われわれの歴史において、日本を重視した知識人の末路は悲惨だった。朝鮮末期に日本の近代化を目の当たりにした若手エリートの多くが政治的混乱に巻き込まれて命を落とした。改革や政変を起こそうとして首を切られたり、百姓に殺されたりした人も多かった。日本による植民地時代では、「知日」は日本に寄生する「親日」と同じ意味になり、植民地支配からの解放後、この言葉は「社会的に葬られる」ことを意味するようになった。程度の差こそあれ、今でもそれは変わらない。こうしたタブーに踏み込み、歴史を客観化しようするのは、地雷原に身を投じるのと同じくらい無謀なことだ。そうして私たちの認識はますます日本の実体から遠ざかっていくのを感じる。
日本を現場で7年近く経験した。日本は強い国だ。経済の強国、文化の強国だ。憲法を改正すれば、すぐに軍事強国にもなる。国際的に尊敬も集めている。私たちはそんな国の大使館前に、70年ほど前の過ちを執拗に追及する造形物を設置した。「適切に解決されるよう努力する」と国として約束したにもかかわらず、総領事館前に新たに設置した。かつて日本は過ちを犯した。だが、私たちと同じような苦難を経験したほかのどの国も、相手にこんな風にはしていない。韓国はそうしても構わない国なのだろうか。今、日本が落ち着こうとしている理由は、私が知る限りただ一つだ。怖いからではなく、韓国が米国の同盟だからだ。だが、同盟までが揺らいでいる気配もある。
あちこちを訪ねてあれこれ書物を読み、勉強したが、依然として日本の実体を正確に理解できていない。だが、無視することのできる国ではないというのははっきり分かる。日本を無視するたびにつらい目に遭った歴史を知っているためだ。彼らの遺伝子には「刃」が潜んでいる。愚かな国は憤怒するために歴史を利用する。賢い国は強くなるために歴史を利用する。今、私たちはどちらだろうか。