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三大秘法について考えるスレッド

1 沖浦克治 :2009/04/09(木) 06:29:01 ID:AJ3hr85o0
 そろそろまともな教学論を、まともな方でいたしましょう。
 一大秘法と三大秘法について意見を出し合い研鑽を致したいと存知ます。

 前回、同じ内容のスレッドを立てました。 
 暫く大掃除をしておりましたので時間が空きましたが、ネットの擬似論者の眺め人達の正体が明らかになった現在、真面目な会話が可能となりました。
 スレッドを再開いたします。
 蓮祖仏法の根幹にかかわる大事です。
 以下は厳禁といたします。
 違反は即時アクセス禁止になりますのでご注意くださいませ。

 質問を次々重ねる。
 質問に真面目に答えない。
 投稿者の私生活など、無関係のことを持ち込む。
 低劣な揶揄。

 それでは有意義な対話とご意見をどうぞ。

2 沖浦克治 :2009/04/09(木) 06:30:39 ID:AJ3hr85o0
 一大秘法は御書にあります。
 提示いたします。

 『されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給いしなり三世の諸仏の出世の本懐一切衆生皆成仏道の妙法と云うは是なり。』
 (法華初心成仏抄)

 これは疑う必要はないですね。
 南無妙法蓮華経です。
 御書に明確です。

3 沖浦克治 :2009/04/10(金) 12:14:41 ID:AJ3hr85o0
 一大事がそのまま一大秘法です。

 一大事とは、御義口伝にあります。
 
 『第三唯以一大事因縁の事 文句の四に云く一は即ち一実相なり五に非ず三に非ず七に非ず九に非ず故に一と言うなり、其の性広博にして五三七九より博し故に名けて大と為す、諸仏出世の儀式なり故に名けて事と為す、衆生に此の機有つて仏を感ず故に名けて因と為す、仏機を承けて而も応ず故に名けて縁となす、是を出世の本意と為す。御義口伝に云く一とは法華経なり大とは華厳なり事とは中間の三味なり、法華已前にも三諦あれども砕けたる珠は宝に非ざるが如し云云、又云く一とは妙なり大とは法なり事とは蓮なり因とは華なり縁とは経なり云云、又云く我等が頭は妙なり喉は法なり胸は蓮なり胎は華なり足は経なり此の五尺の身妙法蓮華経の五字なり、此の大事を釈迦如来四十余年の間隠密したもうなり』

 私共の事だと仰せですね。
 お曼荼羅はでてまいりません。

4 雨煽り :2009/04/10(金) 19:08:40 ID:NjA8zkPc0
曾谷入道殿許御書
1030ページ
『大覚世尊仏眼を以つて末法をかん(臣+缶+金)知し此の逆・謗の二罪を対治せしめんが為に一大秘法を留め置きたもう、』と、
あり、この後、宝塔及び儀式が書かれ、
『爾の時に下方の大地より未見・今見の四菩薩を召し出したもう、所謂上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩なり』と地涌の菩薩の出現があり、次に、その地湧の菩薩の威厳が書かれ、
そして、『爾の時に大覚世尊寿量品を演説し然して後に十神力を示現して四大菩薩に付属したもう、其の所属の法は何物ぞや、法華経の中にも広を捨て略を取り略を捨てて要を取る所謂妙法蓮華経の五字・名・体・宗・用・教の五重玄なり』と、
釈迦が地涌の菩薩へ『妙法蓮華経』を付属した事が書かれている。
その後、地涌の菩薩の出現が他に無い事が書かれ、
『但此の一大秘法を持して本処に隠居するの後・仏の滅後正像二千年の間に於て未だ一度も出現せず、所詮・仏専ら末法の時に限つて此等の大士に付属せし故なり』と、
『一大秘法』は地涌の菩薩が付属された『妙法蓮華経』だと明確に書いてある。

ただし、宝塔も書かれているので、『本尊』と読むのは可能だとは思うが、
あくまでも、『可能』なだけ(笑)と思います。

5 雨煽り :2009/04/10(金) 19:51:23 ID:NjA8zkPc0
>>4
のようなレスをすると、
私の『一大秘法義』も『題目』だと思われる人もおられるでしょうから
念の為に書いて置きます。

まず、『一大秘法は妙法蓮華経』なのは明らかです。
『妙法蓮華経』を題目と読むのか、本尊と読むのか、の問題ですが
「どっちだっていい、どちらも間違いではない」のです。
その「(三大秘法が正しければ)どっちだっていい」の上で、

一大秘法は本尊だと思ってます。
その「本尊とは何か」ですが、
『不変真如』です。『宇宙根源の法』とも『久遠元初の法』とも言います。

漫荼羅御本尊に唱題し、御本尊に感応して、不変真如を感得する。
不変真如を感得した当体が『随縁真如』だと思います。
そして、それこそが『随縁不変・一念寂照』の姿だと思っています。

私義ですが、私の『一大秘法義』です。

6 沖浦克治 :2009/04/10(金) 22:12:31 ID:AJ3hr85o0
『此の八万法蔵を我が心中に孕み持ち懐き持ちたり我が身中の心を以て仏と法と浄土とを我が身より外に思い願い求むるを迷いとは云うなり此の心が善悪の縁に値うて善悪の法をば造り出せるなり、』
 (三世諸仏総勘文教相廃立)

 全ての経文は自分自身の命の中にある。
 外にはない。
 このように仰せです。
 一大秘法ですね。

7 雨煽り :2009/04/12(日) 09:46:08 ID:NjA8zkPc0
どこかで切り文的に反論されている人がいますが…(笑)

絶待妙の教学が解らない人に理解出来ないのは当然です。
『仏法は道理なり』ですから、文言がどうであれ全ては道理なのです。

ただ、道理は解る人には解るけど解らない人には解らないのです。
言葉や表現が変わると、自分の中で整合性が取れなくなり「間違い」だと思ってしまうのでしょう。
沖浦さんの主張を非難中傷してる人達もそうですし、学会や先生を非難中傷してる人達もそうです。
道理が解らず整合性を見出せないのです。
そんな生半可な教学で判じる事こそが「間違い」なのです。

御書に『一大秘法』が『本尊』なんてどこにもありません。
>>4 に示したように『一大秘法』は『妙法蓮華教』なのです。

『妙法蓮華経』を普通は『題目』と表現すると思っていますが、私の思い過ごしでしょうか?
『妙法蓮華教』も『五字七字』も『南無妙法蓮華経』も同義語ですから
沖浦さんの主張される『題目』も口唱の題目と言う訳ではなく、
『法』としての題目ですから『妙法蓮華経』なのです。

私が「どっちでもいい」事だと主張するのは
もし一大秘法本尊義がそんなに大事な(根幹に拘るほど)事なら、
御書に「明確に記されてあって然るべき」だと思うからです。
何せ、三大秘法は「明確に記されて」いるのですからね。

『本尊』も『題目』も表現方法が違うだけで、その内容は『五字七字の南無妙法蓮華経』なのですから
『一大秘法』が何であれ、拘る必要は無い、と主張するのです。

一大秘法本尊義は日寛教学ですから、本尊とは『戒壇本尊』です。
沖浦さんの主張を非難される人は、坊主や法華講のように「戒壇本尊が本物」と信じていると言う事でしょうか。
もし、違うのであれば、違う『本尊』を示して下さいね。
それこそ文証が無い(笑)と思われますが…((笑))


此処はテーマが違うので書き込みませんが、『本迹論』も間違いではありませんよ。
もっと題目上げて沢山勉強して理解出来るようになってから反論しましょうね。

私が今まで他板に書き込んだ事も同じですから、切り文での反論は止めましょうね。

理解出来ないから無理かな?

8 雨煽り :2009/04/12(日) 09:51:25 ID:NjA8zkPc0
訂正致します。

『妙法蓮華教』
     ↓
『妙法蓮華経』

9 雨煽り :2009/04/13(月) 08:30:08 ID:NjA8zkPc0
報恩抄
328^ページ
『答えて云わく三あり、末法のために仏留め置き給う迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・天台・伝教等の弘通せさせ給わざる正法なり、求めて云く其の形貌如何、答えて云く一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし』

一を三に開いたのでは無く、最初から三つです。
三大秘法総在の一大秘法とか、一大秘法が本尊だとかは、御書の中にはどこにもありません。

過去、日蓮正宗創価学会の時代は宗門に縛られるのですから、
当然、教義は日蓮正宗のものでしたが、現在は、「御書根本」の筈です。
御書根本であるのなら『一大秘法は妙法蓮華経』です。

故に、『一大秘法題目義』に対して「間違い」と非難する事こそ
間違っていると思われます。


(本尊でも題目でも一大秘法なんかどっちでもいいんじゃないですかね。どっちであっても、私達の信心が変わる訳ではありませんからね。(笑))

10 沖浦克治 :2009/04/13(月) 16:27:37 ID:AJ3hr85o0
 私共が仏の当体だとの御文証が御書にあります。

 『第廿五建立御本尊等の事
御義口伝に云く此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。

 (御義口伝巻下)

 これをどうして眺め人たちは素直に読めないのでしょうか?
 歪んで歪んで捉えます。
 度数の会っていないメガネをかけて歩くようなものです。

15 雨煽り :2009/06/05(金) 15:16:22 ID:NjA8zkPc0
こちらも少し補足しますね。

曾谷入道殿許御書に書かれている一大秘法の
『妙法蓮華経の五字・名・体・宗・用・教の五重玄なり』ですが、
三大秘法抄には
『末法に入りて今日蓮が唱る所の題目は前代に異なり自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり名体宗用教の五重玄の五字なり』
と、題目の説明があります。
本尊の説明では
『五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり』
と、書かれていますから
本尊ではなく、題目ということですね。

観心本尊抄にも
『寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり』
と、あって、その2ページ後に
『自行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊未だ広く之を行ぜず』
と、本尊とは立て分けて書かれてますので
本尊ではなく、題目だということですね。

つまり、一大秘法の
『妙法蓮華経の五字・名・体・宗・用・教の五重玄なり』とは、
本尊ではなく、「題目」だと、御書には明確に書かれている。
と、いうことです。

16 沖浦克治 :2009/06/05(金) 16:57:49 ID:AJ3hr85o0
 雨煽りさん

 私は、一大秘法が本門の本尊で即戒壇様。と言うのは、寛師が宗門の正当性を確立するために作った邪義だと思います。
 天動説で説明できない、星の動きを、色々な理屈をこじつけて補正したのと同じです。
 仏が本で、人が迹だから文句言うな!
 と、押し付けた教義が、民主主義の世の中で人の機根により、根底から覆る時が現在です。

 人が本で仏が迹。が地動説。
 仏が本で人が迹が天道説。

 物凄く単純ですしす、御書には元々そう書かれています。

17 雨煽り :2009/06/05(金) 20:16:18 ID:NjA8zkPc0
沖浦さん

そんな事言ったら、坊主の糧が無くなりますよ…な〜んて(笑)

日寛上人には文底義の疑義もありますし、謎ですが…
その当時の大石寺の文化的環境では、そう思わざるを得なかった。そう結論つけざるを得なかった。
と、いう事なのでしょうね。

真蹟文献や御筆本尊が極めて少なかった大石寺ですから、
誰かが、まことしやかに創作したものがあっても不思議じゃないですし、
後代で本物だと勘違いしても仕方ないのかも知れません。

『仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり』ですからね。
いずれ地動説に(笑)落ち着く事でしょう。

18 沖浦克治 :2009/06/05(金) 21:08:09 ID:AJ3hr85o0
 雨煽りさん

 文底文上も、所詮釈迦仏法でのお話です。
 本当はそう言うことは大聖人様の法と無関係です。
 寛師はね、たかだか学者でしょう。
 行者じゃないんですよ。
 如説修行してません。
 創価学会の末端の方々に及びませんよ。
 難、起きてませんし、国家諌暁もしてません。
 格好だけの人です。
 ですので、本未有善が我々、本已有善が釈迦の衆生。
 こう言う与太話して収まってますね。

 馬鹿馬鹿しいですよ。
 法華経の会座で地湧の菩薩を呼び出して、これらの菩薩こそが、我が久遠からの本弟子である。
 釈迦がそう言ったんです。
 久遠から下種受けてますのでね、南無妙法蓮華経。と言う、最高の善を久遠から持っているのです。
 それを、寛師は本未有善?
 馬鹿言っちゃいけませんね〜。
 
 先生のご指導です。

 『別に、五百塵点劫とか、三千塵点劫とか、我々関係ないんですよ。
 久遠即末法なんです。
 今が久遠元初なんでしょう。
 ですからね、そう言うことは一切関係ないんです。』(趣意)

 見事な地動説です。
 眺め人は天動説。
 勝負にゃなりませんね。

19 雨煽り :2009/06/05(金) 23:01:30 ID:NjA8zkPc0
沖浦さんの言われる通りですね。

一生成仏ですから、いずれ誰でも理解出来るようにはなると思いますが…

20 沖浦克治 :2009/06/06(土) 07:08:39 ID:AJ3hr85o0
 愚か者が、Fボーで早速難癖つけてますね。
 眺め人ですから、何一つ読めません。

 久遠即末法は、寛師の説だ。
 それを引用して、寛師の、一大秘法が戒壇様を否定するのはおかしい。

 所詮、このレベルの人仏法無理ですね。
 大聖人様が、爾前や迹門、本門、更に外典まで引用されておられます。
 ではね、この愚か者は、儒教信じますか?
 これすらわからない。
 小野さん所の人です。
 同じくあそこの愚か者が、御書に、人は迹で仏は本だと書かれてある。
 だから、人が本は間違いだ。って、馬鹿を言いました。

 『下種寂照実事体用無上の本迹 生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹仏は本なり云云。』
 (百六箇抄)

 仏法の本当の立場から言えば、人としての姿は迹なんですよ。
 本体は仏様なんです。
 こう読むなら思索が広がります。

 宇宙には生命体を生む性格がある。
 仏法はそう説きます。
 十方の諸仏。って言うじゃないですか。
 宇宙全体のあらゆる世界の仏達。
 経文にちゃんとと説かれています。
 眺めて読まない、読めない。
 
 『殺生偸盗等乃至一大三千世界の衆生を殺害すれども等活黒繩等の上七大地獄の因として無間に堕つることは都て無し、』
 (真言諸宗違目)

 ホラごらんなさい、大聖人様は銀河系に衆生(地球では人)が存在する事を大前提にされておられるじゃないですか。
 読まない、読めない、眺め人。
 衆生は人類だけじゃないんですよ。
 人類はね、地球と言う極めて小さな閉鎖空間に閉じ込められた小さな存在です。
 大宇宙には無限の人とは違う種類の衆生が生きています。
 仏法は、それが大前提で法を説いているのです。
 読めない、読まない、眺め人。
 違う環境なら生命の進化は異なるのですよ。
 違う形態の衆生が無限にいる。
 でないと、六万恒河沙も地涌の菩薩は出現いたしません。
 常識ですよ。
 とうぜん、大聖人様が三千世界に人がいるとも仰せですが、人とは違う形態をご存知です。
 これすら知らない。
 仏法が狭い地球に限られると信じ込んでいる。
 だからね、小野さん所には天動説の匿名外道眺め人が集まるんです。

 レベル低すぎますね。

21 グラスルーツ :2009/06/06(土) 08:14:37 ID:XcpUDSAw0
沖浦さん、おはようございます。

>人類はね、地球と言う極めて小さな閉鎖空間に閉じ込められた小さな存在です。
>大宇宙には無限の人とは違う種類の衆生が生きています。
>仏法は、それが大前提で法を説いているのです。

こちらの「眺め人」の面々ならずとも、私の周りには
上の前提を理解できない方が大勢いらっしゃいます。

話の合う同志とは普通にUFOの話題なんかでてきます。
ご本尊様は宇宙のエネルギーを充電する窓だ、とか、
お題目をあげていると、ご本尊の方から金粉が自分に
降り注いでくるのが見える、などといった言葉が、
それこそ普通に交わされますね。

もちろん極めて主観的な見解でして、会話を楽しむことが
主眼でのことではあるんですが・・・・・・・

なにか、一念が大空に羽ばたくような自由で闊達な対話。
楽しいですよ。

22 沖浦克治 :2009/06/06(土) 16:42:31 ID:AJ3hr85o0
 グラスルーツさん

 私はUFOは信じないのです。
 子供のころ一度見ましたが、何かの自然現象だと思っています。
 御本尊様からの金粉も見たことがありませんが、そう言うものが見える人がおられる可能性は否定いたしません。
 ですが、私はそう言うことにはこだわらないのです。
 所詮、如来秘密神通之力に比べれば、どうと言うことの無い問題ですね。

23 グラスルーツ :2009/06/06(土) 18:52:57 ID:XcpUDSAw0
沖浦さん、こんばんわ。

スレッドの趣旨を逸脱してしまいましたかね?
真面目な対話に水をさしてしまってすみません。

ちなみに、私はUFO見たことありません。
無邪気に話すその友人との対話が大好きなんです。

ともに、我見に流されぬよう注意いたします。

24 沖浦克治 :2009/06/09(火) 05:26:41 ID:AJ3hr85o0
 池田先生が、以前ご指導なさいました。

 六万恒河沙の地涌の菩薩の触れられ、

 『これは、もう、地球だけではありませんね。』(趣意)

 また、違う時ですが、宇宙開発に関して、

 『今、アメリカやソ連(当時の呼び名です)がロケットを作っている。
 将来あれに乗って折伏に他の星へ行くんです。
 ちゃんと序分になっているのです。』(趣意)

 戸田先生です、

 『俺は今度生まれるときは、地球じゃなく他の星に生まれるんだ。』(趣意)

 眺め人には所詮理解不能ですがね。

25 沖浦克治 :2009/06/11(木) 06:35:32 ID:AJ3hr85o0
Fボーに月の砂漠さんがお書きです
 転載しますので、暫くこのご主張を検証いたしましょう。
 概ね眺め人教学の意見が集約されていますので、面白いと思います。
 最初に、彼らの結論として言いたい事を貼ってみますね。

>このように三大秘法の「定義」や「相互関係」を無視して、
いくら「本門の題目」が一大秘法であると叫んでみても、
「本門の本尊」や「本門の戒壇」を軽視、又は否定してしまえば、
成仏への道が閉ざされてしまうのである。
これでは己義を通り越して、完全な「邪義」である。

沖浦氏とその一派は、いつになったら自分たちの過ちに気づくのだろうか。
彼らは世法の裁判所に、「訴権の乱用」によって同志を訴える前に、
実は自分たちが目には見えない仏法の被告席で、
厳しき因果律の裁きの前に立たされていることを自覚すべきである。

 これが、眺め人の発言目的です。
 これだけ言うために長々と愚論を展開しております。
 しかも愚論には自分の考えや、思考方法がありません。
 あちこちから、都合のよいものを引用し、貼るだけですね。
 この人たちはHNですが、本名があります。

 眺め 貼る吉。さんです。

26 沖浦克治 :2009/06/11(木) 06:40:47 ID:AJ3hr85o0
 訴えの件をお書きですので、少し説明しておきましょう。
 創価学会員が創価学会員を訴えることが破和合僧だ。
 こう言う意見が眺め貼る吉さんに多いですね。
 
 創価学会員の裁判官がいて、創価学会員の被告が来れば、無罪にせよ。

 このテーマで論文を書いて、耕治が納得すればやめるんじゃないですか?
 どうぞ、チャレンジしてください。

 それと、女房の病気で少しスケジュールは後回しになっています。
 でも、きちんと決着をつけますから、ご心配ご無用ですよ。

 眺め貼る吉さんの、サンダイヒホウはね、

 難癖

 言い訳、

 臆病

 ですね。

27 沖浦克治 :2009/06/11(木) 06:43:04 ID:AJ3hr85o0
 それでは、眺め貼る吉さんの力作?をどうぞ。

>「三大秘法」を「三学」という角度から考えてみたい。

「三学」とは何か?
三学とは、仏道を修行する者が必ず修学しなければならない
「戒・定・慧」の三つのことである。

「戒」−禁戒で、身口意の三業の悪を止め、非を防いで善を修すること。
「定」−禅定で、心を一所に定めて雑念を払い、安定した境地に立つこと。
「慧」−智慧で、煩悩を断じて真理を照らし顕すこと。

そして三学の「相互関係」は、
「戒によって定をたすけ、定によって慧を発し、慧によって仏道を習得する」
ことになる。

次に、「末法における三学」とは何か?
日蓮大聖人は、末法の三学とは「三大秘法」に他ならないと位置づけられた。
つまり末法においては、それまでの三学では成仏できないため、
日蓮大聖人が三学を新たに再定義なされたのである。
この「三大秘法」は、いうまでもなく「日蓮仏法」の根幹である。

それでは、末法の三学である「三大秘法」とは何か?
ここでまず忘れてならないのは、三学とはもともと、
仏道を成ずるための修行方法であるという点である。
つまり「三大秘法」とは、日蓮大聖人があらわされた、
末法における一生成仏のための三学(修行方法)なのである。

28 沖浦克治 :2009/06/11(木) 06:43:40 ID:AJ3hr85o0
 続きです

>以下、そのことを念頭において、「三大秘法」を見ていきたい。
まず、三大秘法の「根本」は何かというと、
寿量品の如来秘密神通之力の体である「南無妙法蓮華経」という本尊であり、
これが「一大秘法」とされる。
そして、これを開いたものが「三大秘法」となる。
三大秘法とは以下、

「本門の本尊」−根本として尊敬するものであり、衆生が信じる対境をさす。
        同時に、題目・戒壇の義を含むゆえに「三大秘法惣在の本尊」ともいう。
        人法一箇の御本尊のこと。
        三学に当てはめると「定」にあたる。
「本門の題目」−本門の本尊を信受し、妙法を唱えることをいう。
        三学に当てはめると「慧」にあたる。
「本門の戒壇」−本門の本尊を受持し、修行する場所をいう。
        三学に当てはめると「戒」にあたる。

             (以上、『御書辞典』聖教新聞社刊を参考)

上記の説明でも明らかなように、
「本門の本尊」とは、根本として尊敬し、信じる対境である。
これは題目・戒壇の義を含むゆえに「三大秘法惣在の本尊」ともいわれる。
よって「一大秘法」という場合は、この「本門の本尊」のことである。

「本門の題目」とは、「本門の本尊を信受し妙法を唱えること」であるから、
「唱題行」のことである。

「本門の戒壇」とは「本門の本尊を受持し、修行する場所」なので、
御本尊を御安置し、それに対してお題目を唱える場所のことである。
御本尊を御安置した仏間や部屋、拠点や会館などが、それにあたろう。

「三大秘法」を論じるのなら、
まずそれ以前の「三学」について、それぞれの意味と役割を、
三つの関係性の中で正しく理解しておく必要がある。
なぜなら末法の三学である「三大秘法」も、それぞれ三つの関係性の中で、
一生成仏のための修行方法が成り立っているからである。
そのどれをおろそかにしても、修行が不完全となり、一生成仏ができなくなる。

以上のことを整理すると、三大秘法の「相互関係」、つまり末法の修行方法は、
「人法一箇の御本尊(「本門の本尊」)に対して、その御本尊を御安置した場所(「本門の戒壇」)において、その御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える(「本門の題目」)ことにより、一生成仏できる」
ということではないだろうか。

三大秘法は、このように三つの「相互関係」の中で理解していかないと、
これまで私たちがネット上で見てきたように、以下のようなことを言い出す輩が現れる。

1、「本門の本尊」も「本門の題目」も、南無妙法蓮華経だから同じであるとして、
  三大秘法から「唱題行」を省略し、勝手に「二大秘法」とする。
2、「自分が本、日蓮大聖人や御本尊は迹」と公言し、
  人法一箇の御本尊である「本門の本尊」を軽んじる。
3、御本尊を仏間に放置したままでも、屋外において、
  お題目を「宇宙の仏界」に向かって唱えれば、仏界が涌現すると言って、
  「本門の本尊」と「本門の戒壇」を蔑ろにする。

<3の補足>諸事情によって御本尊の前で唱題できない場合、一概に「本門の戒壇」を蔑ろにしているとは言えないが、祈る対象として御本尊を思い浮かべるのではなく、根拠のない「宇宙の仏界」を対象とするというのならば、「本門の本尊」の軽視、又は否定であるといわれても仕方がない。

これでは「三大秘法」を物知り顔で論じながら、実際には、
末法における三学(修行方法)を否定し、一生成仏のための道を塞いでいるに等しい

29 沖浦克治 :2009/06/12(金) 07:05:33 ID:AJ3hr85o0
簡単に、月の砂漠さんの邪義を破折いたしましょう

 戒定慧。
 その三学は一体何のためですか?
 この人、全く理解しないで理屈のための理屈こねてます。
 智慧じゃなくワルジエですね。

 本門の題目とはね、自行化他のお題目です。

 『末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり名体宗用教の五重玄の五字なり、』
 (三大秘法禀承事)

 天台伝教もお題目は唱えたのですが、自行で、化他しません。
 迹門の題目ですね。
 本門のお題目は自行化他です。
 何故か?
 御書にありますよ。

 『今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益あるべき時なり、されば此の題目には余事を交えば僻事なるべし、此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱え奉るべき時なり、之に依って一部二十八品の頂上に南無妙法蓮華経序品第一と題したり。』
 (御講聞書)

 広めることが利益がある。
 人に広めるためのお題目が本門ですね。
 この、人のため。
 これが大聖人様の教えの根幹です。

 『此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱え奉るべき時なり』

 妙法の大曼荼羅とはね、この文から明確です。
 お題目です。
 文字曼荼羅じゃありません。
 衆生己心の妙法たる、南無妙法蓮華経です。
 文字曼荼羅、どうやって口に唱えますか?
 窒息しますよ。
 これね、常識ですよ。
 更にね、この短い御文に、既に三大秘法が揃ってるじゃないですか。
 貴方、読めない、眺めるだけ、だからわからない。

 月の砂漠さん、貴方はね、この大聖人様の仏法の、何のため。が抜け落ちているのです。
 自行化他じゃなく、自行だけの眺め人なんですよ。 
 先生のご指導です。

 『科学は、人類は、ハウ、を求めて来た。
 如何にして? 
 が、時代の趨勢であった。
 今その歩みが大きな矛盾を生んでいる。
 それを解決するには、発想の転換が必要です。
 ハウからホワイへ、如何してから、何故に変えねばならない。』(趣意)

 全ては人のためだからですよ。
 貴方ね、戒定慧なんかコネ回してる場合じゃないですよ。
 そういう小理屈は寛師に任せておきなさい。
 あのレベルはそこがせいぜいです。
 寛師やボンさんにやらせておけばいいんですよ。

 村上春樹さんの言葉をあげておきます。
 思索なさい。

 システムが我々を作ったのではない。
 我々がシステムを作ったのだ。

30 雨煽り :2009/06/15(月) 01:06:05 ID:NjA8zkPc0
「一大秘法題目義」に反論される人は
「一大秘法は題目では無い」という文証を上げればいいのです。
此処スレには「一大秘法は題目だ」という文証を上げてあるのですからね。

ついでに…
「本迹論」も、
「衆生が本では無い・人が本では無い・自分が本では無い」という文証を上げればいいのです。
それと「不変真如は理では無い・迹では無い」「随縁真如は事では無い・本では無い」
「事理倶勝は本では無い」という文証も同時に上げてください。

どちらも文証など無いと思いますが、
邪義だと言われるのなら、文証を上げて下さいね。

31 沖浦克治 :2009/06/15(月) 06:34:01 ID:AJ3hr85o0
 雨煽りさん、おはようございます

 文証を出せない人たちですよ。
 だから眺め人なんですね。
 御書を知識として読む。
 マグマグ教学、天城邪説共通です。
 一大事因縁。
 御書に明確です。
 諸仏出世の本懐。
 書かれています。
 読めない。

 辛い人生ですね。

32 雨煽り :2009/06/15(月) 16:01:45 ID:NjA8zkPc0
沖浦さん

ほ〜んと、困った人達ですね。
日寛教学で一大秘法本尊義が戒壇本尊を指すことも知らなくて
一大秘法云々するのですからね。
もう一度一から教学をやり直した方がいいのではないでしょうか。
坊主教学では無く、創価教学をね。(笑)
理の教学では無く、事の教学をという意味です。

せめて、自分が引用する文言の理解くらいはしてから引用してほしいものです。

「山は三角だ」と子供が言ってるような論ですから
私は、あほらしくて相手しませんが…((笑))

33 雨煽り :2009/06/18(木) 17:37:50 ID:NjA8zkPc0
御書に『一大秘法』とあるのは一編二箇所だけです。
この御書を切り文にして、宝塔が書いてあるから本尊と解釈する…
それも解釈のひとつですから間違いだとは思いません。

ただし、「題目義」を間違いだ。と言う事が間違っている。と主張しているのです。
『妙法蓮華経の五字名体宗用教の五重玄』を、題目と読むのが普通で常識だと思いますが…

上記、宝塔は「付属された処の説明」と、私には拝せます。
『大覚世尊仏眼を以って末法をかん知し此の逆・謗の二罪を対治せしめんが為に一大秘法を留め置きたもう、所謂法華経本門久成の釈尊・宝浄世界の多宝仏・高さ五百由旬広さ二百五十由旬の大宝塔の中に於て二仏座を並べ敷き衆星の如く列座したもう、四百万億那由多の大地に三仏二会に充満したもうの儀式は華厳寂場の華蔵世界にも優れ真言両界の千二百余尊にも超えたり一切世間の眼なり、此の大会に於いて六難九易を挙げて法華経を流通せんと諸の大菩薩に諌暁せしむ、』

『所謂』から『一切世間の眼なり、』までが宝塔の説明で、
『四百万億那由多の大地に三仏二会に充満したもうの儀式』の具体的な状況説明になります。

この『一切世間の眼なり、』で切り文にすれば、本尊の説明になり、
一大秘法は本尊と解釈できるでしょう。
が、『此の大会に於て』と続きます。
『此の大会に於て』ですから、『此の大会』は単なる背景説明である。と私には拝せます。

この宝塔という儀式の場で行われた、地涌の菩薩への付属、
『四大菩薩に付属したもう、其の所属の法は何物ぞや、法華経の中にも広を捨て略を取り略を捨てて要を取る所謂妙法蓮華経の五字・名・体・宗・用・教の五重玄なり、』
『此の一大秘法を持して』

と、『妙法蓮華経の五字名体宗用教の五重玄』が一大秘法と書かれているのです。
宝塔を背景として付属された『何物』だから宝塔とは別物です。
つまり、一大秘法は題目だと拝される訳です。

解釈は自由ですから、本尊と拘って(笑)解釈するのも自由でしょう。
が、「一大秘法題目義」を間違いだと言う事が間違いなのです。
間違いだと言いたければ、間違っているという証拠を出せばいいのです。
証拠も無く、間違いだと言ってる人は御書を否定している事になるのです。

私は、「題目義」でも「本尊義」でも御書によってどちらも解釈できますから、どちらも間違いではない。と断じているのです。

「題目義」は、明確に御書に書かれている。
「本尊義」は、明確には書かれていないが、道理として解釈できる。
これが理由です。
「題目」と「本尊」は対向するものではなく、どちらも『南無妙法蓮華経』ですからね。

一大秘法という文言は曾谷入道殿許御書一編だけしかありませんから、この御書を無視して、「一大秘法義」は判じられません。
この御書に、どう書いてあるのか。を元にして、意味の解釈を他の御書に依る訳です。
故に、『妙法蓮華経の五字名体宗用教の五重玄』が、他で、どう用いられているのかも問題になります。
他御書で、明確に題目意で書かれている箇所もあれば、明確では無い箇所もありますが、
少なくとも、本尊意の明確な箇所はありません。


『出世の本懐』は釈尊出世の本懐と諸仏出世の本懐と大聖人出世の本懐の三通りありますから、
ただ単に『出世の本懐』と書かれている御書では、三通りの解釈をしてみる必要が生じてきますが、
『妙法蓮華経の五字名体宗用教の五重玄』は題目で良いのではないでしょうか。
五重玄ですから、本尊は体になりますからね。

「題目」を、ただの教題だ。とか、口唱の題目だ。とかの、偏狭な思考ではなく、
法としての「題目」で良いと思います。


くれぐれも、「一大秘法題目義」が「邪義」だと言う人は
「一大秘法は題目ではない」という文証を上げてくださいね。

35 山口 :2011/09/17(土) 11:19:35 ID:18A/XbaoO

■ 此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為(な)す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。(如来滅後五五百歳始観心本尊抄 文永一〇年四月二五日 五二歳

"一閻浮提第一の本尊"とは文字通り、「ただ御一幅の本尊」

ということである。
"第一"とは二もなく三もなし。との意である。


■ 此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為(な)す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。(如来滅後五五百歳始観心本尊抄 文永一〇年四月二五日 五二歳 661)

"一閻浮提第一の本尊"とは文字通り、「ただ御一幅の本尊」

ということである。
"第一"とは二もなく三もなし。との意である。


学会員には理解できない御文でしょうな。

36 沖浦克治 :2011/09/17(土) 12:12:32 ID:AJ3hr85o0
山口さん、今日は

 自己紹介のスレッドがありますので、そこで自己紹介をしてください。

 学会員には理解できないとのことですが、そもそもそう言うことを理解する必要がありません。
 そのあたりの屁理屈は、寛師教学の範疇で、現在では既に過去の遺物です。

 どうぞ、日蓮正宗辺りの、法主能化レベルの低俗任せておいていいのです。

37 某男子部員 ◆YQRBqpNuIQ :2011/09/17(土) 17:03:52 ID:Gb1LY/Uc0
こんばんは

末法本未有善説の正宗曲解教義をきれいさっぱり捨て去り、
久遠即末法の日蓮大聖人仏法に立ち返ることができました

38 沖浦克治 :2011/09/17(土) 18:00:42 ID:AJ3hr85o0
 某男子部員さん、今晩は

 日蓮正宗って、釈迦仏法の入り口なんです。

 駄目ですね。

39 某男子部員 ◆YQRBqpNuIQ :2011/09/17(土) 18:32:21 ID:LI1uqzVg0
沖浦克治さん、こんばんは

そうですね。釈迦仏法にも無いことをのたまわっていますね

40 某男子部員 ◆YQRBqpNuIQ :2011/09/17(土) 19:41:57 ID:Fl7H4pK20
大集経と、十六王子に下種した大通仏や、日月燈明如来等をモチーフに創作されたのが末法本未有善説なんでしょうね

41 山口 :2011/09/17(土) 22:10:26 ID:18A/XbaoO

某男子部員さん はじめましてm(__)m山口と申します。


ところで
>釈迦仏法にも無いことをのたまわっていますね



とは?
何を指して言われているのでしょうか?

具体的にお教え願えれば幸です。

42 某男子部員 ◆YQRBqpNuIQ :2011/09/18(日) 02:14:55 ID:Fl7H4pK20
山口さん、はじめまして。よろしくお願い致します

末法本未有善のことです

43 山口 :2011/09/18(日) 08:23:04 ID:18A/XbaoO

>>42
おはようございます

末法本未有善??


は?


その言葉だけでは、某男子部員さんの言われた

>釈迦仏法にも無いことをのたまわっていますね

に、対する説明になりません。


もう少し具体的に、お馬鹿な私に分かりやすく説明願えればと思います。

44 某男子部員 ◆YQRBqpNuIQ :2011/09/18(日) 13:30:36 ID:/cSBvAqY0
山口さん、おはようございます

「末法本未有善」なる文言は釈迦仏法には無いということであります

45 臥薪嘗胆 :2011/09/18(日) 14:45:32 ID:TySxh7y60
山口さん毎度!

あんさんの知識では無理!!
沖浦さんには、太刀打ちでけません!!去りなはれ!!
以上横レスすまそ。さいなら〜〜

46 沖浦克治 :2013/02/11(月) 15:10:54 ID:S/8Rcgto0
あげます

47 沖浦克治 :2013/03/09(土) 05:29:06
富士ボ〜からです。

>法華開会の絶待妙により、所対の仏教一切の法門がその体内に帰一して絶待妙の用となる如く、絶待妙の「本門戒壇の大御本尊」より開会すれば「各個別々ノ本尊及ビ血脈付法ノ本尊」は、「本門戒壇の大御本尊」の体内に帰一し、絶待妙の用となる道理である。何故なら、大聖人の全ての御本尊は、究意中の究寛、本懐中の本懐たる「本門戒壇の大御本尊」から顕れた法体だからである。御歴代上人もその御内証の上から御書写遊ばされるのであるから同じである。
 〜引用終わり〜

 寛師教学の発展形ですね。
 戒壇本尊が本懐と言う思想は大聖人にはございません。
 寛師の邪義です。

 邪義を元にして、どれほど論を組み立てても、無意味です。

48 沖浦克治 :2013/03/09(土) 05:39:36
 戒壇本尊が大聖人のご真筆でないことは、ほとんど常識化しております。

 更には、歴代日蓮正宗の法主達は、戒壇本尊を書写しておりません。
 何度も書きましたが、頭破作七分、福十号がありませんし、滅度にも10年の異なりがあります。
 もし、法主の権能とやらで、変えているなら、信徒に対して、法主には説明責任がありますが、答えた人はいません。

 答えることが出来ない。

 これが真実でしょう。
 
 更には、大聖人は曼荼羅原理主義ではございません。
 戒壇本尊を、一大秘法の当体として、人の上に据えることは、偶像崇拝であり原理主義です。

 そう言う思想は仏法にはございません。

49 沖浦克治 :2013/03/09(土) 07:54:19
 阿部日さん、マグマグさん

 戒壇本尊本懐論をキチンと破折なさい。
 
 そして、大聖人戸田先生が仰せにように、ご本尊は私共が信心をするための道具なのです。
 そう言う事実をキチンと認識でない限り、貴方方の教学は曼荼羅原理主義の寛師の域を脱しません。

 いくら日蓮正宗を破折したかっても、寛師の邪義を捨てない限り、永久に同じ土俵でせめぎ合うだけです。
 そう言う惨めで無駄な、論争はお止めなさい。

 曼荼羅は大聖人が発明された、幸福製造機という道具です。

 戸田先生がキチンとご指導でしょう。
 何故理解できませんか?

50 沖浦克治 :2013/04/25(木) 06:26:50
本尊に迷う人が多いですね。

 人間革命にキチンと載っていますが、何故読まないのでしょう?
 読めば何方でも、大聖人仏法での本尊とは何か?が分かります。
 引用致しますから、お読み下さい。
 新・人間革命第19巻・297Pから、抜粋引用。

 『大聖人がこの世に弘めようとされたものは、端的に申し上げれば 『本尊』 であります。『本尊』 とは、『根本として尊敬すべきもの』 です。人は、根本に迷えば、枝葉にも迷い、根本に迷いがなければ、枝葉末節の迷いも、おのずから消えていくものである。ゆえに、いちばんの根本となる 『本尊』 を、一切衆生に与え、弘められたのであります。
 では、その 『本尊』 の内容とは何か」
 「それは、『御本尊七箇相承』 に 『汝等が身を以って本尊と為す可し』 (富士宗学要集・第一巻) とある通り、あえて誤解を恐れずに申し上げれば、総じては、『人間の生命をもって本尊とせよ』 ということであります」
 「つまり、大聖人の仏法は 『一切の根源は “生命” それ自体である。根本として大切にして尊敬を払っていくべきものは、まさに “人間生命” そのものである』 という哲理であり、思想なのであります」

 伸一は、さらに、「御本尊七箇相承」の 「法界の五大は一身の五大なり、一箇の五大は法界の五大なり」、また、「法界即日蓮、日蓮即法界なり……」 の文を引き、こう語った。
 「宇宙を構成している要素である地・水・火・風・空という、同じ五大種によって、人間も構成されている。大聖人は、『宇宙法界の全要素』 と 『日蓮という一個の生命体の全要素』 とは、全く同じものであると断言されているのであります。これは、大聖人御自身だけでなく、一切衆生にも共通することであります。
 わが身は即大宇宙であり、妙法の当体である。それゆえに、生命を 『本尊』 として、大切にするのであります。私どもは、この御指南に、『生命の尊厳』 の原点を見いだすものであります」
 伸一は、日蓮仏法の本尊とは、決して神秘や幻想の象徴ではなく、人間自身の生命であることを明らかにしたのである。

 日蓮大聖人は、「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(1244P) と仰せになっている。
 また、法華経に説かれた宝塔について、「宝塔即一切衆生・一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり」(797P) とも言われている。

 仏は、遠い彼方の世界にいるのではない。また、人間は神の僕(しもべ) ではない。わが生命が本来、尊極無上の仏であり、南無妙法蓮華経の当体なのである。
 ゆえに、自身の生命こそ、根本尊敬、すなわち本尊となるのである。
 そして、その自身の南無妙法蓮華経の生命を映し出し、涌現させるための 「明鏡」 こそが、大聖人が曼荼羅として顕された御本尊なのである。』
 〜引用終わり〜

51 沖浦克治 :2013/04/25(木) 06:33:16
 少し説明致します。

 『仏は、遠い彼方の世界にいるのではない。また、人間は神の僕(しもべ) ではない。わが生命が本来、尊極無上の仏であり、南無妙法蓮華経の当体なのである。
 ゆえに、自身の生命こそ、根本尊敬、すなわち本尊となるのである。
 そして、その自身の南無妙法蓮華経の生命を映し出し、涌現させるための 「明鏡」 こそが、大聖人が曼荼羅として顕された御本尊なのである。』

 私共の命が本尊で、それを映し出し湧現させる手段として、大聖人が明鏡として御本尊をご図顕なされた。
 
 音楽に喩えるなら、楽器が手段で曼荼羅本尊。
 弾き手がメロディーを創りだす本体。
 双方が境智冥合するなら、素晴らしい音楽が生まれます。

 拝む私共の信力行力が、曼荼羅本尊を通じて大宇宙の仏界に冥合し、仏力法力を引き出します。

 これが、大聖人ご図顕の曼荼羅本尊と、拝む私共の関係です。

 ですので、何処まで行っても、拝む私共が主体なのです。

52 沖浦克治 :2013/04/25(木) 06:35:08
 マグマグさん、おはようございます。

 貴方に最も欠けているのが、この大聖人仏法の基本思想です。
 真面目に勉強しませんか?

 私共に怨嫉して、福運を消すより、真面目に創価思想を学ぶ方が、一億倍はいいですよ。

53 沖浦克治 :2013/04/27(土) 06:32:43
 マグマグさん、おはようございます。

 少し本来の宗門教学を学びましょう。
 寛師の害毒に犯されていない部分もあります。
 堀上人が引用されておられますが、この人はかなり正しいご意見をお持ちの先ず少ない宗門の法主だった方です。
 
 御本尊七箇相承
 
 二、真実の十界互具は如何、師曰はく唱へられ給ふ処の七字は仏界なり・唱へ奉る我等衆生は九界なり、是れ則ち四教の因果を打破つて真の十界の因果を説き顕はす云云、此の時の我等は無作三身にして寂光土に住する実仏なり、出世の応仏は垂迹施権の権仏なり秘す可し秘す可し。

 私どもが、実仏、

 出世の応仏は垂迹施権の権仏なり。

 読めますね??
 本来の興師門流は、私どもが実仏(本仏)で、私共に応じて出現する仏は権仏(迹仏)なのです。
 それを、寛師という習い損ないが戒壇本尊本懐をでっち上げて、曼荼羅を人の上に置く邪義を広め覆したのです。

 では、応じて出現する仏が迹仏なら、大聖人のお立場はどう言うものなのか?

 思索なさい。

54 沖浦克治 :2013/05/21(火) 06:25:57 ID:U7nVm6lA0
 天城さん、マグマグさん、愚壮さんなどは、
 
 三大秘法が全く理解出来ませんね。

55 沖浦克治 :2013/07/04(木) 06:46:13 ID:lHNUoBrE0
 若鷹のナナシさんや、おはようございます。

 寛師お好きなんですね。
 それは結構です、貴方個人のご趣味です。
 タダね、私は福島さんが好きです。
 これも私個人の趣味ですから、他人が文句言うことないです。
 勘違いしてはいけませんよ。

 貴方が寛師が趣味、私が福島さんが好み。

 これはね、あくまでも私と貴方の主観です。
 他人に強制したらいけません。
 同じく、私は寛師は習いそこ無いと思っていますが、好きな部類の人です。

 でもね、彼は曼荼羅を三大秘法の当体だというミスを犯しています。
 大聖人仏法から逸脱した人。
 ですので、好きでも邪義は邪義。
 更には、国家諫業をしていません。

 目師まででそこから先、国家諫業は、牧口先生までないのです。
 ですから、目師まではなんとか大聖人門下です。
 その後は、大聖人門下ではあり得ません。
 
 好きだから、生き様認めるわけには行かないのです。
 河井継之助が、山田ホウコクサイ(多分この方です)を尊敬し、師事したことは有名です。
 ある人が師匠の評価を聞きました。

 山田先生は素晴らしいが、惜しむらくは人物が小さい。

 友人が、それは少し酷い評価だと言うと。

 金魚が好きでも、鯨ほど大きいとは言えない。

 と、答えました。
 寛師は好きでも習い損ない。
 福島さんは好きでも、裏切り者。

 認識と好き嫌いを同一にしてはいけません。
 それは、賢人ではありませんよ。


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