PM22:00
自宅リビングにて
陣内智則 板付き
「あー、今日は暇やなー、お、そういえばパソコンにネットフリックスっていうのが入ってたなあ、よしじゃあネットフリックスでもつけてみるかなー…なになに…おっ、『セッション』かあー、そういえばこの映画ずっと気になっててんなー、ちょっと重たそうな内容やなー、でもまあせっかくやからなあー、よし、見てみよ。」
「この再生ボタン押せばええんやな、よし、じゃあボタン押して、っと。」
「お、始まった始まった」
「ん、この人めっちゃドラム叩いてんなー」
「BGMも少ないしやっぱ重苦しい雰囲気やなー」
「まあ見てみよ」
「って、えええ!?」
「まあ見てみよ」
「って、えええ!?」
「まあ見てみよ」
「って、えええ!?」
「まあ見てみよ」
「って、えええ!?」
「びっくりしたなあ」
「まあ見てみよ」
「ええええええええ!?」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「めっちゃよかったやないか!」
(暗転)
お付き合いありがとうございました。
映画『セッション』の感想です。
絶対に見ないとわからぬ圧と熱量
この映画に関して博識ぶって音楽の観点からとか賞がどうとか解説するのは無謀な気がしたので見ていない人には「見ろや」としか言えません。
演劇を見たときに飛び散ってくる役者の唾や汗や会場の熱気のようなものです。
ブロガー失格!?うっせー!
おとといきやがれホモ野郎!!!!
ということでほぼ上記そのまんまなのですが、前半はその狂気なレッスンぶりに半分はしゃぎながら見ていたはずが、後半はもう息をするのも瞬きするのも惜しいくらいにじっと見入ってしまいました。
もうほんとなぜ映画館で見なかったプ二子よ…!
今すぐ私をひっぱたいてくれフレッチャーよ!
「どうだ!?(バシン!!)」
「悔しいです!!」
「どうだ!?(バシン!!)」
「悔しいです!!」
「そんなもんかホモ野郎!!(バシン!!)」
「悔じいでずうぅぅぅう゛!!!」
それくらいラストの鬼迫は凄まじかったのです。
あらすじ
名門音楽学校へと入学し、世界に通用するジャズドラマーになろうと決意するニーマン(マイルズ・テラー)。そんな彼を待ち受けていたのは、鬼教師として名をはせるフレッチャー(J・K・シモンズ)だった。ひたすら罵声を浴びせ、完璧な演奏を引き出すためには暴力をも辞さない彼におののきながらも、その指導に必死に食らい付いていくニーマン。だが、フレッチャーのレッスンは次第に狂気じみたものへと変化していく。(シネマトゥデイ)
監督であるデミアン・チャゼルは当時28歳。今年日本公開となる『ラ・ラ・ランド』(原題: La La Land)もものすごく楽しみです。
私の知らない「ジャズ」があった
まず何に驚くかというと、大抵の人間も持つであろう音楽のイメージを叩き割ってくるパワープレイっぷり。
それは「業界の裏ってこんなに厳しんだぞっ」という裏話的なものともまた違って。
「ジャズ」と聞くと、私にとっては『スイングガールズ』の影響が大きいのでしょうが、おしゃれで陽気なものをイメージします。ジャズバンドのドラムと言ったらビックバンドビートで僕らのヒーローミッキーマウスが華麗に演奏している姿を思い出します。
そのイメージの中で印象的なのは、演奏者がみな演奏自体を楽しんでいるように見えるということ。それはジャズに限らず、クラシックでも合唱でも同じことで。
しかし。この映画ではそんな演奏の楽しさ、ジャズを演奏するとは何たるかという点には一切触れることがありません。
劇中アンドリューのドラムに対してフレッチャーが求めるのは「速さ」、「キー」、「テンポ」それだけ。
アンドリュー自身も演奏を極めているのではなく、ただがむしゃらにドラムを打ち叩いているようにしか見えない。
演奏者の「楽しさ」なんてものは全く見えてこない。
音楽ってなんだ…?
彼らにとって、音楽は、演奏することは、自分を証明するための「手段」であり、戦うための「道具」でしかないんですね。
音楽をメインテーマに用いた映画において、(指導者と生徒が存在するにも関わらず)表現の喜びや観客をここまでで意識しない作品は他にあるんだろうかと衝撃的でした。
でもさ、それでもメロディ隊と重なって響くと無条件に「ジャズってめっちゃいいなあかっこいいなあ」と思ってしまうんだよね。
男同志の感情のぶつかり合いと
教師と生徒。
指導者と演奏者。
音楽家と音楽家。
こんなにドロッとした男と男の感情のぶつけ合いは見たことがなかった。
恐怖に悪意に敵意に憎悪にプライドに満ち溢れた男二人がストレートに、ドストレートに殴り合いをするラスト数分間。
そこに、もう観客は存在しない。
場所も、時間も、何もかもなくなって、アンドリューとフレッチャーとドラムだけがそこにあって。
お互いに積りに積り、数分前まで相手を苦しめようと渦巻いていた感情が、昇華され超越した瞬間を目の当たりにしたことに見ていてただただ息をひそめ興奮するしかなかったです。
価値ある100分間の”映画体験”
初めて『マッドマックス 怒りのデスロード』見たときのような、初めて4DXを体験した時のような、未知の体験がこの『セッション』にはありました。
気づけば画面から自分の心と体ごと強引に引き込まれていく気持ちよさ。
時間的制限と集中力の存在する映画というものにしかできない体験。
この映画は「感動大作」でも「少年の成長映画」でもなく、もはやストーリーなんてもんを超越した、強烈な映画体験をさせてくれるものなのです。
狂ったようにドラムを叩きつけるアンドリューを舞台裏から見たアンドリューパパの表情が全てだと思う。
『セッション』ラスト数十分を見る私。まさにこんな顔。
こんなにもシンプルな方法で心を奪っていく映画は初めてでした。
劇場で見ていたらより特別なものだったろうなあ…。はあ。
実は私自身ドラムの経験があり、鑑賞前までなんとなく親近感を持っていたりしたんですね。あほなんで。
しかしそんな生ぬるい感情は開始すぐにアンドリューの演奏を見てぶち壊されました。
おい、次元が違うぞと。
実際、何かを極めるということは、こういうことなのでしょうか。
この映画に映っているものが何かを極めているということ、またその答えを求めることなのだとしたら、これまでとこれからの自分の人生に言い言えぬ恐怖を感じてしまうのでした。
まとめ
自分の人生の100分間を委ねる価値のある体験ができる。そんな映画でした。
この映画を見れば、独り言の多い陣内智則も黙り込んだ末にやっぱり言うでしょう。
「めっちゃよかったやないか!!」