2013年05月22日

歪なる保守主義・下

前回の続き)
翻って、日本の保守主義は何に依拠しているのだろうか。
現代の日本国が明治維新に端を発している以上、江戸期の幕藩体制への回帰が反動という位置づけになるだろう。しかし、日本においては徳川家による資産(宮城や赤坂御所など)返還運動が全くなされていないことに象徴されるように、反動勢力そのものが存在しない。
となると、日本の保守主義は明治維新に依拠することになろう。その明治維新の理念は五箇条の御誓文に求められる。
一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

これを見る限り、民主主義と国際主義の片鱗が感じられ、むしろ現代の自民党の改憲案の方が反動的に見える。実際、明治初期の民権派はこの御誓文を盾に議会開設を要求している。また、吉田茂は1946年6月25日の衆議院本会議における日本国憲法の審議に際して「御誓文の精神、それが日本国の国体であります。日本国そのものであったのであります。この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります」と述べている。
しかし、吉田の主張は相当に欺瞞的で、GHQに対して優等生ポーズを示すと同時に国民を騙す狙いがあったものと思われる。明治憲法では全ての主権は天皇が独占しており、議会は天皇の立法権を補佐する役割しか与えられておらず、基本的人権は天賦のものではなく天皇から与えられた権利であり法定の範囲内でしか保証されていなかった。しかも、裁判所には違憲立法審査権は無く、憲法改正も天皇大権の一つだった。総体的に見ると、明治体制とは「制度は限りなく専制的だが、実際には君主が専制権を行使せず、責任も取らない立憲君主制」と言える。

その原点は、欧米の植民地主義に対する反発、幕藩体制(前近代的地方分権)の否定および排外主義と欧化主義(脱亜入欧)にある。明治維新は薩長が国内で沸騰した攘夷=排外主義のエネルギーを倒幕に転化することで成立した。しかし、維新が成立した途端に攘夷の看板は打ち捨てられて、欧化主義と富国強兵が掲げられた。詳細な経緯はこちらを参照されたい
言い換えれば、明治体制は根源的に中央集権を志向すると同時に、国民の排外主義を煽り立てることで国威を発揚、しかし権力者は「欧米に追い付いて追い越す」ことだけを考えていた。その象徴となったのが天皇だった。
しかし、そこには英国における「王権からの自立と自由」、米国における「信教の自由とピューリタニズム」、仏国における「自由・平等・博愛」といった国家が目指すべき価値観は存在せず、せいぜいのところ「強い国家をつくって独立を維持する」くらいの価値観しかなかった。故に「国民」なる概念は深化せず、学校では「天皇に忠を尽くす臣民」が養成された。
国民の自殺攻撃を正当化する民族国家は存在しない。ソ連では共産主義者だからこそ、日本では天皇の臣民だからこそ自殺攻撃が正当化されるのである。日本の場合、タチが悪いのは憲法が天皇を免責しているが故に、自殺攻撃を命令しても責任をとるものがいないため、志願を強要するという無責任がまかり通る構造だったことだ。

ここまで来ると、日本の保守主義や保守の権力構造がおぼろげながら見えてくる。
日本の保守にとって、アメリカに対する従属は自国の独立に不可欠のものであり(独立の内容は問わない)、産業立国もまた同様と言える。しかし、国家発展のために人民が犠牲になるのは「当たり前」のことであるため、人権と福祉は常に優先順位が低くなる。
問題は、日本の保守人が「人民は国家のために存在する」と考えるにもかかわらず、その国家はいかなる価値観も持たないため、人民に対して自由や人権を与える根拠が無いことだ。
今日の日本人が自由と人権を享受しているのは、ポツダム宣言を受諾した日本政府が休戦条約を履行するために憲法を改正して保障したことによる。敗戦を受け入れがたい保守人は、休戦条約履行条件としての大日本帝国憲法の改正(現行憲法の制定)を拒否し、自由と基本的人権を深層的に否定する。他方、独立維持のためにアメリカからの要求は全て受け入れるが、その一方で嫌韓、嫌中などのアジア蔑視・排外主義を煽ることで支持を得るという構図がある。
「国民」という概念と対峙してこなかった日本の保守は、「天皇に忠を尽くす臣民」以外の国民像が想像できず、あるいは想定するつもりも無いため、そもそも人権という発想が存在しない。だからこそ、彼らは「天皇陛下万歳」と叫び、憲法から国民の権利を剥奪して、国家(天皇)に奉仕する義務ばかりを盛り込もうとするのだろう。
日本の保守主義の歪さはまさにそこにあるのではなかろうか。
posted by ケン at 12:26| Comment(3) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
日本の保守は元から薄っぺらい存在だったんですね・・・・
この記事を読んでリベラルの重要性を痛感しました(日本の保守は人権無視なので)
それにしても五箇条の御誓文以下の自民党の憲法改正草案っていったい・・・・
Posted by ドーベン・ウルフ at 2013年05月22日 19:46
上下二投稿、じっくり拝読。

民主主義国家として機能したことが無い、実感が湧かないということかなぁと思いました。

実家が水戸なので小学生の頃から「尊皇攘夷」という言葉を学びましたが、その時の「尊皇」は大河ドラマで珍しく丁寧に描いていた孝明天皇までの「尊皇」なんじゃないかと思っています。


不幸にして(幸いにして?)勝ち取った権利ではなく、与えられた権利。
隣国である韓国は軍政から民主化というプロセスを経ましたし、これまたお隣の台湾でも国民党がやってきてからの2.28事件、そして長い戒厳令を経ての民主化。
(台湾って戒厳令の国というのがリアルタイム世代の感触だったりします。2.28は「悲情城市」という映画でよく理解できました。なので無邪気に昔の日本がここにある的台湾な風潮は複雑な気分・・・)

維新とは革命じゃなかった、復古主義者と風見鶏の集まりだったということが参院選前にはっきりしたことは何かの救いになるのかな。(「より右」の存在がはっきりしたことで、自民党には追い風のように思えますが・・・)
Posted by TI at 2013年05月22日 21:18
日本にはヨーロッパのような王党派が存在しないため、右側の歯止めが存在しないんですね。欧州の保守は自分たちの右側に王党派や全体主義者がいるので、そこまでは行けないわけです。しかし、日本の場合は右側に何もないのでどこまでも右傾化してしまう構図です。保守が自ら反動と化してしまうのも自分たちのその自覚がないからでしょう。

他方、左派は左派で歴史が浅く、自分たちの運動によって獲得してきたものが少ないだけに、やはり根っこが弱く、支持が広がらないわけです。
Posted by ケン at 2013年05月23日 12:54
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