①②より条件yを満たす実数xが存在しないことが示された。
Q.E.D.は証明や論証の末尾におかれ、議論が終わったことを示す記号だ。
Quod Erat Demonstrandumというラテン語の略で、和訳すると「かく示された」である。
そのイカしたフォルムに加えて、「示しましたけど何か?ちなみに私は神です」という何人も有無を言わさぬぞ感が凄くいい。もし手元に書けそうな場所と書けそうな筆記用具があったら、実際に適当な証明っぽい文章を書いて、試しに末尾にQ.E.D.と書いてみて欲しい。レシートの裏でも、壁でも床でも、食べかけの食パンでもどこでもいい。
どうだろうか。
Q.E.D.と書いたその瞬間に全知全能の神になれた気がするのではないだろうか。
自分の書いた証明がたとえどんなに見当はずれな証明であっても、末尾にちょいとQ.E.D.をつけ足すだけで、どんなに頭脳明晰な数学教師も圧倒的にひれ伏し、ただ盲目的に丸を付けるマシーンへと成り下がるような気がして、私は中高6年間Q.E.D.を意地とプライドで使い続けた。あ、浪人の時もだった。
もちろん、返ってきた答案用紙には親の仇のように×をつけられていた。
証明が見当はずれであるからだ。
驚くべきことにQ.E.D.の魔法は答案用紙が返却されるまでの時間しか効果が続かないのだ。
ちなみに証明終了のマークはQ.E.Dだけじゃない。
Q.E.D.に比べて有無を言わさぬ感には欠けるが、非常にお手軽に書ける■、//などがある。
他にも正式な形式ではないが、フランスのピエール・ド・フェルマーという天才数学者が使った有名な言葉がある。
「私は真に驚くべき証明を見つけたが、それを書くにはこの余白は狭すぎる」
後にフェルマーの最終定理と呼ばれる「3 以上の自然数 nについて、xn + yn = zn となる自然数の組 (x, y, z) は存在しない」という定理を私は証明したと記し、その末尾に「私は真に驚くべき証明を見つけたが、それを書くにはこの余白は狭すぎる。」と書いたのだ。
それを書くにはこの余白は狭すぎるって何だ、どうした天才数学者、頭を使え、紙を継ぎ足せ、その脳ミソは飾り物か?財布の中に入ってるレシートを全部だして継ぎ足せ、そうだ吉野家のもすき家のも全部出せ、TSUTAYAもKINOKUNIYAも全部出せ、トイレットペーパーもしくはティッシュペーパーならびに家の中にあろう紙という紙を全て継ぎ足せ。壁にかけ床に残せ、その広大な額に直接記せ。YOYO
そう、フェルマーは多分証明することができなかったのである。
後にアンドリュー・ワイルズという天才によってフェルマーの最終定理は証明されたのだが、結局フェルマーが生きていた頃の数学では証明できないことが発覚したからである。
だからフェルマーがやったことは、Q.E.D.を見当はずれな証明の末尾に付けまくっていた私とほぼ変わらないのだ。絶対にそうなのだ。
以上の考察より、フェルマー=私であることが示された。
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