2017年01月15日

『走れメロス』と『坊っちゃん』における友情

先日、京都の高等研というところに呼ばれて、このテーマで話をした。以前、ここで何度か論じたことがある話題であるが、当日の話はまくらが長くなりすぎて、やや尻切れトンボになったきらいがあるので、もう一度ここで論じておく。もっとも、結論部分は以前に「革命的法創造の理論」として何度か論じたことがあるので、省略する。
『走れメロス』
ちょっと中学校の国語の授業のようなテーマですが、私自身『走れメロス』を読んだとき、違和を感じたものです。最後の場面で、互いに信頼を裏切ったことがあることを告白して殴り合う場面です。ちょっと芝居がかって過ぎやしませんか? 友情には、芝居がかったところほど不似合なものはない。 さりげない思いやり、控えめな感情表現、率直な直言こそがふさわしいのです。

「ブルータスお前もか!」と叫んだシーザーは、驚愕したのでしょうか? そんなことはない。ブルータスの生一本な性格や、共和国に対する一途な愛国心、政治に対するやや狭い見識など、ブルータスを身近に知っていた彼であるから、「やっぱり」とは思っても、「まさか」とは思わなかったでしょう。「有り得ること」とは思っていても、それほど注意もしていなかったのだと思います。

一般に友情においては、友人にたいする特徴的な無関心があるのです。それに対して、メロスたちは、何より相手が自分を裏切らないかを極端に恐れているように見えます。また同様に、それ以上に自分が相手を裏切らないかどうか恐れているのでしょう。このような相手に対する強すぎる関心は、友情にふさわしいものではありません。その点については後で触れるつもりですが、「君子の交はりは、淡き事水の如し」ですね。

以上のような点で、『走れメロス』は私にとって謎でした。

ご承知のように、独裁者ディオニスの殺害を企てたメロスは人質としてセリヌンティウスを差し出す。この時、セリヌンティウスはどうしてやすやすとメロスの言いなりになったのであろうか? 親友だったから、だけでは答えにならない。友人の言うことなら何でも聞くのであろうか? そんなバカげたことはない。ギャンブル依存症の友人が借金を頼んできたら、何も言わずに金を貸すだろうか? また貸すべきだろうか? 友人の言いなりになるのが真の友人というわけではない。

メロスがディオニス暗殺未遂で捕えられたとき、そのニュースはシラク―サイ中にたちまち伝わったに違いない。そのとき、セリヌンティウスはどう感じたのでしょうか? 

自分こそがそうすべきだったのに、メロスに先を越された、と感じたに違いないと思います。メロスとセリヌンティウスが親友であったのに、その政治的信条が互いに理解されていないわけはない。メロスは事前に相談をしていたかどうかはともかく(たぶんしていない)、事を決行したとき、その志はシラク―サイ市民のほぼすべて、とりわけ親友には理解されていたに違いない。

だからこそ、メロスが身代わりを申し出た時、進んで身を捧げる決意をする用意があったのだと思います。メロスが帰ってこないとしても、それはまたディオニス殺害を企てるために違いない。セリヌンティウスは、自分よりメロスに期待するからこそ、進んで身代わりを引き受けたのです。

はやりのファッショナブルな表現で言えば、メロスはテロリストです。たとえ悪逆無道な独裁者であっても、テロがいつでも許されるわけではない。ただ単純な男が、独裁者暗殺という大事業を試みたりするだろうか? それを前に、さまざまの考察や逡巡が胸中を去来したのは間違いないのです。後先も考えずに、ただ向こう見ずに行動に出るなどというのは何の現実性もありません。

暴君の暗殺は、シーザーや大統領の暗殺に比べて、はるかに困難です。並々ならぬ警戒を張り巡らせているからです。

司馬遷の『史記』には有名な刺客の列伝があります。その中でも有名なのが、秦の始皇帝の暗殺を試みた荊軻でしょう。荊軻は燕の国(いまの北支あたり)から国境の易水を渡って刺客として秦にのりこみます。そのとき歌ったのが「風蕭々として易水寒し、壮士ひとたび去ってまた帰らず」です。

燕の太子は、はじめ田光先生という腕の立つ侠客にその計画を話すけれど、田光先生は自分の代わりに荊軻を推薦する。太子丹はくれぐれも計画は極秘にするようにと言った。田光先生は荊軻の前で自ら首を差し出して、他言しない保証を与えます。また、始皇帝に謁見するとき信用されるようにと、亡命中で秦から指名手配されていた将軍の首をもって荊軻は秦にわたるのです。つまり、荊軻が暗殺を企てるのに先んじて、すでに二人の人物の自己犠牲があるわけです。それほど暴君の暗殺は困難だ。だからこそ死出の別れがある。「壮士ひとたび去ってまた帰らず」です。

暗殺の志を固めたメロスは、それを心に秘めて、最後の別れの杯を酌み交わすためにセリヌンティウスを訪ねたに違いない。その場で、セリヌンティウスは、暴君ディオニシウスをさんざん非難して、暗殺する必要があるとまで論じ立てたかもしれない。メロスの方は、すでに決意を固めているので、静かに友を諭したでしょう。友人を巻き込まずに一人で事をし遂げるつもりなのです。

そういう背景があるからこそ、メロスの事件がシラク―サイ中に伝わった時、セリヌンティウスは初めてメロスの訪問の意味を悟るのであり、メロスからの人質の申し出を二つ返事で引き受けるのです。

ところが、このようなことは全て抑圧されている。テクスト上には何も現れていない。ただ「メロスには政治がわからぬ」「メロスは単純な男であった」とだけ記されている。『走れメロス』のテクストには政治が一貫して隠蔽されているのです。

『坊っちゃん』
この点を考えるうえで、漱石の『坊っちゃん』との比較が有益だと思います。見方によっては、この作品も友情を一つのテーマにしているからです。主人公たちがいずれにおいても無鉄砲で無謀でさえある暴力的行動主義者である点も共通しています。

『坊っちゃん』はご承知のように、愛媛に赴任した数学教師坊ちゃんが、山嵐(堀田)と組んで、赤シャツと野だいこ(吉川)連合軍に敗北を余儀なくされる戦いを挑む物語です。この動機にはとりあえず、うらなり君(古賀)に対する赤シャツと校長の不当な仕打ちがある。つまり、赤シャツはうらなり君からその婚約者(マドンナ)を奪うために、うらなり君を遠く延岡へ配置換えする画策をした。それに対して制裁するという意味があるのです。

一見したところ、ここにはただ恋の争いという私的心理が関係しているだけですが、実際にはそうではない。赤シャツと校長は奉任官という身分で、時の権力者を背後に持った立場にいる。それに対してうらなり君は、父親が亡くなってから落ちぶれて、どう見ても羽振りがいいとは言えない。その弱みに付け込んで、マドンナの心変わりを誘うのである。

とはいえ、マドンナが心変わりをしたのであれば、それは結局、個人的問題にすぎない。そこに坊ちゃん連合軍が介入するのは、野暮というものであろう。実際うらなり君自身は、その現実を受け入れ、自ら身を引こうとしているのです。

それゆえ、問題はいたってあいまいな相を帯びているのです。赤シャツの立場から見れば、マドンナ自身が心変わりしたのであり、うらなり君は自身の意志で、新しい赴任地(延岡)への移動に同意したのです。そこには何の問題もない。

しかし坊っちゃんたちは、赤シャツのよこしまな横恋慕のせいで、マドンナの心が落ちぶれたうらなり君から羽振りのいい赤シャツへとなびいてしまった、と見ている。それ自体けしからんことである。なぜなら、それは人の心を羽振りの良さといった現世の成功によって左右することであるから、ということになる。

この申し立ては、マドンナ自身が心変わりしている以上、どう見ても坊ちゃんにとって不利だ。彼らはどうしても、単なる憶測に基づいて、いらぬお節介をしているだけということになってしまう。

そもそもどうして彼らがこんなことを考えてしまうのか? その背景は彼ら自身の出自にある。坊ちゃんはさる旗本の出身であり、それも次男として家を継ぐことができない立場にいる。加えて、両親から愛されていないという風に、出発点から敗北を背負っている。彼が幼いころから無鉄砲を重ねてばかりいるのは、その立場に対する反抗からであると見ることができる。それを、清だけがかばってくれた。というのも、清自身、旗本の大家の出身でありながら、維新の際に没落した出自を持つからであり、器用に世の中を渡っていく成功者たちを自分の敵と見なしているからです。そのような立場から、坊ちゃんは見所のある「好いご気性」と見ている。漱石は、さりげなく坊ちゃんの政治的背景をかなり詳しく描いているのです。

また、他方山嵐(堀田)は会津の出身だとはっきり書かれている。つまり坊っちゃんたちは、政治的には敗北者連合ということになるのです。政治的敗北者だからこそ、世渡りがうまい連中が、どのように自分たちを正当化し、言い逃れていくか、それに対して自分たちがどのように敗北していくか、よく知っているのです。

事実、法理論的には、坊ちゃんたちにはほとんど正当性がなく、また事実上も結局彼らは解雇され、うらなり君は移動させられ、赤シャツはマドンナと結婚して、ゆくゆくは出世していくのです。こうして坊ちゃん連合は徹底的に敗北する。

しかし、事実社会的に敗北してゆく人々を、文学は救済することができるのです。事実上赤シャツの見方が通るように見えながら、読者には坊ちゃんたちの方に正義があることを実感させてくれる。それはどのようにしてか?

『走れメロス』においては、「政治がわらぬ」メロスが、突然国王暗殺を企てるところから始まる。ディオニスは初めから暴君と決め付けられ、どのように暴君ぶりが発揮されるのかそのイデオロギー的分析が全くない。ところが『坊っちゃん』では、赤シャツや野だいこや校長のイデオロギーが克明に記述され分析されていく。しかもそれを解明していく坊ちゃんが、いかにも世間知らずの馬鹿者のようなそぶりで進んでいくので、読者は彼が全く素朴な若者であるかのように見なしてしまう。

これは、パスカルが『プロヴァンシアル書簡』で使った手法に似ています。そこでは、何も知らない田舎人の立場から、いかにも素朴な疑問を追及するようなふりをしながら、論敵であるジェズイットの理論がいかに本来のキリスト教の精神から外れたものであるかを、あぶりだすのです。坊ちゃんはそれと同様に、ありのままを記述しているようなそぶりで、結果的に赤シャツや校長のイデオロギーの欺瞞性を暴き出します。

坊ちゃんが赴任そうそう聴く校長の説教は、典型的な欺瞞で満ちています。

それから教育の精神についての長いお談義を聞かした。俺は無論いい加減に聞いていたが、途中からこれはとんだところへ来たと思った。校長の言うようにはとてもできない。俺見たような無鉄砲なものを捕まえて、生徒の模範に成れの、一校の師表と仰がれなくてはいかんの、学問以外に個人の徳化を及ぼさなくては教育者になれないの、とむやみに法外な注文をする。そんな偉い人が月給四十円ではるばるこんな田舎へ来るもんか。人間は大概似たもんだ。腹が立てば喧嘩の一つくらいは誰でもするだろうと思ってたが、この様子じゃめったに口もきけない。…俺はうそをつくのが嫌いだから、仕方がない、だまされてきたのだからとあきらめて、思い切りよく、ここで断って帰っちまおうと思った。…到底あなたのおっしゃる通りにゃできません、この辞令はお返ししますと言ったら、校長は狸のような目をぱちつかせて、俺の顔を見ていた。やがて、今のはただ希望である、あなたが希望通りできないのはよく知っているから心配しなくていいと言いながら笑った。(p−21〜)

校長の説教には、徳によって教育するという儒教的教育観が色濃く残っているが、その根本精神は失われていて、もっぱら現実の利害を糊塗する偽善的粉飾に成り下がっている。それは、例のイナゴ事件に対する処分が問題となったとき、の赤シャツの生徒弁護にも現れている。

私も寄宿生の乱暴を聴いてはなはだ教頭として不行き届きであり、かつ平常の徳化が少年に及ばなかったものを深く恥ずるものであります。でこういうことは、何かの陥欠があると起こるもので、事件そのものを見るとなんだか生徒だけが悪いようであるが、その責任を究めると責任はかえって学校にあるかもしれない。…どうかその辺を御斟酌になって、なるべく寛大なお取り計らいを願いたいと思います。(p−67)

続いて野だいこが追従を述べる。

野だは例のヘラヘラ調で、「実に今回のバッタ事件及び吶喊事件は我々心ある職員をして、密かにわが校将来の前途に危惧の念を抱かしむるに足る珍事でありまして、我々職員たるものはこの際ふるって自らを省みて、全校の風紀を振粛しなければなりません。それでただいま校長及び教頭のお述べになった御説は、実に肯綮にあたった剴切なお考えで私は徹頭徹尾賛成します。どうかなるべく寛大な碁処分を仰ぎたいと思います」といった。野だの言うことは言語はあるが意味がない、漢語をのべつに陳列するぎりで訳が分からない。わかったのは、徹頭徹尾賛成いたしますという言葉だけだ。(p−68)

このような言説は、彼らがそろって芸者と関係していることが明らかになるや、劇的な効果を発揮する。

とはいえ、買春行為はそれ自体褒められたものではないとしても、それはあくまでも私的で合法的な行為にすぎない。坊ちゃん連合による鉄拳制裁にはこれだけでは正統性は与えられないでしょう。

赤シャツは、どうやら洋行帰りらしく、やたらとターナーとかゴーリキーとか西洋の教養をひけらかします。つまり、近代化を進める明治社会にあって、エリートの典型というわけ。彼がひけらかす教養は、当時一般には誰も見たことがないターナーや、読んだこともないゴーリキーに言及する点でも、実質的には意味がない権威づけのための衒学であることは明らかです。一般には、西洋教養もこの程度の箔付のために利用されていたことがわかります。

それにしても、それを批判する坊ちゃんの立場も、近代教育システムの一員として教師を奉職している以上、同じ穴の狢でしかありません。西洋教養を根本から否定できる立場ではないのです。

このように見てくると、坊ちゃん連合の立場は法的にはもちろん、倫理的に見ても、いかにも弁護しにくいものであることがわかります。果たしてその正当化は可能なのでしょうか?

問題は、うらなり君の移動が本当に坊ちゃんたちが邪推しているように、彼の本心からのものではなく、校長、教頭ぐるになったハラスメントによるものかどうかという点です。

「あの時(古賀君転出による昇給に)承知したのは、古賀君が自分の希望で転任するという話でしたからで…」
「古賀君はまったく自分の希望で半ば転任するんです」
「そうじゃないんです、ここにいたいんです。元の月給でいいから、郷里にいたいのです」
「君は古賀君から、そう聞いたのですか」
「そりゃ当人から、聞いたんじゃありません」
「じゃ誰からお聴きです」
「僕の下宿の婆さんが、古賀さんのおっかさんから聞いたのを今日僕に話したのです」…
「それは失礼ながら少し違うでしょう。あなたのおっしゃる通りだと下宿屋の婆さんの言うことは信ずるが、教頭の言うことは信じないと聞こえるが、そういう意味に解釈して差し支えないでしょうか」
俺はちょっと困った。文学士なんてものはやっぱりえらいもんだ。妙なところへこだわって、ねちねち押寄せてくる。(p−98)

最後まで、うらなり君自身の意志が明かされることはありません。まあもう決まったものである以上、これ以上逆らったら延岡での昇給にもかかわるからといった理由で、うらなり君は口止めされているので、うらなり君に確かめるまでもないのでしょう。

このように、裏で権力をちらつかせて恫喝と誘惑をちらつかせ、あたかも自分の自由意志から出たものであるかのように言うことを聞かせる、という態度ほど我々になじみのあるものがあるでしょうか? これによって、権力を公然と行使する必要はなくなるために、上位者はその説明責任を問われることはないわけです。

坊ちゃん連合はこのような権力のイデオロギーに精通しているために、そのからくりが見えるのですが、それにしてもそれを証明することは難しい。彼らの暴力行使は、この行き詰まりから破れかぶれに繰り出された敗北主義的テロであるかのようにも見えますが、実はそうではありません。ここが肝心なところ。

もし彼らの憶測が正しくなければ、つまりうらなり君が自分の自由意志から延岡行きに同意したというのが正しければ、赤シャツ連合が警察に黙っているはずがありません。彼らにはやましいところがあったので、この暴行を表ざたにできないのです。

売春宿の件の露見を恐れたという考えもあるかもしれませんが、この当時売春が犯罪でないばかりか、それほどスキャンダルとも見なされていなかったことを考慮しなければなりません。赤シャツが恐れているのは、事件が大っぴらになることによるマドンナとの破談でしょう。

それゆえ、彼らが警察に駆け込まなかったということが、事後的に坊ちゃん連合の正義を裏付けるのです。通常は、正当性や十分な合理的理由が、行動や判断の根拠として前提されますが、ここでは行動が理由に先走って起こされ、それが正当化根拠を作り出しているのです。

このような行動の先駆性と理由の事後性という時間的性格について、付け加えることが二つほどあります。一つは信仰についてであり、もう一つは事後法についてです。宗教と政治に共通することがある。それは決断が不確実な理由に基づかねばならないということです。

信仰について
アヌイの『ひばり』は、ジャンヌ・ダルクについて書かれた現代の戯曲です。シャルル王太子は、有力者たちから命を狙われていると感じ、愚か者のふりをしている。そこにオルレアンからの少女が面会にやってきます。人払いをしたところで彼女は、恐れる必要はない、使命を引き受ければ必ず神が力をくださる、と勇気づけます。「ただ、最初の一歩は私たち人間が踏み出すことを神はお望みよ」とジャンヌは付け加えるのです。

ここには信仰の神秘について、重要なことが述べられています。信仰はもちろん神から与えられるのですが、初めから自然に与えられるものではありません。信仰に向かって一歩を歩みだす者に対してこそ、神は助力をする。そうでないなら、すべてはあいまいなままです。パスカルは言っています。

この宗教のあいまいさそのものの中に、それについての我々が有する光の少なさの中に、それを知ることに対する我々の無関心の中に、この宗教の真理を求めるがいい。(B565)

信仰は証拠とは異なる。…証拠がしばしば(信じるための)道具として役立つのは、神が人の心の中に置く信仰による。(B247)

君は、王空や小鳥が神を証明しているとは言わないのか?…このことは神から光をたまわっている人々には、ある意味で真であるが、他の人にとっては偽である。(B244)

信仰という行動に一歩踏み出すことによって、信仰が証明されるのであって、証明によって信仰するのではないということ。

もしイエス・キリストが聖化するためにのみ来臨したのなら、聖書の全体も全てのものも、その目的に向かっていたことであろうし、不信神者を説得するのも容易であったろう。またもしイエス・キリストが盲目にするためにのみ来臨したのなら、彼のすべての行動は混乱したものであったろうし、我々は不信神者を説得するためのいかなる手立ても持ち得なかったであろう。しかし、イザヤも言うように「清き避難所で有りかつ躓きの石として」彼は来臨したのだから、我々は不信神者を説き伏せることも、不信神者が我々を説き伏せることもできない。しかしそのこと自身によって、我々は彼らを説き伏せる。というのも我々は、彼の行動すべてには、いづれの側にも確信を与えるものがない、と言っているのであるから。(B795)

ここにパスカル独特の弁証が見られる。彼は自分の説得力の不十分性そのものから説得力を引き出し、論証の不可能性の認識を根拠に論証する。なぜなら、彼にとって、信仰が十全な根拠に基づくことができるなら、それはもはや信仰ではなく、強制にならざるを得ないからです。信仰が理性による強制でなく、真に自由な決断であるためには、主体による不確実な飛躍が前提となるのです。この決断によってはじめて、事後的に信仰の根拠が見えてくるのです。だからこそ、ジャンヌが言うように「神さまは、初めの一歩は我々から歩み出すことをお望み」なのです。

事後法
さて、もう一つの例をあげましょう。それは戦争法廷の正統性が問題にされるとき、たいてい常に持ち出される事後法の問題です。東京裁判は、パリ不戦条約とニュルンベルク裁判の判例に基づいて、「平和に対する罪」を問おうとしています。しかし、日本も参加していたパリ不戦条約は、たしかに侵略戦争を違法なものと規定していましたが、それを具体的な刑罰を科すべきものと規定していたわけではありません。刑法においては、通常、罪刑法定主義が厳密に守られねばならず、その意味では、パリ条約をもとに戦争犯罪を処罰するのには、無理があったのです。

東京裁判においては、パトリック判事ら主流派は、ポツダム宣言とそれに基づく極東軍事裁判所憲章を法源として、戦争犯罪の追及の合法性を主張しました。一見すると、ポツダム宣言という上位規範を日本帝国の主権者自身が受諾しているのですから、それに基づいて裁判権を行使するのに、違法性はないように思えるかもしれません。しかし、ポツダム宣言は天皇の主権を否定する内容を含んでいるのですから、果たしてそれを天皇自身が受諾することができるのかどうかあいまいです。これはちょうど、奴隷になることを契約するようなものです。奴隷になった瞬間、契約主体であることをやめることになるので、これを正統な契約を認めることはできません。

これは憲法学でよく議論されている憲法改正の制限説の問題と似ています。憲法は改正手続きを定めておりますが、それでどんな改正でもできるわけではない。人権など中核的価値を否定するような改正(特に憲法を廃止するというような改正)は憲法の権威の下ではできないのです。

詳しいことは略しますが、このような考え方には、法実証主義的な形式主義を超えた考え方があります。法実証主義は、法を、法的に規定された手続(ハートの二次ルール)によって形式的に十全な形でつくられ、また認定されるもの、であると規定する考え方ですが、「制限説」によれば、憲法はそれ自体の価値理念を体現したものであり、それを否定するようなものはいかに形式上は合法的に設定された者であっても、それは憲法改正ではなく、憲法自体の自己否定でしかない、と見るものです。

このような見方から見れば、ポツダム宣言受諾は、合法的なものではなく、むしろ根本的統治理念の置き換えであり、一種の革命である。ポツダム革命説といわれるものです。宮沢俊義や丸山眞男の立場がこれ。

東京裁判においては、主流派の法哲学はもちろん、パル判事のような少数派でさえ、大方実証主義の下にあった。唯一独自の哲学を打ち出した判事は、レーリンクでした。なぜなら彼こそは、一方で事後法の問題を深刻に考えましたが、同時に世界大戦の参加を制約するために国際法の転換が必要であり、「平和に対する罪」をも認定せねばならないとも考えていたからです。そのため彼は、実証主義の法哲学の見直しを余儀なくされた。とはいえ、明確な法哲学的解明に達したかどうかは不明です。むしろそれは課題として残されたのです。

事後的正当化の論理は、「勝てば官軍」の論理とは違います。「勝てば官軍」というのが勝った官軍の立場から、その事実に安住する者の立場から語られるのに対し、ここで言う事後的正当化や先駆的行動の論理は、暗闇の中で決断する者の立場から語られるのです。とりわけ坊ちゃん連合による暴力行使は、その点が明確です。というのは、彼らは、違法になりかねない行動の出るというリスクを冒しているからです。

先駆的行動と事後的正当化という論理については、なおいろんな形で語ることができます。たとえば、数学の証明の場合とか、公害裁判の場合。

相良判決では、国の責任が初めて認められたが、そのとき準拠されたのが、「食品衛生法」第4条(有害食品の禁止)。4条2項には「有毒、または有害な物質が含まれ、または付着したるもの」の取り締まり義務を記していた。それが1972年の改正で「…またはこれらの疑いがあるもの」に改正された。相良判決は1957年の段階からこの4条を適用すべきであったと、遡って行政当局の違法性を認定したのです。

以下略


Posted by easter1916 at 19:13│Comments(0)TrackBack(0)

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