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普通の人さんおはようございます。

 投稿者:自城魔突  投稿日:2017年 1月18日(水)08時56分23秒
返信・引用 編集済
  > No.9210[元記事へ]

> 自城魔突さん。
> 御賛同、ありがとうございます。
>
> ただ、私は沖浦さんの事も、尊敬しております。
> 沖浦さんは、掲示板では、非常に誤解されやすい方だと、思います。
> と同時に、素晴らしい、学会員さんでもあります。

わたしは沖浦さんの事はまったく尊敬できません。
この度の阿部日さんとの対話でも、質問を繰り返し
全く真剣に対話する意思を感じられません。

そのうち「これ以上話をしても意味がない。」とか言い出して
退室するか、スルーするかでしょう。

これが自分の掲示板なら
「この答えが出ないならアクセスをお断りです。」の一言でアク禁。
沖浦さんが求める答えというのは、自分が納得するもののみが「正解」とされるのです。

男らしくないんですよ~~  残念ですが何年も同じ繰り返しなんです。
 

細野さん

 投稿者:自城魔突  投稿日:2017年 1月18日(水)08時50分49秒
返信・引用
  > No.9230[元記事へ]

> 管理人様
> お伺い致します。
> 池田先生、及び学会が現在、または過去に出版された書籍等からご指導等を引用する場合、『誰もが確認出来るもの』でなければ、不公平ではないのではないでしょうか。
> 当掲示板を含め、他の掲示板やSNS等でもほぼ全ての方が、引用元を明示しています。
> 御手隙のお時間等ございましたら、ご確認の上ご回答頂けますようお願いします。

全く持って激しく同意でございます。
普通、常識ある人間なら、引用する音源の確認を求められた場合
「うちに聞きに来い。」などと言わず音源を公開するでしょうね。

公開手段などいくらでもあります。
そのためのインターネットなんですからね~~
世界中の人が一瞬に確認作業できることをせず、どうしてわざわざ一人一人
その場に赴き確認する必要があるんでしょうかねぇ~~

まぁ あくまでもホントに音源を所有している場合ですけどねwww


阿部日さん、お疲れ様です。

私の知人で全くの未活の方がいますが、一応朝晩の勤行と唱題はしています。
でも対話すると全く信仰の必要性を感じていません。
二世会員で両親 奥さん お子さんは バリ活です。

そのため世間体を保つため、信仰しているふりをしています。

しかしながら信仰の必要性ゼロパーセントです。
世間へのポーズだけ学会員です。

そんな人もいますね~~

ま~~何を考えているか、他人の腹の中なんてわかりませんね~~
 

(無題)

 投稿者:細野  投稿日:2017年 1月18日(水)08時03分46秒
返信・引用 編集済
  管理人様
お伺い致します。
池田先生、及び学会が現在、または過去に出版された書籍等からご指導等を引用する場合、『誰もが確認出来るもの』でなければ、不公平ではないのではないでしょうか。
当掲示板を含め、他の掲示板やSNS等でもほぼ全ての方が、引用元を明示しています。
御手隙のお時間等ございましたら、ご確認の上ご回答頂けますようお願いします。
 

おはようございます、皆様方

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月18日(水)06時41分10秒
返信・引用
   今聖教新聞の、田中正浩さん(56)=綾南支部、地区部長さんの体験を読みました。

 素晴らしい!!

 こう云うお方が同志でおられる創価学会。
 その創価に縁あって入り、創価人となった自分自身。

 功徳を噛みしめる思い・・・・・

 田中さんの体験の中に先生のご指導があります。

 「信心を根本に生きる人は、どんな状況、どんな場所にあっても、『ここ』から『新たな出発』を切っていける。『いま』から無限の『希望の未来』を開いていける」
 ~引用終わり~

 今はこの指導は本当だとわかります。
 これが本当だと実感できる人生。

 功徳の証拠~~!!
 

管理人様

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月18日(水)06時11分23秒
返信・引用
   おはようございます。

 私が引用する先生のご指導はほぼ音源を所有しています。
 暗記するまで聞きましたので覚えていて、主意として引用致します。

 主意が困る方々は、拙宅に来ていただけるならお聞かせ致します。

 以前から書いて来ましたし、その通り来られた方々も沢山おられます。

 ですので、主意がお嫌いな方は私の家に聞きに来られるか、その引用が嘘である証明をお願い致します。

 でないと対話が進みませんのでご配慮下さいませ。
 

阿部日さん、おはようございます。

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月18日(水)06時04分2秒
返信・引用
   ダメですよ、万人が納得できる回答をせず次の質問をしてごまかしてはいけません。
 それでは対話になりませんね。

>人本仏迹論に当てはめると、沖浦さんにとって利益(功徳)を主張するための
「道具」にすぎないからですね。

 人が本、仏が迹は大聖人仏法の基本ですし、創価の根本理念。
 貴方はここに迷いがある。
 師匠が云われましたでしょう。

 『これまで世界は、宗教のために人間があるとの思想で民衆支配が行われて来た。
 今私どもはそれを逆転し、人間のための宗教を高々と掲げる。』(主意)

 御書には、

 『云、一切の菩薩必ず四弘誓願を発す可し其の中の衆生無辺誓願度の願之を満せざれば無上菩提誓願証の願又成じ難し、』
 (爾前二乗菩薩不作仏事)

 一切衆生がいないなら、菩薩の四弘誓願はございません。
 衆生を救済するために菩薩は仏法を弘めます。
 仏法とはそういう教えなんです。

 衆生である人が本、仏法全体がその幸福のために説かれる方ですから迹。

 ここをキチンと理解なさいませ。
 その上で書きますが。

 貴方のこの書き込みに悪意を感じます。
 私は御本尊が道具に過ぎないと見下した書き込みをしておりません。
 今一度確認致します。

 御本尊は道具ではあるが命の次に大切なもの!!!

 何度も何度も書いております。
 理解する努力をなさいませ。

 次に、功徳を出すための道具として私が御本尊を必要とし拝んでいる。

 概ねこう云うご意見です。
 すると、貴方がお気に召す召さないに関わらず、私は功徳を出すために御本尊を必要としていることになります。

 この点を先ず明確にして下さい。
 私の意見を整理しておきましょう。

 私は御本尊を必要としているからこそ、仏間に御安置し毎朝毎夕拝み、30分の唱題を心がけています。

 この私の行為が何故、御本尊不要と云えるのですか?
 不要ならそう云う事は致しません。
 巻いておしまいしておきます。

 必要だから拝む私の何処が御本尊不要論者となるのか?

 明確な回答をどうぞ。

 その後次に進みましょう。


 

困りましたね。

 投稿者:モウ  投稿日:2017年 1月18日(水)00時29分12秒
返信・引用
 
私の理解はこうです。

天台大師は、法華経に「みんなが成仏できる」という法理が説かれているのを詳しく
教えてくれました。それは法華経の前半に「理屈」でほぼ書いてあって、法華経の後
半になると、釈尊の姿が説かれて「現実」として理解できるようになっています。

迹門の不変真如の「理」と本門の隨縁真如の「智」は、この法華経の内容を踏まえて、
真理を信じることと、そこから智慧が現実に顕現することの大切さを教えてくれてる
のだと思います。

本来は、法華経の内容についての「理」と「智」です。

ところが話が変な方向にいってしまいがちです。
それを流用して、一般的な「真理」と「現実」の関係を考えるのはいいでしょう。
しかし、「真理」と「現実」の関係を言うだけにわざわざ使うのって変ですけどね。

あるいは、この「真理」と「現実」の関係を説明するために、いろいろな譬えも使わ
れてきました。「水」という抽象的な言葉と「氷った水」や「海の波」とか。
あるいは、「目を閉じれば不変真如の理」で、「目を開ければ隨縁真如の智。」など。

しかしそれはあくまで譬えですから、説明するために使った譬えのほうが、一人歩き
してはいけません。何でもそうなら、目を閉じて「お腹がへった」と考えれば「理」
で、目を開けて同じく「お腹が減った」と思えば「智」なのか、なあんて変なことは
ありませんから。

全ての「真理」が「不変真如の理」で、「現実に顕現した姿」が「隨縁真如の智」に
なるという理解だったら、「法身」が「迹門」で、「応身」が「本門」になってしま
います。それでは、おかしいですね。


何のために説かれたかを考えれば、転用するときにも気をつけて考えなければならな
いと思います。「迹門の不変真如」の「理」と「本門の隨縁真如」の「智」の2つが
どちらもあって「南無妙法蓮華経」ということになります。

御本尊は真理で、これを拝んで顕現するのだから、迹門だという言い方はありません。
何よりも「本門の本尊」だと宣揚されてきた大聖人が、「迹門」の本尊という言い方
を好まれるかどうか、考えてみれば分かることではないでしょうか。

理屈の上では、紙の御本尊は、真理でしかなくて、衆生の上に顕現する御本尊こそが
智慧の姿ではないかという発想は分からないではありませんが、厳密には、御本尊は
物体としてあるだけでは御本尊(真理)とは言えません。信心を持って衆生の側に
御本尊として顕現するときに、同時に御本尊になりえるのですから。


「本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えれば、その信心に本尊が具するのである。
 この二つの次元が揃って初めて大聖人の御本尊の意義が完結する。」
(1993年、創価学会教学部)

境智の妙法ですから。たとえ己義であろうが、誤解を生もうが、御本尊を不変な真理
だと言いたいだけなのだというのであれば、同時に、題目もそうです。唱題できない
時でも「信じる」ことが根本ですから、功徳はあることになります。

私としては、こういった理屈に拘泥するのは本当に不本意です。これで意見表明とい
うことで、あとはお許しさせていただこうと思います。
 

次に沖浦さんにお尋ねするのは

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月17日(火)22時07分30秒
返信・引用 編集済
  ※私が御本尊を不要としているなら、何故自宅にご安置して拝むのですか?

人本仏迹論に当てはめると、沖浦さんにとって利益(功徳)を主張するための
「道具」にすぎないからですね。

次にお聞きしたいのは

https://archive.is/vZOLK



グラスルーツさんに説かれた
「日蓮大菩薩論」です。

これも「趣意」ばかりで、元となる会長指導がみあたりません。

どうぞ「人本仏迹」論とともに、該当する会長指導を明示してくださいませ。



 

阿部日さん

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月17日(火)22時03分55秒
返信・引用
   私が御本尊を不要としているなら、何故自宅にご安置して拝むのですか?

 具体的にどうぞ。
 

普通の人殿へ

 投稿者:おっちゃん  投稿日:2017年 1月17日(火)22時01分38秒
返信・引用
  おっちゃん、阿部日殿の下記投稿は、理解できる内容が多いでござる。
普通の人殿はどう思うでござるぞか。

こういったおっちゃんの内容は、ここでよろしかろうぞか。
おっちゃんも別に沖浦殿に敵意がある訳ではござらんぞよ。
本スレで色々と発言するとやはり読みづらくなるなる気もするでござる。
おっちゃんにわかに普通の人殿を尊敬しておるゆえ、ご面倒でなければコメントを頂くと有り難きでござる。


> ※沖浦さんは「御本尊不要主義者」ではないと、クジラも思います。
>  本人が言ってない事は判断はできません。
>
> ---
>
>
> 以前沖浦さんの投稿は自営業の自家宣伝も兼ねていると指摘させていただきましたが
> その時とおなじように「直接(明確に)書いていないから」そうは思わないと
> いうご判断と同じ考え方のようです。
>
> 実際にその文言を一字一句間違えずに書いたか、書いてないのか・・という弁証法は
> 「いった・いわない」の確認で終始してしまいます。 シアトルでの阿部日顕の証言
> のように、ある事実に対し単純に否認することができれば「事実ではない」と認められる
> わけではありませんよね。
>
>
> おそらく、管理人さんは沖浦さんが、御本尊に向かって題目を唱えているという事実を
> みて「御本尊不要論」ではないのではないかとお考えになっているのではないかと
> おもいます。
>
> 事実、沖浦さん自身もそのように書かれています。
>
> ※御本尊は道具で迹ですよ、でも不要とは言いません。
>  事実きちんとご安置しておりますし、朝夕拝んでいます。
> (2013/05/28(火)
>
> しかし、次の日にはこのようにも論じています。
>
> ※創価のご本尊は必要です。しかし、日蓮正宗では無い方がいいですね。
>  寛師の邪義に毒されていて、漫荼羅本尊を人の上に位置づける邪義ですから、
>  そう言うご本尊は無い方がいいです。
> (2013/05/29(水)
>
>
> 日寛教学が御本尊を“人の上”に位置づけているとは初耳ですし
> その文証は示されていません。
> また 「そう言う本尊」 とはなにを指すのか。
> 日寛教学は邪義という沖浦さんの主張ですから日寛書写の本尊の全否定
> と考えられるのではないでしょうか。
>
> いちおう沖浦さんの主張のソースを示しておきますね。
> http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/study/9645/1366715670/
>
> -----------------------------------
>
>
> 拙がクジラさん掲示版において根本的問題としているのは、
> 沖浦さんの論そのものではなく、ルールと運用 についてです。
> これを念頭においたうえで、管理人さんの見解を明確にしていく形
> をとりたいと思います。
>
> 沖浦さんは 人(凡夫・衆生)本 御本尊迹 と説かれました。
> このように書くと「人本仏迹」ではないじゃないかというご指摘をされた
> 方がおられましたが、あらためていうまでもなく御本尊は末法衆生の「成仏」
> の為に「仏」を書き顕されたものですよね。
>
> ところが沖浦さんはこのように主張されます。
>
> ※更には、御本尊はそのままで仏ではございません。
>  私共は自行化他の唱題をしてこその御本尊。
>  謗法の地にあろうがなかろうが、私どもが前で唱題するなら、
>  キチンと功徳は出ます。
>
> (2014/11/10(月)
>
> 御本尊は、そのままでは仏ではない。自行化他の唱題をして「仏」となる。
> おそらくこれを説明するのに沖浦さんは「草木成仏」の御書等を引用される
> でしょうけれども、謗法の地にある御本尊に唱題しても「功徳」がでるという
> 主張は池田先生の指導に反します。 あえてその指導は引用しませんが
> 沖浦さんの論理は「正しいこと」と「我見」をまじえて強引に結論づける
> のが特徴です。
>
> 正直なところ、すでにこの件についての対話は八年前に終了しているので
> 両論併記の状態になるとおもいます。
> 沖浦vsあべひでは、管理人さんがおっしゃるように「長文テキストの羅列」
> にしかならないでしょう。
>
> となると、どこかで判断をしていただく人間が必ず必要となってきます。
>
> まず管理人さんにお願いしたいのは、「人本仏(曼荼羅)迹 の考え方を受け入れ
> 難い方」 は 怨嫉謗法が原因である とか 沖浦さんを怨嫉しているなどと、断定する
> やりかたに、不快感を感じている方が何名かおられるようですが(拙も同意見です)
> これは「学会員さんが不快に感じる投稿」にはあたらないのでしょうか。
>
> たとえば拙が管理人さんに対し
> 「私の論を批判するのは怨嫉謗法からの頭破七分故です」
> 「怨嫉謗法の書き込むを見て置いて責めないなら、
>  書き込んだ人も責めない人も共々に無間地獄です」と書けばどうでしょうか。
>
> ハッキリいって「功徳」とやらを書きつらねながら、同時に相手を中傷するやり方に
> 飽き飽きしています。
>
> ------
>
> ※しかし、そういうSGIメンバーほど「御本尊」をどれほど求めているか。
>  たとえ「御本尊」が無くても健気に祈り活動をする。・・
>
>
> そうですね。
> 物理的に御本尊様をまだいただいていない状態であっても功徳がでている
> のはなぜか、クジラ管理人さんの上記の言葉に明確にでているように
> 思います。
>
> 猛烈に「御本尊」を求めている事 そして 健気に祈り 活動 をすること。
>
> まさにこれが自行化他の信心を貫くことであると拙は思います。
>
> 御本尊がまだ安置されていない状況の方が
> 「お題目を唱えただけで功徳がでたから御本尊は必要ではないのでは?」
> と問われたときに、クジラ管理人さんはどのようにお答えになるでしょうか。
> 「日蓮大聖人も御本尊様がなくても仏になられたではないか」とか
> 「戸田先生は獄中で悟達を得られ時に御本尊様が無かった」と
> 言われたらどのように説明されるでしょうか?
>
> 拙と沖浦さんとの対論としてではなく、これがもし、自分の現場の会員さん
> からの質問ならば・・と考えてくださるなら、再対論のやり甲斐もあるかも
> しれません。
> “それまでは、(他の方は)「沖浦さんの教義解釈」のお話しは一旦休憩”
> との提案ですが、管理人さんも読者の皆さんも話題に乗られないのであれば、
> リング上の対戦を見ているだけの観客状態となってしまいます。
>
> それは本意ではありません。
>
 

予想通りですね

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月17日(火)21時58分7秒
返信・引用 編集済
  ※ 推論を期待しておりません

言ったいわないの論争は不毛です。

沖浦さんだってダイレクトな指導を引用できずに推論から「はっきりしています」
と繰り返しているに過ぎません。

すでに拙は「御本尊不要論」の概念については貴殿の主張を
引用した上で、師匠の指導とも違うと説明を終えています。
 

阿部日さん、今晩は

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月17日(火)21時42分7秒
返信・引用 編集済
   私が御本尊を不要だとした書き込みをダイレクトにアップして下さい。

 推論を期待しておりません。
 少し考えたらわかるでしょう?

 私が御本尊不要論者であって、何故自宅に御本尊ご安置しますか~??
 御本尊無用だという人は、毎日御本尊の前に座って30分の唱題するわけないでしょう~??

 お疑いなら何時でも拙宅へ来て見て下さい、と何度も何度も書いて来ましたし、貴方とは関西へ行く時何度も何度も対面の機会を差し上げました。

 然し絶対に対面をなさろうとされませんでした。
 会って一緒に開館にでも行って勤行唱題するとすぐわかります。
 所がそう云う事は否定されます。

 会えない理由を一万回書くより、一度の対面が大事です。
 仏法は現実の中にある教え。
 所が貴方は現実を否定され言い訳三昧。
 良くないですね。

 更に、仏法は人のためにある法。
 人のためですので人が本、ためにある法が迹。
 はっきりしています。

 御本尊は仏法の中に含まれます。
 簡単明瞭な事ですね。

 少し論理的に話して下さいませ。
 

こんばんはでござる(^o^)

 投稿者:おっちゃん  投稿日:2017年 1月17日(火)19時18分20秒
返信・引用 編集済
  阿部日殿、
おっちゃん、邪魔してはいかんと思ってこちらへの投稿を控えておったでござるぞよ 。
それとだ、
勉強になることもしかりで、読むだけモードになっておるのも実のところでござる。
気を使い過ぎぬようにもするでござるぞよ。
\(^o^)/ホントピョ~ン

普通の人殿、
でだ、「こちらで、どうぞ」ということで戻って来たでござるぞよ。
なかなか感銘致す対話でござるぞな。おっちゃんもいざという時のためにも頑張るでござるぞよ。
常に今が肝要でござるぞな。
 

あっ、モウさん

 投稿者:雨煽り  投稿日:2017年 1月17日(火)17時39分48秒
返信・引用
  沖浦さんの言われている本迹ね、

実は、それも一念三千です。
 

Re: 雨煽りさんへ

 投稿者:雨煽り  投稿日:2017年 1月17日(火)17時32分56秒
返信・引用 編集済
  > No.9212[元記事へ]

> 確認のため何度も 「人本仏迹論」 についてお尋ねしましたが

貴方の言われている事の、意味がよく解らないのですが、
何の確認なのですか?



> 雨煽りさんは “たてわけ”としての「人本仏迹」について論じる事
> 自体は問題ないと部分的な判断されているのみで

この文章自体は、理解しようと思えば理解できますが、
私が「論じる事自体は問題ない」と言ったのですか?
そんな言葉を発した覚えはありませんし
「部分的な判断されている」とは、何の部分的で、どんな判断を指しているのですか?



> 、曼荼羅が迹 だとか 曼荼羅がなくても功徳はでる といった論には
> なんら肯定的な言及もされておりません。

御本尊は不変真如なのですから「曼荼羅が迹」なのは当たり前です。
御本尊があってもなくても唱題すれば功徳があるのが事実ですから、
「曼荼羅がなくても功徳はでる」のも当たり前です。



> あらためて、ご迷惑をおかけした事をお詫び申し上げます。

「ご迷惑」とは、私に対して質問された事を言われているのですか?
質問自体は、何ら迷惑ではありませんから、良いのです。

そういう事では無く、貴方は証明しなくてはならないのですよ。
もし、証明できない事を詫びられるのなら、そう書いてくださいね。


「御本尊がない」事と、「御本尊が不要」という事は、全く違います。
空の仏壇に向かって唱題しているSGIメンバーは、御本尊が不要なのですか?
摩り替えるのは、やめたらいかがですか。



『>> 拙には何度読んでも、御本尊・仏と衆生が等しいという「前提条件」の
>> 上での本・迹がのべられているようにおもえます。
>> また雨漏れさんもおなじような事を繰り返し述べておられます。

> 『差別なし』が、前提だと思われているのなら、大きな間違いです。
> 御本尊が不変真如なのも、われわれが隨縁真如なのも、同じく不変の前提条件です。



>> ですが、沖浦さんの「人本仏迹」論は、8年前以上に「御本尊不要論」
>> に傾いているのではないでしょうか。(その証拠はすでに引用済み)

>そうですか?沖浦さんが、御本尊を「不要」と言われたのですか?
> 唱題するために御本尊は絶対条件ではなく充分条件だと、言われていたのは知っていますが
>何時、何処で、御本尊が不要だと言われたのですか?

> 「御本尊不要論」というのは、私は初めて目にしましたが、
> 誰か、御本尊不要論と、言っているのですか?
> 貴方の造語で貴方が言ったのではありませんか?

> 天城さんは2008は「曼荼羅御本尊迹」「御本尊迹」2009/3に『所謂「人本仏迹論」』と書かれていますよ。



>> 貴殿は“「衆生が本では無い」「仏が迹では無い」という 文証を上げて”
>>
>> と反問されますが、人本仏迹論を御本尊不要の論拠にしめしているのは
>> 沖浦さんだけです。

>そうですか?沖浦さんが「人本仏迹論を御本尊不要の論拠にしめしている」のですか?
> 私は沖浦さん本人ではありませんから、全てを知っている訳ではありません。
> 知らない事もありますので、それは、何時、何処でですか?



>> また「衆生が迹、仏が本なのだ」とは誰も主張しておりませんので
>> こういった内容の反問は無意味ではないでしょうか。

> 無意味ではありません。衆生が本・仏が迹を、否定するためには
>「衆生が本では無い・仏が迹では無い」もしくは「本迹には立て分けられない」しかありません。
> 同じことを沖浦板には書いていますよ。
> 当時、仏本人迹を当ててくる人がいたのです。
> 立て分けの違うものをいくら当てて来ようと、破折になどなりません。
> 天城さんの書かれたものが、破折になっているのだと思える人は
>仏法を知らない人だけです。



>> とだけ書くと「あなたの主観」だとスルーされかねませんので

> そう思われるのでしたら、一度、主観を省いて書かれたらどうですか?



>> 「人本仏迹論」を説き「御本尊不要」と指導された歴代会長の指導、または講義 の他に
>> 当体義抄講義は「御本尊不要」を導く為に論じられたものであるとの論拠提示を求めます。

>で、誰が、何時、何処で、御本尊を不要と言ったのですか?
> 独り言ではないのでしょうから、その証明を先にしてください。



>> 繰り返しになりますが、沖浦さんは
>> 【御本尊が信心の絶対条件ではない】という論拠に「人本仏迹論」を説かれました。

> 【御本尊が信心の絶対条件ではない】の後に「充分条件だ」とでも付けられれば
>私も知っているかも知れませんがね。
> 論拠にされたのを私は知りませんから、何時、何処でですか?



>> したがって、御本尊と凡夫が等しいとの立場である雨漏りさんに聞くのは
>> 筋違いかもしれません。

>そう思われるのでしたら、沖浦さん本人に直接聞かれたらどうですか?



>> しかし、教学的に弁護されているのは貴殿のみです。

> 私は「衆生を本と立て仏を迹と立てる論を「間違い」と言う事が間違っている。」
>と言っているのです。
> 沖浦さんを弁護しているのではなく、謗法を止めなさいと言っているのです。



>> 沖浦さんの主張がすべて正しいのか間違いであるかどうかの決着を
>> 皆さんが待っているのです。

>すべて正しい人が、この世の中のどこかにいるのですか?
> 人間は誰でも、勘違いしたり間違ったりするものです。それが人間です。
> 全てが正しい人もいなければ、全てが間違いの人もいません。
>もし、そんな人がいたら、是非教えてください。

>そして、誰が待っているのか知りませんが、
>なるべく主観を入れずに、私宛にレスすれば、返答しますよ。
> 時間はかかりますがね。』



 

普通の人さん、

 投稿者:雨煽り  投稿日:2017年 1月17日(火)15時54分32秒
返信・引用 編集済
  池田先生の「青春対話」

ありがとうございます。



実は、詳しくは書いていませんが、

私は普段、不惜身命・死身弘法との覚悟は持っていました。

覚悟は持っていたつもりでした。が、

いざ、その時になると、
「今揺れたら自分が死ぬ」と、躊躇したのです。
婦人部を助け出すまでに2回、御本尊を出すまでに1回、つまり3回も躊躇したのです。

3回も躊躇して、自分を守ろうとした私の、どこが覚悟だ!恥ずかしい!
と、後になって思ったのです。

ですから、同じ事があったらまた、同じ事ができるかと問われれば、
甚だ自信がありません。自分だけ逃げだすかも知れません。
その時になってみないとわからない。としか言えません。

ただ、何時如何なる時でも、覚悟のある自分でいられるように、と思って信心しています。
努力はし続けて行きます。


 

雨煽りさんへ

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月17日(火)14時59分10秒
返信・引用 編集済
  確認のため何度も 「人本仏迹論」 についてお尋ねしましたが

雨煽りさんは “たてわけ”としての「人本仏迹」について論じる事
自体は問題ないと部分的な判断されているのみで
、曼荼羅が迹 だとか 曼荼羅がなくても功徳はでる といった論には
なんら肯定的な言及もされておりません。

あらためて、ご迷惑をおかけした事をお詫び申し上げます。
 

沖浦さんへ

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月17日(火)14時38分28秒
返信・引用 編集済
  >  多くの方々が口角泡を飛ばし、虚しい論を展開されています。


http://6903.teacup.com/huwahuwakujira/bbs/9176

の投稿において、「御本尊不要」との論を沖浦さんは、していないと
おっしゃいました。

ですので、ここは沖浦さんの論をそのまま用いましょう。

※衆生己心の妙法を、釈迦が虚空の宝塔に例え、大聖人がそれを曼荼羅として
 写し取られた。 a1


これが沖浦さんの「本尊=迹」の論拠の一つですよね。

また「迹」であるとの論拠に

※絶対条件であるなら、大聖人は覚れませんし、戸田先生の獄中の悟達もありません

とされました。
ようするに沖浦さんのいう絶対条件は「本」を指し充分条件だから「迹」であると
いう二重目の証明になりますよね。

また「充分条件」の理由に

御本尊がなくても大聖人は悟られたではないか。 (イ)
戸田先生も、獄中で唱題のみをされて悟達をされたではないか。 (ロ)

と理由を述べられました。

本来、十分条件(充分要件)・必要条件(絶対条件)という数学的な概念は

AならばB(A→B) と同時に BであるならA(B→A) という条件も
同時に満たすという相互補完的な関係の事です。

日蓮大聖人は、末法において法華経から南無妙法蓮華経の曼荼羅を顕されました。
これについて異論はないと思います。

では 大聖人ご自身はこの曼荼羅についてどう論じられているかというと


○日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる
 大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、
 是全く日蓮が自作にあらず

( 日女御前御返事 )

つまり、末法において法華経を弘通するために曼荼羅を顕された・・とあります。

でこれを沖浦さんの釈では 弘通の為にあらわされた「道具」だから
 迹 と述べているわけですね。


ですが池田先生はこのように述べられています。



◎大聖人は「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(御書一二四四ページ)と
 仰せである。
 「信心の二字」の中にこそ御本尊はまします、と。
 戸田先生は、御本尊を「幸福製造器」と譬えられたが、強盛な「信心」によって
 のみ、御本尊の広大無辺の大功力も現れるのである。
 この一点に、大聖人の仏法の真髄がある。

 (略)

 この「観心の本尊」の本義からいえば、「信心」強き人ほど、尊き人はない。
 その胸中には「御本尊」がましますからである

※世界を変えゆく悠然たる君に
 第七十回本部幹部会、全国支部長会、第二回SGI世界青年部総会、全国青年幹部会
                               1993年 9月7日


観心の本尊とは、己心に妙法があると観じる この己心の妙法を指して「御本尊」と
とらえるのが創価学会、なかんずく日蓮仏法の根幹であり、御本尊と題目の弘教いわゆる
広宣流布こそが目的であるといえるでしょう。

ところが、沖浦さんは
「功徳(結果)がでていれば、御本尊は絶対条件ではない」と論じました。
ですから解りやすいように「御本尊不要論」と表現しました。
沖浦さんが示された(イ)と(ロ)の状況は「御本尊がない」状況だからです。


繰り返しになりますが、絶対(必要)条件・充分(十分)条件は本来
対で相互補完となる条件です。ですから、一方を(迹)と断じるだけ
では本来の意味合いとは違う概念です。
仏法的な面で「人と仏が等しい」のであるならば、わざわざ人と仏(曼荼羅)
を 迹 と論じ差異をつける必要性を感じません。

まず沖浦さんなりに「絶対条件」と「充分条件」の関係性の説明をされたうえで、
なぜ「人と曼荼羅(仏)」をわざわざ、たて分けねばばらないのかを論じて
もらえませんか。
それから、沖浦さんが本迹のたてわけが信心において重要であるとされるのなら
御本尊(曼荼羅)は迹だから・・など言及された学会指導を提示いただきたいです。

そうであれば皆さんも納得されることでしょう。
でなければ理由も無くこちらの掲示版で「人本仏迹」を論じることこそが
虚しいものとなります。
管理人さんも含め誰一人として「仏と人」の間で本迹や優劣などを述べて
いる人などいないからです。


その上で、“口角泡を飛ばし、虚しい論を展開”というのは具体的にだれのどの論
の事でしょうか。 ご返答をおまちしております。
 

不惜身命

 投稿者:普通の人  投稿日:2017年 1月17日(火)14時28分19秒
返信・引用
  自城魔突さん。
御賛同、ありがとうございます。

ただ、私は沖浦さんの事も、尊敬しております。
沖浦さんは、掲示板では、非常に誤解されやすい方だと、思います。
と同時に、素晴らしい、学会員さんでもあります。
阿部日ケ~ン(院政)さんは、言うまでも無く、皆さん御存知の凄い論客です。

この有名な、お二方の対話ならば、異論を挟む方は、おられないと確信しております。
私は、対話を楽しみに、しております。

おっちゃん。
その内容なら、本スレで全然、大丈夫の筈です。
こちらで、どうぞ。

雨煽りさん。
> 私にとってこの地震は「不惜身命」の実践になりましたが、
> それ以前、最初の文化祭出場の頃からずっと、不惜身命だった事も気付いた出来事でした。

素晴らしい体験談に、感動いたしました。
私も、「不惜身命」の実践に、少しでも近づきたいと思います。

「信心は感傷ではない。信心は勇気です!」と、先生はいつも、教えて下さいました。

また、「一人立てる時に強き者は、真正の勇者なり」
私は、この言葉が好きなので、池田先生の「青春対話」から、引用させていただきます。

「青春対話」勇気を出したいより抜粋

「付和雷同」は悪、堕落の方向
池田 彼女の″勝利宣言″だね。本当に、よく頑張った。お母さんも、どんなに喜んだことだろうか。「あいさつ」を続ける。はじめは無視される。しかし「続けた」。それが偉い。
勇気ある行為は、はじめは笑われる場合がある。皆に、おかしく思われる場合がある。しかし、あとになって明確に答えがわかる。

有名なある哲学者――詩人であったドイツのシラーが、こう言った。「一人立てる時に強き者は、真正の勇者なり」と。
青春時代から、私が大事にしてきた言葉です。

反対に、付和雷同は「悪」です。みんながこうしようと言うから、何となく、ついていく。みんながこれでいいんだという堕落の方向に行ってしまう。これがこわい。これが日本人の最大の欠点の一つでもある。

みんなが「戦争はいいんだ」というと、悪の方向であっても抵抗しない。一人、敢然と立ち上がって、「それは間違っている!」と叫ぶ勇気がない。周囲の空気に流され、表面的に格好のよいものに流されてしまう。

しかし、こういう時に、断じて「道」を踏み外してはいけない。平和への思い、学ぶ姿勢、人間愛を断じて捨ててはいけない。
それらを実行し、広げていこうというのが「勇気」です。勇気は「自分自身」の心の中にある。その心の中から「自分自身」が出すのです。

「みんなと一緒であればいい」というのは、勇気ではなく、臆病だ。民主主義ではなく、ファシズムです。民主主義というのは、民衆一人ひとりが「自分が社会の主人公だ。自分に責任があるんだ」と自覚しなければいけない。

そうでなく、「自分さえよければいい」という利己主義、「大勢の言うことに従っていればいい」という付和雷同。これが多すぎる。

「一人立つ」勇気をもってこそ、平和の方向へ、善の方向へもっていけるのです。その「勇者」が団結し、連帯してこそ、社会が変わるのです。まず、自分が勇気を出すことだ。そこから、すべては始まる。
引用以上です。

私も、勇気を出して「不惜身命」で、学会活動に益々取組む決意です。
ありがとうございました。
 

1.17

 投稿者:雨煽り  投稿日:2017年 1月17日(火)13時16分11秒
返信・引用 編集済
  今日は1.17阪神淡路大震災の日です。
携帯から緊急避難速報が鳴りました。訓練ですが…



私は文化祭出場経験が2度あります。
文化祭をやり切った後の言い知れぬ感動、滂沱と流れる涙…
何故そんな感動があるのか、どこからその感動がくるのか、私は考えてみました。

最初は「何故、こんな事しなければならないのだろう」との疑問ばかりでした。
仕事が忙しくて、練習にも満足に行けません。
そりゃあそうだ、練習が終わって帰って来るメンバーと、仕事が終わって帰る私の
乗る電車が同じなのですから…

「自分を折伏する。」という言葉も意味がわかりません。なんじゃそりゃ?って感じです。
普段忙しいから、練習に行ける日でも、体がしんどいのです。体力的な問題です。
そんなこんなで嫌々やってた練習も、残り1か月くらいになると、
ここで止めたら、今辞めたら、今までやって来た事が無駄になる。と思い、
真剣に努力するようになりました。

仕事が早く帰れるように、土・日・祝日が休みになるように、あらゆる知恵を絞って工夫し、
あらゆる努力をしました。真摯に真剣に自分の生命の全てで取り組みました。

そして当日、会場がざわつき始めました。池田先生が入場されたのです。
不思議な事に、遠くて見えないはずなのに、先生のおられる処は、光ってみえました…

「真摯に真剣に自分の生命の全てで取り組む」それがこの、言い知れぬ感動を生むのではないか。私はそう考えました。

ではそれを、普段の学会活動でやればどうか?実践してみました。
はい、同じ感動がありました。
ではそれを、普段の生活、仕事ではどうか?実践してみました。
はい、同じ感動がありました。「信心即生活」が、解った気がしました。

結果的に、私は所謂全国制覇と云われるような事が2回あります。
何も変わった事をした訳ではありません。私は普通に活動していただけです…



そして地震の日、
私の家は大丈夫でしたので、近所のアパートへ行ってみました。
そこは二棟建てで、男子部員の世帯が3世帯、その親1世帯の4世帯の創価学会員がいました。

2階の通路が私の頭の高さにまで低くなっていました。
男子部2名は既に外に出ていて、うろうろと同じ場所を行ったり来たりしています。
崩れた窓から覗くと、何となくですが、婦人部の顔が見えます。

私はそのアパートの部外者ですから、必要以外な事はしないでおこうと思ってましたが、
一向に、誰も何もしようとしません。
これ以上待てないと思い、その婦人部を助け出す為に窓から中に入って行きました。
私が入って行く為の道を、折り重なってぐちゃぐちゃになっている荷物をどかせながら
作って行くのですが、そう簡単に荷物は動いてくれません。
非力な自分を感じ、時間が止まったように時間が過ぎて行きます。

そんな時「今揺れたら自分が死ぬ」との思いが頭に過ぎりました。
「今逃げても誰にも非難はされないだろう」「でも、目の前のこの人をほっとけない」
めまぐるしくそんな思いが駆け巡って行きます。
そして、たどり着いたのは「今死んでも一人じゃない。目の前の学会員も一緒だ」
「これで死んだら成仏だろう」という結論でした。

荷物をどけるのは苦労しましたが、何とかその婦人部を助け出せました。
で、次は御本尊です。
「婦人部は助かっても、御本尊がなければ困るだろう」と、何故か私は考えたのです。

荷物をどかしている時、到底私の力では太刀打ち出来ない、ビクともしない物があったのです。
それが仏壇だと、その時気づいていましたから、そこへ戻りました。
ですが、仏壇は頑丈な上、周りの荷物で開けられません。
また時間だけ過ぎて行きます。

「さっきまでは婦人部が一緒だったけど今は自分一人だけだ、今逃げ出しても誰も非難などしないだろう」と過ぎります。
結論は「今死んだら御本尊と一緒だ、成仏するだろう」という考えに至りました。

苦労の末、手と腕を傷だらけにしながら、御本尊を出して、その婦人部に手渡しました。
おかげで、仏壇の弱点を見つける事が出来ました。何の役にも立ちませんが…


3年くらい後、その婦人部の未入信の息子さんと、仕事の関係上、会った時
「母を助け出してくれたのは貴方だったのですね。ありがとうございました。」と
礼を言われました。

地震の時の事は、私よりも、その婦人部の方が、よく覚えているようでした。
だって私はその時、人からは平気なように見られてましたが
とてつもなく、パニックになっていたのですから…



私にとってこの地震は「不惜身命」の実践になりましたが、
それ以前、最初の文化祭出場の頃からずっと、不惜身命だった事も気付いた出来事でした。





 

グラスルーツさん

 投稿者:自城魔突  投稿日:2017年 1月17日(火)12時42分8秒
返信・引用 編集済
  > No.9205[元記事へ]

> 文句があるからこっちに出てこいというあなたのこの書き込みはいかがなものかと思います。

そんなに喧嘩腰にならないでください。
文句があるなどとは一言も書いておりません。
少し疑問がありますが争う気持ちはありませんと述べております。
いつもながらすぐにカッとなりますね~~~
すぐに腹が立つなんて題目が足りませんよ~~ホントピョ~~~ン\(^o^)/


> わたくしの姿勢のどのような疑問をお持ちなのか、非公式板にお越しになってその疑問を披瀝してください。
>

貴方がいつも書き込みをされている板は、管理人の意に反すると即時アクセスを禁止
されてしまいます。
今まで何十人という人が、話の途中で板の外に投げ出されています。
それと年がら年中組織や公明党の批判ばかりしている人が副管理人をしています。
申し訳ありませんが、そんな掲示板はご免こうむります。

貴方のどの姿勢に疑問があるかといいますと、創価学会員を名乗っていながら
折伏・啓蒙・選挙をなぜやらないのかという事です。

それとあなたの常駐している掲示板の板主は創価学会の三宝を否定していますが
(三宝否定については喧嘩スレをご覧ください。)
学会幹部の指導より板主の意見を100%尊重する貴方のことですから
貴方様も同じように三宝をすべて否定されているかお聞きしたのです。

それとMöbiusさんが取り上げていた発言ですが、貴方も「曼荼羅を本門の本尊」としている
創価学会の公式見解は邪義だと思われるでしょうか?

貴方も念仏には功徳があると思われるのでしょうか?
等々お聞きしたことは山ほどあります。

特に一番お聞きしたいのは、非公式板の管理人は「創価学会はハンネでの書き込みはみとめない。」と四六時中書き込みしているのに、あなたはどうしてハンドルネームなのですか?
インターネット上で、貴方が実在の人物であり会員であるかどうかを知っているのは
貴方の板の住人のみです。それ以外の世界中の人には貴方はただの「ハンネ」です。

こちらでお答えしていただかなくても、あちらの板ででも結構です。
非公式板の管理人が、若鷹の掲示板に出向けなくて自分の板でコソコソ悪口を書いているように
貴方も自分の庭で思う存分暴れて頂いて結構です。

是非、お答えをお願いします。貴方に質問する理由は、貴方にとても興味があるからです。

腹を立てずに冷静にやりましょう!♪和気藹々と行きましょう!!
掲示板の対話も人生勉強ですよ(^^)/ホントピョ~~~ン\(^o^)/

あ!「直接会いに来い!電話してこい!でも連絡先は沖浦さんへ。」っていう
   個人情報公開者の影にかくれて強がり言うのは無しですよ。
   行きませんし、電話もしませんから (〃▽〃)ポッ
 

管理人さんへ

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月17日(火)11時51分37秒
返信・引用 編集済
  ※沖浦さんは「御本尊不要主義者」ではないと、クジラも思います。
 本人が言ってない事は判断はできません。

---


以前沖浦さんの投稿は自営業の自家宣伝も兼ねていると指摘させていただきましたが
その時とおなじように「直接(明確に)書いていないから」そうは思わないと
いうご判断と同じ考え方のようです。

実際にその文言を一字一句間違えずに書いたか、書いてないのか・・という弁証法は
「いった・いわない」の確認で終始してしまいます。 シアトルでの阿部日顕の証言
のように、ある事実に対し単純に否認することができれば「事実ではない」と認められる
わけではありませんよね。


おそらく、管理人さんは沖浦さんが、御本尊に向かって題目を唱えているという事実を
みて「御本尊不要論」ではないのではないかとお考えになっているのではないかと
おもいます。

事実、沖浦さん自身もそのように書かれています。

※御本尊は道具で迹ですよ、でも不要とは言いません。
 事実きちんとご安置しておりますし、朝夕拝んでいます。
(2013/05/28(火)

しかし、次の日にはこのようにも論じています。

※創価のご本尊は必要です。しかし、日蓮正宗では無い方がいいですね。
 寛師の邪義に毒されていて、漫荼羅本尊を人の上に位置づける邪義ですから、
 そう言うご本尊は無い方がいいです。
(2013/05/29(水)


日寛教学が御本尊を“人の上”に位置づけているとは初耳ですし
その文証は示されていません。
また 「そう言う本尊」 とはなにを指すのか。
日寛教学は邪義という沖浦さんの主張ですから日寛書写の本尊の全否定
と考えられるのではないでしょうか。

いちおう沖浦さんの主張のソースを示しておきますね。
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/study/9645/1366715670/

-----------------------------------


拙がクジラさん掲示版において根本的問題としているのは、
沖浦さんの論そのものではなく、ルールと運用 についてです。
これを念頭においたうえで、管理人さんの見解を明確にしていく形
をとりたいと思います。

沖浦さんは 人(凡夫・衆生)本 御本尊迹 と説かれました。
このように書くと「人本仏迹」ではないじゃないかというご指摘をされた
方がおられましたが、あらためていうまでもなく御本尊は末法衆生の「成仏」
の為に「仏」を書き顕されたものですよね。

ところが沖浦さんはこのように主張されます。

※更には、御本尊はそのままで仏ではございません。
 私共は自行化他の唱題をしてこその御本尊。
 謗法の地にあろうがなかろうが、私どもが前で唱題するなら、
 キチンと功徳は出ます。

(2014/11/10(月)

御本尊は、そのままでは仏ではない。自行化他の唱題をして「仏」となる。
おそらくこれを説明するのに沖浦さんは「草木成仏」の御書等を引用される
でしょうけれども、謗法の地にある御本尊に唱題しても「功徳」がでるという
主張は池田先生の指導に反します。 あえてその指導は引用しませんが
沖浦さんの論理は「正しいこと」と「我見」をまじえて強引に結論づける
のが特徴です。

正直なところ、すでにこの件についての対話は八年前に終了しているので
両論併記の状態になるとおもいます。
沖浦vsあべひでは、管理人さんがおっしゃるように「長文テキストの羅列」
にしかならないでしょう。

となると、どこかで判断をしていただく人間が必ず必要となってきます。

まず管理人さんにお願いしたいのは、「人本仏(曼荼羅)迹 の考え方を受け入れ
難い方」 は 怨嫉謗法が原因である とか 沖浦さんを怨嫉しているなどと、断定する
やりかたに、不快感を感じている方が何名かおられるようですが(拙も同意見です)
これは「学会員さんが不快に感じる投稿」にはあたらないのでしょうか。

たとえば拙が管理人さんに対し
「私の論を批判するのは怨嫉謗法からの頭破七分故です」
「怨嫉謗法の書き込むを見て置いて責めないなら、
 書き込んだ人も責めない人も共々に無間地獄です」と書けばどうでしょうか。

ハッキリいって「功徳」とやらを書きつらねながら、同時に相手を中傷するやり方に
飽き飽きしています。

------

※しかし、そういうSGIメンバーほど「御本尊」をどれほど求めているか。
 たとえ「御本尊」が無くても健気に祈り活動をする。・・


そうですね。
物理的に御本尊様をまだいただいていない状態であっても功徳がでている
のはなぜか、クジラ管理人さんの上記の言葉に明確にでているように
思います。

猛烈に「御本尊」を求めている事 そして 健気に祈り 活動 をすること。

まさにこれが自行化他の信心を貫くことであると拙は思います。

御本尊がまだ安置されていない状況の方が
「お題目を唱えただけで功徳がでたから御本尊は必要ではないのでは?」
と問われたときに、クジラ管理人さんはどのようにお答えになるでしょうか。
「日蓮大聖人も御本尊様がなくても仏になられたではないか」とか
「戸田先生は獄中で悟達を得られ時に御本尊様が無かった」と
言われたらどのように説明されるでしょうか?

拙と沖浦さんとの対論としてではなく、これがもし、自分の現場の会員さん
からの質問ならば・・と考えてくださるなら、再対論のやり甲斐もあるかも
しれません。
“それまでは、(他の方は)「沖浦さんの教義解釈」のお話しは一旦休憩”
との提案ですが、管理人さんも読者の皆さんも話題に乗られないのであれば、
リング上の対戦を見ているだけの観客状態となってしまいます。

それは本意ではありません。










 

Re: グラスルーツさん

 投稿者:グラスルーツ  投稿日:2017年 1月17日(火)10時11分31秒
返信・引用
  > No.9202[元記事へ]

> 私は貴方の信仰に対する姿勢に少し疑問を持っています。
>
> 争う気持ちはありませんので、いろいろ聞かせて頂きませんか?
>
> 是非こちらにいらっしゃってください。


私はこの板はROMだけにしています。

私があなたに申し上げることは何もございません。

あなたが一方的に疑問をお持ちなのですから、私の意見が聞きたいのならあなたのほうが私の常駐する板にお見えになるのが常識的なありようです。

わたくしの姿勢のどのような疑問をお持ちなのか、非公式板にお越しになってその疑問を披瀝してください。

文句があるからこっちに出てこいというあなたのこの書き込みはいかがなものかと思います。
 

グラスルーツさん

 投稿者:自城魔突  投稿日:2017年 1月17日(火)08時49分39秒
返信・引用 編集済
  私は貴方の信仰に対する姿勢に少し疑問を持っています。

争う気持ちはありませんので、いろいろ聞かせて頂きませんか?

是非こちらにいらっしゃってください。



 

(無題)

 投稿者:自城魔突  投稿日:2017年 1月17日(火)08時45分3秒
返信・引用 編集済
  > No.9198[元記事へ]

> ただ一方的に対話を打ち切るような事をしたり、「怨嫉謗法」だの相手方にレッテルを貼り対話を避ける(逃げる)ような姿勢は、見逃す事が出来ません。
> その場合は、徹底的に批判させて下さい。
> 創価学会という重い看板を背負う以上、それは許されない事だと思っています。
>

細野さんがおっしゃる通りだと思います。
Möbius さんもおっしゃってますが、書きっぱなしをせず
自分の発言に責任をもって対話を心がければ
変な煽りもなくなると思います。

管理人さん
同志相手に怨嫉謗法だの頭破七分だのは禁句だと思いますが?
 

おめでとうございます!

 投稿者:細野  投稿日:2017年 1月17日(火)08時25分29秒
返信・引用
  > No.9194[元記事へ]

遅ればせながら・・・
おっちゃん、おめでとうございます!
 

話題が変わります

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月17日(火)07時49分19秒
返信・引用
   原発から出る廃棄物は、現在処理の方法がありません。

 無害になるまで十万年ほど必要ですが、これを人為的に無害化する技術はまだ人類にございません。

 地中深く穴を掘って埋める。

 現状では最有力の方法ですが、一万年単位での地殻変動を予測することは不可能です。
 そこで、最も良い方法を提示しておきます。

 大きなレールガンを作って、地球の重力圏外に撃出し太陽に捨てる。

 太陽はそれ自体が巨大な核融合炉。
 少々の放射性廃棄物など何という事もありません。

 レールガンの技術は、基本的にリニアモーターカーと同じで、我が国は世界の最先端を行っております。
 数トンの廃棄物を重力圏外へ発射するなど簡単でしょう。

 更に、タイミングを見計らって撃ち出してやるなら、後は太陽の巨大な重力が仕事をしてくれます。

 廃棄物を置いておいて将来の核兵器の原料に・・・・

 などとバカな考えさえ捨てるなら、数年で実現できますし、費用もかかりません。

 以上提案致します。
 ご意見を宜しくお願い申し上げます。
 

賛同致します。

 投稿者:細野  投稿日:2017年 1月17日(火)07時26分33秒
返信・引用 編集済
  > No.9184[元記事へ]

管理人様

> 「沖浦さんの教義解釈」で、大分混乱してきましたので、一つの提案をしたいと思います。

> 「本スレ」にて
> ・沖浦さんとの対話は、阿部日ケ~ン(院政)さんが代表で対話していただく。

全面的に、賛同致します。
ただ一方的に対話を打ち切るような事をしたり、「怨嫉謗法」だの相手方にレッテルを貼り対話を避ける(逃げる)ような姿勢は、見逃す事が出来ません。
その場合は、徹底的に批判させて下さい。
創価学会という重い看板を背負う以上、それは許されない事だと思っています。
 

阿部日さん、おはようございます。

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月17日(火)06時46分4秒
返信・引用
   体験こそが創価の命です。

 私共は、体験を社会に見せその結果で妙法の偉大さを証明する菩薩なんです。
 願兼於業と申します。

 http://www.sokanet.jp/pr/kyougakunyuumon/shinkoutojissenn/4-shukumeitennkann/03-2/

 御書にも

 『経文に我が身普合せり御勘気をかほればいよいよ悦びをますべし、例せば小乗の菩薩の未断惑なるが願兼於業と申してつくりたくなき罪なれども父母等の地獄に堕ちて大苦をうくるを見てかたのごとく其の業を造つて願つて地獄に堕ちて苦に同じ苦に代れるを悦びとするがごとし、此れも又かくのごとし当時の責はたうべくもなけれども未来の悪道を脱すらんとをもえば悦びなり。』
 (開目抄上)

 以上のように書かれてあります。

 一切の事が罰であれ功徳であれ、自身の身に収めた功徳善根だと信心を持って決めることが大事なんです。

 『然る間仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり、』
 (一生成仏抄)

 これが仏法の極意です。
 私どもにそれを覚らせるために、大聖人は私共末代の凡夫に御本尊を御図顕され残された。

 拝まないと損ですよ。
 私の主張に執着する事より、御本尊の前に端座し深く拝みなさい。

 そして今の境涯から立ち上がる事です。
 私は人生と創価の先輩としてこの板をお借りして申します。

 頑張るんですよ。

 聖教新聞の今朝の体験をアップしておきます。
 お読みくださいませ。

http://www.seikyoonline.com/article/AD1E4E6AE1D8886F7D74B77B6B91EAFB

 

すみません、本当に無理です。

 投稿者:モウ  投稿日:2017年 1月17日(火)00時22分47秒
返信・引用
  わ、私に何をさせようと・・・。無理、無理、本当に無理なんです。(><)

教学を語る上で、真摯な批判を受けることは望ましいことだと思います。
私ではなく、聞きたい人、話したい人が手をあげればよいのではないでしょうか。
 

大五郎殿、

 投稿者:おっちゃん  投稿日:2017年 1月16日(月)22時36分10秒
返信・引用
  > 先週、新聞啓蒙できたよ~1ポイントだけど!
> 新年会もやるもんだね~\(^o^)/ホントピョ~
>
>
見事でござるぞよ(^o^)
さすがでござるぞな。おっちゃんも頑張るでござるぞよ。
\(^o^)/ホントピョ~ン

あっちも有り難きでござる。
ではまたぞよ。
 

賛成!

 投稿者:大五郎  投稿日:2017年 1月16日(月)22時15分45秒
返信・引用
  クジラ管理人さん!
ちょいと書かせて貰いますよ!

阿部日さんの言う事も合ってるように思うし
沖さんの言う事も合ってるように思うし
周りの人がウルサ過ぎるし
ただの悪口のレベル低い人もいるし
話しが余計に分かりにくくなってる。

あと、モウさんと、雨煽りさんの対話はもう始まってるような感じだし
だからオイラもクジラ管理人さんの提案に賛成!
オイラはこの4人の話しをじっくり聞きたいっす!

おっちゃん!
先週、新聞啓蒙できたよ~1ポイントだけど!
新年会もやるもんだね~\(^o^)/ホントピョ~

 

管理人様

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月16日(月)19時47分19秒
返信・引用
   お手数をお掛け致します。
 ご配慮に感謝申し上げます。

 悪意を持って、私が御本尊を軽視し不要だと主張しているとデマを書く人が多いのです。
 私は2004年不徳故大罰を出しました。
 その時日に1万回の唱題をし、祈りに祈って変毒為薬致しました。
 半年ほどの間に数珠を3回切りました。

 夢中で祈りました。
 御本尊に祈る以外闘いの手段がなかったのです。

 その事も何百回も書いております。
 所が未だ私が御本尊を拝まないとか、不要主義だとか、軽視しているとかを平気で書く人がおられる。
 怨嫉謗法からの頭破七分故です。

 御本尊は道具です。
 ですが命の次に大切な道具。
 火事の時の消防車みたいなもの。

 御書にキチンとこの事は書いてありますし何度も何度も引用しております。
 所がそれでも御書も認めない。

 今回貴方が阿部日さんを私の相手に指名なさいました。
 異存ございません。

 では早速阿部日さんにお尋ねいたします。

 私が御本尊を不要だと云った発言をアップして下さい。

 先ずここから始めさせて頂きます。

 阿部日さんお願いしますよ。
 

阿部日ケ~ン(院政)さん( ^ ^ )/□

 投稿者:クジラ  投稿日:2017年 1月16日(月)18時34分31秒
返信・引用
  阿部日ケ~ン(院政)さん( ^ ^ )/□
お返事ありがとうございます!

丸投げと言えば丸投げですね(><)
分かって言ってます。スミマセン
ただ、沢山の方々が喋り出すと、収集がつかなくなります。
言葉も荒っぽくなりがちです。
落ち着いた対応が出来るのが、4人の方と思い提案したんです。
対決等では無く、どこに絡まった糸を紐解く知恵があるのか?
そこを勉強したかっただけです。

管理人としては今回の問題をここで止める(決着?)つもりは無いんです。
無名氏は以前からモウさんの事や、阿部日さんの事も馬鹿にしています。
もちろんクジラの事も。
だから特に真面目に相手をする必要は無いと思っています。

> 沖浦さんの対話役の件は別として、
>
> 良くも悪くも、判断を丸投げされましたね。
>
> ご存じないとおもいますが、すでにこちらでの沖浦さんの
> 「人本仏迹論」に基づく御本尊不要論が、ブログ村創価カテの
> 掲示板で話題にとりあげられています。
>
> 喧嘩スレ2での法華講員氏にも馬鹿にされている状況です。
> あの状況でモウさんが教学的アプローチを喧嘩スレで投稿
> されるのもなんだかなという感がいなめません。
>

これに対して
沖浦さんは

>  私は毎日御本尊の前に端座し、30分の唱題を心がけています。
>  御本尊不要主義者なら、そう云う事は致しませんし、これまでネットで知り合ってご訪問頂いた多くの方々が実際に見ておられます。
>  お疑いなら拙宅にお越しくださいませ。
>  仏間で共に唱題致しましょう。

と、ご自分が仰っています。
沖浦さんは「御本尊不要主義者」ではないと、クジラも思います。
本人が言ってない事は判断はできません。
沖浦さんはふざけているようにも見えません。

沖浦さんが「御本尊不要主義者」との断定は何かを勘違いされているのでは
無いかと思うのです。

> せっかく、「創価学会の指導から外れているものは投稿禁止」
>
> と表明されたのですから、「本尊不要論」に関しても管理人さんと
> してのご判断を公表(講評)されることを望みます。

私達が日々祈れるのも、現実に大聖人様が「御本尊」を顕わしてくれた
お陰であり「御本尊」が最高に大事な信仰の要であると自覚してないと
そもそも信仰が成り立ちません。

例えば「御本尊」が無くても、お題目を唱えれば功徳があると言う話しです。
SGI各国では「御本尊」を頂きたいと思っても物理的に「御本尊」を
頂けない場合があるようです。

そういうメンバーが「御本尊」が無くても、お題目を唱えれば功徳があるのは
様々な体験談にあります。
日本でも未入会の方が、体験されているのを聞いています。

しかし、そういうSGIメンバーほど「御本尊」をどれほど求めているか。
たとえ「御本尊」が無くても健気に祈り活動をする。
何ヶ月も、いや何年も待ちに待ってやっと我が家に「御本尊」が御安置された
その感激は深い感動と師匠への感謝で、きっと涙の、喜びのお題目を
心ゆくまであげた事は想像に難くありません。

そう思うだけで我が家に安置されている「御本尊」への感謝
日蓮大聖人様への感謝、師匠への感謝が溢れ出てきます。
創価学会にとっての「御本尊」は最重要の根本だと思います。

沖浦さんも、そう思っていると思います。

クジラは簡単に諦めません。
学会員さんは大事に考えています。
今回の提案がダメなら遠慮なく言って下さい。
その場合は違う発表をさせていただきます。



 

Re: 管理人さんへ

 投稿者:グラスルーツ  投稿日:2017年 1月16日(月)17時43分45秒
返信・引用
  > No.9186[元記事へ]

阿部さん、横からしつれいいたしますね。


>
> せっかく、「創価学会の指導から外れているものは投稿禁止」
>
> と表明されたのですから、「本尊不要論」に関しても管理人さんと
> してのご判断を公表(講評)されることを望みます。
> また、誰かがおっしゃっていましたが、以前沖浦さんの投稿を
> 専用別スレに移されたそうですね。
> むしろ、そういった処置を復活されたほうが早いような気もします。
>
> また、沖浦さんご自身は拙の投稿には全く関心がないようですけれど。


沖浦さんはあなたの投稿に全く関心がないわけではないと思いますよ。

管理人さんがせっかくよいご提案をしてくださったのですから、おおいにおやりになったらいかがでしょう。

いずれ沖浦さんから、この提案に対するお返事があるでしょう。

相手が土俵にも上がっていないのに早くも腰が引けてると思われます。

沖浦さんとは過去にいろいろな因縁がありますので、お気持ちはわからなくもありませんが、

ここは真っ向から対話をすべきだと皆さん思っていらっしゃいますので、是非ともそのようにしてくだされ。

横から失礼いたしました。

実りある対話を期待しております。
 

これは興味深い・・・

 投稿者:グラスルーツ  投稿日:2017年 1月16日(月)17時36分5秒
返信・引用
  管理人様、みなさま、ご無沙汰しております。

ロム専でしたが、下の管理人さんのご提案興味深く拝見いたしました。


>「沖浦さんの教義解釈」で、大分混乱してきましたので、一つの提案をしたいと思います。

 「本スレ」にて
 ・沖浦さんとの対話は、阿部日ケ~ン(院政)さんが代表で対話していただく。


このお二方が真正面から対話されることを私も期待しております。

本当はご両人が直接お会いになられて対話されるのが一番だと思います。

それは無理としても、逃げ腰になって意味不明の言葉の羅列でROM者を煙に巻くことだけはなきようにお願い致します。


クジラさんのご采配に感謝致します。

では、わたくしはROMに戻ります。



 

管理人さんへ

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月16日(月)17時02分54秒
返信・引用 編集済
  沖浦さんの対話役の件は別として、

良くも悪くも、判断を丸投げされましたね。

ご存じないとおもいますが、すでにこちらでの沖浦さんの
「人本仏迹論」に基づく御本尊不要論が、ブログ村創価カテの
掲示板で話題にとりあげられています。

喧嘩スレ2での法華講員氏にも馬鹿にされている状況です。
あの状況でモウさんが教学的アプローチを喧嘩スレで投稿
されるのもなんだかなという感がいなめません。

せっかく、「創価学会の指導から外れているものは投稿禁止」

と表明されたのですから、「本尊不要論」に関しても管理人さんと
してのご判断を公表(講評)されることを望みます。
また、誰かがおっしゃっていましたが、以前沖浦さんの投稿を
専用別スレに移されたそうですね。
むしろ、そういった処置を復活されたほうが早いような気もします。

また、沖浦さんご自身は拙の投稿には全く関心がないようですけれど。
 

Re: 雨煽りさんへ

 投稿者:雨煽り  投稿日:2017年 1月16日(月)16時47分4秒
返信・引用 編集済
  モウさん、こんにちは。


> 私自身のことは遠慮させてください。

はい、わかりました。
安心してください。モウさんのお気持ちは、ちゃんと私に伝わっていますよ。
そしてモウさんが何故、富士ボーに拘っておられたのかも理解できました。
心中お察し申し上げます。



> ご返信の真意についてはよく分かるつもりです。
> 揚げ足を取る人もいるでしょうし、無茶苦茶にされてしまうこともあります。

例えばですね、モウさんだけが見られるとか、聞かれるとかでしたら
意外と簡単に説明できるのかも知れません。
モウさんだけじゃなく、ある程度の教学がある人になら
一々語句の説明などしなくても良い訳です
ですが、「ある程度の教学」も無い人には、その語句をまず、解るようにしなければなりません。

数年前になりますが、沖浦さんを非難していた人達は、今の40~50倍はいたであろうと思います。
私は幾つかの板で対話等しましたが、皆さん一様に教学が無い、もしくは低いのです。
非難や反論等を、仏法用語を入れて書かれてはいても、
書いた本人が、その仏法用語を解っていないまま使っていたり、
「衆生」という言葉が、「自分」とか「己心の妙法」等に変わると、意味が変わると思い込んだり、
道理も解らず根拠も無い、感情論ばかりでした。

私が沖浦板に文証を貼り付けると、取り合えず読んで解る人は、その事での批判は止めたようですが、
読んでも解らない人は、相変わらず非難文を書き続けます。
『書は言を尽くさず言は心を尽くさず』だから、伝わり難いのでしょうが、
文章しか無い世界で、読んで解らない人に、教える術を私は知りません。

本迹でさえ理解出来ない人に、一念三千をどうやって教えるのですか?
十如を、三身を、どう解らせられるのですか?
教学は自分で勉強して、自分を高める。それしかないと思います。



> 一つには、分かる人だけが話してよいとなると、実は誰も話せなくなります。

違うのですよ。
解らない人は解るようになるまで、質問したり自分で調べたり、
自分が理解できるように努力をすれば良いのですよ。
それで成長して行くから、如々として来るのです。

数年前から、非難側には全く成長されない人が多いのです。
きっと、我見に囚われ過ぎて、成長できないのでしょう。
そんな人が、教学に口を出すべきではないのです。間違った事しか言わないのですから。



> 例えば御書を読んで、「念仏を唱えるのは悪いことだ」と社会で語るには、
> きちんと浄土宗を修学してから話をしろと言われても普通の人には無理です。

そうですね。無理ですね。
でも、知識は御書にある範囲で良いと思います。釈迦の一代聖教を学ぶ必要は無いと思います。
そして、五綱で考える事が必要でしょう。

日本は他国とは違います。大聖人の時代、邪国で謗法の国でした。
主観ですが、伝教が法華経を広宣流布した後代、真言が隆盛し、
天皇の帰依により空海は一時、宗教界の長のような存在にまでなりましたし、
大聖人の時代では、念仏も蔓延ってました。
法華経流布の後だから、謗法なのです。
ですが他国は違います。概略、法華経流布などしていません。
念仏は謗法ではなく、序分です。



> ですから御書からの引用で立場を明確にしても、「鎌倉時代とはいろいろと
> 違うだろう」で終わってしまいます。御書を正しいと言うのなら、法華経の
> 成立から言えるのかとか、なぜ経典は正しいのかとか、批判内容の文献が正
> 確に伝わってきてるのかとか、たった一つのことを言うのに、おそらく誰に
> も言えることがなくなってしまいます。

これは、私は見解が異なります。主観ですが、
逆算して…
池田先生が正しい→戸田先生が正しい→大聖人が正しい→天台・伝教が正しい→羅什が正しい
創作なのか意訳なのか分りませんが、「妙法蓮華経」も「十如」も羅什が
「サダルマフンダリキャソタラン」を元に作ったのですから推測として、法華経は正しい
と、なります。
要は、教義的には、戸田先生と大聖人が正しいとの信念で
その証明は、自身の姿を以ってする。しかありません。
沖浦さんの様に、日々功徳の姿を世間に発信する事の意味が此処にあります。
あっ、あくまでも私の主観ですからね。



> 普通の人が、知っている部分について話す、それは重要なことだと思います。
> 誰が教学があるのか順番をつけて、その人が話すと他が押し黙る、それだと
> 無意味です。普通に話せばよいはずです。誤りを出来るだけ避けたいという
> のはどこまでもつきまとう心配だと思います。

解り易く話すのは同意しますが、仏法用語を用いず、それが出来るかと言えば甚だ疑問です。
池田先生のスピーチに対して、御書に書かれてないと法華講で言う人がいますが、
理解出来ない人は言葉尻を捕まえて、そう言うものです。
言葉が変わると解らないのです。解らないのに云々しているのです。

私は普段の会話で、一念三千はよく出てきますよ。
ただ、私の言葉を聞いて、それが一念三千だとは、解る人にしか解らないのです。
仏法とは、そういうものだと思います。

モウさん、ご期待に応えられなくて申し訳ありません。


 

皆さん( ^ ^ )/□

 投稿者:クジラ  投稿日:2017年 1月16日(月)16時06分49秒
返信・引用 編集済
  皆さん( ^ ^ )/□
こんにちは!

お願いがあります。
「沖浦さんの教義解釈」で、大分混乱してきましたので、一つの提案をしたいと思います。

「本スレ」にて
・沖浦さんとの対話は、阿部日ケ~ン(院政)さんが代表で対話していただく。

・雨煽りさんとの対話は、モウさんが代表で対話していただく。

ただし、皆さん仕事も活動もあります。文章を打ち込むスピードもそれぞれ違います。
お互いに忙しい中での対話です。お互いの返答は焦る気持ちもあるでしょうが
じっくり返答をお待ち下さい。

他の方でもし意見、反論等を書きたい方は全て「喧嘩スレ」に書いていただく。

学会員の方は「本スレ」「喧嘩スレ」で
1日それぞれで投稿数が4回づつ(計8回まで)になります。
※参加ルールをご参照ください。

細野さん( ^ ^ )/□
いつも、ありがとうございます!

> >沖浦さんの主張がすべて正しいのか間違いであるかどうかの決着を、
> > 皆さんが待っているのです。
>
> 管理人さんには是非、ご判断頂きたく存じます。
> 「衆生己心の妙法は本・曼荼羅は迹」が正解なのでしょうか。
> もし現場で、「衆生己心の妙法は本・曼荼羅は迹」等話されている方がいらっしゃった場合、お止めにならないのでしょうか。

そうですね、協議会や座談会でそういう話しなら一旦やめていただきますね。
後で「結局この方は何が言いたいのか」を、時間をかけて良く聞いていきます。

例えば「言葉足らず」「表現の間違い」「ボキャブラの少なさ」
「思い込み」「認めて欲しい」「単純な勘違い」
「怨嫉」「病気や金銭や人間関係などの悩みによる情緒不安定」
など様々な原因で双方に誤解が生まれる事が多々あります。
特に掲示板では、実際の対面対話と違い、メールでのやり取りですので
圧倒的に言葉の量が少なくなります。

沖浦さんの話しも、もう少し聞いてみてもいいのではないでしょうか。
雨煽りさんも、まだ全部は語られてない様子です。

SGIの話しは入らせてもらいましたが
沖浦さんの主張と、反論の方々と若干キャッチボールに
なっていないようにも見えるので
もう少し様子を見させてください。
これでロムしている方々も、分かりやすくなると思います。

あくまでも、提案ですので
沖浦さん、雨煽りさん、阿部日ケ~ン(院政)さん、モウさんが
受けていただけるかどうかです。
勝手なことを提案して申し訳ありません。
お忙しいとは思いますので、後で結構ですのでご返事をお願いします。
※特にモウさんは「報恩抄を書かれた大聖人」が途中なのに本当にスミマセン(><)

それまでは、「沖浦さんの教義解釈」のお話しは一旦休憩という事でお願いします。
皆さん!宜しくマンボウです!ヾ(^∇^)/では





 

沖浦さん

 投稿者:  投稿日:2017年 1月16日(月)10時24分18秒
返信・引用
  Möbiusさんの疑問に答えてあげれば解決と違いますかな。
謗法だ頭破七分だ魔の眷属だの悪口はやめませんか。
あなた大先輩なんだから、皆んなの輪とか、掲示板を盛り上げるとか、楽しく行くように導いてください。
自分の事ばかり書きっぱなしの投げっぱなしはやめませんか。
皆んな真剣にやり取りしてるのに、女の子にモテる~~功徳だ!なんて、大人の返答と違いと思うけどね。
 

おはようございます。

 投稿者:Möbius  投稿日:2017年 1月16日(月)07時56分33秒
返信・引用
  > No.9176[元記事へ]

>  今後私が御本尊不要論者だと云う方がおられましたら、そのお方は第六天の魔王の眷属です。
>


自分の発言に責任を持ちましょう。

念仏にも功徳があると発言してますよね、

学会教義変更は邪義だと言いましたね。

落盤事故の生存者にも功徳があったんですよね。
日馬富士優勝と落盤事故生存、念仏信者
夫々の功徳は何に祈った功徳なんですか?

上記の人々の功徳にご本尊ありましたか?

返答なき場合は、貴方が御本尊不要論者を宣言したものとさせていただきます。
 

(無題)

 投稿者:細野  投稿日:2017年 1月16日(月)07時28分43秒
返信・引用 編集済
  > No.9162[元記事へ]

>沖浦さんの主張がすべて正しいのか間違いであるかどうかの決着を、
> 皆さんが待っているのです。

管理人さんには是非、ご判断頂きたく存じます。
「衆生己心の妙法は本・曼荼羅は迹」が正解なのでしょうか。
もし現場で、「衆生己心の妙法は本・曼荼羅は迹」等話されている方がいらっしゃった場合、お止めにならないのでしょうか。
 

功徳書きますよ~~!!

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月16日(月)06時42分38秒
返信・引用
   愛知県マスターズ予選会、結果がネットで発表になっています。

 三位通過。

 30分4本だけの練習でこれなら上出来です。
 全国大会へ選出されましたので、早速申し込み致しました。
 3月頭安比です。

 ラップ狙います!

 今日はGSの板でパッド入りのウエアー着てGSやります。
 凄く調子良いです。
 嬉しい~~!!
 功徳~~~!!!
 

ご本尊について

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月16日(月)06時41分46秒
返信・引用 編集済
   悪意に満ちた怨嫉謗法の方々は、私が大聖人の御本尊を不要だとしていると書かれます。

 デマをねつ造し、批判する対象を貶める。

 魔の眷属・・・

 ご本尊について少々書いておきますので、今後はキチンとした認識をお持ちくださいませ。
 付け加えますが、これは大聖人仏法、創価思想の基本概念です。
 お気に召すとか召さないとかのレベルではございません。
 以前曼荼羅本尊原理主義者の方々へ提示した言葉がございます。

 それでも地球は動いている・・・・・

 肝に銘じる努力を致しましょう。

 御本尊は、法華経で虚空に建った宝塔を大聖人が紙や板に写し取られたものです。
 御書にございますので、大聖人門下の方々は信受なさいませ。

 『爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり、』
 (日女御前御返事)

 その虚空に建ったと書かれる宝塔は何を元としているのか?
 3000年以上前に地球の半径ほどの塔が虚空に建つ道理がございません。
 ですので、これはたとえ話です。
 例えであらわされた本体は何なのか?
 御書にございます。

 『一御文に云く多宝如来涌現の宝塔何事を表し給うやと云云、此の法門ゆゆしき大事なり宝塔をことわるに天台大師文句の八に釈し給いし時証前起後の二重の宝塔あり、証前は迹門起後は本門なり或は又閉塔は迹門開塔は本門是れ即ち境智の二法なりしげきゆへにこれををく、所詮三周の声聞法華経に来て己心の宝塔を見ると云う事なり、今日蓮が弟子檀那又又かくのごとし、末法に入つて法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経ととなうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり。
 今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔宝塔さながら阿仏房此れより外の才覚無益なり、聞信戒定進捨慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり、多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへばさにては候はず我が身を供養し給う我が身又三身即一の本覚の如来なり、かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ、ここさながら宝塔の住処なり、経に云く「法華経を説くこと有らん処は我が此の宝塔其の前に涌現す」とはこれなり、あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ、』
 (阿仏房御書)

 これも門下ならば疑う必要すらございません。

 衆生己心の妙法を、釈迦が虚空の宝塔に例え、大聖人がそれを曼荼羅として写し取られた。

 御本尊とはこう云うものです。

 ですので、御本尊の元となる本体は、私ども衆生己心の妙法である南無妙法蓮華経。

 これが正解。

 本が衆生己心の妙法、迹が曼荼羅本尊。

 御本尊は充分条件で絶対条件ではございません。
 絶対条件であるなら、大聖人は覚れませんし、戸田先生の獄中の悟達もありません。
 この点は池田先生がご明言です。

 創価を名乗るならこの点も信受致しましょう。

 以上、大聖人仏法、創価思想から見た御本尊にの位置付けを書きました。
 今後はキチンと弁えて下さい。

 私は毎日御本尊の前に端座し、30分の唱題を心がけています。
 御本尊不要主義者なら、そう云う事は致しませんし、これまでネットで知り合ってご訪問頂いた多くの方々が実際に見ておられます。
 お疑いなら拙宅にお越しくださいませ。
 仏間で共に唱題致しましょう。

 今後私が御本尊不要論者だと云う方がおられましたら、そのお方は第六天の魔王の眷属です。

 以上書いておきます。
 

おはようございます、皆様方

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月16日(月)06時11分25秒
返信・引用
    怨嫉謗法に明け暮れ、他人の功徳を認める事が出来ず、自身の功徳をも語れない方々は、師匠の言を身で読む努力を致しましょう。

 怨嫉謗法の書き込むを見て置いて責めないなら、書き込んだ人も責めない人も共々に無間地獄です。
 御書にございます。

 『法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし、南岳大師の云く「諸の悪人と倶に地獄に堕ちん」云云、謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなしはかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入失本心故は是なり、』
 (曾谷殿御返事)

 野卑な嫉妬に満ちた書き込みを厳しく諫める見識を持ちましょう。

 池田先生の講演からです。

【第21回男子部総会 1973-02-18 東京・日大講堂】より、抜粋引用。

 『見識は独立せる自由人の基本条件であります。
 私どもはそれを仏法に求めました。

 そればかりではありません。
 見識はこの社会の複雑な機構のなかを生き抜いていく、責任遂行上の負担能力の基礎でもあります。
 それは、他人の利害とも大きく関わっていく必然性を持つものであります。

 ことさら堅苦しく、難しく考える必要もありませんが、未来の時代に生き、未来の社会にこれから進む諸君は、自分なりに堂々とした見識を養っていただきたいのであります。
 信心の見識は深く、職業の見識は独特に、社交の見識は広く、学識は正確に、余技の取得は心豊かにと心得ていくならば、まずまず堅実ではなかろうか、と考えるものであります。

 自分の個性にマッチした方向と仕方で、存分に見識を伸ばしてください。
 誰が見ても非常識と良識の差は歴然たるものがあります。
 環境の混乱に引き込まれて埋没し去るか、また環境のみを恨み批判して苦しむか。
 その反対に、環境と前向きに調和して自分を建設していくか。
 学会健児は残らず後者であっていただきたい、と私は諸君の見識を祈るものであります。』
 ~引用終わり~

 折角ご本尊を受け創価のメンバーとなられた。
 頑張らないと勿体ないですよ。
 

有頂天ですね

 投稿者:Möbius  投稿日:2017年 1月15日(日)21時51分18秒
返信・引用 編集済
  > No.9172[元記事へ]

>  怨嫉謗法慎むと、
>
>  持てる~~~~!!
>
>  功徳~~~~~~~~~!!!!!!!
>
>  https://www.facebook.com/katsuji.okiura/posts/868291569979009?comment_id=868360176638815&notif_t=feed_comment&notif_id=1484465038322435

すごく腹出てますね。
貴方のトレーニングではボディメイクは無理なんですか?
重たい物を持てるだけのトレーニングなの??

女の子と一緒だとそんなに嬉しいですか??

本当に中学二年生みたいwwww
 

今晩は

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月15日(日)20時54分59秒
返信・引用
   怨嫉謗法慎むと、

 持てる~~~~!!

 功徳~~~~~~~~~!!!!!!!

 https://www.facebook.com/katsuji.okiura/posts/868291569979009?comment_id=868360176638815&notif_t=feed_comment&notif_id=1484465038322435
 

無理

 投稿者:Möbius  投稿日:2017年 1月15日(日)20時33分36秒
返信・引用 編集済
  > No.9170[元記事へ]

> > 一念三千を文章にして教えようとすると、膨大な文章量になりますし
> > 掲示板等では、実質不可能です。
> > ですから、対面対話しか教える方法が見当たりません。どうしましょう?
>

時間をかけても文章に出来ないものを、会って説明などできるわけがない。
自分でもよくわからないという事でしょうね。

雨煽り氏は今までなんだかんだと意味不明の書き込みを重ねてますが、
何一つ他人に理解できる文章を生み出せていないですね。



雨煽り氏に意味不明で膨大な文章量を提示していただかなくても、こちらで簡潔に指導していただけます。 ↓



一念三千(いちねんさんぜん)
天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で示したもの。このうち十界とは、10種の境涯で、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏をいう。十如是とは、ものごとのありさま・本質を示す10種の観点で、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等をいう。三世間とは、十界の相違が表れる三つの次元で、五陰(衆生を構成する五つの要素)、衆生(個々の生命体)、国土(衆生が生まれ生きる環境)のこと。
日蓮大聖人は一念三千が成仏の根本法の異名であるとされ、「仏種」と位置づけられている。「開目抄」で「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(189㌻)と仰せのように、一念三千の中核は、法華経であらゆる衆生に仏知見(仏の智慧の境涯)が本来そなわっていることを明かした十界互具であり、「観心本尊抄」の前半で示されているように、特にわれわれ人界の凡夫の一念に仏界がそなわることを明かして凡夫成仏の道を示すことにある。また両抄で、法華経はじめ諸仏・諸経の一切の功徳が題目の妙法蓮華経の五字に納まっていること、また南無妙法蓮華経が末法の凡夫の成仏を実現する仏種そのものであることが明かされた。大聖人は御自身の凡夫の身に、成仏の法であるこの南無妙法蓮華経を体現され、姿・振る舞い(事)の上に示された。その御生命を直ちに曼荼羅に顕された御本尊は、一念三千を具体的に示したものであるので、「事の一念三千」であると拝される。
なお、「開目抄」(215㌻以下)などで大聖人は、法華経に説かれる一念三千の法理を諸宗の僧が盗んで自宗のものとしたと糾弾されている。すなわち、中国では天台大師の亡き後、華厳宗や密教が皇帝らに重んじられ隆盛したが、華厳宗の澄観は華厳経の「心如工画師(心は工みなる画師の如し)」の文に一念三千が示されているとし、真言の善無畏は大日経を漢訳する際に天台宗の学僧・一行を用い、一行は大日経に一念三千の法理が説かれているとの注釈を作った。天台宗の僧らはその非を責めることなく容認していると批判されている。
SOKAnet 仏教用語より
http://k-dic.sokanet.jp/%e4%b8%80%e5%bf%b5%e4%b8%89%e5%8d%83%ef%bc%88%e3%81%84%e3%81%a1%e3%81%ad%e3%82%93%e3%81%95%e3%82%93%e3%81%9c%e3%82%93%ef%bc%89/
 

一念三千とは現実変革の法理

 投稿者:大河  投稿日:2017年 1月15日(日)18時55分20秒
返信・引用 編集済
  > No.9147[元記事へ]

読んでいただく対象は、ロムの方であり
雨煽りさんの投稿にイチャモンをつけるのが目的ではありません。


雨煽りさんご発言より・・・

> 一念三千を文章にして教えようとすると、膨大な文章量になりますし
> 掲示板等では、実質不可能です。
> ですから、対面対話しか教える方法が見当たりません。どうしましょう?

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池田先生は、簡潔かつ明解に「一念三千とは現実変革の法理」と教えてくださっておりますし
聖教新聞にも随時「現実変革の法理」であるとの教学解説記事は掲載されます。

とりわけ海外メンバーなどは、入会して日が浅くても
真剣に唱題し、悩んでいた(人間関係、仕事、病)等々、
解決し(現実変革の体験)
更には、縁する人にもこの歓喜を伝えたいと、速やかに地涌の菩薩の使命に
目覚めていく姿は感動です。

 

目を覚ましてください

 投稿者:Möbius  投稿日:2017年 1月15日(日)18時44分22秒
返信・引用 編集済
  本尊は不要だといい、創価学会の教義は邪義だといい
ついに

>私の主張が間違っているなら、大聖人の仏法が間違っているのです。

つまり沖浦克治=日蓮大聖人とおっしゃるわけですか?
増上慢の極みですね。
 

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