットで理屈を書く前に、御本尊をキチンと拝んで功徳を体験しないと。
 その信がない人がどれほど理を求め書き込んでも、それは無意味です。
 言い訳の駄愚論に過ぎません。

 貴方も私も、創価のご本尊を抱きしめて祈り、苦しい現状を跳ねのけました。
 私も貴方も、わずかながら御書への理解、仏法のあり方、創価思想の展開が出来るのは苦しい時ご本尊の前で唱えた題目あればこそ。、

 お互いに今後も研鑽し合い、更なる境涯革命を目指しましょう。
 不思議な縁あって私たちは創価人となった。
 身の福運を喜ぶ日々です。

 今後のお付き合いを宜しくお願い申し上げます。
 又、奥様共々お越しくださいませ。

 私も神戸に行く際には連絡を差し上げます。
 お茶など致しましょう。

 掲示板からスターとしたネットですが、貴方を始めとして多くの友と対面致しました。
 100人は超えていると思います。

 嬉しいです。
 ネットが対面対話の入り口となっている。

 今後も対面につながるネットを致しましょうね。
 お互い、誇り高き創価人ですから。
 

Re: 衆生が本なんだから、

 投稿者:雨煽り  投稿日:2017年 1月14日(土)02時32分57秒
返信・引用
  モウさん、こんばんは。


> 一念三千が解らないと解らないのだろうと言うようなことを、何度か投稿され
> ていたかと思います。何の行き違いなのか、そんなお話のされ方ではなくても、
> もっと普通に話していただければよいのになと、実は思っています。

それね、私の感想なのです。
話が通じないのは、きっと、解ってないから、なのだろう…と思うのです。



> 私の希望というか、ご提案というか。ぜひ、一念三千をどのように理解すれば
> よいのか、私たちに(いや私にですね)、懇切、しかも丁寧におしえていただ
> くわけにはいかないでしょうか。



私は神戸に住んでいますが、モウさんは何処に住まわれてるのでしょうか?
もし近くならば、お会いしてお話できれば良いのですが…

文章にするのが難しいのです。
本迹でさえ、伝わり難いのですよ。掲示板ですからね。
「体用本迹」「事理本迹」「説己心中所行法門」も理解出来ない人が多いのですよ。
ましてや一念三千です。(一念三千の解る人には↑は解ります。)

下手に文章で説明をすると、理解出来ずに揚げ足を取る人もいます。
自分の境涯で読んでしまうからです。あっ、これも一念三千です。


公式見解である、御書講義録に対して、指導を出せなんて
訳の分からない事を言う人もいます。
(解らないから言っているのか、思考回路が………謎です)


一念三千を文章にして教えようとすると、膨大な文章量になりますし
掲示板等では、実質不可能です。
ですから、対面対話しか教える方法が見当たりません。どうしましょう?


それと、私の考え方では、
教学は解らない人は口を出さない。出してはいけない。と思っています。謗法になるからです。
もちろん、質問や感想等は良いと思いますよ。勝手に判断さえしなければね。

そして基本的に、教学は唱題した上で成り立つものだと思っています。


では、おやすみなさい(´ぅω・`)ネムイ


 

(無題)

 投稿者:おっちゃん  投稿日:2017年 1月13日(金)22時38分34秒
返信・引用
  モウ殿、阿部日殿、
おっちゃん常に感銘致すぞよ\(^o^)/
 

こんばんはでござる

 投稿者:おっちゃん  投稿日:2017年 1月13日(金)22時27分17秒
返信・引用
  大五郎殿、また弾けた話しをしようでござるぞな。
(^o^)

寒さはまだまだ続く故、油断なくお身体ご自愛くだされぞよ。火の元、戸締まりも用心でござる。

「「信義」にはあくまでも「信義」で応える。
「真心」には、どこまでも「真心」で報いる。
この「人間の道」が「仏法の道」である。」
     (四季の語らい 31頁 )
おっちゃんまだまだ修行でござるぞよ\(^o^)/
 

久々に これはロムの方対象

 投稿者:大河  投稿日:2017年 1月13日(金)21時25分40秒
返信・引用
  > No.9105[元記事へ]

>  仏道修行のためのご本尊。
>
>  当然拝む側の私共は本、手段としてのご本尊は迹。
>
>  迷う必要すらございません。

ーーーーーーーーーーーーーー↑某氏ご主張

当然、全て、池田先生のご指導からですが、①の出展はいつでも出せますが、今は
ちょっとした手すきの時間で書いているので・・・

①「御本尊は究極の本・あらゆるその他の宗教思想は迹」

②曼荼羅御本尊の相貌は、本・迹に立て分けることができる(御書の世界)

③衆生つまり私たちの「一念・行動・ふるまい」は、本・迹に立て分けることができる
(小説・新人間革命8巻・百六箇抄講義の部分)

賢明なるロムの方、いかがでしょうか。
 

御本尊不要論と人本仏迹

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月13日(金)17時32分26秒
返信・引用
  沖浦さんは「功徳がでていれば、御本尊受持は絶対条件ではない」と論じました。
解りやすいように「御本尊不要論」と表現しておりますが、引用部分が短すぎて
よく分からないという方がおられましたら、その発言の全文をこちらでアップさせて
いただきます。

そんなことをしなくても良いというのであれば、前述させていただいた
天城さんの破折サイトの該当部分のリンクを貼っておきます。

http://www2.ezbbs.net/cgi/bbs?id=amagian&dd=33&p=3
http://www2.ezbbs.net/cgi/bbs?id=amagian&dd=33&p=2

 

Re: こんばんは『本迹』です。

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月13日(金)16時50分18秒
返信・引用 編集済
  > No.8941[元記事へ]

> 過去のレスを上げておきます。

> > 衆生を本と立て、成仏させる働きの仏を迹と立てるのです。
> >
> > もちろん、仏を本と立て衆生を迹と立てても、
> > それはそれで仏法を論じているのですから間違いはありません。が、
> > 衆生を本と立て仏を迹と立てる論を「間違い」と言う事が間違っている。
    と主張しているのです。


雨漏れさんへ、貴殿が講義録を何度もアップしているとおっしゃるので
1/4日の投稿のリンクをつけ骨子の部分を再アップさせていただきました。

拙には何度読んでも、御本尊・仏と衆生が等しいという「前提条件」の
上での本・迹がのべられているようにおもえます。
また雨漏れさんもおなじような事を繰り返し述べておられます。

ですが、沖浦さんの「人本仏迹」論は、8年前以上に「御本尊不要論」
に傾いているのではないでしょうか。(その証拠はすでに引用済み)

貴殿は“「衆生が本では無い」「仏が迹では無い」という 文証を上げて”

と反問されますが、人本仏迹論を御本尊不要の論拠にしめしているのは
沖浦さんだけです。
また「衆生が迹、仏が本なのだ」とは誰も主張しておりませんので
こういった内容の反問は無意味ではないでしょうか。

とだけ書くと「あなたの主観」だとスルーされかねませんので
「人本仏迹論」を説き「御本尊不要」と指導された歴代会長の指導、または講義 の他に
当体義抄講義は「御本尊不要」を導く為に論じられたものであるとの論拠提示を求めます。

繰り返しになりますが、沖浦さんは
【御本尊が信心の絶対条件ではない】という論拠に「人本仏迹論」を説かれました。
したがって、御本尊と凡夫が等しいとの立場である雨漏りさんに聞くのは
筋違いかもしれません。
しかし、教学的に弁護されているのは貴殿のみです。

沖浦さんの主張がすべて正しいのか間違いであるかどうかの決着を、
皆さんが待っているのです。

 

ありがとうございます

 投稿者:自城魔突  投稿日:2017年 1月13日(金)15時39分20秒
返信・引用 編集済
  普通の人さん、ご意見ありがとうございます。
とても素晴らしい書き込みありがとうございます。
100%賛同させて頂きます。
特にラストの二行は感動しました。

阿部日ケ~ン(院政)さん
ご指摘ありがとうございます。
以後厳重に注意いたします。

本当にこの板には素敵な人がたくさんいるなぁ~~~~感謝感激

 

返答いただいた皆様へ

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月13日(金)15時29分0秒
返信・引用 編集済
  まとめて申し訳ありませんが、スレが流れないように一投稿でまとめさせて
いただきます。

--------

自城魔突さんへ

なにを誰に謝罪して欲しいのかはよく分かりませんが、
過ぎた要求を飲むことで、さらなる増上慢を生み出す結果になることも
あり得ることを、宗門問題を実体験された創価学会員さんは理解されている
とおもいます。

あと、「納得いかないなら、学会やめてしまえば」
は 絶対禁句 です。
もし本当に退転する因になってしまった時に罪をかぶるのは退転した方
だけではなくなります。
「納得いかないなら、本気で学会活動(折伏)をしてみれば」と
諭すのが1番ではないでしょうか。

稀代の法話動画クリエーター樋田昌志さんが、学会員時代心ひかれた
同志は活動もせずに折伏成果を上げるといった老人だったそうです。
個人の「結果主義、現実主義」に惑わされてあのザマです。
心して研鑽していかなければなりませんね。


-----------

大五郎さんへ

※何がどう違うのかもう少しオイラなりに思索してみますね~

単純に列挙してみます。

末法において「凡夫」こそが本仏である

       ↓

凡夫が本仏がゆえに日蓮大聖人が顕された御本尊は迹仏にあたる

       ↓

したがって、御本尊は日蓮仏法の信仰において絶対条件ではない。


これが沖浦さんの理屈です。 三段論法ですね。
はたしてこれが、創価学会の指導と合致しているのかを考えてみてください。
御書にしても講義録にしても部分的に様々な「たてわけ」がされている箇所が
たしかに存在します。
しかしその「たてわけ」は便宜上理解を深めるためにされているものであって
「本義」を曲げることが目的ではありませんよね。
強弁をくりかえされると、自分が間違っているかのような錯覚に陥る場合があります。
たとえば、単純に
「君は◎◎を理解していないね」とか「君らは謗法者だ」と何度も繰り返されると
自分がバカで、謗法者のように思えてくるものです。
ですが、相手が本当に論理を解しているのであれば、臨機応変に自分の言葉で
解説できるはずです。
逆にいえばそういった「レトリック」を使ってくる時点で自分が説明できるにたる
だけの知識を持ち得ていないことになります。

たとえば、日顕宗が学会を切り捨てた時も坊主どもは、さも自分たちが一方的な
被害者(その逆もあり)であるかのように偽装したり、指導の言葉尻をつかまえて
以前から学会はおかしかったといわんばかりの「レトリック」を多用して
自分たちは正当な主張をしていると錯誤させるメッセージを世間に公開していました。

その様子は、おいおい新・人間革命に書き記されていくこととおもいます。
邪師のやり口を勉強して、正邪を見分けるアンテナを磨いてまいりましょう。




--------------

沖浦さんへ

※創価学会やって病気治るんなら医者も薬もいらないし、
 金儲かるんなら仕事なんかしなくて良いだろう!

 今ネットの片隅で虚しく虚論を書いて自己満足する方々。
 こう云う人と同じレベルです。




創価学会員として自分流で信心やって、病気が治った金も儲かった。だからもう学会活動しなくて良いんだ。
今ネットの片隅で日々小利益を書いて自己満足する方々はこう云う同じレベルです。

池田先生は海外でこのように指導されていますね。


◎御本尊こそ、宇宙全体をありのままに映し出す明鏡中の明鏡であられる。
 この御本尊を拝する時、わが生命の本来の姿(実相)を観、仏界を涌現できる。

アメリカSGI婦人部研修会でのスピーチ:1990年2月27日
(引用以上)

今沖浦さんが“そのような”境涯を涌現されている。
だれのせいでもありません。
それが 御本尊不要論 を説き 功徳があれば自分流で良いという 今の沖浦さんの信心
ということになります。
それは創価学会で指導している内容ではありません。

雨漏りさん風にいうならば「あなたの主観」ですね。
 

普通の人さん

 投稿者:大河  投稿日:2017年 1月13日(金)14時41分53秒
返信・引用
  普通の人さんは、会則にある

>末法の御本仏日蓮大聖人は、法華経の肝心であり、根本の法である南無妙法蓮華経を三大秘法として具現し、未来永遠にわたる人類救済の法を確立するとともに、世界広宣流布を御遺命された。

-------------------
↑↑ご納得ということでよろしいのでしょうか?

まずはこの点が納得であれば、他のことは少しずつ解決できますよ。
 

自城魔突さん。

 投稿者:普通の人  投稿日:2017年 1月13日(金)12時53分15秒
返信・引用
  > >普通の感覚のあるお方なら、先ずその件を謝罪する。
>
> その時の組織の指導に乗っ取って活動していたのですから。
> 個人的に謝罪する必要なんぞ全くありません。

ここは同じ意見です。
創価学会が公式に「大石寺戒壇の本尊」を認めていた時に「大石寺戒壇の本尊」を否定する方が、おかしいです。

クジラさんが言ってました。「創価学会は、時を大事にしていますので、発言には注意して下さい。」
これは、凄く重要な事を言ってると、思います。

例えば、宿坊で有名なK原氏は「大石寺戒壇板本尊の真実」という著書まで出して、否定しました。
間違っていないのでしょうが、この本を出版した当時はまだ、創価学会が公式に「大石寺戒壇の本尊」を認めていた時です。

いくら正しい事を言っても、時を間違えたらそれは「違反」であります。いくら凄いタイムを出しても「違反」では失格になります。
逆に皆さんに、迷惑をかける事になる、分かりやすい事例だと思います。

創価学会に迷惑をかける。池田先生に迷惑をかける。
それでは結果「正しくない」。大きな間違いであり、謗法になります。

「八重の相対」を唱えたH田地氏にしても、自分の研究を発表したくて、しかたなかった。
皆んなが知らない事を「俺は知ってるんだ」と、言う勘違いであり、奢りです。
皆んなに「認めて欲しかった」という名誉欲。
結局はお二方ともに、除名になってしまいます。

少々フライングしても、少しぐらい勇み足でも、、少しぐらい迷惑をかけても、勢いで「やっちゃえ!」「言っちゃえ!」
そんなのは正義でも、何でもありません。結局は、自分の欲に負けた姿を、晒しただけの「二乗根性丸出し」の情けない姿です。

創価学会という、大事な組織を守る事は、広宣流布を達成する為の、必須条件であります。
創価学会の見解。池田先生の指導を踏み外す事は、会員同士お互いに注意しなければと、思いました。
 

教義以前のはなし

 投稿者:大五郎  投稿日:2017年 1月13日(金)12時02分58秒
返信・引用
  > 大五郎さんは、会則通り、日蓮大聖人が末法の御本仏ということが理解できているのなら、自城魔突さんに嚙みついて文句言う理由は本来なら無かったはずでしたね。とんだ茶番劇でした。

久しぶりに来て、いきなり大上段からの御指導!
しかも真剣に対話しているものを「茶番劇」あつかい(^_^;)

「礼儀」とか「弁える」とか「常識」が分からない
こういう人は学会にも社会にもいるもんっす。
教義以前のはなしっす。

> 先生の御指導はその通りに謹んで受け止めておりますよ。

貴女も素直な心を取り戻して、自分の愚かさをまず知る事っす( ^ω^ )
あ、オイラも含めてね。


阿部日さん!
何がどう違うのかもう少しオイラなりに思索してみますね~
阿部日さんが凄いのは、誰かさんみたいに
偉そうに言わないし、感情的にならずに丁寧に教えてくれるので
感謝してるっす。
\(^o^)/ホントピョ~


おっちゃん!

> 「価値ある人生とは他者に尽くす学会員の生き方に」
> と本日の聖教(寸鉄)にあったぞよ。
>
> 広布に走る学会活動が大事と言うことでござるぞな。
> 故にだ、悩み、祈り、挑戦し、
> にわかに、すごいことでござる訳ぞよ。

おっちゃんはいつも変わらずに、おっちゃんでいるのが凄い!
なんか灯台みたいな感じ?安心感(´-`)
なんか教義の事で、ちょっとした解釈の違いなんだろうけど
こんな事ばっかり話してたら、頭が痛くなってくるよ(°_°)
みんな仏でいいと思うんだけどね~

> おっちゃんも更に尽さねばならん。
> これ、仏法の実践と思うぞよ。

やっぱり、理屈より実践だよね!
オイラも、新聞啓蒙やってくるよ~
ホントピョ~\(^o^)/


 

肩が治らないパワーリフターさん

 投稿者:  投稿日:2017年 1月13日(金)11時48分5秒
返信・引用
  わしのベンチプレスの記録が女の子以下なのは、
肩の怪我が原因なのだと言い訳してるけど、
アンタ信心足らんから怪我治らんのですか?
それとも実力ですか?
 

僻まれる側で、良かった~~!!

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月13日(金)09時16分57秒
返信・引用
   多くの方々が口角泡を飛ばし、虚しい論を展開されています。

 この人たちに抜け落ちていることは、

 創価学会だけが大聖人仏法の現世利益を前面に押し出した宗教だ!!

 と云う事実です。

 戸田先生は常に云われました。

 『今日の質問会だが、当たり前のことを聞くんじゃないぞ。
 信心して病気治りますか?
 治る!!
 お金儲かりますか?
 儲かる!!
 当たり前なんだそんなことは。』(主意)

 病気が治ったり貧乏な方が豊かになったりすることは、戸田先生の弘められた創価仏法では当然なのです。

 『信心何年もやっててお金がありません、病気なんです。
 こう云う人は信心やってないんだよ。
 信心やっててそう云うことはありませんぞ。』(主意)

 当時よく云われました。

 創価学会やって病気治るんなら医者も薬もいらないし、金儲かるんなら仕事なんかしなくて良いだろう!

 今ネットの片隅で虚しく虚論を書いて自己満足する方々。
 こう云う人と同じレベルです。

 何時の時代にも、祈らず闘わず愚痴だけの人はいますね。
 私は、祈って闘って功徳ドンドン出す側で、

 良かった~~~~~~~!!!
 

おはようございます。

 投稿者:自城魔突  投稿日:2017年 1月13日(金)08時53分11秒
返信・引用 編集済
  阿部日ケ~ン(院政)さん。
いつもご丁寧な解説ありがとうございます。
本当に勉強になります。
これからもどうぞよろしくお願い致します。


何方かが、また変な言いがかりをつけてますね。

>普通の感覚のあるお方なら、先ずその件を謝罪する。

その時の組織の指導に乗っ取って活動していたのですから。
個人的に謝罪する必要なんぞ全くありません。
謝罪を求めるなら組織に文句を言いなさい。
「今と昔という事が違うじゃないか。」
そう言いなさい。
掲示板でグチグチ誹謗していないで、組織の長に苦情を言いなさい。
文句があるならいつでも退会すればいいのです。
何度も言いますが、組織を自分の意思通りにしたければ
貴方の発言で組織を動かせるような立場になれるよう

頑張るんですよ~ハイ!

あ~~そうそう、その人も以前「戒壇様~~~~」ってよく書き込みしてました。
 か い だ ん さ ま って
以前は敬って「戒壇様」
今はなんで敬称外してるんですかねぇ~~~
他人様のことをとやかく言う前に、自分のズボンのチャックをよく確認しましょうね。
 

一念三千について・・

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月13日(金)06時41分18秒
返信・引用
   性悪説、性善説。

 ほぼこの二種類で論じられてきた人の本質ですが、法華経で一念三千と云う卓越した概念が説かれました。

 釈迦が本当に説いたかどうか?

 雲の中です。
 わかっているのは,中国の天台大師が唱えたことだけです。
 釈迦の時代は文字では伝わりませんので、正確なことは推測以外ございません。

 今後この概念は段々話されなくなって行くでしょう。
 世界広布にはこの概念は学問として研究の対象であっても、布教の手段としてあまり役立ちません。

 最も大事なのは、一切衆生が等しく本仏だとの、日蓮思想。
 現代で云うなら創価思想です。

 私共凡夫の生命がそのままで一念三千。

 これが大聖人仏法。
 これだけで良いのです。

 十界互具とか、三世間とかは説明文ですね。
 久遠実成とか三千塵点劫などを私どもは気にする必要がないのと同じです。

 衆生の命がそのまま南無妙法蓮華経であって一念三千。
 久遠即末法であって後はどっちでも良い。

 同じですね。



 

沖浦克治

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月13日(金)06時19分31秒
返信・引用
   仏法は結果主義、現実主義なんです。

 どれほどの高論を唱え高説を話しても、その方が功徳を出せないならどう云う値打もございません。

 この板でも先生の指導、御書の解釈、創価学会の公式見解、SGIと創価学会の異なる部分。
 等々に関して沢山のご意見がありぶつかり合っております。

 公式見解を例にとりますと、一昨年教義変更がございました。
 戒壇本尊本懐や特別論は公式に否定され、興師はそのままですが目師は外されております。
 公式見解原理主義の方々は、これまで私が戒壇本尊本懐を否定していたころ、

 創価学会の公式見解と異なる!!

 と散々攻撃されながら、現在ここへ知らぬ顔を決め込んで書いておられる。

 普通の感覚のあるお方なら、先ずその件を謝罪する。

 人の振る舞いの基本。
 自分の過ちを認めないで更に現在の公式見解を振り回している。

 愚かに見えますし、仏法者以前、

 人間としての資質を問われる!!

 でしょう。
 所詮、法の論議では広宣流布は出来ません。
 これらの人たちが本気で創価の流布を思うなら、

 先ず自身の信心の喜びを書く!!!!

 ここがスタートとならないなら、浮草の議論。
 戸田先生が云われました。

 『信なき言論煙の如し』(主意)

 功徳を書かず煙のように消え去るのか、キチンと信心の喜びを書いて創価の正義を宣揚出来るか?

 その方々の信心の厚薄です。
 所が、他人の功徳を小功徳と嘲り自身の信心の歓喜は欠片も書けない方もおられる。

 怨嫉謗法の罰。
 頭破七分。

 これは極めて損ですね。
 私は池田門下生の創価人。
 師匠のお言葉を守り功徳を声高く書きます。

 今日の功徳です。

 昨夜、北陸自動車道を新潟から糸魚川まで走って帰りました。

 途中おかしな雲が出ていて、よく見ると竜巻でした。

 横風も凄く運転を必死でしましたが、竜巻初めて見ました。

 唱題しながら運転しましたが、無事帰宅。

 ミーティングも凄く上手く行って嬉しいです。

 功徳~~




 
 

衆生が本なんだから、

 投稿者:モウ  投稿日:2017年 1月13日(金)00時51分52秒
返信・引用
  雨煽りさんへ

こんにちわ。

横レスですが。話題のお話を聞いてて思いました。

一念三千が解らないと解らないのだろうと言うようなことを、何度か投稿され
ていたかと思います。何の行き違いなのか、そんなお話のされ方ではなくても、
もっと普通に話していただければよいのになと、実は思っています。

私の希望というか、ご提案というか。ぜひ、一念三千をどのように理解すれば
よいのか、私たちに(いや私にですね)、懇切、しかも丁寧におしえていただ
くわけにはいかないでしょうか。

いえ、絶対に、批判とかしようとか思ってるんじゃありませんから。
一つには、他の人と仲良くしてもらったらよいのになと思っています。

もう一つは。
よく講義書を読めとか言う人がいるんですが、どこをどう読んでいいのかわか
らないので、きっと、雨煽りさんは、みなから感謝されると思いますよ。

私も含めてここの人たちが「解かっていない」と蔑視なんかされる発言を繰り
返されるよりも、馬鹿な私なんかに対して、どうやったら理解させられるのか
を悩まれたほうが、きっときっと楽しいと思うのですけども。

もちろん、何も分かっていない私たちこそが人生の主役だという自負がありま
すから、仏のように、ひたすら慈悲を垂れていただいて、私たちに100点を
貰えるように頑張っていただきたいところです。(って、すごいお願いですね。)


-----------------------------------

と、こう言うと、掲示板の全ての方にも誤解があるといけませんので。
誰が正しいとか、その話題には、参加するのは、遠慮したいところです。
それをはっきりとさせる必要がどうしてもあるものなのか。多くの誤解がある
中で、少しのことで人格を否定された印象を受けかねないのがネットですから。

どうしても人は法の正しさよりも、自分自身がどう受け入れられるか、それに
よって思考が決まってしまいがちなのではないでしょうか。むしろそれが人間
だと思います。それを踏まえれば、同じ学会員だと分かっていながら、ほとんど
知らない間柄なのですから、難しい言葉なんかでどっちが正しいかだなんて、
なんだか、普通の人には、そういうのはちょっと大変そうで、気の毒です。。。。。


「それをおまえが、ゆーかな?」というのはナシにして下さい。

 

感想

 投稿者:大河  投稿日:2017年 1月13日(金)00時43分13秒
返信・引用
  大五郎さんは、会則通り、日蓮大聖人が末法の御本仏ということが理解できているのなら、自城魔突さんに嚙みついて文句言う理由は本来なら無かったはずでしたね。とんだ茶番劇でした。
先生の御指導はその通りに謹んで受け止めておりますよ。

ーーーーーーご参考までに-----


ここでクジラの掲示板のスタンスをハッキリと、させていただきます。

◯現在創価学会は会則で御本仏を日蓮大聖人と定めています。

◯SGIも御本仏を日蓮大聖人と定め、世界に仏法研さんの喜びが広がっています。
 

文章を読んでも、理解出来ない人ばかりですか?

 投稿者:雨煽り  投稿日:2017年 1月12日(木)23時23分7秒
返信・引用
  > 貴方の主観など、私にはどうでもいい事です。
> 主観なら自由ですから、勝手に好きなように持たれればいいと思います。

> 貴方の主観に対して、特に私が云々するような事ではありませんので、
>どう考えられても良いのですが、
> 文章を読んで、理解できないのですか?

> 『また、御本尊とわれわれとの関係として不変真如、随縁真如を論ずれば、』と
>書いてあります。
> 「御本尊とわれわれとの関係」と、書いてあるでしょう。


これの↑
どこを読めば不要と読めるのでしょうね?

主観について要約すれば
「主観は自由だから、貴方の主観は私にはどうでもいい。」という事で
「貴方の主観に対して、私が云々するような事ではない」のです。

不要なんて、どこかにありますか?

で、もう一度言いますが
「貴方の主観など、私にはどうでもいい事です。」


その他の質問も、前回、前々回で答えている事の繰り返しになりますから、
一々書きませんよ。



御書講義録を、繰り返し書くのは何度目ですかね。

講義録の貼り付け
 ↓
質問
 ↓
講義録の貼り付け
 ↓
質問
 ↓
講義録の貼り付け
 ↓
質問
 ↓
講義録の貼り付け

と、答えるのが三回目ですから、合わせて四回目ですね。
四回読んでも解らないのなら、次は発行元へでもお問い合わせください。


 

ふとでござる

 投稿者:おっちゃん  投稿日:2017年 1月12日(木)22時45分42秒
返信・引用
  「価値ある人生とは他者に尽くす学会員の生き方に」
と本日の聖教(寸鉄)にあったぞよ。

広布に走る学会活動が大事と言うことでござるぞな。
故にだ、悩み、祈り、挑戦し、
にわかに、すごいことでござる訳ぞよ。

おっちゃんも更に尽さねばならん。
これ、仏法の実践と思うぞよ。
 

Re: 質問と提案です

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月12日(木)18時24分55秒
返信・引用
  > No.9100[元記事へ]

> 今まで考えてなかったのですが、沖浦さんに対して投稿する場合や
> 沖浦さんの話題を出すときに「実名」を書かないと話が通り難くなります。
> その場合はどうすればいいのでしょうか?


沖浦さんはいちおう、世界チャンピオン、かつ、世間に識られた自営業主であり
「有名人」に入る方だとおもいますので、この限りではないかと考えます。

ましてネットでは実名主義者さんであることを公言されていますので、
伏せ字にしたり隠語にしてしまったりするほうが失礼にあたると思えますし
、そういった手段を採る事で逆に誹謗中傷がエスカレートする危険性が
高くなるかとおもいます。

宿坊の掲示版のようになってしまいかねません。




 

大五郎さんへ

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月12日(木)14時43分19秒
返信・引用 編集済
  末法において「凡夫」こそが本仏である というのは
他宗や爾前権教において「仏」とされている架空の存在(ようするにおすがり信仰)
との対比です。

「 仏の大生命は、万人の中に実在します 」が日蓮仏法における大結論です。

ところが沖浦さんの主張は「架空の仏(迹仏)」とのたてわけがありません。
まして末法の御本仏と拝・す・る日蓮大聖人ですらも、利益を出している沖浦さんからみて
「迹」と説きます。
つまり「本」も「迹」もひっくるめての「仏」の劣を説いているのです。

だから日蓮大聖人ですら「迹」のあつかいで、今現在わずかばかりの利益を出している
自分が優れているという発想をおもいつけるのだと考えます。

この話題は実は非常に根が深いです。
昨日今日に、はじまったことではないのです。
(直リンクはしませんが、法華講員にも特集サイトを組まれてしまっています。)

大五郎さんは、学会活動の必要性や日蓮大聖人が広布の為に顕された御本尊様の
意義について、利益がでていれば必要無い(またはホドホドで良い)などという
スタンスをとっておられないでしょう。
この点については雨漏りさんも同様だと拙は思っています。
沖浦さんに反論を試みている方も同様だと思います。

ところが沖浦さんだけは明確に違うのです。
勘違いではありません。
邪義と言われても仕方ないほど、指導から外れてしまっています。
(邪義=誤った教義。正しくない見解)


 秀才ぶった増上慢が、世の中には、たくさんいる。
 だが御本仏・日蓮大聖人からみればみんな子供のようなものだ。
 明日のことも、一寸先にこともわからないではないか。
 (略)
 創価学会の深遠なる目的を知り、実現したわけでもない。
 惰性に流され、学会はこんなもんだと、自分で決め込んで、
 人生に大きいマイナスを、つくるようなことのないように注意していただきたい。
 いくら御本尊があっても、信心がなくなれば即座に地獄です

 (指導集 質問に答えて より抜粋)


人本仏迹論が、人生にとってプラスかマイナスか。実際にどうなってしまっているか。

とても大事な事だとおもいます。
 

なぜ事実を曲げるのか不思議

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月12日(木)12時53分34秒
返信・引用 編集済
  ※沖浦さんは「人本仏迹」を主張なんかされていませんよ。

------------------------------

富士宮ボーイ掲示板を御覧になっていたはずの雨漏りさんらしくない発言ですね。

たしかに最初の頃は

「そして、自分と他人は自分が本、他人は迹。
 ですからご本仏と言えども、この世の関係では私が本、大聖人様が迹。
 命は双方と差別なく妙法の当体ですから、本です。
 ここは差別が無いのです。」(2008年10月)

と雨漏りさんに近い結論を主張されていました。

ただしこの頃でも、自説に納得いかない人達を
「現実社会の出来事から御書を読む。 依義判文と言い、現実主義です。
 反対が依文判義で、教条主義で原理主義です」

と中傷していますけれどもね。


簡単に言えば、「功徳」がでているのだから
出した人間が「本」でありその他は「迹」 つまり「劣」なんです。



その証拠に、こんな例を説いておられましたね。

「空の仏壇にお題目を唱え、見事な功徳が出ておられます。
 私共は、この現実からスタートせねばなりません。
 依義判文です。
 そうすると、曼荼羅が絶対ではないことがわかります。」
(同 引用)



この理屈でいけば、御本尊を拝まなくても、功徳が出れば「本」となります。
そして「功徳」が出ていることを「文証」を用いて肯定できることを
“依義判文”と述べています。

今現在に至っても沖浦さんの我見はこの理屈が根幹なのです。

だからこそ、何十年信心をされていようが、毎日毎日
「小功徳」を学会員の面前でのみ披瀝しにやってくることができるし
自分の利益を褒めない人、また、実名で利益を書かないことを指して
信心を貶める言辞がなせるのだと理解しています。

1番の問題は、このような我見を持ったままで納得の上で学会活動ができるのか

といった素朴な疑問です。

答えはそのまま沖浦さんに出ています。 いいはずありません。
だからこそ、クジラ管理人さんも、同様の発言(創価学会の指導から外れた結論)
を書かないでと念押しをされたのだと愚考してます。

どうも今朝がたも、創価学会の指導から外れた我見、自説を曲げた発言を
吹聴されているようですが・・


かつて天城五兵衛さんが懇切丁寧に論破されていたので
そのサイトのリンクを貼っておきます。

http://www2.ezbbs.net/33/amagian/

あと、「他人の主観なんて、どうでもいい」とか
「仏法を知らないから」とか「一念三千が解らないから」いう
雨漏りさんの主観こそが不要です。
そういうやり方は レトリック であって、根拠を示したことにはなりません。

答えなくてもよいところに答えて、答えてほしい所にあえて答えないのは何故でしょうか。
仏法を知り一念三千が理解できている雨漏りさんに
「人本仏迹」のたてわけと、その正当性を指導された歴代会長の指導の提示をお願いします。



 

おはようございます。

 投稿者:自城魔突  投稿日:2017年 1月12日(木)08時59分47秒
返信・引用 編集済
  雨煽りさん

> スルーされても良いのです。貴方の自由です。


この前も言いましたが、スルーするつもりなどございませんが、
やはり何をおっしゃりたいのか全く分かりません。

> 間違っていない事に対して、「間違い」だと、言われなければ
> 私は別に、何も言う事はありませんから。


一日4投稿のうち一回をこういう形で消化してしまうのは大変もったいないので
お声がけも今回で最後にして頂けますでしょうか。
では、失礼いたします。



 

大上段から

 投稿者:大五郎  投稿日:2017年 1月12日(木)08時39分47秒
返信・引用
  大河さん!

> 先生の、「諸法実相抄」講義では、凡夫というのは大聖人のことで(別しては)
> 総じては全衆生のこととありますね。
>
> 大五郎さんも、会則であったり、
・・・・・
> 私たちに日蓮大聖人と同じ仏界の生命が「内在」している・・それを開けるように
> 最大限に激励してくださる先生。


詳しく、
御教授が新米会員に噛んで含んで教えるように
大先生が生徒に教えるように
「御指導」をありがとうでござんす。

「諸法実相抄」講義では、凡夫というのは大聖人のこと
ただ、この話しは学会員なら誰でも知ってる基本中の基本っす。

その上で
※凡夫こそ「本仏」であると力強く仰せです
と先生はあらゆる場面で、何度も指導されてるっす。


御書と師弟 「凡夫即極」の人間学より

宇宙の森羅万象、ありとあらゆる事象が「妙法」の現れである──。ゆえに、その実相である「妙法」そのものを唱え弘めゆく凡夫こそ、最極の法に生きる尊貴な仏なのであります。

大聖人は本抄で、凡夫こそ「本仏」であると力強く仰せです。凡夫は妙法の当体(体の仏)だからです。

これに対し、経典に説かれるさまざまな仏は、すべて妙法の働きを示した姿(用の仏)であり、「迹仏」(仮の仏)にすぎないとされています。

万人に仏の生命が
大宇宙の普遍の法である妙法蓮華経という仏の大生命は、万人の中に実在します。このことに気づき、強い信心で、自らの生命を開き顕していけるかどうか。「仏」と「凡夫」の違いといっても、結局は、ただこの一点だけなのです。

戸田先生は言われました。
「成仏とは、仏になる、仏になろうとすることではない。大聖人の凡夫即極、諸法実相のお言葉を、素直に信じ奉って、この身このままが、永遠の昔より未来に向かって仏であると覚悟することである」


> ともかく「御本仏」という言葉は、会則その他創価学会の正式な書籍等に
> 則った用い方をしましょうね。


貴女がいくら否定しても
「御書と師弟」も「法華経の智慧」も創価学会の正式な書籍。
何も間違ってないっすね。

先生の指導をまず
大先生のお偉いさんの、大河さんも、素直な心を取り戻して
良く分かっていない自分を自覚して
素直に読みましょうね。


 

おはようございます

 投稿者:  投稿日:2017年 1月12日(木)07時28分3秒
返信・引用 編集済
  阿部日ケ~ンさんがおっしゃる通り、未熟者同士が
我見を戦わせるのは意味が無い事ですね。
創価学会内で自分の考えを主張したいなら
ウンと活動してそういう立場になるべきです。
選挙も啓蒙もせずネットだけで吠えて実名が聞いて
呆れますね。
管理人さんの意思が理解出来ず、いつまでも邪義を
ダラダラ書き流すグループは、Dメンバー指定にするか
アクセスを禁止したらいかがでしょうか?
実名さんとシンパは、宿坊板の方がお似合いですよ。
ヒョットしてあちらではアクセス禁止かな?
本だの迹だのもうウンザリ。
 

続きです

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月12日(木)07時01分4秒
返信・引用 編集済
   私や貴方方個々人の立派から更に考察致します。

 自分の事を仏法では正報と云います。
 その正報である自分を取り巻く一切の環境を、依報、と名付けます。

 『夫十方は依報なり衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし身なくば影なし正報なくば依報なし又正報をば依報をもつて此れをつくる』
 (瑞相御書)

 最後の正報を依報がつくるとの思想は、現代の物理学や天文学をリードするものですが、又の機会に譲ります。

 依報は影であって正報が本体、正報がないなら依報は存在しない。

 ですので、正報である衆生(私共)が本、囲む環境である依報が迹。
 個々人に訳すなら、個人と云う存在がその方にとって本、囲むすべての環境は依報で迹。

 人間関係に限定して述べるなら、例えばAさんと云う方がおられるなら、Aさんだけが本、他の私共は迹。

 自明の理です。
 当然Aさんを囲む人間関係には、師匠である池田先生や同士である私どもも一切含まれます。

 若し大聖人と同じ時代で四条金吾から見ると、大聖人も迹になります。
 これは大聖人を軽んじるとかと云うレベルの事ではなく、依正から見るとそうなると云う事。

 四条金吾を私や他の方々に変えても同じですね。
 所が、ダメな方々もおられて、

 沖浦は自分が本仏で大聖人が迹仏だと云った!!

 愚かなものですね。
 頭破七分です。

 私はそう云う事は一言も云いません。
 当時御本仏は大聖人お一人と常に書いております。

 現在は機根が整い始めたので、少々発言に変化がございます。
 ですが大聖人を尊敬し奉る事には変化はございません。

 結論です。

 自分にとって自分が世界の中心にいる!!
 自分がどこまで云っても本!!
 自分の人生に主役は自分一人!!

 ここがわからないと虚しいですね。
 折角の創価人となった意味が薄れます。

 本迹って、人生の勝利に大事な大事な概念ですよ。
 迷ってる場合ではございません。
 

おはようございます

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月12日(木)05時31分6秒
返信・引用
   創価学会は世界広布新時代にあたり、

 人のための宗教!!

 を高々と宣言いたしました。
 人間革命に明確です。

 AのためのBならば、Aが目的Bが手段。
 これは大原則。

 人間(の幸福)が目的、宗教はそのためにある手段。

 仏法は衆生のためある教えですが、日蓮正宗時代反対になっておりました。
 破門からもう直ぐ30年。

 宗門の蔭も消え去り創価学会は教義を一新。
 更にまだまだ変更するでしょう。
 良い時代となりました。

 大聖人仏法は衆生のためにあります。
 これは大原則で国の憲法見たいなもの。

 大聖人仏法では人間の事を凡夫と云います。
 凡夫に二種類あって、仏と衆生。
 同じものですが異なりがあります。
 御書には、

 『衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり、』
 (一生成仏抄)

 わかりやすく云うなら 冰と水の関係に似ています。
 双方同じ、H2 O。

 仏法は人のためにある法ですので、衆生を済度するために仏が出る。
 当然主体は衆生で、仏は従になります。

 これが人類全体からの主と従ですし、本迹とも云えます。

 人が本仏は迹。

 そしていま一つの観点からです。
 では私共個々人の中ではどう云う関係になるのか?

 私共は本来は久遠の南無妙法蓮華経如来です。
 御書にありますね。
 ですが、今はそれを忘れて(迷って)います。

 貴方は100%の仏様ですか?

 こう問われて素直に、ハイと答える人は少ないです。
 迷いがそう云う答えをさせています。

 所がSGIのメンバーは同じ問いに、

 ハイ!!

 と答えます。
 迷いがないのですね。
 以下於保さんの講演から抜粋引用いたします。
 (2009年12月06日『海の文化と村の文化』)

 そこで、「この中で,自分のことを南無妙法蓮華経如来だと信じられる人?」と手をあげてもらったんです。フランスのメンバーは6人全員、「はい」と元気いっぱい手をあげたんですよ。日本のメンバーは40数人中3人でした。
 ~引用終わり~

 御書にば私どもが人の形をしているのは迹で、本地は仏だとあります。

 『下種寂照実事体用無上の本迹 生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹仏は本なり云云。』
 (百六箇抄)

 久遠からの南無妙法蓮華経如来が、たまたま地球と云う星に人類の恰好で生きている。

 端的に云うならこう云うことです。

 ご本尊と拝む私どもの本迹などは簡単です。
 創価学会が見解を出したでしょう。

 仏道修行のためのご本尊。

 当然拝む側の私共は本、手段としてのご本尊は迹。

 迷う必要すらございません。
 

おはようございます

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月12日(木)05時01分26秒
返信・引用
   今年は激動の幕開けでした。

 今日は大事なミーティングで新潟。
 明日は同じく石川。
 来週中部方面。
 その後関西。

 まさかこんな仕事するとは・・・・

 昨年は思っても見ませんでした。
 ですが、私でしか出来ない仕事なんです。
 お陰様で祈りに芯が入りました。
 牧口先生が云われました。

 『信の中に芯を入れるのだ』(主意)

 72歳にならんとして、先師の金言を少しですが身で読んでいます。
 大変は大変ですが、人間革命に載っている池田先生のご苦労の億分の一。

 祈り闘い勝利致します。

 臨終まで闘うぞ~~~~!!

 功徳~~~!!
 

阿部日さん

 投稿者:雨煽り  投稿日:2017年 1月11日(水)23時55分25秒
返信・引用 編集済
  > 雨漏りさんへ
>
> ※「本仏」とは「迹仏」との対義語で、仏の本迹です。
>
> 本仏がいれば迹仏がいるという考え方はよくわかっているつもりです。
>
> 基本的に雨漏りさんの主張されている、本迹のたてわけは「人・仏」が同じ(等しい)という
> 結論が同じであることを前回引用させていただいたつもりなのでしたが、
> 不快であったのなら謝罪いたします。
>
> 雨漏りさんはともかく、沖浦さんは「人本仏迹」論を主張されています。


勘違いしているのか、勘違いさせようとしているのか知りませんが、
沖浦さんは「人本仏迹」を主張なんかされていませんよ。

私は「人本仏迹」と、便宜上使いますが、
「人本仏迹」とは、非難側が作った言葉です。

沖浦さんは、元々「衆生が本・御本尊が迹」と言われていたのです。



> この場合 人(凡夫)の本迹をのべているものではありませんし。
> 仏の本迹を述べているものではありませんよね。
>
> この点はいかがでしょうか。


貴方の主観など、私にはどうでもいい事です。
主観なら自由ですから、勝手に好きなように持たれればいいと思います。

貴方の主観に対して、特に私が云々するような事ではありませんので、
どう考えられても良いのですが、
文章を読んで、理解できないのですか?

『また、御本尊とわれわれとの関係として不変真如、随縁真如を論ずれば、』と
書いてあります。
「御本尊とわれわれとの関係」と、書いてあるでしょう。

まぁ…
一念三千が解らないと解らないのかも知れませんね…

 

自城魔突さん

 投稿者:雨煽り  投稿日:2017年 1月11日(水)23時08分30秒
返信・引用 編集済
  > 私としては、世間に公表されている当たり前の話をしているだけなのです。

貴方が言われている、創価学会が立てる本仏は大聖人だという事に
「違う」と否定した人が、誰かいるのですか?
誰も否定などしていないでしょう。

そして、個人の意見に対しては、否定も肯定もしていないでしょう。
主観は自由なのですからね。


ところが貴方は、普通の人さんに

『> > 創価学会の教義では
> >「日蓮大聖人が本仏」
> > 「教主釈尊が本仏」
> > 「一切衆生が本仏」
> > 全て本仏であると習いましたよ。

> 残念ながら、貴方が習った事は間違いなのです。
> 本仏は一つなのです。
> 今後はそう覚えてくださいね。 』

と、間違いだと言われたのですよ。

理解できますか?
間違っていない事に対して、貴方は、間違いだと言われたのです。
大河さんと同じで、仏法を知らないから、間違いだと言われるのですよ。

仏法には「立て分け」というものがあります。
ですから、お門違いに「間違い」だなどと言われないことですね。



> 追伸
> 雨煽りさん。
> せっかくご意見頂いておりましたが、私の頭ではあなたが何をおっしゃりたいのが
> 全く判断できかねます。
> 過去ログを読んで貴方のお考えを探ろうとさせて頂いたりしましたがやはり無理でした。
> 今後、もしお声がけ頂いたのに返答していない場合は、そういう事情とお察しください。
> 決してスルーしているわけではありません。

スルーされても良いのです。貴方の自由です。

間違っていない事に対して、「間違い」だと、言われなければ
私は別に、何も言う事はありませんから。



 

質問と提案です

 投稿者:Möbius  投稿日:2017年 1月11日(水)22時38分52秒
返信・引用
  ・他人様の実名は書けません。公的(有名人など)な人は大丈夫ですが、一般人をHNでなく名前を書く場合は、イニシャルや、伏字にして下さい。(結構忘れる方が多いので注意してください)

上記は参加ルールです。
今まで考えてなかったのですが、沖浦さんに対して投稿する場合や
沖浦さんの話題を出すときに「実名」を書かないと話が通り難くなります。
その場合はどうすればいいのでしょうか?
OKさんとか書いても誰の事かわからないですね。

ややこしいので沖浦さんもハンドルネームで投稿してくれませんでしょうか?
 

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