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2017-01-17

映画『沈黙』のキャッチコピーがクソすぎる

 

 

 2017年1月21日から日本全国公開となる映画『沈黙 -サイレンス-』。

 遠藤周作の原作小説を愛読していた僕は「スコセッシが映画化?」と半信半疑だったが、配役を見て「これは見たい!」と期待した。

 

 なにしろキチジロー役が窪塚洋介である。

 あの「I Can Fly」の窪塚がキチジロー。

 これほどの適役はない。

 

 思わず原作小説を再購入したばかりか、前売り券まで買いに行った。

 今から公開が待ち遠しくてたまらないのだが、気になる点が一つ。

 日本版独自のキャッチコピーである。

 

「なぜ弱きわれらが苦しむのか」

 

 クソである。ビックリするほどのクソである。

 今回は、このクソすぎるキャッチコピーを、原作小説のネタバレなしで批判してみよう。

 

【目次】

(1) キリスト教迫害史はキリスト完全敗北の歴史

(2) 助演男優賞候補イッセー尾形が演じたのは?

(3) 原作小説『沈黙』がフィクションである2つの理由

(4) カクレキリシタンのその後

(5) 最新型映画前売り券に驚く

 

 

(1) キリスト教迫害史はキリスト完全敗北の歴史

 

↑日本版(出典)と米国版(出典)の映画『沈黙』ポスター

 

 日本版キャッチコピー「なぜ弱きわれらが苦しむのか」を考えたのは誰だろうか。

 日本版予告動画には「大いなる信念のもと、なぜ弱きわれらが苦しむのか」とある。

 そう言われれば「弱きわれら」が迫害される庶民であることがわかる。

 しかし、庶民ならば庶民の口調にするべきではないか。

 ほとんどの人は一見して、このフレーズをキリスト教弾圧下の日本に来たイエズス会宣教師の嘆きと受け取るはずだ。

 それならば「日本に来るな、以上」となる。

 ただでさえ、今の日本人に敬遠されやすいテーマの物語なのに、偏見を助長させるような宣伝文句をつけるセンスの無さが信じられない。

 

 原作となった遠藤周作の『沈黙』は、江戸初期のキリスト教迫害を、外国人宣教師の視点を中心に描いた歴史小説である。

 今の日本人は「日本スゴイ!」と誉められたいが、「日本の歴史のここがダメ」と批判されるのは大嫌いだ。

 だから、この映画『沈黙 -サイレンス-』を喜んで見ようとする日本人は少ないだろう。

 「なぜ弱きわれらが苦しむのか」というキャッチコピーがついていたらなおさらである。

 

 戦国時代末期まで明治初期に至るまで、日本のキリスト教迫害の犠牲者は、名前が知られているだけで4045人、推定4万人を超えるといわれる。

 なお、この4万人に「天草・島原の乱」で斬首された3万人の農民は含まれない。

 江戸時代は200年以上もの平和が保たれたというが、キリスト教が徹底的に弾圧され、人々に信教の自由はなかった。

 と、こういう話をすると、たいていの人は「あー聞きたくない聞きたくない」と耳をふさぐものだ。

 「宗教の自由なき平和に価値なし」と外国人に声高になじられても、我々は「今は違うからいいだろ。お前らだって昔はキリスト教以外は否定したくせに」とぶつぶつ言うほかない。

 

 しかし、原作小説『沈黙』は、耳の痛い話ばかりではない。

 それはタイトルが物語っている。

 この『沈黙』とは「神の沈黙」のことである。

 

 戦国時代末期、日本のキリスト教信者は総人口の3%に達していた。

(今の日本のキリスト教信者は総人口の1%)

 ところが、豊臣秀吉のバテレン追放令以降、キリスト教は禁教となる。

 そして、江戸幕府の「大禁教令」が出た1614年からは、日本全国でキリスト教徒狩りが行われた。

 それから30年で日本でのキリスト教の火はまたたく間に消えてしまった。

(カクレキリシタン信仰はキリスト教ではない。くわしくは後述)

 

 さて、この間に神の奇跡はあったのか。

 聖職者がキリストの教えに殉じて殺されるときに、神は第三者に見える形で救いの手を差し伸べたか。

 何もしていない。

 日本の歴史上、聖職者が次々と殺されたとき、神の奇跡があったという記述はどこにもない。

 

 宗教弾圧は世界史でも多いが、江戸初期のキリスト教弾圧ほど目立つものはないだろう。

 世界一の信者数を持つキリスト教が、東アジアの日本で滅亡してしまったのだ。

 「キリスト教完全敗北」である。

 無神論者に言わせると、キリスト教徒の殉教は、ただの無駄死にである。

 そんなものに命を賭ける必要がどこにある?

 

 現在でも、宗教に命を賭けているような人はたくさんいる。

 例えば、イスラム教過激派の自爆テロリスト。

 自分の命ばかりか他の無数の命をも犠牲にするという、とんでもない連中だが、彼らのような者にこそ、映画『沈黙』は捧げられているのではないか、と思う。

 

 だから、映画『沈黙 -サイレンス-』のキャッチコピーはこうでなければならない。

 

「神よ、なぜ沈黙しているのですか」

 

 命がけでキリスト教弾圧下の日本に来た外国人宣教師は、自分の信じる神に必死になって祈る。

「この国でキリストの炎は燃え尽きようとしています。

 それなのに主よ、なぜ、あなたは沈黙しているのですか!」

 それでも奇跡が起こらなかったことを、後世の我々は知っている。

 

 この必死さを「上から目線」で楽しむつもりで、映画『沈黙 -サイレンス-』を見ればいいと思う。

 「神のために命をかけるなんて無駄死だろ? とっとと転べよ!(転ぶはキリスト教を棄てる意味)」という視点で見ればいい。

 少なくとも原作小説は、宗教に無関心な日本人に向けて書かれていたはずだ。

 そして「宗教を信じるヤツはバカ」とうすら笑いをしている人にこそ、最後の場面は強烈な印象を与えるはずなのだ。

(映画をまだ見ていない僕が言うのはなんだけど、たぶんスコセッシ監督はうまく表現してくれてると思う)

 

(2) 助演男優賞候補イッセー尾形が演じたのは?

 

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↑映画『沈黙 -サイレンス-』予告版(Youtubeより)

 

 キリスト教迫害の歴史を声高に批判する外国人に、あなたはこう言いたいだろう。

「あの時代は仕方なかったんだよ!」

 江戸幕府という体制の安定のためにはキリスト教迫害はやむをえなかった、おかげで大きな戦争もなく平和が保たれたのだ、と。

 

 映画『沈黙 -サイレンス-』において、その代弁者の親玉が、井上筑後守である。

 彼は長崎奉行でキリスト教弾圧の責任者だ。

 映画で演じているのは一人芝居で有名なイッセー尾形。

 

 このイッセー尾形の演技が、先行上映された米国でやたらと評判がいい。

 アカデミー賞の前哨戦といわれる「ロサンゼルス映画批評家協会賞」にて助演男優賞次点となったのは、浅野忠信でも窪塚洋介でもなくイッセー尾形だったのだ。

2016年ロス映画批評家協会賞結果 ― スポニチアネックス

 

 キリスト教弾圧の責任者――キリスト教信徒からすれば、これほどの「悪」は他にない。

 しかも、井上筑後守は元キリシタンである。

 キリスト教を知ったうえで「日本にはキリスト教は不要」と弾圧しているのだ。

 そんな「神をも恐れぬ悪役」を演じたイッセー尾形を、キリスト教文化が根強い米国映画界は大絶賛したのだ。

 「日本の江戸時代のキリスト教迫害は人権侵害だ」と批判するだけの映画だと、そうはなるまい。

 

 浅野忠信演じる「通詞」(幕府の公式通訳者)も「日本キリスト教不要論」を唱える一人。

 彼が外国語に精通しているのは、日本でキリスト教正規教育を受けたからなのだ。

 そのうえで、命がけで日本に宣教にきたイエズス会士に「キリスト教を棄てろ」とさとしている。

 

 遠藤周作の『沈黙』の面白さは、これらの対決が極限まで研ぎ澄まされて描かれていることだ。

 歴史事実にもとづけば、ここまで究極の「神の沈黙」は書けなかっただろう。

 日本にキリスト教弾圧の嵐が吹きすさぶなか、それでも「神の教えに従って死ぬ」という殉教を栄光だと信じていたイエズス会宣教師につきつめられた究極の選択。

 そして、自分の信じていた神は何の奇跡も起こさない。

 ここに『沈黙』の面白さがあるのであって、映画でもそれは表現されていると期待している。

 

(3) 原作小説『沈黙』が歴史フィクションである2つの理由

 

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

 遠藤周作の小説『沈黙』は歴史事実をベースにしたフィクションである。

 主人公のロドリゴは実在せず、モデルはイエズス会士ジュゼッペ・キアラ。

 ロドリゴの師フェレイラは実在するが、クリストヴァン・フェレイラはイエズス会の日本管区長代理だった(小説『沈黙』では地区長)

 井上筑後守のモデルは井上政重で、江戸幕府の大目付としてキリスト教弾圧の中心人物だったが、元キリシタンであったかどうかは不明。

 と、様々な改変があるものの、フェレイラのその後など多くは史実にもとづいている。

(だから、Wikipediaを見るのはネタバレになるので注意)

 

 先に書いたように、遠藤周作が歴史に忠実に記さなかったのは「神の沈黙」を極限にいかすためには、資料が圧倒的に不足していたからだ。

 江戸時代には「転びバテレン」と呼ばれる者たちがいて、少なからずの書物を残しているが、その内容を鵜呑みにはできない。

 転びバテレンと呼ばれる者は、いずれもカトリックの本場ローマで高等教育を受けた正規聖職者で、キリスト教を棄てるぐらいならば死を選ぶほどの意志を持った人たちである。

 そんな彼らがキリスト教を棄てたのは、悪評高い江戸時代の拷問の残酷さだけが原因とは、とても思えないのだ。

 

 さらに、転びバテレンの本音を文字に起こすことを江戸幕府の封建政治は許さなかった。

 武士の文化はタテマエ文化である。

 建前には利点もあるが欠点も多い。

 例えば、現在の、子供がイジメを苦に自殺して遺書にもそう記しているのに、教育委員会が「イジメはなかった」と結論づけるのは、究極のタテマエであろう。

 名誉のためなら死を選ぶ武士の時代に、本音が書かれているはずがなく、だから真実にせまるには歴史資料だけを頼りにしてはいけないのだ。

 

 そう考えて、遠藤周作は『沈黙』の舞台を整えたと思われる。

 だから『沈黙』という小説はきわめて現代的な内容となっている。

 実際の井上筑後守は、ただのサディストだったのかもしれないし、江戸幕府の命令に忠実に従うだけの役人にすぎなかったのかもしれない。

 でも、それならば、現代人の心に突き刺さる小説とはならなかっただろう。

 映画化されたときに、井上筑後守を演じるイッセー尾形が米国で絶賛されることはなかっただろう。

 

 また、遠藤周作は長崎の五島列島のカクレキリシタン信仰についても知っていた。

 カクレキリシタン信仰とは、江戸時代の迫害のなかでも、キリストを信仰することをやめなかった人たちである。

 明治政府がキリスト教を解禁したとき、キリスト教国家はカクレキリシタンの存在を知り「東洋の奇跡」ともてはやした。

 ところが、カトリック神父が彼らと話して驚いたのは、カクレキリシタンが信じているものが「キリスト教とはかけ離れた多神教」だったことにある。

 「キリスト教の教えのために流罪にまで甘んじた者が、肝心の教えを知らない」という神父の嘆きは、日本の宗教史に記されるべき言葉だろう。

 

 キリスト教迫害を人権侵害と批判するのは簡単なことだし、カクレキリシタン信仰を守り続けた人を立派だと称えるのも簡単なことだ。

 ところが、カクレキリシタン信仰はキリスト教とは似ても似つかぬ多神教であった。

 この歴史的事実も、遠藤周作の『沈黙』には反映されている。

 原作小説『沈黙』の舞台設定は「日本人とキリスト教」について考え続けた作者だからこそ生み出されたものであり、ゆえにフィクションなのだ。

 

(4) カクレキリシタンのその後

 

 

 以前、ブログで紹介した『カクレキリシタンの実像』という本がある。

 

 450年続いた日本独自の民俗宗教 ― 宮崎賢太郎『カクレキリシタンの実像』(評価・A) -  esu-kei_text

 

 本の概略は上の記事で書いている。

 あえて短くまとめると次の通り。

 

(1) キリシタン大名でキリスト教を死ぬまで信じたのは高山右近だけ

(2) キリスト教の根本である「三位一体」「原罪と贖罪」すら、当時の日本人のほとんどは理解できなかった

(3) 「二重葬」などのカクレキリシタンの宗教行事は、先祖崇拝がもたらした日本の典型的な多神教である

(4) 明治6年にキリスト教が解禁されても、カクレキリシタンは神棚と仏壇を棄てなかった

(5) 明治以降、カクレキリシタンをやめた人の宗教は、仏教一本になる人が約8割、神道が約2割弱程度で、カトリックは1%もいない

 

 現在、長崎・五島列島の「カクレキリシタン信仰」は後継者がいなくなったことで途絶えてしまった。

 『カクレキリシタンの実像』という本は、その信仰を知る最良かつ最後の一冊である。

 もし、遠藤周作の小説『沈黙』を読んだり、スコセッシ監督の映画『沈黙 -サイレンス-』を見て、日本人の宗教観に興味を持った方は、この本を読めばいいだろう。

 

(5) 最新型映画前売り券に驚く

 

↑映画上映に向けて再購入した原作小説と特典付映画前売券

 

 ここからは余談、ただの日記である。

 今回の映画、前売り券を買ったのだが、あまりにも予想と違っていて驚いた。

 

 

 前売り券というより「前売りカード」である。

 大事な情報は画像加工している裏面のカード番号と暗証番号にある。

(なお、暗証番号はスクラッチしないと見ることはできない)

 転売に対抗すべく、前売り券も進化しているということだろう。

 

 前売りだと1400円。

 当日販売は1800円なので400円オトクである。

 しかし、映画館では割引デーがあり、利用するならば前売りよりも安くなる。

 今回の『沈黙 -サイレンス-』の前売り特典は「オリジナルしおりセット四種」というもの。

 これ目当てで前売り券を購入する人は、よほどの物好きであろう。

 

 映画の当日販売1800円は、僕にとって高値だ。

 高いが、安くするために苦労したくはないというのが本音である。

 割引デーのために映画館に足を運ぶほど、予定が空いている人がどれほどいると言うのか。

 

 ただし、ゲームでもそうだが「タダが当たり前」と、口を開けて待っているだけでは、面白いものには出会えない。

 「人生がつまらない」と感じたのなら、映画でも見に行けばいい。

 新作が見られるだけで、生きている価値があるというものだ。

 死んでしまえば、新作映画を見ることなんてできないのだから。

 

 ちなみに、今回前売り券を買ったのは歌舞伎町の新宿コマ劇場跡地に建てられた「TOHOシネマズ新宿」である。

 ゴジラが火を噴く演出でおなじみだ。

 

 

 ネットで調べてみると、この演出は12時・15時・18時・20時の4回らしいのだが、僕が撮影したのは17時のもの。

 もしかすると、季節によって違うのかもしれない。

(僕が見た17時のものはビルが炎に包まれる演出がなかったし)

 

 

 歌舞伎町に寄ったときは、0分近くになったら、旧コマ劇場前に行ってみるといいだろう。

 いつもの「客寄せはボッタクリ。by 新宿警察署」というアナウンスが、ゴジラの咆哮になったら演出開始である。

 

 正確な時刻を知りたければ客寄せしてる人に尋ねてみればいい。

 きっと親切に教えてくれるはずだ。

 ついでにボッタクリバーに招かれて、スッカンピンになることは確実だが。