蹴球探訪
奇跡の初優勝見えた レスター・岡崎が激白「試合後はいつも悔しい」(4月27日)
トップ > 中日スポーツ > スポーツ > ボクの思い出STADIUM > 記事
【ボクの思い出STADIUM】後楽園球場2016年12月28日 紙面から 最終回は後楽園球場を取り上げる。プロ野球史上最高のコンビである王貞治と長嶋茂雄の「ON」が活躍し、前人未到のV9を成し遂げた巨人の本拠地。あの「756号」も生まれた後楽園の魅力を、王が熱く語った。 (文中敬称略) 栄光が刻まれた舞台「特別な場所」
東京の下町で生まれ育った「世界の王」は、少年時代に見た光景を鮮やかに覚えている。 「球場に行って、明るいグラウンドが見えた瞬間にパッと引き込まれた。子供心にも後楽園っていうのは特別な場所でしたよ」 開場は王が生まれる3年前の1937(昭和12)年。東京初のプロ野球専用球場として人気を集めた。場所は東京中心部の小石川にあった砲兵工廠(こうしょう)跡地。立地条件も極めて恵まれていた。 2リーグ制となった50年は巨人、国鉄、毎日、大映、東急の5球団が使用。「後楽園スタヂアム50年史」には「スケジュールの大部分を相乗り興行で消化した」とある。中でもダントツの人気と観客動員を誇ったのが、「打撃の神様」川上哲治らを擁した巨人だった。58年の長嶋、59年の王の入団と、それに続く「V9」が絶頂期だった。 「後楽園と言ったらプロ野球、後楽園と言ったら巨人軍なんだよね。ジャイアンツは憧れだったし、高校卒業後は後楽園というのが、僕の野球人生でしたから」。王の野球人生において、後楽園は幾度となく晴れ舞台となった。 巨人V9「永久に不滅です」756号初アベック弾
59年の天覧試合で初のONアベック弾。さらに「僕は756、868も後楽園。714、715もそうかな」。通算本塁打でベーブ・ルースに並んだ714号、抜いた715号。世界新記録の756号、公式戦最後の868号もそうだ。 中でもハンク・アーロンを抜いた756号を巡る“狂騒曲”は今も語りぐさだ。日本中が王のバットに注目し、77年9月3日のヤクルト戦で右翼席に打ち込んだ。記念のボールは、5日連続で後楽園に通い詰めた埼玉県川口市の男性が拾った。 王の本塁打は、多くが右翼席上段まで飛んだ。「スタンドの中段にある通路を越すことを昔からね。球とバットの関係は変わらないけど、あとは自分の思いでそういうところまで持っていく」。信念のこもった放物線だった。 ONを擁した巨人は、65年から前人未到の9年連続日本一を達成する。長嶋入団時の58年に148万人だった巨人の観客動員数は、V9最終年の73年には276万人とほぼ倍増していた。 打撃部門24冠
V9期間中のONは打率、本塁打、打点の3部門で計24冠。「後楽園スタヂアム50年史」には『ONの打棒と川上哲治監督采配による巨人軍の戦力向上は(中略)当社球場の営業収入を大幅に伸長させ(中略)全国他球場の営業成績をはるかにしのいだ』とある。 長嶋と三遊間を組んだ黒江透修は、本拠地の意外な「アシスト」も明かす。「他球団の選手は天然芝にかなり戸惑ったんじゃないかな」。65〜75年は、内野にも天然芝が張られていた。不慣れな他球団の選手はよく守備のミスを犯したという。多くの企業の広告が印象的だった電光掲示板など、最新の設備を誇った後楽園だが、美しい内野天然芝も名物であり戦力だった。 テレビの全国中継も多く、スポンサーの賞品と賞金の多さも有名だった。黒江は「本塁打は1万円だったかな。盗塁で下着の詰め合わせをもらったときは、九州から来た母親が驚いた」と話す。 74年に長嶋が「巨人軍は永久に不滅です」という名言を残したのも後楽園。王も80年にバットを置いた。王は「長嶋さんのときも俺のときも、他の球場だったら、ちょっとぼやけてしまうかな。やはり後楽園はメッカなんですよ」と振り返る。 50年歴史に幕
87年に50年に及ぶ歴史の幕を下ろし、隣に建設された東京ドームにその役割を譲った。同年は王が巨人監督として初優勝し、巨人も史上初の観客動員300万人を突破した。王は後楽園の魅力をこう話す。 「ファンと選手が近かったですよ。スタンドのお客さんと視線が同じレベルなんだよね。バットケースからバットを取るときも打席から帰るときも、お客さんがすぐそこにいる。臨場感や一体感というか、同じ時間を共有していることを感じやすかっただろうね」 V9とほぼ重なったのが高度経済成長期。多くの日本人はONに希望を託し、ONもその期待に応えた。プロ野球が生んだ最大のスーパースター2人が躍動した後楽園の記憶は、いつまでも色あせることはない。 (相島聡司) 【アラカルト】後楽園球場
▼所在地 東京都文京区後楽1−3−61 ▼開閉場 1937年9月11日〜87年11月8日。50年にナイター設備が設置され、76年は日本で初めて人工芝がグラウンドに敷設された ▼広さ 両翼90メートル、中堅120メートル(閉場時)。黒江いわく「狭いと言われることもあったが、そんな感じはしなかった。ボールも飛ばない時代だった」 ▼収容人員 内野席3万78人、外野席1万2259人の計4万2337人(閉場時) ▼高射砲 戦時中は2階席が高射砲の陣地となり、42年4月の空襲では実際に発射された ▼ONゲート ONの引退後、球場の第1ゲートが「王ゲート」、第3ゲートが「長嶋ゲート」と命名された ▼キャンディーズ 78年4月4日にキャンディーズがお別れコンサートを開催。人気絶頂のアイドルグループが「普通の女の子」に戻った ▼娯楽の殿堂 周辺には多くの娯楽施設が設けられ、49年に後楽園競輪場が完成(72年に廃止)し、場外馬券場も設けられた。55年開園の遊園地、室内アイススケート場なども人気を呼んだ 【回想録】元祖「失言男」!?藤原満日本シリーズ史上に残る「名言」が出たのは、東京ドーム2年目の89年だった。近鉄が巨人に3連勝して王手をかけた第3戦後に先発で勝利投手となった加藤哲郎が「(パ最下位の)ロッテより弱い」と話したというものだ。 発言の真意はともかく、発奮した巨人が4連勝で逆転日本一になったのは有名な話。実は巨人がV9を達成した73年の日本シリーズでも、ある発言が流れを変えていた。明かしたのは南海の三塁手だった藤原満だ。 「ヒーローインタビューで『阪急の方が強い』と言って、そこから4連敗。ワシが最初やな」 この年の南海は、当時最強といわれた阪急をプレーオフで破って優勝した。余勢を駆って大阪球場での第1戦も、8回に藤原の2点打で逆転勝利。ところが第2戦を落とすと、後楽園球場でも3連敗した。 「ワシもその後は全然やったし、シーズンで活躍したジョーンズが二日酔いでミスしてな。(当時は)デーゲームなのに、銀座でようけ飲んどったらしいんや」と藤原は43年前の“失言”を振り返る。大阪球場もミナミのど真ん中にある球場だったが、銀座の魅力は別格だった? (最終回) PR情報 |