「ブログを更新しなきゃ=情報を発信しなきゃ」という強迫観念
ペルソナが“姿の見えない仮想の読者”でしかなかった
雑記ブログとしてスタートした当ブログですが、自分の好きなことを中心に更新しているようで、実はいつの間にか“姿の見えない仮想の読者”にとらわれてしまっていました。
もちろん、よくスターをつけていただく方やコメントを下さる方、Twitterなどで反応を下さる方、確かにそこにブログを読んで下さる方がいらっしゃるのだと実感する瞬間はたくさんありました。
ですが、まるで優等生を必死に演じる子どものように“見えない読者が求める私”を演じたり戦略的に仕立てていくことに、少しずつ違和感を覚える気持ちの方が大きくなってしまいました。
読者にとって有益な情報を発信することを重視していくうちに、自分にしかない意見を追及したり言葉にすることが無くなっていました。
ふと思いました。
「それって自分じゃなくてもできることなのではないか?」
自分が情報発信する意味を見失いました。
例えば人工知能がブログを書くようになったら、ひょっとすると私が情報発信する意味はそこまで重要ではないのかもしれない、そんな気持ちになったのです。
自分の使命は何か
文章を書くことがもともと好きでした。
ブログでたくさん文章を書くことができて、反応が貰えて、他人との繋がりが増えることは新鮮でした。
情報発信するにあたって、「正確な内容を読者に届けたい」という思いがありました。
すると、自分の考えや意見を強く主張することは自然と減っていました。
当たり障りのない感想を文末にちょちょっと添える程度で。
「もう一歩踏み込んだ発信がしたい。」
自分でも気づかないうちにそんなふうに思い始めるようになっていたみたいです。
私が思いついた発信の方法とは、「表現」「創作」でした。
周りの人に自分の考えを伝えるのに、例えば絵や写真といった方法ではなく、「文章で自分の考えを表現したい」と感じたのです。
文章化という手段で自分の考えを表現するならできそうだと思いました。
このブログではあまり触れませんでしたが、私は音楽も好きで、音楽を作ることで自分の感情を表現することも楽しそうだとわくわくしてきました。
インターネットには、ブログ以外にも自分を表現する舞台がたくさんある
インターネットは自分の「発信したい」「表現したい」を叶える場所です。
ブログという形式だけにしばられる必要はないのではないかと思うようになりました。
また、インターネットの世界を飛び出して、自分の好きなものを好きなだけ表現して発表できる場所があることがわかりました。
自分にとっては、その世界がとてもわくわくして楽しいことができそうな場所に見えています。
表現を通じて受け手とコミュニケーションすることで、人生が豊かになって、私が私として生きる意味が少しでも解明できるような気がする
自分の生きる意味なんていうものは、「宇宙がなぜできたの?」という問いと同じくらい果てしなくて答えの見つかりにくいものだと思います。
ですが、表現したり創作したりすることで、受け手と高度なコミュニケーションをとることが可能になるのではないか、それによって人生が豊かになるのではないか、と考えています。
人生を豊かなものとして切り拓くことは、私が私として生きる意味に繋がり、私が私として生きた証になるのではないかと思っています。