2014年07月30日

中道左派ライトウイング視点による憲法9条と日米安保のおさらい・下

前回の続き)
外部からの侵略に対しては、将来国連が有効にこれを阻止する機能を果たし得るに至るまでは、米国との安全保障体制を基調としてこれに対処する。
「防衛白書」2013年度版

実は専守防衛は2パターンある。
一つは、日本が掲げているものと同様、ある国軍が防衛に徹して時間を稼ぐことで、同盟軍が介入、籠城軍と後詰めが連携して攻城軍を撃破するというもので、歴史的にはこちらが一般的だと考えられる。
ここに言う専守防衛は「援軍が来ることを前提に本方面では守備に徹する」を意味する。日本の場合は、現行憲法に非武装が謳われ、当初は米軍の駐留を前提とし、将来的には米軍が撤収して危機時には国連軍が日本の防衛を担うことが想定されたが、冷戦の急速な進行に伴い、最初の解釈改憲が行われて「籠城軍」としての自衛隊が創設されると同時に米軍の駐留が無期限延期された(安保の10年毎の自動更新)。

もう一つは、スイスやスウェーデンあるいはフィンランドが担っているもので、国民皆兵を基本として峻厳な地形に敵軍を誘い込んで遊撃戦を演じることで敵に打撃を加えつつ、ひたすら時間を稼ぐことで、敵の継戦意志を挫くというもの。
だが、実際に戦って成功した例は1939年の冬戦争におけるフィンランドなど極めて少なく、そのフィンランドもその後は枢軸国との集団安全保障に政策転換したが、二次大戦後はソ連と微妙な距離を保ちつつ自主独立政策に戻り、今日に至っている。これらの国々は「民意の反映度が高い」という意味で、デモクラシーの原義を濃厚に継承しており、私はこれを理想としている。
フィンランドの場合、ロシアの侵攻を受けて仮にドイツなどの援軍を得て一度撃退したとしても、ロシアの中枢部に接するという地理的条件は変えようがないため、常に緊張状態を抱えることになる。一時の防衛にしか役立たない(それすら機能するか分からない)防御同盟の維持に多大なコストを掛けるよりは、ロシアとの宥和的関係を維持することで平時の貿易効率を高めた方が国家の運営にとって長期的にプラスが大きい、というのがフィンランド人の智恵なのだが、現代の日本人はこの真逆を行ってしまっている。

また、タイのように国際パワーゲームの中で常に緩衝地帯となって専守防衛を成立させている国もあるが、これは地政学上の理由によるところが大きく、政策として再現するのは困難だろう。

この先は「同盟のジレンマと非対称性」のおさらいになってしまうが、容赦されたい。

日本で「同盟のジレンマ」が深刻化するのは、やはりソ連崩壊後の1990年代であろう。北方からの脅威と共産主義勢力の脅威が解消され、南北朝鮮の緊張の一時的に弱まったことで、アメリカにとって東アジアで軍事同盟を維持する必要性が低下した。さらに中国が著しい経済発展を遂げて米中間の経済関係が緊密になると、アメリカにとって中国はイデオロギー上の敵対者というよりも、重要な貿易パートナーとしての位置づけが強まり、対中国の点でも同盟の価値が低下していった。
米国にとっての同盟価値が低下するにつれて、日本側は「見捨てられ」の懸念を上昇させていく。この懸念を払拭するためには「同盟の価値を上げる」ことが必要となるが、それは2つの方法で対処された。一つ目は「東アジアにおける対米脅威を強化する」であり、アジア地域で米国の覇権を脅かす存在を強調することによって日米同盟の意義をアメリカに再認識させる、というものだった。具体的には北朝鮮や中国の軍事的脅威を過度に強調することと、歴史修正主義を利用することで新たに脅威を発生させる、という手段が採られた。

いまや米国にとって最大の輸入先は中国で、輸出先についてもカナダ、メキシコに次ぐ第三位を占め、どちらも日本を凌いでいる。さらに米国債の保有額においても中国は日本を上回っており、経済・財政レベルでアメリカは中国と戦争などできる状態にはなくなってしまっている。東シナ海の無人孤島をめぐる日中間の紛争に際して、アメリカが経済的利点を失っても日本のために介入するというシナリオは殆ど観念上のものになってしまっている。

今日のウクライナ危機に際して、キエフ政府を始め、ポーランド、ハンガリー、バルト三国などが米国の本格的介入を熱望しているにもかかわらず、ワシントンは舌だけは饒舌に回っているが、実際には何もしていないに等しい。これは2008年に起きたグルジア危機でも同じだった。「プラハの春」に際して米国が介入しなかった経緯については、こちらで検証している

「日本には日米安保(同盟)があるのだから、その例は全く当てはまらない」という反論は妥当だ。
確かに現時点では日米安保が機能しており、「尖閣諸島に適用されるか」という疑問はあるにせよ、中国に対して抑止力が働いていることは確かだろう。もし仮に現在の日中関係下にあって日本が有効な軍事的パートナーを有していなかったら、今頃は血眼になって軍備拡張に努め、今以上に緊張度が高まっていた可能性もある(同盟国の不在が大正・昭和期における際限なき軍備拡張の一因となったことは別の機会に説明したい)。あるいは右派が主張するように、すでに中国軍の上陸を許していた可能性も否定できない。だが、その一方で「日米同盟があるから大丈夫」という自信から中国側に対して過度に強気に出て「国有化宣言」などを出して自ら緊張を高めてしまった側面もあり、容易には評価できない。

「朝鮮戦争ではアメリカは介入している」という反論もあろうが、朝鮮戦争についてはアメリカは批判的に検証しており、特に中国の軍事介入を招いたことは基本的に「失敗」と解釈されている。この総括はヴェトナム戦争においても活かされ、アメリカは南ヴェトナムにこそ介入したものの、北ヴェトナムに対する武力行使に常に慎重であり続けたが、これも「北爆」という形で拡大してしまい、やはり批判的な検証を受けている。これらは武力行使のコントロールがいかに難しいかを示している。
ソ連もアフガニスタンに対して相互援助条約に基づいて武力介入したが、3〜6カ月で撤収する予定が10年も駐留し続けることになってしまった

問題はアメリカの国力と国際的影響力が減退する中で、東太平洋における「対中封じ込め政策」がいつまで機能し、採択され続けるか、である。現時点ではまだパワーバランスが米国寄りで成り立っているものの、米国の優位が保持されるのは時間の問題であり、このバランスが中国に傾けば傾くほど、日米同盟でアメリカが背負うリスクとコストが大きくなってくることになる。
アメリカには、すでに海外に巨大な軍隊を駐留させるほどの国力がなく、日本の防衛は日本が自分で賄うように促してきたが、日本側はこれを「見捨てられ」と解釈して「中国の脅威」と「日米同盟の強化」が謳われるようになっていった。
ここで言われる「同盟強化」とは、米国側が負っているリスクとコストを日本側が一部肩代わりするというもので、具体的には米軍が世界各地で行っている軍事行動の一部を自衛隊が担うことであり、これを総括して「集団的自衛権の行使容認」と説明された。

ところが、今の日本政府が進めているのは、日米安保という「防衛的性格」の抑止力を維持するために、東アジアの緊張をマッチポンプ的に高めると同時に、「集団的自衛権」を行使して世界各地に「自衛隊」を派兵して米軍の後方支援を行うというもので、目的と手段が倒錯し、リスクとコスト計算が完全に無視されてしまっている。
我々は感情的な平和主義の立場からではなく、冷徹な現実主義者として今一度「日米安保」と「憲法9条」の有効性について再検証しなければならない。
posted by ケン at 12:15| Comment(0) | 外交、安全保障 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする